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皆さん、おはようございます。
今日も暑い中、よくいらっしゃいました。
では、今日もメッセージをいただく前に、隣の方々と挨拶をしましょうか。お互いにですね。
よくいらっしゃいました。おはようございます。
一言、祈りいたします。
私は全てのことを、福音のためにしています。
それは、私も福音の恵みを共に受けるものとなるためです。
主よ、この朝も、主の恵みを期待求めて、他の場所ではなく、人の前にではなく、神の御前に、主の恵みによって引き寄せられて、このようにこの胸が集まって、主の御前に礼拝を仰げいたします。
主よ、どうぞ、僕に集っている一人一人の上に、その魂の上に、あなたの恩恵みと、また導きと、人生の指針を、また真理を悟る信仰を、上から主よ豊かにお与えくださいますように、お願いをいたします。
主の御前に、人間の声を聞くのではなく、神の御声を聞き、心を引き寄せ、砕かれた悔いた心を持って、主の御言葉を、主よ教えていただきたいと願っているこの群れの上に、主よどうぞ、あなたの御言葉をお与えくださいますように、お願いをいたします。
全てを、気の向けに委ねます、主よどうぞ、お助けください。聖霊様、働いてくださいますように。
イエス様の皆によって、お祈りいたします。
アーメン。
はい、感謝します。
今日は、コミトピスの手紙のメッセージが続いていますけれども、福音の真髄を豊かに味わう信仰と委ねて、共に恵みを受けたいと思います。
私がですね、2007年12月に、神様の恵みによって、イスラエル、エジプト、イスラエル、ヨルダンの聖地巡礼に行った時に、今はヨルダンですね、ヨルダン川から、
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つまりイスラエルの東の方ですね、そして近いと近いところに、アルノンという深い大きい谷があるんですけれども、こういうところに行ったことがありました。
向こうでは、このイスラエル、ヨルダンのグランドカニョンとかも言われていますけれども、だから皆さんが見られて、左の方にずっといたら、四階の入り口の方に着くわけなんですけれども、あれが実は川なんです。
でも水がほとんどないんですよね。イスラエルはですね、皆さんご存知のように、年中ですね、冬にだけ、少し雨が降るだけですから、一年中ほとんど水のないような川になっていて、冬、お気にだったら、もう一気にですね、川になってですね、流れていくわけなんです。
だから、あそこに行くまでは、川に行きますよ、と言ってですね、結構深い川になるなと思っていたらですね、もう水もなくて、あれれ、これが川なんだろうと思ったことがありました。
あるいは、どこかに大滝がある、滝に見に行くんだと言ってみたらですね、もう滝っぽいより水道水がポツポツと落ちてくるような滝もあったりするんですね。
逆にですね、この前、4月でしたよね、総年会期間でですね、新神戸駅の裏の室口の滝に私は初めて行ってみてですね、市内の滝ってあんまり水はないだろうと、そうちょっと舐めてですね、行ってみたらですね、結構な水道があってですね、びっくりしました。
こんなね、市内の近くにですね。ところが皆さん、私たちの教会とか、栗ちゃんの新神戸の姿も、このような似たようなケースを見たりするかなと思います。
本当に素晴らしい栗ちゃんですよと言われて、実際に会ってみたら、本当に上の通りに素晴らしくて立派な栗ちゃん、精霊充満な栗ちゃんがあるところが、長かりでがっかりする場合もあります。
教会もそうですね、本当に素晴らしい教会ですよと言われて行ってみたら、本当にその通りに素晴らしい教会、精霊充満な教会、祈りの力が恵みに満ちた、愛に満ちた教会がある反面、名前は大地なんとかなんとか教会、何々中央教会なんだけれども、実はそうではないケースもある。
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私は、私たちのこの明壇教会が、この神戸で、日本で、良い噂で、そして本当に、イエス様に愛される、神様に喜ばれる教会になりたい。皆さんもそう願っていらっしゃいますよね。願っていないですか。
信仰の良い教会、精霊充満な教会、恵みに満ちた教会、愛に満ちた教会と、そういう噂が、この週末に神戸に日本中に広がってですね、行ってみたい。そういう教会になりたい。
みなさん最近、この頃、たくさん電動していますよね。最近、本がいますけれどね、しんくんとかぽんちゃんがですね、隣のあっている自宅にですね、よく電動しているそうです。
プールであったおばさんとか、ワンちゃんを散歩している婦人とか、プールで立っている学生たちとか、ぽんちゃんもその隣にいる留学生をですね、よく手伝って、一生懸命電動しているそうです。本当に感謝のことです。
しんくんの言うのはですね、教会の話をよくよくするらしいです。本当に自分がたくさん助かっていると、本当に素晴らしい教会、いい方々がたくさんいらっしゃると、ぜひ来てみてくださいと、そういうように電動していらっしゃる。
他の方々もですね、友人の方々を祇園に連れてきたり、先行相談にしてですね、一生懸命にですね、普段ですね、良い関係を持ちながら、一生懸命電動している方々が教会に大勢いらっしゃることは、本当に感謝で嬉しいということであります。
私たちには、とっても素晴らしい、電動の模範的な人物がいます。それは、このヒト・パウロです。
今日の御言葉、19節から27節まで読んでいただきましたけれども、もう皆さん、およびになって内容はすぐわかってきますよね。
パウロ先生は、国と教会の神と彼らにですね、こう言っています。
私は、できるだけ何とかして、一人でも多くの人々を救うために、多くの魂をイエス様に導くために、どんな武力も道具も涙も流せない。
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救いのためなら、私は何でもやる、とパウロ先生は語っています。このパウロ先生のローク、祈りを見てみましょう。そして、ぜひぜひ見習いたい。
私たちも、このパウロ先生のように、一人でも多くの人を何とかして、できるだけ多くの人々を、この南沖合、竜河大、横尾、富川区、この州の多くの未死んだ魂を獲得するために、
今日ですね、ぜひこのパウロ先生から見習いたい。まず、十九節をもう一度一緒に読みたいと思います。十九節です。
ほいっとに、3、私は誰にかいても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
はい、どういう意味でしょうか。パウロ先生は、当時のローマ帝国の市民権を持っている自由人でした。ローマ市民権というのはですね、当時はもう万能パスポートみたいなものなんです。
どこにも行ける。何でもできる。また、彼はですね、血統的にはユダヤ人でありながら、同時にローマ市民権を持っている、本当に自由な、もう法律的にも信仰的にも自由な自由人でした。
今日といえば、アメリカの市民権を持っている人のような感じかもしれません。ところが、その自由人のパウロは、実は何の制限も束縛にもされないものなんだけれども、
彼は、多くの魂を獲得するために、つまり多くの人々をイエス様に導くために、救いに導くために、福音を伝えるために、自分は自由人なのに奴隷になったと言います。奴隷になった。
どういう意味でしょうか。もうちょっとね、一緒に考えてみたいと。
彼は、多くの魂を獲得するために、救うために、自由人のローマ市民のその権利を、もう諦めた、放棄したということなんです。万物たくことを、もう諦めたことなんです。
着るものを着ない。楽しめるものを楽しまない。食べられるものを食べない。行けるところに行かない。贅沢に暮らせるのを、そういうふうに暮らさない。奴隷のように生き、奴隷のように仕えたということです。何のためでしょうか。魂の救いのために。福音をもって伝えるためになんです。
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今日の私たちにこれを当てはめてみるならば、もっと多くの魂を救うために、そこ飛躍がひどいかもしれませんが、デパートに行けるのも行かない。贅沢な服を、洋服を、カバンを持てるのを持たない。贅沢に暮らさない。奴隷のように生き、奴隷のように食べ、奴隷のように仕えるということです。何ででしょうか。
できるだけ何とかして、一人でも多くの魂を救うためになんです。私たちはここで、このパウロ先生の旧例のファッション、熱心、覚悟、決心を身に着みることを教えていただいています。
皆さん、今日のメッセージのタイトルのように、福音の真髄を豊かに味わったクリスチャー、神の恵みに圧倒されて生きるクリスチャーは、このように生きるのではないでしょうか。もうイエス様のために来てくれたと言われるほどなんです。本当に見習いたいです。私もこのようなクリスチャーになりたいんですよ。
この時代に、パウロ先生のように、福音とイエス、キリストのために人生のすべてをできますけれども、食べられますし、あげられますし、ぬれますし、切れますし、だけどそれを、死のために、一人でも多くの魂を救うために、諦める、しない、権利を放棄する、仕える奴隷に。
皆さん、このようなクリスチャーになってください。そうしたらですね、今まで味わえなかった福音の真髄を、福音の力を、精霊充満の恵みを、神の豊かな世界を、経験できるのではないでしょうか。
ところが、ここですね、もう一つの大事なポイントが一つあります。この19節ですけれどもね、深海役人は、ちょっとその意味が抜けていますけれども、交互役性意識を私はお読みしますので、聞いていてください。
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交互役性意識はこのように訳しています。私はすべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、その次ですよ、自ら進んで、自ら進んで、すべての人の奴隷になったとあります。
なぜかこの深海役人はですね、自ら進んでという言葉が抜けていますけれども、これがポイントだと思います。ファロー先生は、自ら進んで、つまり喜んで、すべての人の奴隷になりました。
奴隷になりなさい。大したことになりませんよと言われたからではない。自分がやりたくて、そうなりたくて、自ら進んで奴隷になりました。
皆さん、どうでしょうか。一般的なこと柄もですね、自ら進んで何かをするということは本当に素晴らしいことなんです。
どうでしょう、皆さん。ここに旦那さんも結構いらっしゃいますけれども、お家で奥様からちょっと掃除してほしいとか、ゴミを捨ててほしいとか、あれを捨ててほしい、こうしてほしい、喜んで自ら捨てていらっしゃいますよね。
皆さん、どうですか。今朝、私、旦那さんも急がしくて、洗濯をかけてほしいと言われて、喜んで静かにかけてきました。いかがですか。
自ら進んで何かをするということは、実は本当に素晴らしいことです。ところがですね、パオロ先生は、そのレベルじゃない。
玉木を引くために奴隷のように生きる、それを自ら進んで自分が選んだ、主導的に、自発的になんです。
なんで、どうやってこんなことができるんでしょうか。このファッションは、熱心は、どこから来たのでしょうか、皆さん。
それは、今日のメッセージのタイトルのように、パオロ先生は福音の真髄をもうあふれるほど味わったから。
イエス様の十字架の恵みはどんなに素晴らしいものか、その高さ、深さ、広さを味わって味わって余るほど味わったから、彼はこれが自ら進んでできたわけです。
皆さん、私もこのようにできますよ。福音の恵みを、十字架の恵みを、圧倒的な聖霊の恵みを、二言葉の恵みを、祈りの力を味わえたらですね、
このような素晴らしい国間の世界が、これから開かれました。
だからパオロ先生は、伝道者、宣教者になって、できるだけ多くの魂を得るために、自らすべての人に対して奴隷になりました。
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皆さん、これは不屈なものではないんですよね。これは、むしろ福なんですよ。
私、みんながですね、日本文教会のすべての人が、このような聖者になったらいいなと、私は説に祈って願っています。
仏御言を読みましょうか。二十説から二十二説です。私が二十と二十一説を読みますので、皆さんは二十二説をお読み下さい。
二十説。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。
立法の下にある人々には、私自身は立法の下には見ませんが、立法の下にある者のようになりました。
それは立法の下にある人々を獲得するためです。立法を求ない人々に対しては、私は神の立法の外にある者ではなく、
キリストの立法を守る者ですが、立法を持たない者のようになりました。
それは立法を持たない人々を獲得するためです。二十二説を一緒に、弱い人々には弱い者になりました。
弱い人々、全ての人に、全ての者となりました。それは何とかして、幾人かでも救うためです。アーメン。
どうでしょうか。皆さん、心が熱くならないでしょうか。
パウロ先生は、ユダヤ人を得るためには、ユダヤ人と交わりを持つ。ユダヤ人のように考える。
違法人を得るためには、違法人と交わりを持つ。違法人のように考える。低くする。全ての人に、全ての者となりました。
これは嘘ではないです。本当のことです。それは何とかして、幾人かでも救うためです。
本当に、私たちもこのようなクリエイターになり、一生一生信仰生活するならば、こんな信者になりたい。こんな教会になりたい。
ところが皆さん、こんな信者になるためには、まず、自分自身が、あふれる神の恵みを受けなければならない。
神の恵みに感激して、圧倒されて、十字架の恵みにも豊かにそれを味わって、そして、このような福音を伝える。
全ての人のために、全ての者になれる人になるでしょう。
21:05
ここでですね、一つ、お一人の選挙史を紹介したいと思います。
テレピンの、日本語で言うならば、フルロという、貧民村で選挙していらっしゃる。長い間選挙している。
けむ選挙史ですけれども、そこもですね、子供たちの賛美する、礼拝する姿を見たらですね、本当に大人の頭が逆るほどですね、
みんな恵みに満ちていて、精霊十万な子供を出会ってですね、賛美が何なのか、聖杯が何なのか、
もう本当に恵みを味わっている子供たちの動画ですけれども、ちょっと見ていきます。
はい、ここまででいいです。皆さんいかがですか?
あのテレピンの、貧民のその町で、あの子供たちがですね、毎週、いや、日曜日だけではですね、平日とも集まって、一度賛美始めたらですね、
1時間も2時間も、あんな風にですね、恵まれて賛美をして、先生のわなきを聞いてですね、もう家に帰らない。
子供でもですね、精霊に満たされて神の恵みを味わったらですね、あんな風の礼拝ができるんです。
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大人の私たちもいかがでしょうか?
これから私を賛美し、涙で祈る、神を礼拝する子供、大人。
いや、私たちは、彼より何十倍も信仰生活をして私たちであるならば、もっと恵みを豊かに経験し、もっと精霊に満たされた信仰生活をすべきではないでしょうか。
どうか、神の恵みを、あふれる恵みを、圧倒される恵みを、皆さん、支配求めてください。
福音の神髄を豊かに味わってください。
一滴一滴ぐらいの添いた恵みじゃなくて、大咲きのようにあふれる恵みを、神様の力を、精霊十万の恵みを求めて、それを受けてください。
恵みの世界がありますよ。豊かな恵みの世界があります。
世界中に、教会に帰っている子供たちが多いでいますけれども、あのような子供がいます。
今度はまたお見せしたいなと思いますけれども、アメリカでぐらいですね、子供が、うちの子孫ぐらいの子供がですね、メッセージをして、祈りをしてですね、もう大人にしてですね、もう御言葉を宣言する、素晴らしいことが実は世界中に起きている。
どうか皆さん、そのためには、まず御言葉と祈りに専念してください。
5分10分祈って満足するレベルじゃなくて、1時間2時間3時間も祈れるクリスチャンになっていただきたい。
あるいは、イエス様のように決心して、もう40日間でも決心して祈ってみたらいかがでしょうか。
時には断食の祈りをしてみてください。断食の祈りはすべての鎖を断ち切る天の力があります。
一切念に集まってください。そこで神様に出会ってください。精霊十万の恵みを受けてください。他にはありません。
それから今日の御言葉の後半を見ますと、
神奈川先生は24節から競技場で走る人、投擲をする人とか、決勝点とか、剣道とか、今オリンピックが始まっていますけれども、
その古代のオリンピック、コリントとかアテネは実際にオリンピックをやっていましたから、競技のイメージはみんな身近なイメージなんです。
ところがですね、24節を見たら私が読みますね。
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競技場で走る人たちはみんな走っても勝を受けるのはただ一人だ。そういうことを知っているでしょう。
ですからあなた方も勝を受けられるように走りなさい。
さあ、ここで勝を受けるということはどういう意味でしょうか。
救われたのに、また天国に、この地上に何とかの宝珠があるのでしょうか。そういう意味ではない。
ここでの勝というのはですね、すでに救われた私たちが、その救いじゃなくて、
救われた信者がこの地上で味わえる神様の豊かな恵み、精霊十万の恵み、福音の力を意味します。
だから皆さん、一生一度信仰生活をするんだったら、豊かな恵み、福音の神髄を、福音の力を、精霊十万の恵みを豊かに味わいなさいということなんです。
これが信仰生活ですよと、ヒト・パウルは私たちに叫んでいるんです。今、オリンピックが始まっています。
戦中の選手たちの世界を見たら、例えばサッカーだけ見てもですね、この南予選の街の子どもたちがボールを蹴るレベルのサッカーがありますし、
中高生たちの部活ぐらいのレベルがありますし、オリンピックやワールドカップの選手のレベルがあります。
サッカーといっても全部同じレベルではありません。戦後も同じではないでしょうか。
パウル先生が言っているように、何とかして一人でも多くの魂を救うためにこの世に生きるクリスチャンがいる。
皆さんはいかがですか、という今日のこの御言葉のお問い合わせ。それに応答していただきたい。
皆さん自分自身はどんなクリスチャンなんでしょうか。
多くの魂を救うために何でもします。奴隷になります。全ての権利を、復帰もあきらめます。
今日を受けるために豊かな恵みをあげるために走ります、と言えるクリスチャンになりたくないでしょうか。
口ないぱんむりを得るために、大御咲きのようにあふれる恵みを受けるために、精霊十万の恵みどんなものかそれをあげたくて走るクリスチャン。
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そして明かしをし、自分が出会った神様を述べ伝えて、述べ伝えて、言いたくて、言いたくね、どうしようもないクリスチャンがいる。
皆さんはどっちですか。神様はどんなクリスチャンを求めてやられるでしょう。
私は弱いです。私は弱いです。そしていつものこの弱さに縛られて、閉じ込められて、もっと素晴らしい、もっと深い神の恵みの力と、恵みの世界を経験していない。
そんなクリスチャンは神様が求められるでしょうか。いいえ、そうではない。
ここ一箇所、聖書を開きましょう。
四篇、145篇、十八節です。
四篇、145篇、十八節、旧約聖書、1052ページです。
十八節をご一緒に読みたいと思います。
三篇、「主を呼び求める者すべて、誠をもって主を呼び求める者すべてに、主は近くあられる。アーメン。」
皆さんが神様の恵みを、圧倒的な恵みを、十字架の力を、福音の神髄を呼び求めるならば、主は近くにおられて、見させてください。
信仰は見さし、精霊は見さし。
皆さん、心を尽くして、誠をもって神の恵みを求めていらっしゃいますか。
誠をもって、心を尽くして、精霊の満たしを求めていますか。
心から、心から、心から、福音の力を求めていますか。
求めてください、求めてください。
神様は、求める者にすべて、主は近くおられて、見させてください。
どうか、私たち一人ひとりが、皆さん、すべての方々が、両国会のみんなが、このファーロー先生のように、
福音の恵みを、神の恵みを、豊かに味わって、そしてキリストをもって伝えるクリスタン。
どこにいても、そこでキリストの香りを香ばしく放すクリスタンになりたい。
仏に、神の国がこの地に来ます。
お祈りします。