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2026-01-18 34:18

2026/01/18:イエスという神殿

2026/01/18 聖日礼拝

加藤満牧師

ヨハネの福音書 -22


サマリー

このエピソードでは、イエスが神殿において新たな使命を果たすことと、その神殿が持つ深い意味について語られています。聴者は、神殿の意義やイエス・キリストがもたらした新しい支配についての理解を深めることができます。また、イエスという神殿の意義や、神殿が神の臨在や祈りの聞かれる場所、罪の許しの役割についてどのように変化したのかが論じられています。特に、イエスが新しい神殿として果たす役割や、それに伴う壁の打破と永遠の贖いについても触れられています。イエス・キリストによって、私たちは父なる神に大胆に近づくことができるようになっており、この新しさは聖書の御言葉を通して体験され、クリスチャンとしての恵みの豊かさが再確認されることが重要です。

礼拝と感謝の祈り
それでは一言お祈りを致します。
恵みと憐れみに富んでおられる、私たちの父なる神様、
今日もあなたの御前へと私たちを集わせて下さり、
あなたは大きい礼拝ができます幸いを感謝を致します。
先週は幸いな新年生会のひとときをいただきました。
釜野義美先生を通して主がお一人ひとりに語って下さり、
あなたがどれほど恵み深く、またあなたがどれほど一人の魂を惜しまれない方であるのか、
そしてその思いを主と共に握ることの大切さをまた教えて下さったことをありがとうございます。
それぞれが主に応えていくことができるように、なおもあなたが励ましと導きを与えて下さい。
私たちは本当に弱くまた罪深いお互いであるかもしれませんが、
私たちを愛しイエスキリストがあの十字架で御自身の血を促して下さいました。
それによって私たちの罪を許して下さり、それだけではなく三日目に甦えられた復活の命、
永遠の命を私たちに今与えていて下さり、
永遠なる死と死を通しても切り離すことのできないあなたと共に生きる命を与えて下さいました。
こよしっかりしなさい、あなたの罪は許されたとあなたは語っていて下さり、
そしてあなたは二本足で立つのではない、私の恵みによって歩みなさいと、
永遠の恵みの身腕の階段をもって常に私たちを支えていて下さる主がいらっしゃることを覚えて心からありがとうございます。
神様、いつもあなたを仰ぎたいと願いますが、私たちは本当に私も含めて揺らぎやすいものであることを覚えます。
この一時を祝して下さり、御言葉を開き、あなたの光にまた会いまして下さいますようにお願いをいたします。
特にまたここに集いたくても集えないお一人一人がいらっしゃることを覚えています。
ご自宅で礼拝をままだかろうえない方、施設におられる方、心痛み、ここに来れない方々がいらっしゃることを覚えています。
お一人一人をどうか主が帰りに来て下さり、また慰めて下さいますようお願いをいたします。
1月17日には阪神淡路大震災から31年目を迎えました。
私をすすぎ切ることのできない深い痛みの中にいらっしゃるお一人一人のことを覚えています。
どうかその痛みを主が共にいて下さって、どうか慰めを与えて下さいますようにお願いをいたします。
あなたへとこれからの一時を期待をいたします。
どうか主が御言葉を開き、御霊によってその真理を悟らせて下さいますように。
神様のお名前によってお祈りをいたします。
ヨナと生きる使命
アーメン
先日は新年生会の一時、本当に感謝でありました。
鎌野義美先生を通して改めて神様が私たちに宣教の情熱を語ってくださったと思っております。
私自身実は義美先生の話で一番印象に残った一言は、
それでも私たちは生きなければならないという言葉でした。
それでも私たちは生きなければならない。
午前の礼拝の中でおっしゃられた言葉でした。
ヨナは神様の使命から逃げます。
逃げるだけではなくて、もう私の命を取ってくださいと死すらも願います。
しかし神様はヨナを逃がされないのです。
それだけではなく、あらゆる良いものを備えてヨナに生きるようにと、そのように命を与えてくださった。
だから、生きているなら神様の使命があなたにはあるんだという言葉。
これを重たい言葉として受け止めました。
なぜなら鎌野義美先生ご自身が最近お兄様を亡くされたからです。
ご存知の通り鎌野健一さんはつい先日召されました。
8人兄弟の末っ子が鎌野義美先生ですが、兄弟の半分が天に召されたということをおっしゃられていました。
ご自身も現役の教職を引退なさいました。
そのような中でこれからどうしていくのか、まさに簡単なことではない。
その中でそれでも生きなければならないという言葉は、
単なる御言葉のとりつぶを超えて、義美先生の心の中から出てきている言葉だなと思って、私は深く感動を致しました。
歳を重ねてきて私たちはできなくなることが増えます。
病や怪我を負うことも増えるでしょう。
しかしそれでも生きなければならないという言葉は、やはり重たい。
そのように受け止めたいと思っています。
昨日1月17日は阪神淡路大震災から31年を迎えました。
追悼の集いが東遊園地で持たれた、私は中継だけを見ましたけれども、
今なお震災によっておった大きな喪失というのは、31年経ってもすすがれるものではないということを改めて思いました。
命ある者はなおも生きなければならない。
神殿の意義と新しさ
本当に重たいことです。
そしてこれは優しい言葉ではないなと思います。
実はイエス様の時代に少し話を移してもらうならば、
イエス様の時代も実はユデイ人たちは大きな喪失の経験を抱えている民族でした。
それはご存知の通り、南ユダという王国の喪失、彼らは母国を失ったという経験があります。
もっと深く言うならば、彼らは神殿を失ったという痛い記憶を持っています。
それはイエス様が生きた時代から600年ほど前のことですが、
しかしそれは民族からすすがれる痛みではなかったんですね。
南ユダの滅亡は民族の記憶に刻まれた喪失でした。
ですからユデイ人は600年をかけて聖書を研究し、
600年かけて悔い改めて神殿を再建し、
いやこの時は総本に神殿を大改築している時でした。
いわば失ったものを取り戻していく、
その喪失から回復の途上にこの時ユデイ人という民族はあったということを、
私たちはこの歌詞を読む時にまず覚えなければなりません。
しかし今朝、イエス様は驚くことを言われるのです。
2章の19節の言葉、今日の中心主席ですが、
このようなことをイエス様は彼らに言いました。
イエスは彼らに答えられた、この神殿を壊してみなさい、
私は三日目でそれをよみがえらせると言われるのです。
この言葉は実にラディカルです。実に過激です。
神殿を壊してみなさい、冗談でもそんなことを言うもんじゃない、
ユデイ人からしたらそう思うような内容です。
しかしそれはユデイ人の痛みを軽んじているわけではないのです。
私たちは互いにそうですが、目に見えるもので壊れないものはありません。
私たち人間もそうです。
しかしこの荘厳な神殿もいつかは壊れる。
でも神様はイエス・キリストを通し、新しいことを始められた。
それは壊れる神殿ではない、
いや、永遠に壊れることのない、永遠の神殿を確立するのだということを
この場所で神様は始めようとなさっている。
それが私たちにとっても何を意味するのか、
今朝はご一緒にそのことを見ていきたいと願っていますが、
神様はかつてよりも良いものを備えていてくださるということを
今朝はご一緒に覚えたいと願っています。
さて、二つのポイントで今朝の箇所を見ていきますが、
一つまず私たちが覚えたいのは神殿とは何かということです。
神殿とは何なのでしょうか。
少しヨハネの福音書のこの前半の構成をまず思い出しておきたいと思います。
何度かお話ししましたが、ヨハネの福音書のこの1章から2章というのは
背景には創世紀の創造の出来事があるということを以前お話をいたしました。
ヨハネの福音書の1章1節は始めに言葉があった。
しかし創世紀の最初は始めに神が天と地を創造したですね。
そのようにヨハネの1章を、1節を第1日目とするならば、
ヨハネの1章にはその翌日という言葉が3回繰り返され、
そして2章の1節カナの婚礼ではその3日後と言われる。
それは何かというと、2章の1節カナの婚礼というのは創造の出来事の7日目を指している。
いわば創造の出来事の7日目というのは、神様が創造を終えられて休まれる日ですが、
しかし同時にそれは神様が王座に座られて、この世界に神の支配を始められたタイミングなんです。
それと同じように、ヨハネの福音書2章というのはまさに、
神様は今度イエス様を通して新しい支配をこの世界に始められるということを2章から語られるんですね。
2章のカナの婚礼で扱われたのは立法でした。
石の水亀というのは立法の象徴だと少しお話をしましたが、空っぽになっていた立法を
イエス様は満たし立法を成就し、そしてそれを武道士に変えられるというのは
まさにイエスキリストの十字架の父親のことを言っているんだということを少しお話をいたしました。
実はこの2章の最初から4章の後半にかけてまで、
実はこのイエス様によって始まる新しい支配の新しさって何なのということが順に書かれているんです。
立法はイエス様によって新しくなりました。
まさにイエス様の言葉が立法そのものになられたように。
しかし、じゃあ、続く新しさはどこに現れるのか。
また詳しくそれは今後言っていきますが、今朝の2章の13節から扱われるのは神殿です。
イエスキリストはイエスキリストによって神殿が新しくなるということを語っているのです。
神殿が新しくなると言われますけれども、そもそも私たちはまず
エルサレム神殿って一体何なの、どういう意味があるのということをやはり理解しておく必要があるでしょう。
それが最もよくわかるのは、すみません、本論に行く前にちょっと長いですが、
旧約聖書の第一列王記8章というところに、ソロモンが神殿を建てたときに、その法権の祈りが載っています。
神殿法権の祈り、第一列王記の8章の27節から30節というところを読みます。
祈りはすごく長いのですが、ちょっと大事なところだけ押さえて、
第一列王記の8章の27節からというところを読みます。
だいたいここに神殿ってこういうものですよということが書いてあるのです。
旧約聖書の609ページの下の段になりますが、ちょっと読みます。
第一列王記の8章の27節から、
これソロモンの祈りの言葉ですが、
それにしても神は果たして地の上に住まわれるでしょうか。
実に天も天の天もあなたをお入れすることはできません。
ましてや私が建てたこの宮などなおさらのことです。
あなたのしもべの祈りと願いに見顔を向けてください。
私の神主よ、あなたのしもべが今日見舞いに捧げる叫びと祈りを聞いてください。
そしてこの宮、すなわち私の名をそこに置くとあなたが言われたこの場所に、
夜も昼も御目を開き、あなたのしもべがこの場所に向かって捧げる祈りを聞いてください。
あなたのしもべとあなたの民イスラエルがこの場所に向かって捧げる願いを聞いてください。
あなたご自身があなたの見住まいの場所、天においてこれを聞いてください。
聞いてお許しくださいというのです。
ここからわかることはおそらく3つほどあると思います。
1つ、神殿というのは何よりも神の名が置かれるところです。
それが29節に書いてあります。
私の名を置く神殿は神の名が置かれるところです。
そして名前というのは私たち何度も見てますが、
聖書における名前というのは性質や権威を表します。
いわばこれは神様の性質や権威を表すものを神様を置かれる。
神様は天に座しておられるのです。
しかし常に神殿はこの神の名が置かれるところに
神様ご自身が目を注ぎ耳を開いておられる。
神殿の重要性
そしてそのところに神の栄光が満ちるということを私たちは知っていますが、
まさにそこには神様の臨在と呼べるものですね。
臨在がそこに満ちているそのような場所です。
そしてだからこそ2つ目、神殿というのは祈りが聞かれるところなんです。
先ほども申し上げましたが神の名が置かれるところには
神の目と耳は開かれているのです。
ですから人々は神殿に祈ります。
いやむしろこの後のソロモンの長い祈りを見たら
神殿に来て祈るだけじゃなくて
遠くにいる人が神殿に向かって祈る祈りも聞いてください。
もっと言うならば、
遠方人が主よ神殿に向かって祈る祈りすら聞いてくださいとソロモンは祈ります。
それによって世界の全ての人々が神殿に向かって祈るときに
その祈りが聞き届けられ、
ああ神様は生きておられるということがはっきりとわかるために
主よ神殿に向かって祈る祈りをあなたは聞いてくださいとソロモンは祈りました。
今の神殿というのは世界で唯一神様にアクセスできる場所なんです。
そして第三に神殿というのは罪が許される場所なんです。
神殿というものの一番大事な特徴は唯一犠牲が捧げられるところです。
これはイエス様の時代もそうでした。
毎日毎日神殿では動物犠牲が捧げられていたのです。
でもそれはなぜかイスラエルの民と神様との関係が
いつも正常な形で保たれるために
いつも動物犠牲が神殿では捧げられていました。
そのところでのみ民は罪の許しを宣言されることができたのです。
これらはソロモンの神殿の時代の話ですけれども
ご存知の通り神殿は破壊されて
しかし絵づらきにあるように神殿は再建されて
イエス様の時代はその神殿がヘロデ大王によって大改築された
そのような時代でした。
実はそのような600年の歴史を経る中で
神殿の在り方はそういう素晴らしいものだったのですが
しかしイエス様の時代にそれは少し形が変わってしまいました。
どのように変わってしまったのか。
一つは神殿というのは本当はそういう意図は元々なかったのですが
イエス様の時代はユダヤ人とイホウ人を明確に区分する
そのような象徴的な場所になってしまいました。
皆さん神殿の構造って想像できるでしょうか。
真ん中に聖女があってその周りに祭祀の庭があって
その周りにイスラエルの庭というユダヤ人の成人男性が入る庭があって
その周りに婦人の庭があって
その囲いに大きい壁があってその外がイホウ人の庭なんです。
イホウ人たちはこのユダヤ人の領域ですね
婦人の庭にですら一歩でも踏み込んだら即刻殺されます。
そういう決まりです。
いわば神殿はいくえにも仕切られて
私たちユダヤ人とイホウ人は違うということを明確に区分するものになりました。
しかしそれはある種仕方がないかもしれません。
ユダヤ人たちはこの600年の間あらゆる国々に支配をされてきました。
その中で私たちはイホウ人とは違うイスラエルの神を信じる民なんだということを守るために
彼らは自分たちとイホウ人の間に明確な境界点を引いていくんです。
いわくそれは安息日を守るということもそうでしょう。
活霊を受けているか受けていないかもそうでしょう。
食事規定もそうです。
そのような一つ一つを通して私たちはユダヤ人、あなたたちはそうじゃない。
もっと如実な言い方をする。
私たちは救われる神の民であって、あなたたちはそうではない。
そのようなものを仕切ってきました。
神殿というのはその境界線の象徴でありました。
そしてそれだけに限らず神殿というのはもう一つは巨大な、いわば富を収集するシステムになっていました。
世界中に散らばるユダヤ人はこの年に数回の祭りにやってきて神殿に莫大な献金をしていきます。
多くの捧げ物もなされます。
ユダヤ人の成人男性には必ず全員神殿勢というのを書かせられます。
全部、富は神殿に集まるんです。
だからエルサレム神殿というのは当時銀行の役割も果たしました。
しかしその富を享受するのは一部の上級祭司たちだけだったんです。
祭司には上級祭司と下級祭司がいて、
下級祭司は食うも食えぬような貧しい人々だったと言われます。
露華の福音書の一章に出てくるザカリアは下級祭司です。
このような背景を、ちょっと前置きがなくなって申し訳ないんですが、
このような背景の中で、実は今朝のイエス様の宮清めが起きているということを理解しなければならないと思います。
ちょっとお読みしますと、
ヨハネの福音書の2章の13節から、
今日の歌詞をお読みしますが、13節から17節。
さてユダヤ人の杉越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに登られた。
そして宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと座って両替をしている者たちを見て、
細縄で鞭を作って、羊も牛も皆宮から追い出し、両替人の金を減らして、その台を踏み倒し、鳩を売っている者たちに言われた。
それをここから持って行け。私の父の家を商売の家にしてはならない。
弟子たちはあなたの家を思う熱心が私を食い尽くすと書いてあるのを思い起こした。
この宮清目の記事というのは、他の福音書にも書いてあるものです。
イエス様は一体何に怒っているのでしょうか。
私たちはこれを見るときに、これをおそらく違法人の庭でなされていた神殿犠牲の売買だと思います。
でもそこで商売をしていることを叱っている。
そうかもしれません。ただ、その背景にあるのは、神様が臨済するその聖女が富を集約し、人々を疎買するシステムになり下がっている。
いわば神殿が神殿として機能していない。
そのことに対する預言者的な怒りである、私の家を商売の家にしているのは誰なんだ。
それは当時の祭司たちなんですね。
本来の神殿は神の栄光が満ちた場所です。素晴らしい場所です。
全世界の民にとって神殿というのはみんなに関係があるところでした。
しかし神殿はもはや本来の機能を果たす場所ではなくなっていたというのがイエス様の時代なんですね。
では、ここで神様はどのような新しい御業をなされるのか。
イエスの新しい神殿
二つ目のポイント。神様はイエスキリストという新しい神殿を建てられることを決められたのです。
イエス様はそのようなことをなさった後に、人々がこんなことをするからにはどんな印を見せてくれるのかと人々は怒りますが、
そこで言われたのが十九節の言葉です。
イエスは彼らに答えられた。この神殿を壊してみなさい。
私は三日でそれをよみがえらせると言われる。
その神殿をよみがえらせるというのはどういうことなのか。
それは二十一節にヨハネは説明しています。
しかしイエスはご自分の身体という神殿について語られたのであるというのです。
ご自分の身体という神殿について。
いわばイエス様はここでエルサレム神殿、彼らにとっては中心となっているその信仰を集めてそのエルサレム神殿を前にして、
神様は私を新しい神殿になさったんだと宣言するのです。
それがどれほど過激で、どれほど驚くべきことであるか。
しかし私たちはここから、じゃあイエス様が神殿になられたってどういうことなのということを少しちゃんと考えていきたいと思うのです。
イエス様が神殿になられたというのはどういうことなのでしょうか。
これまでのことを振り返るならば、第一に神様の臨在、神様の名というのは神殿に置かれていました。
しかし今や神様の臨在はどこに移ったのでしょうか。
それはイエス様に移ったのです。
イエス様ご自身へと移られました。神殿に置かれた神の名、それは今はイエス様にある。
だからピリポがイエス様に聞きますね。
イエス様、あなたと共に生きているからその道を私たちに見せてくださいって言ったときに、
イエス様は言われますよ。
いやピリポ、ピリポ、こんなに長いこと私といるのに、なんであなたはわからないんだ。
私を見た人は父を見たのですってイエス様は言われますよ。
ヨガネの14章の9節にあります。
私を見た者は父を見ている。
今や神の名、神の臨在はイエス様ご自身のうちにあるんです。
イエス様ご自身のうちにある。
そして第二に、神殿は神の名を通して天におられる父なる神様に祈りは聞かれていましたけれども、
それはどうなったのでしょう。
イエス様は言われました。
私の名によって求めるなら私がそれをしてあげようと。
ヨガネの14章の14節に書いてあります。
いわば今や神の名ではなくイエスキリストの名を通して祈りは天に届けられるようになったのです。
いわばイエス様の名による祈りにこそ、
今父なる神様は目を開き耳を傾けてくださるようになったのですね。
そして第三に、神殿では罪の許しが宣言されました。
しかし私たちは福音書を読んできてわかるでしょう。
イエス様は罪の許しを宣言なさるのです。
それはあの中部に囚われている人たちにあなたの罪は許されたと言って歩かせましたね。
あれを見たとき人々は言いました。
あいつは神か!
でもあれは神殿で本来なされることです。
サラートの人がイエス様に出会って
イエス様が言いました。
あなたの心で清くなります。
でもサラートの人に私の心が清くなれと宣言しました。
あれも本来神殿でなされることです。
しかしイエス様がそれを全部なさるのです。
そして今や大事なことは
イエスキリストによってそのような神殿の本質が移っただけではなく
イエス様によってこれまでの神殿にあった課題が解消されていきます。
壁の打破と信仰の変化
一つはイエスキリストによって隔ての壁は打ち壊されたです。
エペソビという手紙に書いてあることを私たちはよく知っているでしょう。
あの壁もまさに違法人とユダヤ人を隔てる壁としてエペソ書も書いています。
そしてあそこで書かれている壁というのはまさにさっき言ったエルサレム神殿の壁のことを言っているのです。
象徴となっていたあの壁が今やイエスキリストによって完全に砕かれた。
神殿が壊れても三日目で建て直すというのはまさに十字架の死と三日目の復活のことでしょう。
みよ世の罪を取り除く神の子羊とヨハネは言いましたけれども、
まさに巫女イエス様がたった一度の完全な犠牲となって永遠の贖いを成し遂げられたとヘブル書は語りますね。
もはや神殿で犠牲獣を捧げたから罪を許されるのではなくなったんです。
ヨハネの福音書の3章に書いてある通り、
十字架の上に挙げられたイエスキリストを仰ぎ信じる者だけが、
罪を許され永遠の命を持つ者となるのだということがヨハネの3章の14節に書いてあります。
まさに神殿なんですよ。
全部をイエス様がそれを引き受けてなされた。
そしてこれまで先ほども申し上げました。
聖女にはこれまでは妻子しか入りません。
ユデイ人の妻子だけです。
イエスによる新しさ
しかし今やイエスキリストの十字架のときに聖女の幕は真っ二つに裂かれました。
違法人、またイエス様が関わられた罪人や貧しい人たちもなかなかユデイ人コミュニティには入れない。
街道には入れない。
しかしその人々が誰でも、そしてどこにいても、
隔てなく大胆に父なる神様に近づくことができるようになった。
隔てはすべて切り裂かれた。
ですからヘブル書の著者はこう書きました。
全く信仰によって真心から神に近づこうではありませんか。
私たちの前にはもはや神の前に隔てはない。
だから神に近づこうではありませんかと語りました。
いわばこれがパウロが語るようにすべてが新しくなったということの意味です。
すべてが新しくなった。
私たちは思います。
実はこの新しさというのは、実は私たちがすでに当たり前のように享受しているものばかりなんです。
でも言ってしまえばですか。
私たちは当たり前のように聖書の御言葉を通し神の声を聞き、神に出会いますよ。
私たちは当たり前のようにイエスキリストの皆によって神様に祈っています。
私たちは日本人だから神様の救いから省かれているなんてことは一回も聞いたことないでしょう。
当たり前のように罪人でも神に近づくことが許されていると私たちは知っています。
しかしこの歌詞を改めて読みながら、すべてが当たり前ではない。
これはイエス様によって私たちにもたらされた新しさなんですね。
今朝ここまで読みながらもう終わりますが、私たちが改めて今朝覚えたいことは、
この当たり前の恵みの豊かさをいつも確認しなければならないということです。
当たり前ではないのです。
聖女の意義
第一列王旗のソロモンの祈りから考えるならば、
イエスキリストの名によって祈るとき、それは天上にいらっしゃる神様の眼差しは
その祈る人に、そしてその耳はその祈る声に確かに向けられているということです。
その事実を私たちはどれほど知っているでしょうか。
聖書を開くその場所で私たちは神の臨在に出会いました。
神が言葉を語られるというその事実はまさに神殿。
しかしそこで私たちは神の言葉を聞き、罪の許しを得ることができる。
その厳かさと重さを私たちは知っているでしょうか。
聖書がそこで開かれているんですよ。
そして今や既に、清い清い神の子羊が永遠の贖いとなられたからこそ、
どんな罪も清められます。
違法人であろうとも、どんな人間であろうとも、どんな人をも清められ、
大胆に神に近づくことができるようになったという贖いの確かさを私たちは知っていますか。
私たちは自分の信仰の確かさでそれを測るんです。
違いますよ。
イエス・キリストの贖いが確かだから、私たちはいつでも神に近づくことができるんです。
ヨハネの福音書の4章、また今度見ますけれども、
ヨハネの福音書4章ではイエス様はサマリアの女性に言われましたね。
もはやエルサレムでもない、この山でもない、
父を礼拝する者が霊と誠によって礼拝する時代が来ますよと。
今がその時ですとイエス様は言われました。
まさに新しさが始まっているのです。
なぜなら、イエス様が神殿となられたからです。
イエス様が神殿となられた。
私たちは教会堂にいる時だけではないのです。
先ほども申し上げました、危機はいつでも襲ってきます。
伝道者の書を読むときに、明日はどうなるかわからないということがずっと書いてあります。
その通りでしょう。
しかし日々ある危機のその場所において、
私たちの歩みのそのものが神の臨済に包まれている聖女となっているという事実を、
私たちはどれほど知っているでしょうか。
私たちがクリスチャンであるというのは、
それほどまでに豊かで、そして確かな、圧倒的な神様の臨済と恵みの中に生きているということです。
最初に申し上げました。
それでも生きなければならないんですよ。
重たい、そして優しい言葉ではないかもしれません。
しかし私たちが生きる歩みは一人ではない。
イエス様がおられる。
そしてイエス様が共におられるということは、
その場所は神の聖女であるということです。
主の臨済の高さの中で、私たちはなおも生きるように招かれている。
だからこそ、私たちはそこに励まされながら、
互いにそれでも生きていきたい。
主の使命に応えるものとならせていただきたいのです。
お祈りをいたします。
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