イエスの祈りの家への怒り
それでは、お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、私たち一人一人を主が今朝も招いてくださり、あなたを奥義礼拝を共に捧げられる幸いを心から感謝をいたします。
この日々が当たり前のものではなく、主が恵みをもって備えてくださっている日々であることを改めて覚えております。
あなたは私たちを限りなく愛し抜いてくださり、私たちのために御子イエス様を捧げてくださり、その流された血潮により私たちの罪を完全に許し、神の子とし、よみがえりの命、復活の命、それは永遠なる人と共に繋がり生きる永遠の命を私たちに与えてくださり、
あなたの恵みによって生き、あなたと共に御国を建てるというその新たな命へと私たちを生かしてくださっていることを覚えてありがとうございます。
神様、本当になぜですかと思うことが多く起きるようなそのさなかにあって、しかし、あなたの永遠の階段はいつも私たちの下にあると、私たちは倒れるけれども倒りきることのないという、あなたの恵みによって支えられながら今があることを覚えてありがとうございます。
神様どうか、私たちに変わらないお方へと繋がる信仰を与えてください。今朝も生けるあなたを仰がしてください。あなたの命の言葉によって私たちに光を照らしてください。そして私たちを砕き、御霊によって私たちを導いてください。お願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人がいることを覚えます。施設におられる方、ご自宅で礼拝を守らざるを得ない方、心を痛めてここに来れない方、どうか主が変わらない愛を注いでおられます。お一人一人に臨んでくださり、あなたが支えを与えてくださいますように。お願いいたします。
これからの時を見てに委ねます。主が御言葉を開き、私たちに語ってください。イエス様のお名前によってお祈りを致します。アーメン。
今朝で2024年度の礼拝が最後となります。皆様とご一緒に主を礼拝する日々が支えられてきていることを本当に感謝を致します。
これは別に特別に何かというわけではなくて常々思っているんですね。私たちが毎週集うことができるのは当たり前のことではないのです。
それは様々なものの支えであったり、いやそれは主の恵みが私たちをこの世に生かし支えてくださっているから、この世に集う、交わりを持つ礼拝の日々が与えられている。
主の恵みがある今を私たちは感謝をしつつ、共に日々を歩んでいきたいなと改めて思わされるのです。
さて今朝お開きいただいた箇所は21章の12節からを読んでいただきましたが、一般的にはこれは三役嫁と呼ばれるそのような聖書の箇所です。
この21章の前の1節から11節というところには一読してお分かりの通りイエス様がエルサレムの都に入城されていくというシーンが描かれています。
群衆は自分の上着をイエス様が歩かれる道に引いて、これは王様に対する敬意と服従の表現なんですね。
それを引いて人々は穂様と歓声を上げながらイエス様はエルサレムに向かいました。
その光景はまさに誠の王様が都に帰ってきたという光景ですね。
誠の王イエス様がまさにご自身の家、神の家、エルサレムへと帰ってこられたそのような光景です。
そしてまさにマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書が共通して書くのは、イエス様がエルサレムに帰られてから即座に行われたのがこの宮清だということです。
いわばそれは帰ってきた王様が驚いて怒るというシーンなんですね。イエス様は珍しくここで激しい怒りを表されます。
神殿は神様を礼拝するところですよね。ところが帰ってみたらそこは強盗の巣になっていたと王は怒るわけです。
神様を礼拝する場所がそんな場所であるわけがないという怒りですね。
ここは祈りの家であったはずだという怒りがここに込められています。
このイエス様の怒りというのはまさに、礼拝の場である神殿、それが祈りの家であるということの大切さをよく知っているがゆえの怒りですね。
私の家は祈りの家であると。それは今日で言うならばおそらく私たちで言うと教会というところでしょうし、またそれは屋主の宮にされている私たち一人一人のことだとも言えるかもしれません。
ファーロがコリント書であなた方は自分が神の宮であり自分の家に住んでいることを知らないのですかと語りますけれども、その通り。
教会という場所が、そして私たちが祈りの家であるということの大切さ。
イエス様はそのことをよくご存知です。
ソロモンの神殿奉献の祈り
ではこの祈りの家とはどういうことなんでしょうか。
今朝は12節から読んでいただきましたが、祈りの家って何なのかということに焦点を絞りながら少しお話をさせていただきたいと思っています。
教会が私たちが祈りの家であるとはどういうことなのか。
二つのポイントでお話をします。
第一のポイントそれは、祈りの家とは神様との交わりに生きるということです。
祈りの家とは神様との交わりに生きる。
そもそも人間はそういうふうに想像されています。
今朝の箇所、イエス様がエルサレムの神殿で言われた言葉を読んでいただきましたが、13節の言葉ですね。
イエス様は神殿で様々な商売の道具をひっくり返した後にこう言われるのです。
私の家は祈りの家と呼ばれると書いてある。
それなのにお前たちはそれを強盗の巣にしているという言葉です。
この書いてあるとイエス様が言われるのはどこに書いてあるかと言いますと、これはイザヤ書の56章の7節の言葉です。
後でこの箇所は少し詳しく見ますが、はっきりとここは祈りの家だと書いてあるんですね。
ただもうちょっと遡りまして、エルサレム神殿がそもそも祈りの家だと呼ばれる由縁になったのはなぜかと言いますと、
さざいようもなく明らかにそれはソロモンが祈った神殿法権の祈りにさかのぼれると思います。
第一列王旗の8章の22節から53節というところ、申し訳ないんですがお開きいただけるでしょうか。
旧約聖書の第一列王旗の8章の22節からというところにソロモンの初めて神殿が建ったときにソロモンが祈った長い祈りが載っています。
旧約聖書新観約2017で言えば609ページの上の段です。旧約聖書609ページの上の段です。
ご存知のようにエルサレム神殿を建設したのはダビデの息子ソロモンですけれども、神殿の建設が終わった後にエルサレム神殿の中には神様の栄光があふれるんです。
建物の中に主の栄光が満ちあふれる。8章の11節というところにはそのことが書いています。
祭司たちはその雲のために立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。神殿という場所がまさに主の臨在の場所、主の栄光が満ちあふれる場所になった。
だからこそ主よと、この神殿という場所がこういう場所になりますようにという願いを込めて祈られたのが、この22節からの祈りです。
祈られている内容を全部読むと長いのですが、大別して2つです。前半と後半に分かれますが、1つ目は22節から26節に変えてますが、
第一にこのソロモンの祈りが祈っているのは、ダビデの子孫が主の御前を歩む時、主が祝福を与え続けてくださいという祈りなんです。主が祝福を与え続けてくださいと。
根幹の祈りですね。
23節のところに、
イスラエルの神主よ、上は天、下は地にも、あなたのような神は他にありません。
あなたは心を尽くして御前に歩むあなたの子供達に対し、契約と恵みを守られる方ですと彼は祈ります。
最近、祈祷会で神言も見てますが、知恵が与えられたソロモンは、私たちを生かすのは主の恵み、主の祝福であるということを彼はよく知っているんですね。
お開きしなくて結構ですが、神言の10章の22節というところには、
人を富ませるのは主の祝福。
人の苦労は何も増し加えないという言葉がございます。
人を富ませるのは主の祝福であると。
私たちは昨年の秋もその前の秋も旧約聖書を見ていますが、
長いイスラエルの国も、あれの歩いたイスラエルの民族も、
いや、遡ってフソ・アブラハムなあの時代から共通するのは、
人間は無力であるけれども、無力な人間の力となり、盾となり、時に食い改めの棘となり、
けれども、そのような私たちを、なおも日々の祝福を与え、
安息に導かれたのは、祝福を惜しまれることのない神様によるということを、
彼らはずっと見てきているんですよ。
それが基準になっていました。
私と私の家とは主につくとヨシハは言いましたけれども、
この方から離れてはならないということを、彼は最後まで語りました。
ソロモンはまず、私たちに、なおもこの神殿であなたに使い続ける私たちに、
なおもあなたの祝福を注ぎ続けてくださいと祈る。
それは、私たち主の身や祝福の家に集う私たちは何でもない、
主の祝福によって私たちは生きるということを彼は知っているからです。
私たちが生きるのは主の祝福によって生きる。
そしてもう一つ、この神殿奉献の祈りの後半に書いてありますのは、
27節から最後の53節まで大まかに書いています。
それは、神殿という場が祈りの場となり、
祈りの場としての神殿の重要性
そこで捧げる様々な祈りを聞いてくださいということが27節以上以降書いてあります。
順に見ていただいてお分かりになるかもしれませんけれども、
ここでソロモンは私がこういう時にこういう祈りをしたら聞いてくださいということをずっと並べるんです。
数えると7つぐらいあります。
例えば一つ、隣人に対して私が罪を犯した時、主を祈る時聞いてください。
主に対して罪を犯したが故に敵に敗れた時に、主を祈りを聞いてください。
私の罪のために作物の雨が止められた時に、主を祈りを聞いてください。
災害が起こった時に、主を祈りを聞いてください。
違法人もまたあなたを求めて祈ったならば、その祈りを聞いてください。
敵と戦う前に民があなたに祈る時に、その祈りを聞いてください。
補修となってしまった時に、主を祈りを聞いてください。
しかしこの箇所を見ていくときに、祈りを聞いてくださいというだけではなくて、興味深いのは30節をご覧になっていただきたいと思います。
30節を読みます。
あなたのしもべとあなたの民イスラエルがこの場所に向かって捧げる願いを聞いてください。
あなたご自身があなたの見住まいの場所、天においてこれを聞いてください。聞いてお許しくださいと彼は言うんです。
聞いてお許しください。
これらの祈りはどちらかというと悔い改めの祈りのような祈り。
そして許してくださいという言葉が実はいくつか出てくるんです。
知者であるソロモンは、人間の現実というものを誰よりも知っていた人でしょう。
8章の46節というところにこういう言葉があるんですね。
8章の46節。
罪に陥らない人は一人もいませんという言葉があります。
これは補修のために祈る祈りになっていますが、
しかし罪に陥らない人は一人もいませんという言葉がソロモンが言うんです。
罪に陥らない人は一人もいません。
罪というのは様々な表現ができますが、
罪というのは神様と違う方向を向くことです。
簡単に言うならば。
罪というのは神様と違う方向を向くことです。
ソロモンは私たちは互いに例外なくいつでも神様と違う方向を向いてしまう時があるよということです。
それは例外なく誰でもです。私もそうです。
だからこそいつも主を神殿に赴き、もしくは神殿に赴けないならば、
神殿の方向を向いてでも神に祈る時に祈りを聞いてくださいと彼はここで言うんです。
あなたの罪が許され、あなたの方向、私たちの方向が何度も何度もこの神様の方向へと照準を合わせることができるように、
どうか神殿で私たちがあなたに向かって許しを乞うと祈る時に、あなたはその祈りを必ず聞いてくださいと彼は言うんですね。
なぜなら私たちは主の方向を向かなければどうしようもないことが多いからです。
神との交わり
これらの神殿法権の二つの祈りの特徴というかポイントを見ながら、
ソロモンがこの祈りを通して大事にしていることが何かがよくわかります。
それは一言で言うと、神様との交わりです。主との交わりです。
私たちは神様との愛の交わりに生きる存在として創造された。
そのように創世記は語りますけれども、そのようなものであることは今も変わらない、この時も変わらない。
私たちは主の祝福によっていき、主の方向に向く存在なんだ。
これは創世の時代から変わりません。神殿が強盗の巣になってしまったということをイエス様は嘆かれました。
でも確かにそうなんです。私たちは主の祝福によって私は満たされるんだという事実が時にわからなくなるときに、
私たちが満たそうとするのは他者から奪うことによって満たそうとする。
私たちが主の祝福や主の愛によって満たされるということがわからなくなるときに、私たちを満たすものは人の評価になっていくんですね。
でもそんな強盗のような生き方に私たちは召されていないんですよ。
私たちを満たす、私たちを生かすのは主の祝福である。
そしてそれを知りながら私たちは何度も何度も過ちを繰り返すのだけれども、神殿に向かって名をも祈りなさいと招かれるんですよ。
神殿に向かって名をも祈りなさい。神殿に置かれる神の名、ここを読んでいただいたらよくわかりますが、神殿に神様が集まれるというか、神殿には神の名が置かれるんです。
だから神の名を通して祈りを聞いてくださいというふうにこの箇所では書いてあるんですが、まさに神殿に置かれる神の名を通し、父なる神に聞いていただきなさい。
あなたの罪は神が豊かに許してくださる。あなたの方向を再び神ご自身に向けなさいということを私たちは絶えず招かれるんですね。
教会が私たちが祈りの家なんですよと言われるとき、それは私たちはそういうものにされているんだということです。
あなたを生かすのは神様との交わりですよと。自らを満たすためにもはや他人の評価に左右されなくてもいいんですよ。誰かから奪わなくてもいいんですよ。
神があなたを愛し、あなたを祝福されるその祝福によってあなたは生きたらいいんですよと私たちは招かれる。
私たちは知っています。主は受けるよりも与えるものが幸いだと言われますが、何で与えることができるのか。主の祝福を受けているから私たちは与えることができる。
神の恵みと正義
教会が素晴らしいのは強盗が与えるものに変えられるんですよ。何かから奪わないと自分は満たされないと思っている私たちが、神様というお方に満たされて与えるものに変えられるという恵みが祈りの家にはあるんですね。
時に私たちに思いもよらないことが起きます。最近いくつか起きました。その時に私自身も実感いたしますが、私の土台というのは案外脆いです。すぐ揺れますね。大丈夫だ。主を信じていると言いながらでも簡単に揺れ動く私たち。
神様の方を向けない時が互いにあります。しかし私たちは忘れてはならない。神殿は開かれているんですよ。それは今やイエス・キリストの名によって祈りなさいと言われる私たちは、どこにおいても天の窓は開かれているんです。
だからこそ今私は主から違う方向を向いているなという時に、いつもそこで主に祈れと招かれるんですよ。豊かに主の許しがそこにはあるんだからと。何度も何度も主に許されながら揺らぎながらけれども、再びこの方の前に立つ歩みを私たちは取り戻し続けて歩んでいく。そういうお互いです。失敗はするんですよ。失敗もするし方向もずれるんです。
私もそうです。でもその度にやはり主に戻っていく。その中で私たちは主の豊かさ、主の愛の深さを知っていくのではないでしょうか。なぜなら何度も申し上げます。創世紀のあの時から人間という存在は神様との愛の交わりで生きるものとして想像されているからです。
人間はそういう存在なんですよ。そこから離れると何かが歯車が狂っていくような気がいたします。さてもう一つのポイントを見て終わりたいと思いますが、祈りの家は主との交わりと申し上げましたが、もう一つ、祈りの家で主は私たちを楽しませてくださるということをもう覚えておきたいと思います。
先ほど少し飛ばしましたが、イザヤ書の56章を少しお開きいただけるでしょうか。イエス様が引用された言葉は、イザヤ書56章の7節ですね。
確かにそう書いてあります。7節。
私の聖なる山にこさせて、私の祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全生の捧げ物や生贄は私の祭壇の上で受け入れられる。なぜなら私の家はあらゆる民の祈りの家と呼ばれるからです。と書いてあります。
少し私も目が止まりますのは7節の前半です。私の聖なる山にこさせて、私の祈りの家で彼らを楽しませるとここで書いてあるのですね。
この祈りの家で楽しませるというのは一体どういうことなんでしょうか。ちょっとこの文脈を見なきゃいけないような気がいたしますが、
イザヤ書56章というのは、これはイスラエルの民が保守から帰ってくる直前に語られた言葉です。帰ってくるあなた方に対して神様が持っておられるビジョンを語られたのが、56章から66章というところです。
で、その最初一節に何が書いているかというと、56章の一節、主はこう言われる。
公正を守り、正義を行え、私の救いが来るのは近いからだ。私の義が現れるのもという言葉がありますね。
神様ご自身の義によって、これからあなたに救いが実現するのだから、あなたも私の正義に生きなさいということがこの一節で書いてあるわけです。
じゃあ神様の正義に生きるということはどういうことなのかというと、難しいことじゃないんです。
イザヤ書には3つのことが書いてあります。
イザヤ書に書いてあることは、一つは56章の2節から8節、先日目で言いますけれども、主を礼拝する安息日を守りなさいということが書いてあったり、
もしくは57章の15節から書いてありますが、主の前に自らが心を砕かれ、へり下りなさいということが書いてあったり、
そして58章の6節から7節にもありますが、苦しんでいる人々に憐れみを施しなさいという言葉が書いてある。
正義というのは、主を礼拝し、主の前に心を砕かれ、弱者に対して愛を表しなさい。
でもこれは私たちは新約聖書で聞いている言葉ですね。
イエス様が立法の中で一番大事なのは何かと言われたら、それは神を愛し自分自身を愛するように隣人を愛しなさいとイエス様は言われます。
そしてパウロはそれは言葉を変えて、神の正義というものは、今や聖霊様が私たちの一人一人のうちに身を結んでくださるその御霊の身なんだということを語りますね。
ガラティア書の5章に書いてあります。パラパラ言って申し訳ないんですけど。
神様という方はこういうところを見てもよくわかりますが、神様は補修から、いいえ、人間を罪から解放された私たちに対して、神様は御自身の正義の身を結ばれようとされるんですよ。
そしてそれは、今や祈りの家、神様との交わりを通して、聖霊様が身を結ばれていくわけですよね。
いざや書の書いてある、祈りの家で私はあなたを楽しませるというのはまさにそことつながっているんだと思います。
いわば私たちの中に身が結ばれていくということです。
身が結ばれると聞きますと、私たちは何か宣教の結果が結実するみたいな意味でよく理解をしますけれども、
祈りの家の意義
私自身ある意味それ以上に大事だなと思いますのは、私たちの中に、そして教会の私たちの中に、
イエス・キリストの身姿、イエス様というお方の身、愛・喜び・平安・寛容と言われるような、そのようなイエス様の中に結実していた身が、私たちの中に結ばれていくことですね。
具体的に言えば、まさに神様との交わりを通し、自分自身の罪、自分自身の虚しさを知り、砕かれながら、しかし大事なことは、その欠けをすべて負うような主の豊かな愛、
許し、私を喜んでいるという、その主の私に対する喜び、それを知りながら感動し、解き放たれ、自由にされて、その身を生きていくということですよ。
それは見た目の身ですから、神様が私たちを作り変えてくださる。だから、祈りの家に集う私たちは決して失望はしない。主に出会い、主の祝福によって、祈りの家で人は新しくされる。
それこそが主が私たちに与えてくださる楽しみなんですよ。主は人を新しくされるお方です。教会がいろいろ楽しいことをやったらいいんですよ。楽しいことをやったらいいんだけれども、私たちは本当に人と共に生きていく中で得られる楽しみって何なのか。
それは人が新しく作り変えられていくことですよ。それは私自身がもっと自由になって、神様素晴らしいということがわかるようになっていくこと、あの人の目がイエス様素晴らしいと輝くこと。でもそれが教会の楽しみではないでしょうか。
私、つくづく思わされるのは、宮谷教会は本当に素晴らしいなと思うのは、教会の危機の時に、宮谷教会はいつも勇士の方々が教会に集い、祈ってそれを切り抜けてきたという話を聞きます。私これ本当にすごいことだなと思うんですよ。本当にすごいことですね。
私たちが今あるのは、そういう名もなき祈り手に支えられて、今私たちはあるんですよね。そういう時に私たちがでも、危機の時にでもやっぱり集って祈ろうって言えるのはなぜなのか。それは主の祝福によって私たちは立つんだということを信じているからですよね。主にいつも帰っていくことが大切なんだということを私たちは知っているからですよね。
そして主によって、人は私は何度でも新しくされることができるんだという神様に対する希望が尽きないからですよね。私たちはしっかり覚えなければならない、そのような祈りがあるから私たちは今あるんですよ。そしてそれはやっぱり今後も大事にしなきゃいけないことではないでしょうか。
今朝は祈りの家という言葉に目を向けましたが、イエス様は変わらず今も私たちに語りかけられるのです。私の家は祈りの家と呼ばれる。私の家は祈りの家と呼ばれる。
私たちは他の何かがいろんなものに満たされたらいいんですが、けれどもこのお方の祝福によって私は生きるんだ。このお方の前に私は立って生きていくんだというような、そのような歩みが改めて私たち祈りの家になりなさいと招かれているような気がいたします。
どうか主の御前に、私も含めてそうですけれども、そのところにひざまずかせて祈らせていただきたいと思うのです。一言お祈りをしてメッセージを終わります。