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2017-11-12 44:59

2017/11/12:ヨハネの福音書講解説教(16)イエスこそいのちのパン

 2017/11/12 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 ~40

00:01
皆さん、おはようございます。
2週間ぶりになりますけれども、10月29日は、もう先月になりますが、
三大福音教会での特別展の集会で、神輿堂を取り付かせていただきました。
先週、8日間は、先週の聖地寺は、武蔵におりましたけれども、
今年、第10回目の日本牧会社神道リーダーの、
慈安寺という、グレイス&グロース、恵みと聖地というセミナーに、
私も参加させていただいて、恵みもいただきまして、
あるいは、また通訳とか案内の講師をさせていただきました。
またですね、向こうでは、5年ぶりの福岡教会でお世話になった神道さんにもお会いしてですね、
また楽しい時も待たせていただきました。
皆さんの祈りに心から感謝いたします。
それでは、メッセージの前に、しばらくね、挨拶しましょうか。
周りの方と挨拶したいと思います。
ようこそいらっしゃいました。
一言お祈りいたします。
イエスは言われた、私が命のパンです。
私に来るものは、決して飢えることがなく、
私を信じる者は、どんな時にも、決して渇くことがありません。
アーメン。
主はそうです。
イエスの身元に行けば、
飢えることも、乏しいことも、
渇くこともありません。
どうかしよう。
今日も、主の御前にやってまいりました。
どうかしよう。
一人一人、主の教会に、
今日、私たちが聞くべき神の声を、
どうか皆が、心を無にして、卑怯くして、
お聞きしまして、
そして、神に喜ばれる、
この一生の歩みを、
逢いましてくださいますように。
どうか、我らを、
利の道へ、
導いてくださいますように、
お願いをいたします。
この物は隠して、
神様御自身の、
栄光と御言葉を、
表してくださいますように。
イエス様の皆によって、
お祈りいたします。
アーメン。
久々の、
イオハネノ福音書の公開説教になります。
16回目になりますが、
今日は、
イエスこそ、
命のパンです。
イエスこそ、
命のパンです。
という題にして、
共に御言葉の恵みを、
03:01
お受けしたいと思います。
三十五節にイエス様は、
私が命のパンですと、
言われました。
イオハネノ福音書にはですね、
イエス様が、
言語上、
私は何々である、
私は何々であるという、
自分自身が、
誰なのかについて、
語られた、
いわゆる命題が、
七つ出てくるんですね。
その中の、
一番目が、
今日の三十二節の、
私が命のパンです、
ということであります。
今日はイエス様が、
私が命のパンですと、
言われたのは、
私たちが、
なぜイエス様を信じるか、
それに対する正しい、
正所の答えを、
学んで、
またそれを、
自分の信仰にしてですね、
共に歩んでいける、
二言葉が、
今日のところに書かれているわけなんです。
さあ、
ところですね、
韓国にいたら、
向こうもそうでしたけれども、
受験のシーズンなんですね。
あちらこちら、
受験生がある方は、
心ハラハラしているかもしれませんけれども、
神様を信じない人々は、
日本の場合はですね、
学問の神とかね、
拝んでいる、
あらゆる神社に行くでしょう。
そこでね、
いくらなのか分かりませんが、
木の蓋を絵まつるんですかね、
それを書いて、
東西に合格できますように、
彼氏に会えますように、
とかね、
成功できますように、
昇進できますように、
たまに言ったらですね、
美人になれますようにとかも書いてありますけれども、
どうでしょう皆さん、
このように、
人間が作り出した、
この世の宗教の目的は、
実は簡単なんですね。
それは、
簡単に言って、
自分のために神を作ったわけなんです。
自分の成功、
自分の範囲、
あるいは合格、
あるいはお金、
あるいは健康、
それを得るために、
神を、
神でもないんですけれどもね、
それを利用するわけなんです、実は。
もちろんね、
神社に行って、お寺に行って、
祈願をしたとして、
皆が成功するとか、
受かるとか、
金持ちになるわけではありません。
たまたま、
偶然ですね、
祈願したのに、
受かったり成功しただけなんですよね。
06:03
ところが、
我々が信じている唯一の神様、
作り主の神様、
それは、
私たち人間が作り出した宗教ではなく、
誠の真理であって、
誠の命であって、
誠の道である、
イエス・キリストを信じる私たちは、
世の人、
世の宗教を信じている人々と、
全く違います。
私たちは、
単純に自分の成功のために、
あるいは自分の癒しのために、
あるいは自分の健康のために、
とか、
あるいは、
お金のためにとか、
あるいは食べ物、
着るもののためにとか、
何かをもらうために、
何か自分にいいことが起こるために、
神様を信じる人ではありません。
私たちは、
自分のために神を信じるのではなく、
神のために、
神の栄光のために、
神様を信じる人々なんです。
これが本当の信仰というものなんです。
皆さん、私たちはですね、
このはっきりした正しい目的を、
正しく持っていなければならないんです。
もしも、
今日ここにおられる方々、
あるいは、
今日ここに来ていらっしゃない方々の中で、
もしも、
まだまだ、
自分のために神を信じて、
自分のために教会に通っているならば、
私たちは、
そうから乗り越えて、
抜け出して、
そして、
自分ではなく、
神のために、
神の栄光のために、
神を信じるクリエイチャンとならなければならないのです。
ところが、
今日の聖書に入りますと、
今日読んでいただきました32節の前には、
3週間前になりますけれども、
どんなストーリーが皆さんに書かれていたのでしょうか?
6章の1節から15節には、
5つのパンと2匹の牛で、
家様が男性だけで5000人、
女性、子供を含めたら8000人、1万人、
分かりませんけれども、
少なくとも5000人以上の人々を食べさせた奇跡の印が書かれていました。
その時に家様についていた、
いわゆる、
今日、
群衆の話をしますけれども、
群衆たちは、
だいたいね、
イスラエルの北の方の街は、
だいたい貧しいんですね。
彼らは貧しいんです。
そしてアクレに疲れていたり、
病気を病んでいたりする人々が、
なぜか多いんですね。
で、彼らは家様についていったらですね、
いい話も聞けるし、
たまにはですね、
こんな風にですね、
パンも魚もいっぱい食べてですね、
09:02
もう満腹になれるし、
時には病気も癒してもらえるし、
時にはアクレもですね、
追い出してもらえるし、
家様についていたら、
何か自分にいいことが起こるんですよ。
だから家様についていく群れになって、
彼らが群衆なんです。
もちろんね、
あの群衆の中にも、
弟子たちのように、
人を取る、人間を取る漁師になると、
イエス様が私を癒してくださった、
だから一生私はイエス様のために生きるとね、
弟子になるんだとね、
そういう人々ももちろんいるわけでしょう。
ところがどうでしょうか、皆さん。
群衆のほとんどの人々は、
そうではないのです、実は。
自分のために、
何かパンをもらえるかな、
服をもらえるかな、
癒してもらえるかな、
あくれを追い出してもらえるかな、
自分に何かいいことが起こるんじゃないかな、
と思って、
ただその気持ちで、
イエス様についているだけなんです。
だから彼らは弟子ではなく、
群衆にすぎません。
まるで、
日本の多くの人々が神社や仏教に行ってですね、
お寺に行って祈願することと、
似ているかもしれません。
ただ、ただ自分のために、
500円投資して、
円満を買って、
徳はですね、
受かるように、成功できますように、
昇進しますように、
そこには信仰心というものは実はないのです。
そこには実は、
我々人間の汚れた、
罪深い本性しかないのです。
それはイエス様もですね、
今日のお見言葉の、
読んでいないんですけれども、
イエスの26節をご覧下さい。
前のページにありますが、
ヨハネの福音書6章の26節、
27節です。
聖書をお持ちの方は、
一緒にお読みしたいと思います。
26節と27節。
3、
イエスは答えて言われた。
誠に、誠に、あなた方に告げます。
あなた方が私を探しているのは、
私を見たからではなく、
パンを食べて満腹したからです。
亡くなる食物のためではなく、
いつまでも保ち、
永遠の命に至る食物のために働きなさい。
それこそ、
人の子があなた方に与えるものです。
この人の子を、
父、すなわち神が認証されたからです。
どんな話ですか。
イエス様がですね、
12:00
あの船に乗ってですね、渡ったりだったり、
そこにもやってきたですね。
彼は何でやってきたんでしょうか。
イエス様にお会いしたい。
それはあってますよね。
実はでも、
イエス様にお会いしたい理由は何でしょうか。
パンを食べて満腹したからです。
それをイエス様は見抜いておられました。
あなた方が私を探したのは、
永遠の命のパンを得るためではない。
神を見るためではない。
神は自分が罪であることを悟ることで、
そのためではなく、
パンを食べて満腹した。
それにしない。
だから、
亡くなる植物のためではなく、
いつまでも保つ、
永遠の命のそれに至る植物を求めなさい。
彼らはパンを食べて、
魚を食べて、
満腹したから。
またおられるかなと思って、
イエス様についてきただけなんです。
そこには、
我々人間の自己中心、
自分しか知らない、
人間の罪深い財政が、
そこに実はあるんですよ。
まだこのブースたちは、
誠に救い主イエスキリストに出会ったのではなく、
ただパンをくれるイエスに会った。
だからそこには、
誠の救いはまだない。
誠の悔やためはまだない。
ただ空っぽだけの群衆にすぎません。
今日、群衆と弟子の信仰について、
一緒に考えていきたいと思います。
そして、
私たちも群衆ではなく、
誠のイエス様の弟子の信仰を持つ、
人とならしていただきましょう。
群衆はどうでしょうか。
大きく多数話したいと思います。
群衆は、
その1、
自分の利益のために、
イエス様を探しました。
今日出てくる群衆たちと、
全く同じです。
パンを得るために、
イエス様を探します。
病気を癒してもらうために、
イエス様を探します。
着物を得るために、
イエス様を探します。
イエス様を探す目的は何でしょうか。
自分なんです。
自分なんです。
自分のためにイエス様を探し、
自分のためにイエス様についているだけなんです。
ここには実は、
まだ信仰はないんです。
ただ、
イエス様を利用しているだけなんです。
皆さん、我々人間は、
実はこれほど、
罪深い罪人なんです。
この罪深い、
人間の我々の罪の本性の由に、
15:00
我々人間はですね、
いつまでも自分の欲を、
それを満たそうと、
満たしてもらうと、
神なるイエス・キリストを、
利用しているのではないでしょうか。
実は皆さん、
この群衆の様子の中に、
我々の様子が、
あるんじゃないでしょうか。
ないと言えるんでしょうか。
私は言えません。
私は言えません。
だから群衆は、
イエス様に何かいいものを、
もらったらですね、
もう機嫌が良くなるんですよ。
嬉しくなるんです。
やったー!
もう、パンも、
さかの、いっぱい食べた。
癒してもらった。
悪霊を生み出してもらった。
嬉しいんですね。
機嫌が良くなるんですね。
ところがどうでしょうか。
イエス様に、
罪が指摘されて、
裁かれて、
張り裂きとのように、
あるいは、
立法化されたようにですね、
ヘビーの子らよとですね、
偽善の者よと、
言われたとしたらですね、
どうなるんでしょうか。
食い合いを食べるところか、
もう、
怒ってしまってですね、
機嫌が一瞬悪くなってですね、
イエス様を呪ってしまう。
そしてイエス様をね、
蹴っ飛ばしてしまう。
なんでしょうか。
ただ、
自分のために、
イエス様についていたからなんですね。
何のために、
イエス様についているんだろうか。
一つですね、
私が、
たまに、
プサンとかですね、
韓国に行って帰ってくる時に、
子供たちがですね、
お父さん、
このラーメン、
このお菓子とか、
チキンとか、
買ってきてくれね、
って言うんですね。
そしてですね、
先週の月曜日に、
夜帰ってきました。
そしたらね、
子供たちが、
お父さんお帰り、
ってですね、
その後、
お父さんお帰り、
と言うんじゃなくて、
お菓子は?って。
チキンは?って。
で、
カバンを開ける。
お父さんが待てるのか、
お菓子が待てるのか、
まだ疑問なんですね。
ところが、
イエス様は、
群衆の気持ちを、
心を、
もう、
明らかに、
見透かされました。
あなた方は、
永遠の命を得るために、
私を探しているのではない。
ただ、
満腹したから、
また、
パーティーのために、
私を探しているのではない。
ただ、
満腹したから、
ただ、
満腹したから、
また、
パーンを得るために、
私を探して、
ここまで、
来たんです。
もう一度申しますと、
群衆はですね、
何か自分に、
いいものがあったら、
成功したら、
合格したら、
昇進したら、
金持ちになったら、
病気が癒されたら、
機嫌が良くなるんです。
嬉しくなるんです。
ところが、
少しでもですね、
うまくいかなかったり、
少しでもですね、
うまくいかなかったり、
少しでもですね、
少しでもですね、
少しでもですね、
少しでもですね、
少しでもですね、
知る勇気になったり、
あるいは、
我々は本当に住み人ですよ、
悔えるなどないですよと、
18:02
そういう話を聞くと、
一瞬、
機嫌が悪くなる。
そして、
礼拝も司三も、
壊れたおもちゃみたいに、
捨ててしまう。
もう怒ってしまう。
心の中にね、
怒りがですね、
燃えている。
なぜでしょうか?
民衆たちには、まことの信仰が実はないからです。
ただの自分の利益のために、自分の欲求の満足のために、神をイエスを利用しているだけなんですよね。
だから皆さん、まことに救い主なるイエスに、まことの神様に出会っていない群衆の祈りはいつも似ています。
パンを下さい、病気を癒して下さい、政府を下さい、介護して下さい、金持ちにならして下さい、浮からして下さい。
これらが実は群衆の祈りなんです。
そのフォーカスがどこに当てられているんでしょうか?
神に、神の国に当てられているんでしょうか?
そうではない。いつも自分にフォーカスが当てられているんです。
自分、大きくても自分の家族。なぜでしょうか。
我々人間の罪の本性、そのためなんです。
それは私たちは実は知らなければならない。
実はそれが我々の姿だということなんですね、皆さん。
どうでしょうか、皆さん。
たまにでもですね、毎週緊急に捧げておられますけれども、たまにでもこんな思いをしませんか、皆さん。
私がこれくらい捧げたんだから、神様がなんとか助けてくださるだろう。
いいことを起こしてくださるだろう。
いいことが起こるんじゃないかと、そういう思いを持って捧げている我々の本性が我々に実はある。
罪の本性は心の中にあるから、それがですね、蛇のように頭を持たれているんですよ、実は。
受験の指示になるとですね、神様、うちの子供が本当に合格できて、神の栄光をあらわすようにしてくださいと祈るんですね。
一見見たらいい祈りのように見えますが、実は強調が、アクセントがどこにあるのか。
我々の合格にアクセントがそこにあるんです。
ただですね、合格できますように祈るのはちょっと申し訳ないから、神の栄光のためにそれを付け足しただけなんです。
幸せにしてください、それだけ祈りはちょっと熱かましいと思うから、神の栄光のために付け足しただけなんです。
そうではないでしょうか、皆さん。
君主の祈りは、神の教会、神の国、神の福音にフォーカスがあまり当てられていない、関心があまりないんです。
21:06
自分自身に集中しているんです。
皆さん、私も含めて、私たちは神の前に守護寺でなっていただきたい。
君主は遠くの明丹駅のパティオにいるわけではないです。
私たちが君主なのかもしれません。
2番目、君主たちは十字架の苦しみを背負うことを喜びません。
なぜでしょうか。
君主は、ただイエス様に出会って、パンを得て魚を得て、癒してもらって、追い出してもらって、
それで自分に良いことが起こるためにイエス様についているから、それを喜ぶだけだから、
自分を捨てて十字架を背負って、私について来なさい。
それは困りますね、イエス様。
あの人に支えてくださいと。
そして、さよなら。苦しみは嫌ですと。
これ以上ついていかないです。
君主はパンを願うが、苦しみは喜ばれないです。喜びません。
君主は自分にイエス様の関心を寄せてくるのを願うが、イエス様に自分のすべてを捧げるのは願わないのです。
君主はいつも耳障りのいい話を聞けば機嫌が良くなりますが、
神の厳しいメッセージを聞くと耳を閉ざして、イエス様を捨ててしまいます。
君主は苦い薬は吐き出しますが、甘い飴だけ飲み込みます。
なぜなら、真言の真言が外にないからです。
皆さん、この君主の罠がですね、実は旧約聖書にとてもリアルに既に記されているんです。
ちょっと開けたいと思いますが、旧約の出世辞仏十六章に行きましょう。
旧約聖書出世辞仏十六章の三十一節。
イスラエルの人々が出世辞仏から脱出しました。
そしてね、アダムをですね、往復の人々がね、行くんですよ。
アダムから食べ物がないんですね。その時に神様が何を振らせてくれるんですか。
マナというね、不思議な奇跡の食べ物種が天から降らせてくださったんですね。
24:04
それを見てイスラエルの人々は何と言ったのでしょうか。
三十一節、一緒に読みたいと思います。
イスラエルの家はそれをマナと名付けた。
それはコエンドの種のようで、白くその味は水を入れたせんべいのようであった。
最初はですね、何も食べない時にですね、マナが本当に不思議にですね、こう振って地面にですね、
それでみんなですね、うわぁ甘い、これはもう水が入っている、おいしいせんべいみたいな、
よれいし神様感謝しますとですね、とても喜んでいました。
自分たちにパンが与えられたからね、喜んでいました。
ところがそれを毎日毎日そればかり食べていた。
その後彼らはどんなふうになったのでしょうか。
民数記に行きましょう。
旧約聖書の民数記の十一章五節と六節です。
二百四十九ページですね、二百四十九ページ。
民数記十一章五節と六節。
私がお読みします。
エジプトでただで魚を魚を食べていたことを思い出す。
きゅうりもスイカニラ玉ねぎニンニクも。
だが今や私たちの喉は干からびてしまった。
何もなくてこのマナを見るだけだと言っている。
エジプトでは神様このおいしい水の入ったせんべいのようなマナをありがとう感謝しますと食べて、
私はなんと言っていますか。干からびっちゃったこのマナしかないと。
なぜでしょうか。
彼らはそのマナを掘らさった神に出会ったのではない。
その神のためについているのではなくて、ただマナを得ただから、
今日の新約の群主と全く同じである。
群主は自分の口にいいものが入ってきたら機嫌が良くなります。
嬉しくなります。
自分を認めてくれて褒めてくれるマナを聞けば機嫌が良くなります。
しかし彼らにはまことの真偶はそもそもないから、
自分の口に同じものが入ってきたり、
まずいものが入ってきたり、
自分の耳に甘い話じゃない話が入ってきたら、
神を恨みます。
文句を言います。
怒ります。
この水着でイスラル人々は何をしたのでしょうか。
あの指導者はモーセを恨みました。
モーセを殺そうとしました。
群主だからです。
実は本当の真偶がないからです。
27:00
群主は神についていくその目的の中心に、
神様のみおられるのではなく、
神の栄光のみあるのではなく、
自分がそこにある。
自分のために神についていく。
自分の利益、自分の成功、自分の癒し、
自分の富のために神についているわけだから、
自分に少しでも利益にならない。
そしたらすぐに、
あのニュースピーのイスラル人のように、
神を恨む。
指導者を恨む。
裏切る。
それが群主なんです。
イエスネマの時代のこの群主たちは、
後々彼らは何をしたのでしょうか。
イエスネマを十字架につけろ、十字架につけろと
叫んだものになってしまいました。
なぜでしょうか。
彼らがイエスネマを見たら、
サーシたちやピラトに捕まえられて、
何もできないんです。
尋問されて、打ち打たれても、
イエスネマを見たら、
もう何もできないんです。
指導者になるところか、
召喚者になるところか、
パンすら得られない。
だからもうイエスネマなんていらないんです。
だから背を向けてしまうのです。
これが群主なんです。
命のパンであられるイエスネマに、
まことに出会っていないからなんです。
皆さん、愛する皆さん、
私たちは本当に注意しなければならないんです。
なぜでしょうか。
私たちもいくらでも、
この民主主義の彼らのように、
今日のイエスネマの群主のように、
同じく罪の本性を持っているから、
傲慢であって、動力深くて、
自己満足のために歩もうとする、
その罪の本性があるから、
いくらでも私たちも群主になりがちということを、
私たちは実は認めなければならないんですよ。
では弟子の信仰はどんなものでしょうか。
ひと先申し上げたいと思います。
弟子は神の栄光のみ、そのために生きるものです。
弟子は何をするにしても、
神にフォーカスを充てられます。
今日明かしをしていただきましたけれども、
市内で聞いていただきたいんですけれども、
学校に行こうが、学校に行かないが、
うちの子供がいい子になるためじゃなくて、
何をするにしても、
神の栄光のために歩もう、
生きる子供を育てていただけはならないんです。
そうしないと、学校に行こうが、行かないが、
30:01
そのフォーカスは自分にあるんです。
だから弟子はですね、
自分にお金が入ってきても、入ってこなくても、
変わらず喜んで主についていきます。
自分が昇進しても落ちても、成功してもしなくても、
癒されても癒されなくても、平安が入ってきてもなくても、
変わることなく喜んで家様についていきます。
それが弟子なんです。
だから信仰は自分のために持つのではなく、
ただ神のために、ただ神の栄光のために持つものだからです。
弟子は自分はどういうふうになっても、
これがイエス様が言われた、
自分の十字架を背負って、
神についていくことです。
だから弟子たちは、
父なる神の栄光のために自分のすべてを、
感情も思いも将来の計画も、
全てを神様に委ねて、
もうすべてをお捧げしたんだから、
自分には何もないです。
弟子には自分にとって一番、
最も価値あるものは自分ではない。
平安でもない。健康でもない。
長生きでもない。家族でもない。
成功でもない。
ただの神の栄光のみなんです。
これが弟子なんです。
ちょっと画面出してね。
ウィスト・ミスター・キョーリというものがあって、
ハイレーベルク・シンコ・モントというものがありますが、
それを少しだけ見てみたいと思います。
こういうものがあります。私が申しましょう。
ウィスト・ミスター・キョーリには、
第一問に、人の主な目的は何ですか。
人の主な目的は、神の栄光をあらわし、
永遠に神を喜ぶことですと言います。
皆さんの主な目的は何でしょうか。
神の栄光をあらわすことでしょうか。
永遠に神を喜ぶことでしょうか。
それでも、自分を、子供を、人を喜ぶことでしょうか。
次、ハイレーベルク・シンコ・モントがあります。
こういうものがあります。
生きるにも死ぬにも、あなたのたった一つの慰めは何ですか。
私が私自身のものではなく、
身も魂も、生きるにも死ぬにも、
私の真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。
まあいいか。省略ですけれども。
あなたのたった一つの慰めは何ですか。
それは、私がイエス様のものであること。
それが唯一の慰めなんです。
それがシンコ・モントというものです。
33:00
はい、いいです。
皆さん、これこそ弟子の代表なんじゃないでしょうか。
人生のフォーカスが、自分ではなく、
神の栄光、イエス・キリストに与えられた人生、歩み、
それが弟子の歩みなんです。
自分の栄光のためではなく、神の栄光のために仕事をしても、
趣味生活をしても、留学にいても、転職にしても、
引っ越しをしても、何をするにしても、
自分のためではなく、神のために生きることだ。
神を喜ぶことです。
それが主な目的なんです。
唯一のたった一つの慰めは、
話を聞くんじゃなくて、励ましてくれる人間じゃなくて、
イエス・キリストのものであること、自分が。
それだけで十分なんです、実は。
この前、小さなことですけれども、
素朴な美しいイエス様の弟子みたいな、
四十代のフリちゃんの新婚夫婦に会いました。
10月の22日、特別出会いがあったでしょう。
月曜日にキム先生、ちょうど多雲は通り抜けるときでしたから、
ギリギリ過労死で関空に先生を送って、
そしてちょうど彼らは武産から、また彼らも過労死で結構揺れる中で、
関空に着いた四十代のフリちゃんの夫婦です。
その姉妹の方は遠くまでは飛行機に乗れないから、
近いところ考えたこともありますけれども、
その夫婦が結婚を祭にして、私の知り合いの牧師ですけど、
その先生に行って相談したんですって。
先生、遅くなって結婚するんだけれども、
その初めを、自分の何かの楽しみのためではなく、
何か神様のために、何か自分たちが持ち入られたいと。
それで僕は東南アジアでも日本でも、
選挙師がいらっしゃればそこに行って、少しでもご役に立ちたい。
それでその知り合いの牧師が私のことを知っていて、
紹介してくれて、そして神戸大阪に来ました。
そしてその日、昼は私と夫婦と一緒にして、
夜はあんなと四人でいろんなお話をしました。
そしたらその四十代のクリスチャン、新婚のカップルが、
遅い結婚ですけれども、このスタートを本当に神のために意味あるスタートをしたいと。
36:03
それで選挙師先生にお会いして、そして少しでも選挙献金を捧げたいと。
それで祝辞の後、献金を渡してくれようとして何度もお断りしましたが、
その夫婦がこのためにここに来たんだから、ぜひ受けてほしいと。
それで申し訳ないんだけれども、お受けしました。
あの夫婦を見て、大きなでっかいことではないんでしょうけれども、
自分のこの四十代になって、相手に、伴侶に出会って結婚をして、
そのスタートを意味あることを思ってスタートしたいと。
それで自分のためではなく、献金として持って、
私が申し訳ないんだけれども、それをお預かりしました。
素朴な夫婦ですけれども、本当に神様を喜ぼうとするその気持ちを、心を、
神様はとても喜んでおられたな、と私は考えました。
ヨハネの福音書17章1節を見ますと、
イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて言われた。
父よ、時が来ました。
あなたの栄光を表すために、この栄光を表してください。
ですから弟子は皆さん、自分の栄光、成功、幸福のためにイエス様についていくのではなく、
神の栄光のみ、そのために信じてついていくことです。
違った角度からこういう話をしていきましょう。
私たちは人間関係において、それが教会であろうが、会社あるいは学校であろうが、
何かつまずいたり、あるいは傷つけられたり、ちょっと機嫌が悪くなったり、あるいは怒ったりする、
大体の理由は皆さん何でしょうか。考えてみてください。
大体何のために、あー、傷つけられた、気持ち悪い、機嫌が悪くなったり、
もうあの人に会いたくないとそう思う、大体の理由は、ほとんどが実は自分に関するものです。
自分が無視された、自分が認めてもらわなかった、自分は帰りに来てくれなかった、
自分の意見を聞いてくれなかった、自分は仲間に入れてくれなかった、自分を褒めてくれなかった、
自分に関心をもっと寄せてくれなかった。
つまり我々はですね、こういうことのために怒ったり、傷つけられたり、機嫌が悪くなかったり、自分と会わないと、
そういうふうにして躓かれるんですよ、大体。そうでしょう皆さん。
皆さんはそうではないんでしょうか。私はそうです。
皆さんご覧ください。全ては自分に関係したものです。
そこには、神のため、イエス様のため、聖霊様のため、神の教会のために、神の英語のために、
39:02
本当に清い息通りを感じることはあるかもしれませんが、実はあまりないです。
これが実は我々の現実であって、罪の本性というものなんです。
ある方はですね、先生、どれだけ悔やためはいいんでしょうか。もうこれで十分でしょう。
これからは悔やためじゃなくて、神の愛の、その愛を確信するところじゃないですかと言ったりします。
ところが、ある意味で、その方はまた誠に徹底的に悔やためていないかもしれない。
本当の悔やために入ってみますとですね、もう毎日悔やためなければならない。
自分がどれだけ傲慢なもので頑固なもので、ひかれてみじめで醜悪な罪であることを悟るようになるんです。
皆さん、愛する皆さん、弟子は神の栄光、神様がご自分の栄光を受けられないから、そのために清い息通りを感じるんです。
神のみながけかされるから、それで心を痛める。それで悲しいんです。
でもですね、私たちはどうでしょうか。
だいたい自分、あるいは家族のために悲しくなったり、心を痛めたり、傷つけられたり、機嫌が悪くなったりするのが多いんじゃないでしょうか。
これよく分かりやすい聖書のストーリーが一つ出てくるんです。
ゴリアテがですね、イスラエルと戦おうとするときに、あのゴリアテは神の神のみなをなぶりました。
部族仕掛けなんですよね。
そのときにですね、そのサウルでさえ、多くの兵士でさえ、そこの中ですね、
あの者が神のみなを、神の民をなぶっている、これはもう許さんと思うとは誰もいなかった。
ただ自分が殺されたらどうしよう。それだけ思うだけなんです。
しかし一人は違いました。誰でしょうか。
ダビデは違いました。
ダビデは、そばに立っている人たちにこう言いました。
このペリシテ人を討ってイスラエルの組織を進む者にはどうされるのですか。
このかしりを受けていないペリシテ人は何者ですか。
生きる神の人をなぶるとはと、清い息通りを感じました。
ダビデは神の人でした。神の弟子でした。
だから彼は神の人がなぶられること、つまり神のみながなぶられて怪我されることをもう我慢できないんです。
いわゆる清い息通りを感じたわけなんです。
皆さん、息通りというものは、怒りというものはこんなときに感じるものなんです。
これが弟子なんです。
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分子はですね、自分が無視されたら怒ります。
自分が認めてもらわなかったら怒ります。
自分に関心が寄せられなかったら怒ります。
自分に利益が入ってこなかったら、機嫌が悪くなります。
私の罪を一つ告白しましょう。
あの、プサに行くんですね。
そしたら、御礼をもらうために行くわけではありませんが、
お疲れさまでした、辻役をして案内した。
それでですね、飛行機台、それくらいですね、謝礼をもらうんです。
で、あるときは多くて、あるときは少なくて、あるときは多くて、ちょっと波があるんです。
で、多いときにはですね、気分が良くなるんです。
わあ、これくらいもらった。
で、あるときはですね、いつなのか覚えていないんですけど、ぐんと下がった。
まあ、いろいろ事情があったでしょう。ぐんと下がった。
で、私はですね、あれれって、だめだなと私は思いました。
今回はですね、謝礼をもらっただけなんですけれども、
また多くの人に献金して、警備さんにも、
あの、これ、お湯を食べてください。
警備さんにも、またこれから日本選挙に行く後輩の牧師たちがいて、彼らにも献金を渡して、それで喜んで帰ってきました。
皆さん、軍師は自分に良いことがなくなると怒ってしまう。
家様を捨ててしまう。弟子はそんなことがないんです。
皆さん、神の栄光を見た人は、自分の罪がどれだけみっともなくて、
醜悪なもので、そういうものかを悟ります。
だから、悔やためしないでは、もう我慢できないんです。
どれだけ悔やためはいいんですかと聞きたいんですか?
そしたら、まだまだ、誠の悔やための近くにも来ていない証拠なんです。
メッセージを終わりたいと思います。
軍師は肉のパンを求め、罪の本性に従いますが、
弟子は肉の本性を逆らって、自分をいつも砕いて、復讐させて、
永遠の命のイエスだけを、神の栄光のみを求める。
それが弟子なんです。
私、皆が誠の弟子となってですね、神を喜ぶ人にならしていただきましょう。
お祈りします。
それでは、それぞれ示されたまま、しばらくお音の祈りをしていきたいと思います。
しばらくお祈りとしましょう。
祈りましょう。
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