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みなさん、おはようございます。
今日も礼拝にようこそいらっしゃいました。感謝いたします。
今日は、みなさんご存知のように、とても嬉しい日です。
田中幸太兄弟が、イエス・キリストを救い主として信じて、神様を唯一の神として信じ、受け入れて、また信仰を決心させて、洗礼を受けられる日です。
一番喜んでおられるのは、わたしたちの神様でしょう。
そして、その次はご本人、あるいは家族の方々だろうと思います。
もちろん、兄弟の姉妹のみなさん方も、喜んでおられるに違いないと思います。
おそらく、奥様の西子姉妹は、数十年の間でしょうか、ご主人の救いのために長年、祈っておられたことでしょう。
このようにしてですね、神様は、わたしたち人間の人知恵をほのかに超えた見業をなしてくださるんですね。
また、その時と道を備えてくださるんですね。
本当に、何から何まで全ては、神様が勝ったことであります。
ご病気を通じて、神様は低くしてくださって、そして、神様を認めるように、受け入れることができるように、主は導いてくださいました。
すべては、神様の精霊の見合わせであると信じております。
今日は、そういった千年式も、礼拝の中で行われますので、
ヨハネの福音書の公開シリーズではありますけれども、本文をちょっと変えて、
今日の十四章の一節から、六節を本文にして、
私が道であり、真理であり、命なのです。
という題にして、共に恵みをお受けしたいと思います。
ヨハネの福音書十三章、十四章は、
イエス様が十字架に架かられて死なれる前に、弟子たちと最後の大事な時を過ごされていました。
最後の晩餐もあったり、あるいは、イエス様がシオマベとなられてお疲れになって、弟子たちの足も洗ってあげたり、そういうことがありました。
その中でイエス様は弟子たちに、今まで何度もイエス様が言われましたけれども、
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十字架で死ぬこと、そして葬られること、よみがえて神の右の座に帰ることを何回イエス様は言われました。
そういう話を聞いていた弟子たちは、今日の一節からわかるように、心を騒がしていたんですね。
心配していたことでしょう。どうしよう、どうしよう、慌てていたかもしれない。
イエス様は3年近く一緒に殿堂をして、寝食を一緒にして過ごしてきたこの弟子たちを、この地上に置いておいて、神の右の座に帰ることを言われました。
皆さんがそこにいた弟子だったら、どんな気持ちになったと思いますか。
イエス様のお話を、もちろん今まで何回か聞きましたけれども、
この今日の十四書においては、そのイエス様のお話を聞いていた弟子たちは、
寂しい気持ちでもうどうしようもない。
あるいは、辛い。あるいは、またその過ぎた3年近くの間、イエス様と一緒にしたいろんな思い出というか、いろんなことが思い浮かんだのではないでしょうか。
もしですね、私がペテロだったら、一番最初にイエス様に出会ったことか、一番先に思い浮かぶかもしれない。
夜どうし、魚一匹も釣れなかった。
夜明けにイエス様が来られて、漕ぎ出しなさい、そして網を下ろしなさいと、いっぱいたくさん釣れた。
あるいは、自分は水の上を、湖ですけどね、上を歩いて溺れたこと。
あるいは海外でイエス様に、あなたはイケる神のキリストですと告白して、イエス様に褒められたことなどなどを思い浮かんだことでしょう。
他の弟子たちもそうだと思うんですね。
そして何より弟子たちはですね、何より彼らは自分自身たちのことをよく知っているわけですから、
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自分たちにはイエス様がいらっしゃらなくと、実は何にもできないこと、本当に弱くて、もうよく失敗して、
イエス様が語られる御言葉を時には全然理解できずにいた自分たちのこと、
それでも全然食い違った質問をしたり答えをしていた自分たちのことを何よりも自分たちがよく知っているわけなんですよね。
そんな自分たちが残されて、イエス様が手にかえられる、イエス様がいなかったらどうしよう、それで心を騒がしていた。
そしたらイエス様がいなくなったら誰を頼りにするんだろうとね、そういう気持ちだったんですよね。
だからその中でイエス様が、今日は見ていないんですけれども、確か言ったら神様が助け主、聖霊様を送ってくださるんですよ、心配することはないんですよと慰めてくださいました。
今日はその中でイエス様がそういうふうに心配してどうしようとね、心を騒がしていた弟子たちに何と語ってくださったんでしょうか。
イエス様はですね、そんな不安に感じている弟子たちにですね、イエス様が、だがせ信じろとね、教養したイエス様ではないんです。
イエス様は誰よりそのような気持ちでいる弟子たちの心をよく知っておられました。
もちろんイエス様も弟子たちがよく失敗したり、自分の話を全然理解できずにいるその弟子たちのことを悲しんでおられたことでしょうけれども、
そういった弟子たちを最後まで見捨てないで、愛して、大切にして、ここまでちっぱて導いてきてくださったんですね。
だから御言葉にあるように、決して孤児には見捨てないと語ってください。
そんな弟子たちの気持ちをよく知って、察しておられたイエス様は、徒歩に暮れているような弟子たちのことをために、希望のメッセージ、約束のメッセージを語ってくださいました。
ただ、教養する信仰ではないんですね。
まず彼らの不安や心配を切実に憐んでくださいました。
こういうイエス様のお気持ちを、日本語の聖書はあわれんだとか、そういう言葉で訳していますけれども、英語はコンパッションというんですね。
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そのコンパッションという言葉は、もともと苦しみを一緒にするという意味なんです。
だからイエス様は、他の方でも出てきますけれども、弟子たちのこと、あるいは弱っている人々のことをただ単に同情するだけではなく、
その人の気持ちになって、心の底から一緒になって悲しんであげることがコンパッションであって、イエス様のお気持ち。
またそれの意味は、相手の悲しみとか、あるいは不安とか、あるいは苦しみとか、あるいは不遇の状況に同情して、共感して、その上に何とかしてやりたいという思いと行いがイエス様のあわれにということなんです。
ただ大変ですね、大変ですね、それだけではない。
そういうイエス様のお気持ちを持って、二節、三節を語ってください。
ちょっと長いですけれども、今日大事なところですから、二節と三節を一緒に読みたいと思います。
私の父の家には住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなた方に行っておいたでしょう。あなた方のために私は場所を備えに行くのです。
私が行って、あなた方に場所を備えたら、またしてあなた方を私のもとに迎えます。私のいるところにあなた方もおらせるためです。アーメン。
皆さん、この言葉を読みながら、弟子たちの心を察して、知っていて、コンパクトにしてください。イエス様の心と言いましょうか、姿勢と言いましょうか、ことを知りたい。
イエス様は父の家には住まいがたくさんありますよ。
そして私はあなた方のためにその場所をね、私が先に行って備えに行くんですよ。それでまたもう一度帰ってきて、私とみんな一緒にその備えの場所に行くためなんですよ、という希望と約束のお言葉を語ってくださりました。
どういうことでしょうか。私は完全にあなた方を知っているわけではないんですよ。完全にそれならではない。私はあなた方を愛して、責任を負って、そしてあの神のところに住まいがたくさんある、それをあなた方のために備えて、そのために行くんですよ、という希望に満ちた約束を語ります。
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その後の5節のトマスのお話を見てみたりすると、私たちがこの時点でイエス様のこのお話を100%理解できたわけではないと思いますけれども、
でもこのイエス様の2節3節のこのお言葉は、心を騒がしていて不安に思っていた彼らに本当に大きな大きな希望と望みになったことには違いないと思います。
ではその後で一つ、このイエス様の姿を見姿を模範にしたいと思うんですね。私たちが一つお互いに気をつけて注意していただきたいことがあるならば、それは私たちが信仰生活を熱心にして、熱心に前に向いて走り続けていっていくうちに、
今日のようなイエス様が抱いておられた、そういった心を失いがちだと思うんですね。
例えば車に乗って60キロ、100キロ走っていたら、目に見えないものがたくさんあります。
同じ道路であっても、そこを歩いて行ってみたら、草も見えてくる。小さい石も見えてくる。虫も見えてくる。緑の香りも食うことができる。
イエス様が弱い人々、あるいは不安に思っている人々、あるいは私みたいによく失敗している人々のことをコンパッションしてください。
つまり、その人の気持ちになって、心の底から一緒になって、悲しんであげた。一緒に苦しんで下さった。
そのことを私たちは、熱心に熱心にやっていくうちに、忘れがちじゃないかなと思います。
キリスト教は無理やりに、行け行け、信じろ信じろという宗教ではありません。
イエス様が弟子たちに、あるいは他の人々に、この前も見たようにマリアと一緒に泣いてくださるんですね。
そういったイエス様のように、彼らの弱さを控えしてあげること。
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同情して、そして一緒に悲しんで、一緒に苦しんで、一緒に心配して、そして彼らを導く。これがキリスト教なんです。
だからイエス様が、この世は与えることのできない平安を、私があなた方に与えると、その平安こそ、イエス様のような気持ちの、心の平安ではないでしょうか。
今日のクリスチャンの方々、特にこの日本の皆さんのようなクリスチャンの方々は、ニシンジャの人々と全く同じく仕事もしなければならない。
お家で家事もしなければならない。その中で信仰生活の奉仕も献金もしなければならない。
決して容易なことではない。そんな中でイエス様がこの抱いてられたコンパッション、切実に憐れんでくださるこのこと。
私たちクリスチャンがお互いに、お互いのことをイエス様がそうなさったように、同情してあげて、帰りにいてあげて、助けてあげて、泣く者と共に泣くクリスチャンでありたい。
喜ぶ者と共に喜ぶクリスチャンでありたい。苦しむ者と共に苦しむクリスチャンでありたい。
つきそって一緒に行くことこそ、十字架の愛ではない。
皆さんもよくご存知のイソップのお話がありますよね。
人の上着を脱がせることができるのは何ですか?
強い風ではなく、あったかい太陽なんですね。
良い教訓ではないかと思いますけれどもね。
イエス様の心は騒がして、どうしようどうしよう、不安で不安で、たまらない彼らに心配することはない。
私帰ってきますからね。
天にはあなた方のお住まいをたくさん備えるために行くんですよ、と希望と約束の言葉をくださって、真実を語ると同時に彼らを慰めて、希望を与えてくださる。
次にこのイエス様が語ってくださった二説、三説から教えられることを二つ絞ってお話をまたしたいと思います。
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まず一つは、イエス様は必ず再び来られるということである。
皆さんイエス様は今はどこにおられますか?
神の右の座になっておられます。
私たちが神道で毎日告白しているんですね。
天に登られました。そして全能の父なる神の右になっておられます。
そこから来られて生きているものと死んでいるものを裁かれます。
皆さん信じますよね。
信じて告白しているわけなんです。
イエス様は五つの福音書を見ますと、数え切れないほどたくさんのところに繰り返して繰り返して話されました。
私は書いてくる。また来ると。
キリスト教の歴史観は、いわゆるぐるぐるぐる回る輪回りの歴史観ではない。
個人の人生歴史もそうですし、人類の歴史もそうです。
始めがあり終わりがある。
でも終わってすべてが煙のように消えるわけではない。
あるいは無に変えるわけではない。
すべてなくなって無になるわけではないんです。
神様が定められた歴史である。
この地上と人類の歴史は始めがあって終わりがあります。
しかし神様の歴史は、神様ご自身の歴史は始めもないですし終わりもないです。
永遠から永遠までおらず。
ここで1ヶ月程度開きたいと思います。
ヨハネの目史録を開きましょうか。
ヨハネの目史録22章12節と13節を開きたいと思います。
新約の502ページです。
ヨハネの目史録22章12節と13節。
新約の一番後ろにあります502ページです。
それでは12節と13節一緒に読みたいと思います。
みよ私はすぐに来る。
私はそれぞれの仕業に応じて報いるために私の報いをたずさえて来る。
私はアルファでありオメガである。
最初であり最後である。
始めであり終わりである。
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アーメン。
皆さん、神様ははっきりと語られました。
みよ私はすぐに来る。
だから今日の御言葉からもわかるように
イエス様は備えてそして必ず帰って来るね。
皆さん、イエス様はすぐに来られます。
イエス様は本当にすぐに帰って来られます。
皆さん信じますか?
実感していらっしゃいますか?
あるいはそのイエス様のサイリンを待ち望んでいますか?
イエス様が帰って来られるサイリンが本当に近くなっていること。
いつなのかは知りませんよ。知りません。
でも本当に近くなっていることの証拠がたくさんありますけれども
その中の一つだけちょっとお話ししたいと思います。
そのために対の福音書をちょっと読みましょう。
対の福音書二十四章十四節を開きたいと思います。
新約の最初の福音書対の福音書二十四章十四節です。
私の聖書では五十ページです。新約の五十ページ。
対の福音書十四章の十四節を一緒に読みたいと思います。
この御国の福音は全世界に延べ伝えられて、全ての国民に明かしされ、それから終わりの日が来ます。
もう一度私を読みますね。対の福音書二十四章十四節。
この御国の福音は全世界に延べ伝えられて、全ての国民に明かしされ、それから終わりの日が来ます。
どうですか皆さん。少なくともこの御言葉からわかることは、世界に国民がたくさんありますね。
もちろんこの国民と訳されている言葉の意味は、部族あるいは種族という意味がもっと近いんですけれども。
それでもうだいたい60年前から世界選挙のムーブメントは、福音が伝えられていない、自力で教会が出て福音を伝導できない種族に伝導を集中してやりましょうというムーブメントが今もあります。
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その中で本当に、例えば一つわかりやすく話を例であげますと、インドありますよね。インド。新宿の国ですけれども、
50年、だいたい50年、40年前としても選挙もしなくならない国でした。ところが皆さん、今は2016年度の統計ですが、
インドがなんと世界に約1万人くらいの世界選挙史を派遣する国になっている。中国もほぼ1万近く世界選挙史を派遣。
ヨーロッパ、静岡のキリスト教は今は南米とアフリカ中心みたいになっていて動いている。
もちろんまだまだ福音が伝えられていない小さな部族、種族がたくさんまだまだ残っていますけれども、本当に急速に減っているんです。
それぞれ多くの選挙史が世界に国々まで入って福音を述べ伝えている。イエス様の祭輪が本当に近くなっている。
もう一度申しますが、イエス様はすぐに来られます。皆さんはそのイエス様の祭輪を本当に心から喜んで待ち望んでいるのでしょうか。
あるいはイエス様、もうちょっと後で来てほしいと。イエス様の祭輪を待ち望んでいるならば、信じるならば、目を覚ましていなければならない。
一箇所説明していただきたいと思います。新約の丸子の福音書十三書三十三説です。
新約の丸子の福音書十三書三十三説。私の聖書では九五ページです。
この丸子の福音書十三書がイエス様が終わりの時代の前兆について語られた言葉ですが、その中でこういう風に語られました。
丸子十三の三十三説を一緒に読みたいと思います。
気をつけなさい。目を覚まし、注意していなさい。その定めの時がいつだかあなた方は知らないからです。
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もう一度私が読みます。
気をつけなさい。目を覚まし、注意していなさい。その定めの時がいつだかあなた方は知らないからです。
皆さん、ぼうとしてはいてはいけません。眠っていてはいけない。鈍感にしていてはいけない。
イエス様が三回も今日として気をつけて目を覚まして注意していなさいとイエス様の再現の時が近づいている。
この前十八日に地震が起きました。これ以上、きのうも揺れましたね。感じられましたか、皆さん。
これ以上起きてほしくないですし、そのために祈っておりますし、また司会を受けられた方々に神様の三十三説はあわれみがありますように心からお祈り申し上げます。
ところが聖書を見ますと、終わりの時代の兆し、禅とについて何と語っているのでしょうか。
マタイの訓書二十四章、そして今読みましたマルコの訓書十三章を読みますと、終わりの時の禅長、兆しについて書かれています。
もう一回開けたいと思いますね。マタイの訓書二十四章を開きましょうか。マタイの訓書二十四章を開いてください。
まず二十四章の三説を読みますね。四十九ページです。二十四章の三説。
イエスがオリブヤまで座っておられると、弟子たちがひそかに身元に来て言った。
お話しください。いつそのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりにはどんな禅長があるのでしょう。
昔の弟子たちも今の私たちも同じ関心事は同じなんですね。どんな禅長があるのでしょうか。イエス様が教えてくださいました。
その中で省略して、七説だけ一緒に読みたいと思います。七説を一緒に読みますね。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方法にきちんと自信が起こります。
方法にきちんと自信が起こる。イエス様は終わりの時代の禅長について語ってくださいました。
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戦争が起こる、危機感が起こる、自信が起こる。だから大の二十四章の四十二説にも目を覚ましていなさいと、
イエス様は必ず、私たちクリスチャンは目を覚ましているべきです。
実は目を覚ましていて、サイリンを待ち望んでいる人こそ、幸せな人であって、信仰の人であって、神のとびをこないる人であります。
次に、今日の御言葉から教えられる二つのポイントは、イエス様は信者のために、神の人のために、天に住まいを、場所を備えておかれた、
ということであります。今日の四十四章の二説三説に戻りましょう。
ここにイエス様が二説を見ると、私の父の家には住まいがたくさんありました。そして私は場所を備えに行くのです。
だから皆さん、信じていますか?神のところに、天には皆さんのお住まいが、場所が備えられているんですよ。
今は、ワンケイニー、ニエルリケイニー、サンエルリケイニー、どれくらいの家に皆さん住んでいるか。
神徒の中で私がお家に入ったことがある人は、あれ?一人、二人しかいないね。あ、三人、四人くらいかな。
そうですけれども、その天には、神様が備えてあった場所、お住まいがある。
そこは、どこかの避難所みたいな、体育館みたいなところではないでしょう。
この地上では、見ることができなかった、人類歴史上、この地上には存在しなかった、全く新しい住まいである。天にあるからなんです。
そこで私たちは、三名隊の神様と、永遠にそこに住むようになるんです。
イエス様は、一人一人のために備えをしてくださる。
神を唯一の作り主として信じて、イエス様をその御子を作り主として信じて救われる人々は、必ずこの住まいに、場所に入れていただくのです。
そしてそこで、今まで経験したこともない、幸せと栄光と喜びの中で生きるようになるのです。
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そこには、憎しみも、誤解も、争いも、ストレスも、涙も、苦しみもないのです。
そして、この子女のように朝焼けを着て疲れていても、起きて出勤しなくてはならない、そんなこともないでしょう。
あるいは、ローンを返済することもいりません。
どこか病気になって病院に行くこともありません。
そこには認知症もありませんし、老人ホームもありませんし、介護施設もいらないのです。
永遠に神を賛美し、神を礼拝し、そして喜ぶ日々が、永遠に続くのです。
それで十分なんです。
そしてあたたちは、その場所で住まいで、主の兄弟姉妹たちに再びお会いするようになるでしょう。
聖書で文字だけに出てきた、アブラーム、ダビデ、ソロム、エリア、ペテロ、ヨハネ、パオロ、
あるいは皆さんの懐かしく思っておられる親子の先輩の方々、あるいは家族の方々、
その方々に、あの住まいであたたちはお会いするんですよ。
実感していますか、皆さん。ピンとこないんですか。
居たんでしょう。
大事なのは、イエス様が私のために住まいの場所を備えておいてくださったことです。
皆さん、イエス様の再臨の日を待ち望んで参りましょう。
そして目を覚ましていて、血を捨てていて、その日を、再臨の日を備えていこうではありませんか。
ところで、今日の御言葉の四節で、私の行く道はあなた方も知っています。
そしたら五節でトマスが、こう言いました。
主よ、どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。
どうして、その道が私たちにわかりましょう、と言いました。
そこでイエス様が、今日の六節を、あの有名な御言葉を語ってくださいました。
六節を一緒に読みたいと思います。
ヨアネの訓書、十四書の六節。
三、イエスは彼に言われた、私が道であり、真理であり、命なのです。
私を通していれなければ、誰一人、死の身元に来ることはありません。
36:00
アメン。
皆さん、この御言葉を通して、どれだけ多くの人々が救われたのでしょうか。
イエス様こそ、唯一の道であり、唯一の真理であり、唯一の命である。
この御言葉が、私と皆さん、そして今日、支援におけられる田中兄弟の一生涯の御言葉となりますように、心からお祈り申し上げます。
また、この場を共にしておられる救度様の皆さんにも、神の御言葉として、それを受け入れていただきたいと切に願います。
人は皆、人生の道を歩んでいます。あるいは、自分の道を自分が決めて歩いているかもしれない。
ところが、自分が決めても決めなくても、我々人間には、その歩んでいる道の先に何があるか、誰もがわからないということになります。
5分先に何が起こるか、わからないのでしょう。
幸いに、この前の地震で、神戸は被害がそんなに多くはなかったんですけれども、5分先に、1分先に何が起こるか、我々はわからない。
自分が決めた道だとしても、ちゃんと緻密に、秒ごとにプランを立てたとしても、しかし、イエスを救いに、そして信じて歩んでいる人は、イエスの道を知っていますし、
そのイエスが自分の道も知っておられるから、不安に思うことはありません。迷うこともあります。
これこそ、素晴らしい祝福なのではないでしょうか。イエス様が私の道を知っておられる。そして、私たちもイエス様を通して、自分の道を知ることができる。
だから、この道を、この真理の道を歩んでいる私たちは、平安です。不安ではありません。心配することはありません。
だから、真理の道であって、命の道であるから、天国に行く道であり、地空に行く道であり、永遠の命に行く道であるからです。
だから、感謝と喜びと平安に満ちているのです。
皆さん、このイエス・キリストの道を歩んでいることを感謝していただき、また誇らしく思っていただきたいのです。
イエステージを終わりたいと思います。イエス様は必ず再びその日を備えて待ち望みましょう。
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目を覚ましていて、そしてイエス様が語られたように、私が道であり、真理であり、命なのです。
その道を離れることなく、逸れることなく、まっすぐに兄弟姉妹の手を取り合って、時には励まし合って、時にはコンパッションして、
共に最後まで勝利していこうではありませんか。お祈りしましょう。