00:01
それでは一言お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
主の御前へと私たちをまた招いてくださり、
あなたを仰ぐようにとこの時を与えてくださっていることをありがとうございます。
カルバリの十字架、我が為なりと賛美をいたしました。
あなたがあの十字架で流された血を、
それは私の為であったと、私のこの罪の為であったと、
私たちは改めて賛美をいたしましたが、
あなたのその血汁によって私の罪が完全に許され、
あなたがそれをあの十字架で追ってくださって、
そして死だけで終わらず三日目に蘇ってくださった復活の死を見る時に、
その復活の命は私たちにも与えられているという、
あなたの豊かな約束を覚えて心から感謝をいたします。
私たちは永遠なる人と共に生きる命を与えられ、
もはやあなたは一人ではない、私の恵みによって歩みなさいと日々主が念ごろに、
あなたは私の愛する子、私はあなたを喜ぶという声を聞きながら、
あなたと共にこの地上を歩める幸いを感謝をいたします。
神様どうか、今日も御言葉を開いてください。
三十一周年を時に今日は覚えますけれども、
そのうちにも主が共にいてくださり、
教会の頭である主を仰ぐことができますように、
そしてまた私たちのうちに様々な戦いがあり、
ここに来たくても来れない方々のうちにも多くのうめきがあることを覚えます。
しかし、その中に生ける主が私たちの主であることを、
今一度深く覚える時となりますように、
時を導いてくださり、あなたが御言葉を開いてください。
お願いいたします。
精霊様が御一人一人に必要なことを語りかけてくださいますように。
祈られたように、
ウクライナ、ロシアの紛争、イスラエル、パレスチナの戦争、
神様、今朝も痛ましいニュースを目にしております。
世界がどこに向かうかわからない中にあります。
しかし、世界の王であり主であるお方が立っておられることを、
私たちは知りながら、この世界を見つめ、
祈ることができますようにお導きください。
お願いいたします。
これからの時を御手に委ねます。
主がどうか導いてください。
イエス様のお名前によってお祈りを致します。
アーメン。
今朝の聖書の箇所は、
実は妙谷教会の31周年を少し思い巡らせながら、
神様に示していただいた言葉です。
03:01
この礼拝の後も少し31周年を覚える、
その時を持ちたいと思いますが、
その教会の歴史を覚えることは、
私は大事だと思います。
二つ、やはり理由があると思うんです。
一つは、私たちが今このようにあるのは、
決して当たり前ではないということです。
教会がその地にあるということ、
あり続けるということは当たり前ではない。
そこに至るまでに、
多くの方々の祈りと献身がその礎にあるということ、
これは言うまでもないかもしれませんが、
どこの教会もそうです。
そしてそれが、
いつしか忘れられてはいけないのだと思うんですね。
そのことを覚えたいと思いますし、
またもう一つ、
教会のこれまでの歩みを覚えるのは、
私たちは結局今どこに立っているかというのは、
過去からしか測れないということです。
私たちは歩んできた道筋の先に今があります。
であるならば、
私たちは今歩むべき道を歩んでいるのかというのは、
やはり過去から私たちは聞き直すことが重要なのではないか。
そう思いながら、
後で少しそういう時を持ちたいと思っております。
短い時ですが、お付き合いください。
そしてそう思いながら、
私も実は宮谷教会の始まりの御言葉というのを探したんですね。
教会というのは始まりの御言葉があります。
それは、主が教会を建てられる時に、
この人に志を立てさせるという時に、
やはり御言葉の約束があるはずなんです。
それを調べながら見ていく時に、
違ったらまた違って教えてください。
私はこれを探していますので。
ただ、5周年の宮谷教会の記念詞に
村上博教がこう記していました。
みよ、私は新しいことをなす。やがてそれは起こる。
思えば翔頭先生を通して与えられたこの約束の御言葉の下に結集し、
宮谷地区の伝道に本格的に立ち上がってから
はや15年になりますと、そのような言葉が記されていました。
私は、ああ、この御言葉を神様は翔頭先生に語ってくださって、
この教会が始められたのではないか、そう思いました。
確かにこの以前から宮谷伝道というのは始まっていたはずですけれども、
しかしここに教会が建ったらいいなという願いから、
ここに主は教会を建ててくださるんだという確信に変わるのは御言葉です。
それによって先生たちは立ち上がられたのではないかなと思うのです。
そしてもう一つ今朝開かせていただいた言葉は、
06:01
これは私がこの教会に来て一番最初に印象的に思った言葉ですけれども、
宮谷教会の礼拝堂の入口の上に掲げられている楽の言葉です。
また見ていただいたらと思います。
翔頭先生の直筆の言葉で、主はそこにおられる。主はそこにおられる。
世紀英露書の48章の35節の御言葉。
この二つの御言葉を思い巡らせながら、
これは点と点ではなくて一つの線ではないかなとそのことを思わされました。
そのことを思って今朝はこれから御言葉、この箇所から説教させていただこうと願っております。
さてですね、二つのことを見ていきたいと思いますが、
一つ目のポイントは、新しいこととは一体何なのかということです。
新しいこととは一体何なのか。
今日最初に読んでいただきましたのは、
いざや書の43章の19節です。
もう一度読みしますとこういう言葉です。
みよ私は新しいことを行う。
今それが芽生えている。
あなた方はそれを知らないのか。
必ず私はあれの荷道よ。
あれ地に川を設ける。
主は新しいことをなされる。
そのことを多くの方々が愛称性句で励まされている言葉かもしれませんが、
この新しいこととは一体何なんでしょうか。
おそらく多様な解釈があるでしょうけれども、
第一義的におそらくこのテクストで言えること、
それは崩壊したエルサレムとエルサレム神殿の礼拝が再建されることです。
崩壊したエルサレムとエルサレム神殿の礼拝が再建されること。
その回復を意味している言葉だと思います。
少しだけ旧約聖書を振り返らせていただいて申し訳ないのですが、
南ユダという国の使徒がエルサレムですが、
南ユダという国が滅びるんです、旧約聖書で。
それがなぜ滅びたのか、少しだけそのことを確認をさせていただきたいのですが、
ご存知の通り、サウルからイスラエル王国は始まり、
ダビデ・ソロモンで絶頂期を迎えます。
しかしその後の王たちの不従順によって国は北と南に分裂しますね。
北イスラエルはアッシリアにおよって滅ぼされて、
南ユダはバビロンによって滅ぼされます。
この南ユダという国が崩壊する末期の時期に、
嘆きながらこの国の崩壊を悼んでいた預言者はエレミアでした。
09:05
このエレミアの言葉を少しだけ読ませていただきたいのですけれども、
エレミア書の7章の9節からというところを読ませていただきたいと思います。
イザヤ社の後ろですね、エレミア書の7章の9節からを少しお読みいたしますと、
こういう言葉をエレミアが語っております。
これをお読みしますと、エレミア書7章の9節から、旧約聖書では1300ページの上の段になります。
お読みいたしますと、
あなた方は盗み、人を殺し、冠印し、偽って近いバールに犠牲を備え、
あなた方の知らなかった他の神々に従っている。
そして私の名が付けられているこの宮の私の前にやってきて立ち、
私たちは救われているというが、それはこれらすべての意味嫌うべきことをするためか。
私の名が付けられているこの家はあなた方の目に強盗の巣と見えたのか。
見よ、この私もそう見ていた。
ちょっと飛びまして14節。
私の名が付けられているこの家、あなた方が頼みとするこの家、
また私があなた方とあなた方の先祖に与えたこの場所に対して、
私は城にしたのと同様のことを行う。
私はかつてあなた方のすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、
あなた方を私の前から追い払うと。
この9節から書かれているのは神殿に対して語れと主が言われた主の言葉。
エルサレム神殿はここに書いてある通り、
盗み、殺し、肝炎、偽りの誓い、バールを拝むということをしてしまっていた。
神殿というのは神様の臨在の場所です。
しかしそこがもはや強盗の巣にしか見えなかったということをエレミアは、神様はそう言われる。
エレミアが言うのは、ニナミウダという国が滅んだのは、バビロンが強いからではない。
敵が強いから滅んだのではない。
いや、むしろ世界の王である神が私たちの王であるのに、
その神に神を過論じ逆らったがゆえに、あなた方神によって滅ぼされるのだというのがエレミア書の言葉でした。
私たちは先週まで実会を見てきていますからよくわかりますが、この9節に書かれているのは実会違反です。
わかりやすくそういうことが書かれてあります。
12:00
エレミア書を読んでいただくとよくわかりますが、神様は気軽にこういうことを言っているのではないか。
エレミア書を見ていくとわかるのは、神様はそれでもニナミウダをなんとか救おうと関わり続けるのです。
なんとか救おうとどこまでも語られ続けるが、
しかしニナミウダの民が心があまりにも固くなれ石のような心であったがために滅ぼされるを終えなかったというのがエレミア書の話ですね。
歴史的にこのニナミウダの民、シリアもそうでしたが、滅ぼされた国の民はバビロンという国に連れて行かれるわけです。
しかし神様は裁きを下すのですが、これ本当に大事なので覚えていただきたいのですが、神様が裁きを下すのは滅ぼすことが目的ではありません。
神様が裁きを下されるのは、その民を悔い改め神様の御前に立ち返らせることが目的です。
回復が目的なんですね。
その回復の兆しが描かれるのが実はイザヤ書の40章からなんです。
第2、第2材と言ってあれですね。でもイザヤ書の第2セクションからです。
イザヤ書の第40章の1節2節を読み知ると、
なぐさめよ、なぐさめよ、私の民よ、あなた方の神は仰せられる。
エルサレムに優しく語りかけよ、これに呼びかけよ。
その苦役は終わり、その咎は償われていると。
そのすべての罪に変えて二倍のものを主の手から受けていると。
これは何を言っているかというと、補修の終わり間近の予言なんです。
もうあなたたちの裁きは終わり、苦役は終わりかけている。
だからなぐさめがこれから始まっていく。回復がこれから始まっていく。
そしてその文章の流れにあるのがイザヤ書の43章です。
イザヤ書43章はですから、ここで新しいこと、この滅んだエルサレム、
罪を犯したエルサレム、しかし彼らの裁きが終わって、
ここから回復する。ここから主は、あのやけの原となったエルサレムに新しいことを始め、
都を再建し、神殿の礼拝を新たに再建される。
あれの荷道をあれ地に買おうというのはまさに、不従順によって滅んだエルサレムの神殿、
そこに主が再び立法が心に刻まれたとエルミヤ書の言葉にありますが、
立法が心に刻まれた民が再びそこで真摯に神様を礼拝する。
そのような光景を回復する。それがこの言葉の約束でしょう。
15:04
ただ、私たちは予言の言葉を見ますと、本当にそれが実現したのかということが気になります。
少しその後の歴史を見てまいりますと、この予言の言葉はどうなったでしょうか。
ご存知かと思います。エルサレムに民が帰還してきた後、彼らは神殿を再建します。
そして都を建て直します。旧約聖書でいうと、エズラキ・ネヘミヤ記に書かれているのはそういうことですね。
預言者ゼカリア・ハガイもそのことを預言をいたしました。
そして、このエルサレムの地域はいろいろな国に支配をされながら、しかし滅んでおよそ500年後がイエス様の時代です。
イエス様の時代には、エルサレムというのは大きな立派な都になりました。
エルサレム神殿は荘厳な神殿に大改築されました。改築したのはイエス様をクリスマスの日に殺そうとしたヘロデ大王ですが。
しかし大改築がなされて、都も神殿も素晴らしい場所に建てられました。
いわば神様の新しいことを成すと言われた言葉は、実現したように見えるのですが、
しかしイエス様はそのようなエルサレム神殿を見てどう言われたでしょうか。私たちはよく知っていると思います。
マタイ・マルコ・ルカの福音書では共通して言われていますが、イエス様は神殿を見て怒ります。
イエス様はこういう言葉で神殿を批判いたしました。
あなた方は祈りの家を強盗の巣にした。強盗の巣にしたと。
お気づきかもしれません。強盗の巣という言葉は先ほどのエレミアと全く同じ言葉です。
イエス様がこの言葉を使われた理由は何かというと、都も再建をした、神殿も荘厳なものとして再建された、
しかしそこにある中身というのは実は、あのミナミユダが滅んだあの時期と全く同じことがここで起きている。
神殿は立派だけども、その中にいる人たちは立法を簡単に破り、罪に無感覚であり、そしていわば堅くなな者たちである。
その結果、エルサレムの指導者たち、イエス様が批判したエルサレムの指導者たちは救い主であるイエス様を殺してしまいますね。
そして歴史的に見るならば、イエス様が十字架に架かられたおよそ40年後に、ローマ帝国によってエルサレムは完全に破壊されます。
実は同じことが繰り返しているんです。歴史において同じことが全く繰り返されている。
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神様は新しいことを始めるとあの時に予言されました。
しかしこの歴史を見る時に、私たちは問わざるを得ません。本当に新しくなったのだろうか。
本当に新しくなっていないとするのであれば、神殿も都も建っているのに新しくなっていないとするならば、じゃあ一体何が新しくなっていなかったんでしょうか。
何が欠けていたのか。
言い方を変えるならば、人々は最初これを再建しなければいけないと思っていたにも関わらず、時とともに何を一体忘れてしまったのかということです。
私はその鍵が今朝もう一箇所開きましたエゼキエル書の言葉だと思います。
エゼキエル書の48章の35節をお読みいたしますと、このような言葉ですね。
先ほど読んでいただきましたが、この町の名はその日から主はそこにおられるとなると。
時代が遡りますが、少し旧約の時代に戻りますが、予言者エゼキエルというのはエレミアと同じ時代の予言者です。
南ウダが滅ぶ時にエレミアは最終的にエジプトに逃れていきますが、予言者エゼキエルというのはおそらくバビロンに滅ぼされた時の第一次保守。
最初に有力者たちがバビロンに運ばれて、最後決定的に破壊されて二つ目の保守があるんですけれども。
この最初の保守で運ばれた神殿祭祀であったのではないかと言われます。
そして彼は、保守された先のケリテ川という川沿いで主の幻を見ながら、異国の地でエルサレムについての予言を書いたのがエゼキエル諸です。
ただそのエゼキエルが予言をするその活動の最中に、エルサレムの都は陥落したという知らせをエゼキエルは聞かされます。
エゼキエル書の33章の21節というところにその言葉がありますが、都が占領されたという言葉を彼は聞きます。
祖国の喪失というのは本当に大きな痛みですけれども、ただその知らせの後に描かれるエゼキエルの予言というのは、実に回復の予言なんです。
裁きの予言もあります。しかし回復の予言ですね。
特に心に留めたい言葉が一箇所あります。エゼキエル書の36章の26節というところを少しお読みしますが、エゼキエル書の36章の26節というところをお読みします。
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有名な言葉だと思いますが、こういう言葉があります。
エゼキエル書36章の26節
あなた方に新しい心を与え、あなた方のうちに新しい霊を与える。
私はあなた方の体から石の心を取り除き、あなた方に肉の心を与える。
この同じ言葉はエゼキエル書の11章にも出てまいりますけれども、
ここにもエゼキエルを通して神様は新しいことをなされるとエゼキエルにも語るのです。
しかしエゼキエルに主が語られる新しさというのはどこなのか。
都も神殿も必要です。これは当たり前に必要です。
しかし根本的に立て上げられるのは人の心です。
かつての南ユダが、そしてイエス様の時代のイスラエルの指導者たちがそうでしたけれども、
罪に無感覚で、そしてカタクナである。
しかしそのような自分たちではどうしようもない、そのようなことになってしまった時に、
神様は神様から人の心を変えると働きかけられる。
それは私はあなた方に新しい心、新しい霊を注ぐ。
その霊によってあなた方の息の心、これはまさにカタクナな心ということです。
息の心を柔らかい肉の心とする。
肉の心とは何か、いわばそれはこの37章に書かれていますが、
まさに神の霊が枯れた骨に吹きかけられて、骨に肉が付けられていって、
死から命へと蘇らされていく。
そのような肉の心、命を吹き返した心。
神の命を宿し、神に開かれた心。
そして神は生きておられると喜び叫び、その前に跪く心です。
それが肉の心ではないか。
そしてこの新しい肉の心を持つ民が招かれる場所が、
このエゼキエル書の40章以降に書かれています。
都、神殿。
この新しい都、新しい神殿というのは、
実際これはエルサレムの町よりもかなり広いんですよ。
エルサレムのことをそのまま言っているわけではないと言われますが、
24:02
しかしその都の中心の町のことが書かれているのが38章の30節以降で、
その町は何と呼ばれるか。
その町はその日から主はそこにおられると呼ばれる。
主はそこにおられる。
言わばそれは、生ける神様を認め、生ける神様を恐れ、
生ける神様に従い、生ける神様への信仰を持つ、
そのような肉の心を持つ人たちの住む場所ですね。
このエゼキエルの予言というのは成就したのでしょうか。
おそらく部分的には成就をしている。
エゼキエルのこの予言はよくイエス様を通して実現したと言われます。
新しい霊、新しい心というのは、
精霊様によって作り変えられた私たちの心ですよ。
私たちがカタクナの心の隙間に、
でも精霊様がそこに入り込んでくださって、
私たちの心を変えてくださったということを、
私たちは経験するじゃないですか。
石の心は肉の心にもうすでに変えられているということが、
私たちは言えるのだと思います。
そしてじゃあこの新しいエルサレムはどこなのか。
これは教会です。教会。
教会はこの新しいエルサレムの前味を生きていると言ってもいいかもしれません。
前味を生きている。
長らく聖書を見てきましたけれども、
私はここから2つの大切な語りかけを、
今私たちは聞くことができるのではないかなと思うのです。
1つは教会にとって今まで心がカタクナだということは、
別に皆さんのことを何か言いたくて言っているわけではないのです。
ただ私たちは神殿や建物は大事ですね。
でももっと大事なのは、
都道私たち一人一人の心です。
私たち一人一人です。
神様は私たちに新しい霊を注ぎ、
私たちに肉の心を与えてくださいました。
私たちはこれを信じていいと思うんです。
肉の心を与えてくださった神様の前に私たちは心を開かれて、
主の霊によって私たちは砕かれ続けながら、
主の御前に、主は生きておられる素晴らしいという賛美するものに変えられていますよね。
それは本当に感謝ですし、喜んでいいのです。
ただ同時に私たちは発展途上でもあります。
27:01
今なお所々に石の心は残る部分があるのだと思います。
でも、聖霊様の働きというのは、石の心を砕き続けるのです。
そして私たちが自分自身を諦めてしまう時にも、
私はもうどうしようもなく変えがたいと思う時にも、
聖霊様は私たちに肉の心を作り上げることができるんですね。
そのように主は私たちに働きかけ続けてくださっている。
どんな罪の歪みをも、神様は癒し、聖霊様は癒し、
命を与えることができる。
私たちの教会はこの命の福音に救われ続ける、
そのような群れなのではないでしょうか。
そのことをちゃんとご一緒に覚えたいと思うのです。
そしてもう一つ、二つ目は、この肉の心が私たちの内に築くのは、
主はそこにおられるという、生ける神様の前に跪く信仰です。
主はそこにおられる。
聖書の歴史をこれまで見てきながらも思いました。
人間というのは私も含めてそうですが、実に忘れやすいのです。
忘れやすいのです。
ただ人間が最も忘れやすいのは何なのか、
おそらくそれは私も自戒を込めて言いますが、
主の臨在に対する恐れです。
私たちは一番それを忘れやすいのではないかと思います。
ただそういうことを思うときに、私は教会堂の礼拝堂の入口の上に、
主はそこにおられるという言葉が掲げられているのは実に意義深いと思います。
私も聖書の書を見ながら、最初に思いました。
なぜ先生はエゼキエル書を選んだんだろうと。
主の臨在を表す言葉はマタイにもあるし、
神殿奉献の第二列王旗のソロモンの言葉でもいいし、
私たちは主帝エジプト紀の33章の
私があなたと共に行って平安を与える、その言葉でもいいのに、
なぜエゼキエル書のこの歌詞を選んだんだろうか。
ただ私が思わされたのは、エゼキエル書のこの言葉は
再建の言葉だということです。再建です。
それは神の臨在の再建、神の臨在の回復、
そしてそこに跪く私たちの主への礼拝の再建です。
礼拝の絶えざる再建。
30:01
何度も何度も私たちに語りかけられるのは、
礼拝が再建されるというのは一体何なのか。
忘れてはいけない、主がそこにおられるということです。
主がそこにおられる。
私たちのこの礼拝堂で守る礼拝も、
いやここに来れなかろうとも、私たちがその場において
主を仰ぎ礼拝するその場所にも、主はそこにおられるんです。
その前に私たちは恐れ跪くわけじゃないですか。
しかし私たちは同時に思うんです。
主がそこにおられるのであれば一体何を恐れるのだろうか。
私はそこに大きな励ましと力があることを強く思います。
教会のある種中心ではないでしょうか、
この本質的なところの再建を絶えず行い続けなさい。
この礼拝の席に座るときに、
あなたはただ主ご自身だけを求めて座りなさい。
そのように語られているのではないかなと私は思うのです。
私たちは今も、そして天に帰るその日まで、
主がそこにおられることを、
そしてまた主がおられるところに私もいることを
願いたいなとそう思わされます。
一言お祈りをして、見言葉を終わりたいと思います。