お祈りと感謝
それでは、お祈りをいたします。
恵み深い愛する天の父なる神様、
今日も私たちを主の御前へと招いてくださり、
あなたは仰ぎ礼拝ができます幸いを感謝をいたします。
本当に寒くなりました。
それによって私たちの心も体も霊も、
弱りやすい中にありますけれども、
しかし主がいつも永遠の身腕を持って、
私たちがその足元が抜けそうな時にも、
常に下にあなたの身腕の支えがあることを覚えて感謝をいたします。
どうか主よ、そのような主に支えられているという、
あなたの恵みのその現実を今朝も深く知ることができますよう、
かえりみてください。
あなたは私たちを愛し、罪を許し、
神のことをするために、
イエス・キリストを十字架へと捧げてくださいました。
その流された血潮によりもはや、
誰も神の御前に罪許された者とされ、
それだけではなく三日目に甦えられた命、
復活の命を与えられて、
永遠なる主と共に生きる者へと変えられる、
そのような恵みを私たちは知って受けています。
どうか主よ、そのようなあなたが成してくださる身技を、
今日も知ることができますように、
かえりみてください。お願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人、
傷んでおられる方、
施設において死を仰いでおられる方、
お一人一人を知っています。
どうか主があなたが共にいてくださって、
そのお一人一人を慰めてくださいますよう、
お願いいたします。
大雪の中にある教会は、
同じ時をして礼拝を守ろうとしています。
祈られたようにお一人一人を守りください。
また世界の中にあるその戦い、
その痛みの中にあるそのところに、
王である主御自身の裁きがなおもありますように、
主が導きを与えてください。
お願いいたします。
これからの時を御手に委ねます。
どうか主が御言葉を開き、
私たちを導いてくださいますように。
イエス様のお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
ニコデモとの出会い
今朝読んでいただいたこの聖書のお箇所、
ヨハネの3章の場面は、
夜であります。
夜の出来事です。
夜中にこっそり、
イエス様の元にニコデモという人物が訪ねてくるという、
そのようなシーンです。
このニコデモという人物は、
ユダヤ社会のいわゆるエリートでありました。
立法に迫学なパリス愛人であり、
そしておそらく彼は、
エルサレムの最高議会、
サンヘドリンの一員であったのではないかと言われます。
そのような学的にも、
そして立場的にも、
エリートであった彼、
だからこそ、
闇に紛れて、
イエス様に会いに来られたのです。
おそらくそれは、
この2章の半ば、
前回見ましたけれども、
お昼間に神殿で、
私という体が3日目に神殿として生みがえるんだと言われた、
そのイエス様に驚くとともに、
何かここに光があるかもしれないと思ったからではないでしょうか。
ニコデモが生きていた時代、
ユダヤ人たちにとってそれは、
闇に覆われた世界でした。
ローマの支配はなおも続いています。
しかしそのような最中にあって、
光が見えた。
そして光が見えると、
闇の中からポツポツと人は、
光の方に出てくるのですね。
まさにヨハネの1章にあるように、
この世界は真っ暗闇で、
光としてのイエス様が来た。
でも闇の中で誰も光を理解しなかった。
でも光が輝き始めると、
闇の中からポツポツと人は、
イエス様のもとに出てくる。
そのような光景です。
3章の2節でニコデモは言いました。
先生、私たちはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。
神が共におられなければ、
あなたがなさっているこのような印は、
誰も行うことができません。
実に丁寧な挨拶をしながら探っているようです。
この方は一体何なんだろうか。
何かはわからない。
けれども何かこの方の中には、
私の闇を晴らしてくれそうな何かがありそうだ。
そう思いながら、
彼はイエス様のもとにやってきた。
精霊様によって捉えられる人の感覚というのはそういうものですよね。
何かはわからないけれども、
何かがここにありそうだと思う。
今朝は続けてヨハネの福音書を見てまいりますが、
先回もお話ししました。
この福音書というのは、
1章から創造の記事が重ねられている。
そして2章の最初のカナの婚礼からは順に、
神様がイエス様を通して始められたその新しさを順に説明している。
1つ目カナの婚礼では立法でした。
先回2章の13節から見たとき、
そこは神殿が新しくなるという話でした。
では今朝のお菓子は一体何が新しくなるのでしょうか。
この言葉には出てきていますが、
3章の3節にイエス様が言われた言葉です。
まことにまことにあなたに言います人は、
新しく生まれなければ神の国を見ることができない。
生まれる。新しく生まれるということが今朝語られている。
私たちはこの箇所から今朝はその豊かさをご一緒に受け止めたいと思います。
そしてもしも私たちが闇に今覆われている部分があるならば、
ここに何かの光がありそうだ、その実感を持ちながら、
この箇所をご一緒に味わいたいと願っています。
3つのポイントで今朝お話ししますが、
第一のポイント、新しく生まれるのは何のためかということです。
新しく生まれるのは何のためなのかということです。
新しく生まれるという言葉は、
これは私たちに馴染みがある言葉では神聖と呼ばれるものでしょう。
しかしそれは何のためなのでしょうか。
当然私たちは、や、罪から救われて、
神のことされ、永遠の滅びではなくて天国に行く。
そのために私たちは救われるのだと教えられていますし、
そのことをそのまま私も信じています。
しかし実はそれだけではないのです。
イエス様がこの3節で言われた言葉をもうちょっと注目すると、
誠に誠にあなたに言います。
人は新しく生まれなければ、
神の国を見ることはできませんと言われたのです。
神の国を見ることはできません。
新しく生まれるというのは、神の国を見るためである。
もうちょっと言い換えるならば、
すなわち神様の恵みの支配に属するためなんですね。
これはちょっとだけ皆さんに理解していただくと信じて、
堅い言葉で言うならば、
契約協同体にどうやったら入るかという話をするんです。
新しく生まれる意味
ちょっとだけその話をするならば、
出エジプト紀のことを思い出していただきたいと思うのです。
エジプトから救い出されたイスラエルの民がいました。
神様は彼らに使命を与えて契約を結ばれましたね。
いわゆるあなた方と契約を結ぼう。
私はあなた方の神となり、あなた方は私の民となるんだ。
そして神様はあなた方を祭祀の王国にすると語られましたね。
出エジプト紀の19章にある言葉です。
そしてその通りに、
イスラエルの民のいわば契約協同体にされた彼らの使命とは何かというと、
神様の立法を喜びながら歩む姿を通し、
世界中の人々、それは違法人も含めた世界中の人々が、
ああ、イスラエルの神様こそ誠の神なのだと信じるためですね。
それは遡れば創世紀12章のアブラハムのあの契約と一緒ですよ。
あなたの子孫を通してこの世界を私は祝福するんだと言われた、
それと同じことが続いている。
そしてそのイスラエルの民、いわば神様の契約協同体の役割はそのように、
神様の祝福がイスラエルを通して世界に流れていくというような、
祝福のパイプ役というのが実はこのイスラエルの民、
堅い言葉でいうと契約協同体の使命でした。
それが祭祀の王国というやつですね。
しかし私たちは知っています。
その後イスラエルの民はそのように歩めなくて、
南ユダは崩壊をして、
その後の歴史の中でこの契約の民というのは、
徐々にその役割が変わっていってしまった。
祝福のパイプとなるはずの民は、
いわば私たちこそが祝福の民で、
他の人は違法人は祝福されないんですというような、
排除の宗教に変わっていってしまったということを、
私たちは先回も見ました。
エルサレム神殿の違法人の庭と、
イスラエルの民の庭の間には高い壁がある。
それはまさに排除。
ここから私たちは違いますよというような、
象徴のようなものだとお話をいたしました。
ただですね、もうちょっと詳しく話しますと、
でも当時、違法人がユダヤ教に回収する方法はあったんです。
それは聖書の中に回収者という人たちが出てきます。
使徒の2章とかに出てきますが、
回収者と呼ばれる人たちがいました。
でもこれは本当に大変なんです。
違法人がユダヤ教に入るためには、立法を守るのは当然です。
滑稜も絶対に受けます。
それだけではなくて、
違法人がユダヤ教に入るときには、
自分の生まれ育った故郷は捨てなければなりません。
名前も変えなければなりません。
それはあたかも新しく生まれ変わるようなことをしなければ、
彼らはいわばユダヤ教の教導体、契約教導体に入ることができないというのが
当時の常識でした。
しかし、イエス様は新しいことをもたらされるのです。
それは何なのか、改めて読みますけれども、
三章三節に、
あなた方に言います人は新しく生まれなければ、
神の国を見ることはできない。
この新しくという言葉、これはちょっとややこしいな。
ギリシャ語の福祉ではアノーセンと言いまして、
これは再び生まれるという意味と、
上から生まれるという二つの意味があります。
だからニコデモは、
あ、再び生まれるということを言っているんだと受け止めて、
彼は四節に言うんです。
いやいやイエス様、人は老いてからどうやって生まれることができますか。
もう一度お母さんのお腹から生まれるんですか。
しかしイエス様がここで言われることは違う。
再び生まれる、いやそれ以上に大切なことは、
新しく生まれるというのは、
上から生まれるということが始まったんだということを言っているんです。
上から生まれるということが始まった。
上から生まれるすなわちそれは、
人は神様の御力によって、
神の契約の新たな理解
新たに生まれるということが始まったんだということを言っているのです。
今は、神の契約協同体、神の御国に入るのは、
ユデイ人かどうかであるかという血筋の問題ではない。
違法人が入ってくるのも、
全てを手放さなければ入れないということではない。
神はユデイ人だけを愛しているのではない。
十六節に書いています。
神はこの世を愛された。
この世という言葉は一番この歌詞のインパクトです。
神はユデイ人だけでない。この世を愛された。
世界中を愛しておられる。
ユデイ人以外の違法人も、どんな人も、
神様によって新しくされ、
神様の恵みの支配、契約協同体に今入れる時代が始まったんだということを
イエス様は言われるのです。
そしてそれは、何のためでしょうか。
これは旧約聖書の流れから理解しなければならない。
それは、みんなで天国に行くためである。
それも否定しません。
みんなで天国には行きたいんです。
でも、それ以上にと言ってもいいかもしれません。
私たちが救われた意味というのは、
それは私たちを通して神様がこの世界を祝福するためです。
私たちの第一義的な使命は、
私たちは神様の祝福のパイプになるということです。
そのために、私たちは新たに生まれるものとなった。
でも、これは何かそう頑張らなきゃという話ではなくて、
違う、救われた私たちを通して神様は働かれるということです。
自由に主体的に働かれるということです。
そのようなために救われるし、
神様の祝福のパイプになるために救われる私たちであるし、
また救われたことをお互いに覚えたいと思うのですが、
新しく生まれるための条件
しかしもう少し進んでいって、2つ目です。
じゃあ、それは一体どのようにして生まれるのでしょうか。
どのようにして生まれるのかということです。
では具体的に、ここで新しく生まれるとはどのように起こることなのでしょうか。
まさに上から生まれるとイエス様は言われましたが、
続けてイエス様はそれを言い換えてこう言われます。
語説。
イエスは答えられた。
まことにまことにあなたに言います。
人は水と水玉によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
肉によって生まれたものは肉です。
水玉によって生まれたものは霊です。
水と水玉によって人は新しく生まれるのだと言われるのです。
私たちはこの歌詞を読むときに、
水というのは水による先霊バクテスマであり、霊というのは聖霊様の導きなのだと私は教えられてきました。
私は今もそうだと思います。
それに加えて、実はこの言葉は何かというと、これは旧約聖書の引用なんです。
この歌詞を語っているのはどこかというと、エゼキエール書の36章の25節から27節です。
ちょっとだけ有名な歌詞なので聞いていただいても結構ですが、
エゼキエール書の36章の25節から27節に一体何が言われているか、ちょっとお読みしますが、
旧約聖書の1480ページにありますが、
ちょっとお読みします。
エゼキエル書36章の25節から
私が清い水をあなた方の上にふりかけるそのとき、あなた方はすべての穢れから清くなる。
私はすべての偶像の穢れからあなた方を清め、あなた方に新しい心を与え、あなた方の内に新しい霊を与える。
私はあなた方の体から石の心を取り除き、あなた方に肉の心を与える。
私の霊をあなた方の内に授けて、私の掟に従って歩み、私の定めを守り行うようにすると言われる。
ご存知のよりこれは、預言者エゼキエルにより回復の預言ですね。
神様は将来、神様ご自身が水を注いで人々を偶像の穢れから清める。
いわば偶像に捉えられている心を神へと向けさせて、そして新しい心、いわゆる新しい霊を与える。
もしもそれが注がれるときには、かつて神様に対して冷たく反応することのできなかったような石の心がですよ。
冷たい石の心が砕かれて、むしろ温かく神様の愛に対して敏感に反応することができる肉の心を私は与えると約束なさったのです。
イエス様がここでこの言葉を引かれた意味は何なのか、それはその時が今始まったと言っているのです。
今や見たまによって新しく生まれる時が来ているのだということをイエス様は言われる。
七節八節を読みしますと、
あなた方は新しく生まれなければならないと私が言ったことを不思議に思ってはなりません。
風は思いのままに吹きます。
その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。
見たまによって生まれたものも皆、それと同じです。
今、見たまによって生まれる時が始まっている。
信仰と変化の証
今、風が吹き始めていると言っているのです。
今、風は吹いたのだ。
この風、ギリシャ語ではプニウマと言いますが、
このギリシャ語では風と聖霊様は同じ言葉です。
風が吹いている。
そしてこの八節の言葉というのは、とても不思議ですが大事な言葉ですね。
ここには、その風って一体何なのか、
聖霊様ってどのように働くのかということが二つの側面で語られています。
一つそれは、風は思いのままに吹くのです。
いわばそれは、人を新たに生まれさせるという、
その聖霊様の風の働きは、
主導権を聖霊様が握っておられるということです。
大事なことです。
主導権は聖霊様が握っておられるのです。
私たちはよく、祈っていて、
なんか人が救われないとかね、
伝道してなかなか人が救われない、そう思います。
ただ、自分を責めてはいけませんね。
自分を責めてはいけない。
人を新たに生まれさせるのは神様の働きです。
私たちが頑張る、まあ頑張るんですけども、
祈り、コツコツでもなすべきことをしながら、
でも後は主が働かれなければ救われないですね。
そして私たちは同時に思えなければならないことは、
マルコの3章29節というところに、
しかし聖霊を冒涜する者は誰も永遠に許されず、
永遠の罪に定められるとも書いてあるんです。
ニコデモのように、何かはわからないけれども、
何かがこの聖書の中に、神様の中にあるんじゃないかと
感じるような思いがもしもうちに生まれているならば、
それは聖霊様があなたを捉えておられるのですね。
そして聖書は、それを冒涜するなら、
それを否定し続けるならば、決して救われることはないと語ります。
厳粛な事実です。
そのことも覚えなければならないでしょう。
そして第二に、風が吹くときに、
それは目には見えなくても確かな変化が伴うということです。
風は目には見えません。
しかし風によって葉っぱが揺れて音が聞こえると、
私たちは風が吹いているなあということがわかる。
同じように、私たちの中にも
聖霊様の風が吹き、変えられるという恵みを
おそらく皆さん経験されているのではないでしょうか。
少し私自身のことを振り返りますが、
ちょっと以前もお話しましたが、
私は大学生のときに明確にイエス様を信じました。
その信じる前後には、すでに私の中には変化があったと思います。
その変化の大きなことは何かというと、やっぱり
聖書の言葉が私に響くという経験をするんです。
御言葉が私に響いてくる。
そのときに感じた実感はまさに一緒です。
何かわからないけれども、何かが起きているし、
ここに何かがあるはずだということを思いながら聖書を読んでいく。
そして御言葉にあるときですよ。
私はルカの23章でしたが、御言葉にあるとき迫られて、
ああそうか、このイエスキリストは他の誰かではない、
私にとっての救い主であり王なんだということを自覚させられるときがある。
そのときに私はイエス様を信じました。
そして次第に、かつての私は神様を信じれるかどうかな、
みたいなことを迷っていたんですが、
いざそのようなことを経た後、私の実感としては、
神様の存在を疑うほうが難しくなりました。
神様を信じていなかったときのほうが思い出せないぐらいですね。
そのことを足立博史先生に相談したことがありました。
そのときに開いていただいた御言葉が、この3章の8節でした。
風は思いのままに吹く。
その音を聞いてもそれがどこから来てどこへ行くのかわかりません。
見たまによって生まれたもとものも皆、それと同じである。
三君、精霊様が君を変えたんだ。
君は確かに救われたんだということを、そのときに言っていただきました。
私たちもそうなんですが、ニコデモもここで戸惑うのです。
聞くことがあまりにも新しすぎるんですね。
どうしてそのようなことがあり得るでしょうか。
今、見たまによって石の心が肉の心に変えられるようなことが本当に起こるのでしょうか。
エゼケールが予言して成就した予言が成就しているのでしょうか。
本当に私の、あの人の石の心は肉の心に変わるのでしょうか。
しかし、ここに集う皆さんは、私と同じ経験を大なり小なりなさっている方々だと思います。
自分のことでありながら説明ができない。信仰ってそのものですよ。
自分のことでありながら説明しきれない。何かがわからないけど私を変えられている。
信仰と確信が与えられた。
しかし、だからこそ私に肉の心を作られた神は、同じように今なお、石の心を肉の心に生まれ変わらせる。
聖霊様の風は吹かせてくださるのだということを、私たちは改めて信じるよう招かれているのではないでしょうか。
そう信じながら、私たちは自分を責めずに、コツコツ祈りながら、祈りは聞かれますからね。
でもコツコツ祈りながら、主のためにキリストの愛を持ってその人を愛していくんですよ。
その中で神様の風が吹く時が必ずあるんです。
そのことを願いながら、私たちはなすべきことをなさせていただきたいと願っています。
そして三つ目のポイントですけれども、三つ目のポイントは、光に来なさいという主の招きです。光に来なさい。
そのような風が吹いていると感じるならば、私たちは新しく生まれるために、人はどこへ進むべきなのでしょうか。
それは十字架ですね。十字架です。
3章の14節にイエス様は言われました。
モーセがアラノでヘビをあげたように、人の子もあげられなければなりません。
イエス様はここで、ミンスウキの話音を引用して語られています。ご存知でしょう。
十字架と救い
イスラエルの民がアラノで神様に逆らい、毒ヘビに噛まれて死にかけた時、神様はモーセに正道のヘビを作らせて、竿の上に掲げさせました。
いわくそれは、その人が正道のヘビを仰ぎ見ると生きたと語られる通りです。
そのヘビ、正道のヘビを仰ぐと生きた。
神様は、これからご自身が掲げられる十字架を、それと同じようだと語られるのです。
十字架に釘付けされ、高く掲げられる姿は、あの正道のヘビのようだ。
この世から見るならば、それは敗北と恥の象徴です。
しかし、その人が正道のヘビを仰ぎ見ると生きた。それと同じことが起こる。
イエス・キリストを信じる者は、それだけで救われると聖書は語ります。
罪という毒に侵され、心は神様に対して石のように固くなり、死にかけている私たちであっても、
十字架のイエス・キリストを私の救い主、私の主と仰ぎ見るならば、
聖霊様が私たちを新しく変えてくださるのだということを語る。
ヨハネの3章の16節は、そのような文脈の中で語られている言葉です。
神は実にその一人が大値になったほどに世を愛された。
それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。
先ほども申し上げましたが、この16節の言葉で一番インパクトがあるのは、神は実にこの世を愛された。
ユダヤ人だけではない、イスラエルだけではない、世、コスモス、すべての人々を愛された。
この世界のすべてです。神様の愛に境界線はない。
神の一人と十字架にかかったのは、特定の人を救うためではなく、
すべての人を闇から光へと連れ戻すためであったということを語っているのです。
ただ、いつもここで大体16節だけ切り抜かれて終わるのですが、17節以降は結構鋭い迫りです。
しかし、このように凝られた光は、すべてを照らし出す光だと語られているのです。
新しく生まれること
いわばそれは、神様の前に、この光の下に、何かがありそうだと出ていくときに、
私たちがそこで経験することは、自分の罪や悪は隠しを負わせないということです。
神の前に出るということはそういうことです。
それゆえに、自ら照らされることを恐れて、闇の中に隠れようとする人々がいるということもここで言われる。
しかし、18節、19節を読みしますと、
神を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の一人号の名を信じなかったからである。
その裁きとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことであると語られているのです。
光に照らされることが怖い。だから私はもう闇の中でいい。
しかし、イエス様は言われる。その状態がすでに裁きの苦しみの中にあることなんだよと言われる。
イエス様はそのような自分の罪を抱えたまま、光の下に来ずに苦しみ続ける状態こそが、すでに裁きの中にあるようなことなんだよと言っておられるのです。
裁きというのは、神様が怒り狂って地獄に突き落とすことではありません。
裁きというのは、光が差し込んでいるのに、目をつぶり背を向けて闇に留まり続ける選択そのものが、すでに裁きの中にいる状態なのですね。
21節から読みますと、
悪を行う者は皆光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて光の方に来ない。
しかし真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来ると語られています。
神様はいつも救うことを願われる神です。
そして神様はいつも光へと招かれる神様です。
罪があるならばありのまま私の前においでと言われるのが神様です。
神様の光は確かに自分の醜さや罪深さを照らし出すものです。
しかし覚えておいてください、その光は私たちを責め立てて滅ぼすための光ではないのです。
あなたを罪から清め、新しい命を与えるための癒しの光であるということをぜひ知っていただきたいと思います。
もう終わりますが、
イエス様は今朝言われることは、あなたに言います人は新しく生まれなければ神の国を見ることができないということです。
私たちの多くは、というかほとんどの方々はもう新しく生まれた方々であるとそう思います。
そして、でも改めて私たちが覚えたいことは、
新しく生まれるということは、キリスト教の習慣を身につけることでも道徳的に立派に生きることでもありません。
私たちが新しく生まれるということは、天から吹く聖霊様の風によって内側の石の心が砕かれて、
神様の愛に応える肉の心、新しい命をいただく驚くべき創造の業が私の中に起きるということです。
本当に内側から変えられるということが私たちに起こるんですね。
石は自ら肉に変わりません。
同じように私たちも私たち自身を救うことは不可能です。
しかしなおも十字架に掲げられたイエス・キリストを仰ぎ見たいと願っています。
この方がなおも私の罪を引き受け、三日目に甦えられた私の王であると信頼していきたいと願うのです。
そしてこの世を独り子をお与えになるほどに愛された神、永遠の命を確かに与えてくださる神は、
私を救ってくれたように、あの人をも救われないはずがないと私たちは信じて祈り、
その人をキリストの愛をもって関わり続けたいのです。
焦らずいきましょう。焦らずいきましょう。
でも聖霊様が働かれるならば人は新しくなるんですよ。
皆さんもそうだったでしょう。
そして今も主はこの教会を通してその御業をなしてくださると私は信じています。
一言お祈りをいたします。