1. 名谷教会 podcast
  2. 2014/08/03:聖日礼拝(旧音源)
2014-08-03 49:59

2014/08/03:聖日礼拝(旧音源)

2014/08/03 聖日礼拝(旧音源)




00:00
アーメン、ありがとうございました。
皆さん、おはようございます。
先週の1週間は、子供を身近にキャンプが開かれて、金曜日の公演、そして彼らは、
昨日、無事に、左右の影響があって、飛行機が結構揺れたそうですけれども、無事に到着できましたことを感謝いたします。
見えるところ、見えないところで、多くの方々が、教会全体が一つになって、応援してくださり、支えてくださり、本当にですね、
教会が一つになって、今回のこの教会のキャンプのような、子供たちのキャンプのようなことが、本当に恵みのうちに終わりました。
教室の教師の皆さん、あるいは本店の方々、顧客でしたからね、そのお世話し、また食事の準備や送迎やら、本当に、
彼らもですね、本当に感謝して感謝して、涙で帰りました。
また、見えないところで、皆さんが捧げ物を捧げてくださって、彼らもまた、教会から接待できたことも本当に感謝いたします。
何より子供たちが、今来ている子供たちは4人ぐらいで、そして11人ぐらいは新しい子供たちでした。
そしてですね、彼らがまた、玉田さんとか他の先生方と関係を通して、今回のキャンプに出席しましたので、
この関係を生かしてですね、また持ち続けて、その子供たちの、それからそのお母様たちの魂が救われるようにですね、また続けて祈っていきたいと思っております。
本当に皆さんの愛とご保守を、これから感謝いたします。お疲れ様でした。
周りの方々にあげますように。お疲れ様でした。ありがとうございました。感謝いたします。
向こうもこちらも、こちらは日本語ができても、向こうは日本語ができない。向こうは英語ができたら、こちらが英語ができなくて、苦労された方もいらっしゃったんですけれども、本当にでも礼は通じてるしね、やっぱり目と目のことがありました。
それに伴って一つですね、一緒にですね、祈っていきたいことがありますけれども、
こうして教会の活動が活発になるにつれ、人手が大きくなったり、集会が大きくなって、人が大きく集まると、音が、声が大きくなることは仕方がないことなんですよね。
去年から、隣の方々に、教会の様々な活動に対して反対されたり、文句を言われたりして、監視されているような気がします。まるで役所に報告をしないといかないようにですね、一日報告をしなくならない。
03:03
ちょっとだけも違ったら、それにまた言われることがあったりしてですね、私とか役員たちは祈っているわけなんですけれども、
キャンプの期間中にもですね、子どもたちや青年たちも、毎日のように何回もようにですね、顔を出されて、言われて、怒られて、たくさんありました。
キャンプの期間中だけでなくてですね、普段、子どもたちが近いところに結構いるからですね、教会に放課後、遊びに教会に来るんです。
3時、4時、2時、3時にあるときは、午後に遊びに教会に来ることは嬉しいことなんですよね。子どもたちだから、もうざわざわしたり、うるさくすることは、それは子どもの当たり前のことなんですよね。
そうすると、またすぐにですね、顔を出されて、うるさいと言われることが毎日のようにあります。
もちろんですね、私たちが注意すべきことは注意して入りましょう。朝早く水やりはしないこと、あるいは教会の手前には通車をしないこと、また出入りするときにはなるべく小さい声でしゃべること。
注意すべきことは注意しなくならないと思います。名前やルールを守ることは守るんですけれども、でも教会の本質的な活動や様々なことをしないでほしい、集まらないでほしい、そう言われているところなんですね。
そうしたら、最もいいのは、教会がなくなったら、彼らには最もいいかもしれません。でも、そうすることはできないことなんですよね。
だから今後神様がどういうふうにこの三谷教会の歩みを導いてくさるか、まだ見えてこない知りませんけれども、私たちは神の愛をもって愛し続けて、また哀れの心をもって再生させていかなくならないと思いますけれども、
これはマナーや迷惑を超えた、ある意味での教会の活動、神に対する誤解でもありますし、ある意味での攻撃でもあるかもしれません。もちろん彼らも20年間我慢したものが去年になって爆発したかもしれませんけれども、
さまざまな限界があります。救助の問題もありますし、教会はですね、朝閑であろうが、昼であろうが、夜であろうが、いつでも集まって思い切り賛美し、祈って活動することが教会なんですよね。
それができなくなってしまうことは、これは教会の存立と言いましょうか、教会の存在に対する大きな制限であり、また差し支えのことになると思いますので、どうぞ。
06:03
覚えてですね、祈って、思い切りですね、賛美し、礼拝し、朝も昼も夜もですね、礼拝するというところが、主が備えてくださることを信じます。
アドナイイレエの神様、主の山に備えるという見事があるようにですね、まだ決まってないし、まだ誰にも言ってないことなんですけれども、私個人的にですね、祈っているところですけれども、
あの敬明の今井会館を、もしできるならば、日曜日ごと借りてですね、そこで礼拝することもいいんじゃないかと思っています。駐居所も広いし、また誰にも防災されることもありませんしね、そういうこともありますし、できることはどうかはまだ分かりません。
時々借りるのは問題なくて、その事務次長の小西さんという方がですね、去年初めにお会いして借りに行ったときにですね、もう日曜日、1年ずっと使ってない、持たないですから、
みょうだね協会で使ってもらえませんかと、あの事務次長に言われました。で、まだこちらの事情もありますので、決まってないんですけれども、そういうですね、礼拝できる場所がですね、踏まえられて、礼拝できますように祈ってまいります。
私たちが注意すべきことは、注意してですね、お互いに関係をよく持っていきたいと思っております。では、御言葉に入る前にお互いにですね、挨拶いたしませんか。
はい、では一言お祈りいたします。神様、あなたの恵みの心から感謝いたします。1週間のキャンプを通して、教会が一つになって、祈り、支え、奉仕できたこと、本当に一生感謝いたします。
何より彼らが17人が、本当に大事な時間を割いて、愛を持ってやってきて、様々な事を使えて奉仕してくれました。
そして、幼子たちが、主を愛し、主人を愛し、そして救われ、本当に将来、日本のため、世界のため、神の教会のために用いられる人物が、主をここから侵されますように、神様豊かに祝してください。
また、教会の兄弟姉妹たちの、本当に徒労を、主は拭いて、報いて、祝ってください。今から神の御言葉に耳を傾けます。どうぞ主よ、お語りください。
09:02
イエス様の御名によって、お祈りいたします。
アーメン
はい、今日は、キリスト教のエッセンス、父なる神様、3回目です。
今日は、大しく2つを共にですね、神様の御一世、神様、私たちが信じる父なる神様がどんなことなのかについて、言葉から教えていただきたいと、そう願っております。
まず第一は、私たちが信じる父なる神様は、聖なるお母さん、聖なる主、聖なる神様です。
旧神約聖書を通して、私たちが対面する、お会いする父なる神様は、聖なる主であることなんですね。
今日の御言葉をちょっと見てみましょうか。16節です。
一緒に読みましょうか。16節。
3回、私たちの神、主よ、あなたの聖なる皆のために、家をお建てしようと、私たちが用意をした、これらすべてのおびただしいものは、あなたの見てから出たものであり、すべてはあなたのものです。
ここにもありますように、あなたの聖なる皆、神様の御人生の中で、最も重要と言いましょうか、私たちが忘れてはいけないことは、父は聖なる主であることです。
もう一箇所見てみましょう。
レビティです。旧約聖書、レビティ、11章、4図4節、4図5節です。
旧約聖書、189ページです。レビティ、11章、4図4、4図5です。
では、4図4節、私が読みます。4図5節は、みんなで一緒に読みましょう。
私はあなた方の神、主であるからだ。あなた方は自分の身を聖別し、聖なるものとなりなさい。
私が聖であるから、死を、歯をいかなる群生する者によっても、自分自身を殺してはならない。
私はあなた方の神となるために、あなた方をエジプトの地から導き出した、主であるから、あなた方は聖なるものとなりなさい。
12:01
私が聖であるから、アーメン。
ここに、あなた方は聖なるものとなりなさい。なぜでしょうか。
神様が、主なる神様が、聖であるからなんですね。
この、あなた方は聖なるものとなりなさい。私が聖であるから、この御言葉は、この旧約新約を貫く神様に対する、そして私たちに対する、最も重要な今姫の一つなんですね。
主なる神様は、聖なるお方です。
自ら、聖なるお方です。
誰かから清めてもらったから、聖なる方になったわけではないんですね。
あるいは神様は、自分が頑張って清くなられたわけでもない。
神様存在そのものが、聖なる方である。
そしてですね、その神様が、私たちに、聖なるものとなりなさいと言った。
つまりそれは、私たちが聖なるものになれるんです。
そうなんですよね、皆さん。
私たちにできないことを、神様がこうしなさい、ああしなさいと、神様が命じられることはないんですね。
私たちが聖なるものになれるから、神様が聖なるものになりなさい。
つまりそれは、神様が私たちを清めてくださる。
聖なるものにしてくださる。
その意味が、この聖なるものとなりなさいという御言葉に含まれています。
主が聖なるものにしてくださる。
私がしてあげるから、あなた方は聖なるものになりなさいというメッセージなんですね。
それは、神様は聖なるお方です。
その聖という神の御品性が、私たちが作られる時、最初からその聖という品性が込められて作られたわけですから、
私たちは初めの時は、神様と同じ聖なるものだったわけなんですよね。
しかし、罪のゆえにそれを失って、あるいはそれが破壊されて壊れているそのところが、
回復されて、治って、聖なるものになるといいます。
それでは皆さん、この聖なる、清いという意味を、聖書の意味で考えていきたいと思います。
まずは、この聖書でいう、聖なる、清い、聖という、この言葉の意味、その一つは、違う、異なるという意味があります。
異なるという意味が、この聖なる、清いという意味にあります。
つまり、神様は、本質的にこの世と異なるお方です。
15:05
神様は本質的に、悪と罪と異なるお方です。
また、神様は、この世とこの世の法則とも異なるお方です。
皆さん、ですからこれは、私たちの生き方に対しても、とても重要な意味を与えているわけなんですね。
神様がこの世とこのルールや、この世の法則や、悪と全く異なるお方であられる。
ですから、私たちの生き方も、この世、この世の法則、この世の価値観、物質観、あるいは恋愛観、結婚観、
様々なことと異なる生き方でありなさい。
そういうメッセージが、この聖なるものとなりなさいということなんですね。
パウロが言ったように、私たちの国籍は、この地上にはありません。
どこにありますか?
天にある。
つまり、この地上に生きてはいますけれども、属していない。
この世で働いていますけれども、この世の人々の価値観や物質観、経済観とは違った、異なった生き方をする。
それが、実は清い聖なるという意味なんですね。
いかがでしょうか、皆さん。日頃私たちの生活を振り返っていただけますか。
この世とこの世の価値観、結婚観、あるいは恋愛、あるいは考え方、あるいは生き方と、
私たちは聖なるものだから異なった、区別されたものでなければならないということ。
それが清く生きるというメッセージなんです。
言葉も考えることも振る舞いも、この世の人々と異なっていなければならないことなんです。
では、この世の神様を知れない人々の言葉や振る舞いはどんなものでしょうか。
聖書はこのように語っています。
新約聖書を開きましょうか。
エセソビトリの手紙4章22節から24節です。
18:00
新約聖書378ページです。
開いて一緒に読みたいと思います。
まず私が22節読みますね。
よろしいですか。
新約聖書378ページ、エセソビトリの手紙4の22節からです。
その教えとは、あなた方の以前の生活について言うならば、
人を欺く情欲によって滅びていく古い人を無儀しているべきこと。
聖なる清い生き方をエペソビトリの手紙4の22節からです。
また、あなた方の心を霊において新しくされ、
精霊において新しくされること、それが聖なる清い清くなるということです。
24節、真理に基づく義と聖をもて、神にかたどり作り出された新しい人を見に来るべきことです。
清い生き方を作ることは、ヒト・パウルは新しい人、つまり聖霊による新しい人を見に来るべきと言っています。
では、25節からいきますが、この世の人々、聖でないことはどんなものでしょうか。見ていきましょう。
25節ですから、あなた方は偽りをしている。偽りは聖でありません。
各々の隣人に対して真実を語りなさい。
私たちは身体一部分として宝にそれぞれのものだからです。
26節、怒っても怒りは聖でありません。
罪を犯してはなりません。日が暮れるまで生きどおったまま、生きどおりも聖でありません。
生きどおったままでいてはいけません。
27節、悪魔に使いを与えないようにしなさい。
28節、盗みをしているもの、盗むことは聖ではありません。
盗んではいけません。
かえって困っている人に施しをするため、自分の手を持って正しい仕事をし、骨折って働きなさい。
これが聖であります。
29節、悪い言葉、これは聖ではありません。
一切の口から出してはいけません。
ただ、必要な時に人の徳を養うのに役立つ言葉を、これが聖であります。
救う人に恵みを与えます。
30節、神の精霊を悲しませてはいけません。
21:02
神の精霊を悲しませること、これが聖ではありません。
あなた方は、贖いの日のために、精霊によって教員を押されているのです。
31節、無慈悲、これは聖であります。
生きどおり、聖でありません。
怒り、聖でありません。
叫び、聖でありません。
不思議、聖でありません。
一切の悪意、聖であります。
だから、皆捨て去りなさいとあります。
もう一箇所、第二コリント人への手紙です。
十二章、二十節です。
第二コリント、十二章、二十節。
361ページです。
第二コリント、十二章、二十節。
では、一緒に見ましょうか。二十節3回。
私の恐れていることがあります。
私が言ってみると、あなた方は私の期待しているようなものでなく、
私もあなた方の期待しているようなものでないことになるのではないでしょうか。
また、争い、妬み、意地どおり、
踏破心、そしり、陰口、高振り、騒動があるのではないでしょうか。
これは、コリント教会の中にも、このような聖でない彼らの神聖と言いましょうか、
そういうところがありました。
争いがありました。
妬みがありました。
意地どおりがありました。
踏破心がありました。
アボロハ、ペテロケパハ、イエスハ、パオロハ、
派閥がありました。
そしり、陰口、高振り、騒動がありました。
皆さん、こういったものは、聖でないです。
この世と、この世の、サタンから出たものなんですね。
この世の人々は、だいたいこんなふうに生きています。
自分を守るために、嘘をつく、争い、怒る、意地どおり、
その心の中に、悪に満ちている、派閥をつくる、人を阻じる、
妬む、それも、そういう言葉、そういった振る舞いが自然に出てくる。
24:01
これは、この世の生き方なんですよね。
ですから、聖なるものという意味は、
この世とは全く違った生き方、
この世とは全く異なった清い生き方をすること。
これが、聖なるものの生き方なんです。
皆さん、私たちは、この世の人々と、
言葉や生き方、歩み方が、全く異なっていなければならないんです。
個人と教会の信徒たちのように、
もしも、私たちの押し側に、皆さん一人ひとり、
あるいは明太寺教会の中に、弱い部分があるかもしれません。
もちろん、ないかもしれません。
意地どおりの問題、掛け口、あるいは遠端心、
あるいは高ぶり、あるいは妬み心、
そういう考え、あるいは言葉、あるいは振る舞いの、
その弱い部分があるかもしれません。
そういうところが、聖霊に満たされて、
聖霊の力によって、清められていくこと。
皆さん、清められるということは、
単なる悪いことをしない、そういう低いレベルを
言っているのではありません。
そうならば、大体日本の方って、
悪いことをしない人が多いんですよね。
人に迷惑をかけない、マナーを守る。
そしたら、みんな彼らに対して私は、
清い人、聖なる人とは言えないですよね。
言わないんです。
私と妻の話なんですけれども、
今は若いですけど、もっと若い時は。
二人とも、この怒りをなかなかコントロールできないような夫婦でした。
だからといって、毎日ように爆発する、
そういう夫婦ではないんですよ。
よく喧嘩もしましたし、
子どもたちにもコントロールできずに、
そう、あいんでしまいました。
ところが、よくよく神様から示されることは、
怒り、一通りというものは、
それは人に傷つける、それだけではなく、
神の栄光を遮ってしまう。
神様が働こうとする、神の御業を邪魔にしてしまう、
大きな罪であることを、ついつい御言葉から示されて、
そしてまたそれは、怒りと一通りというものは、
怒りというものは、正でない、見たまのみではないんですよね。
27:03
見たまのみは、喜び、快意を受け入れるから、
正反対なんですよね。
だからそれはですね、常に神様から示されて、
砕かれて、悔い改めて、仲直りしてですね、
時には、私が言葉が足りないものから、
教文の手紙を書いて、お詫びしたりですね。
彼女はいつも手紙を書いてくれないんですけど、
心から許してくれるでしょう。
そういうふうにですね、御言葉に養われて、
一通りや怒りを、昔よりは受精できる、
そして許し合う、愛し合うものになりつつあるわけなんですよね。
皆さん、怒り、特にですね、怒りとか一通りというものは、
神の御業を邪魔するんです。
さえぎってしまうんです。
怒りや一通りのある人生の中に、
あるいはこういう家庭や教会の中に、
神の栄誉は表されないとか、
これはとても重要な祝福の原理なんですね、皆さん。
あるいは、ついつい不平を売らすという癖があるかもしれません。
弱い所が誰にもあると思います。
そういう所を神は憐れんでくださって、
そういう所が清一色するように神がやってましてくださるんですね。
だから神からそれを秘めていただいて、
そしてそれが成熟していけるように、
それが聖なるものとなると。
皆さん、今日立ち止まって、
皆さん自分自身に、あなたに弱い部分は何でしょうか。
なかったらいいんですよ。それは嬉しいことですけれども。
弱い部分があるかもしれません。
何か固定できない所があるかもしれません。
そういう所が、
聖霊の力によって成熟できるように努めてまいりましょう。
そして力をいただきましょう。
これが聖なるものとなるということです。
二つ目、聖なる、清いという意味の中には、
完全に神様に向かうという意味があります。
これは聖なる、清いという言葉の深い意味なんですけれども、
先ほども申し上げたように、
清い、清なるという意味は単純に悪事をしない。
そういう意味ももちろんありますよ。
しかし、そういう基礎的な意味だけではなく、もっと深い意味は、
30:01
一人の生活、人生が完全に神様に向かって生きる生き方。
それが実は清い、清なるという意味なんです。
昔のラジオは、回って9拍を合わせて聴いたりしました。
このままボタンを押したら、自動に合わせてくれるんですけれども。
いくら放送局で素晴らしい放送をしていても、
自分のラジオのこの回して合わせないと、
それは自分に聞こえてこないんですね。
放送局で放送していないわけではない。
お笑い番組をしているかもしれません。
しかし、周波数を合わせない限り、
その放送局の放送を聞くことはできないんですね。
同じなんです。
神様はいつも私たちに祝福を注ごうとしておられる。
良いことをしようとしておられる。
祝福を与えようとしておられる。
語って語って語っておられるんですね。
そしたら、私たちのこの霊の周波数を神様に合わせて、
神様だけに向けて集中しているときに、
神様と私が一つになる。
これが清い聖なる生き方なんです。
だから、清い聖なる人は神様に祝福され、
持ちいられ、神の御声を聞き、従っていくことができるようになる。
なぜでしょうか。
神様の放送に私たちの周波数を合わせて聞いて、
それが私のところに流れてくるからなんです。
皆さんの霊のラジオの周波数は神様に合わせてありますか。
どこの放送局に合わせてありますか。
BSですか、NHKですか、テーブルのテレビですか。
皆さん、これが聖なる清い生き方なんです。
ただ、常にひたすら自分の思いや言葉や心、
振る舞いを神様に向けて、
神様に頂点を合わせて生きる生き方、
これが聖なるもの、清い生き方なんです。
ですから皆さん、清い、聖なるという言葉は、
神様との関係の上に立てられる言葉なんです。
神様と何の関係がない。
33:01
いくらいい人であっても、それは聖なる清いと言えません。
神様との親子の関係が結ばれた上で、
清い生き方、聖なる生き方がそこに立てられるという。
聖書にはこのように、ただひたすら常に神様に、
この周波数を合わせて、神様にして、
神の思いと神の心といつもひとつにして、
どこであっても歩んでいった人物がありますね。
それは、ヨセフです。
彼は役所の子供であった時も、
ニベアン商人に売られた時も、
奴隷であった時も、
牢屋に入れられた時も、
エジプトの総理になった時も、
彼はですね、ただ常にひたすら神様に向いている生き方をしています。
このようなヨセフの生き方を、
聖書はこのように、褒めているように図っているんですね。
そこをちょっと開きましょうか。
創世記三十九書です。
創世記三十九書、旧約聖書71ページですね。
まず二節一緒に見ましょう。
三、よろしいですか。
主がヨセフと共におられたので、
彼は幸運な人となり、
そのエジプト人の主人の家にいた。
ここにですね、主がヨセフと共におられました。
だから彼は幸運な人になりました。
三節、もう一度一緒に見ましょう。
彼の主人は、
主が彼と共におられ、
主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。
周りの未死者のポテファルも、
主がヨセフと共におられることを見たんですね。
もう一箇所、二十三節です。
この時は、監獄に入れられてしまった時のことなんですね。
二十三節、三回。
監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては、
36:01
何も感傷しなかった。
それは、主が彼と共におられ、
彼が何をしても、
主がそれを成功させてくださったからである。
皆さん、これなんです。
これが清い生き方なんです。
これが聖なるものなんです。
単なる悪いことをしないだけじゃなくてですね、
神様に向かって、
神様の思いと神様の御言葉と一致して生きる。
そして、周りの人々を愛し、
帰りみる。
そして、自分がやるべき仕事をですね、
本当にそれを心尽くしてやりこなすこと。
それが、聖なる生き方。
奴隷であっても、囚人であっても、
総理であってもですね、
いつもどこに置かれていても、
どんなコンディションに置かれていても、
いつもひたすら神様の周波数に合わせる。
そして、神の思いと自分の思いを一つにする。
神の心と自分の心を一つにする。
神の御言葉が自分の言葉になるように、
神の御言葉が自分の口の言葉になるように、
合わせて生きること。
これが聖なる生き方。
予選部はこのような生き方。
聖なる神様は、
聖なる人とともに歩まれるわけです。
これは大事ですね。
聖なる人が、
聖なる清い人とともに歩まれる。
だからその人生は幸運な人になる。
その人の人生は栄えるものになるわけなんですね。
ここに祝福の原理があるわけです。
これを覚えましょう。
その次、大きく二つです。
第一は、神様は聖なるお方であることを教えておきましょう。
第二は、聖なる神様は許しのお方です。
お許しになる主です。
私が神様の御前でいつも感謝し、
いつも歓喜する、
その理由は、
私たちの信じる神様が、
許して、許して、また許して、また許して、
許して、許して、許して下さる、
慈しみ深い、許し深いお方であられるからです。
だからこの許しというものは、
愛を前提にします。
私たちを愛するから、
39:02
神様は許して下さるんです。
愛すれば何でも許せるんです。
いくら子供たちが前世の中でうるさくしても、
自分の子供は可愛いです。
愛するから。
神様は私たちを愛して、愛して、愛しておられます。
だから、許して、許して、許して、
神様が許して下さったから、
私たちは、はばかることなく、
大胆に主の御前にこうして集い、
礼拝できるのではないでしょうか。
誰が大胆に神の御前に立つことができるのでしょうか。
誰が神の御前に立って奉仕できるでしょうか。
それができるほどの資格を、
値を持っている人は、実は一人もいないわけなんですね。
もうせつな神の顔を見ることができなかったわけです。
いません、いません。
しかし、主が慈しみを持って、
許して下さったから、
私たちが主の御前に、
はばかることなく、
近づくことができる、
礼拝できることを、
この朝、もう一度立ち止まって、
考えていただきたいとそう思いますから。
政府一括を見てみましょう。
旧約聖書、伊沢書。
1章、18節です。
伊沢書、第1章、18節。
旧約聖書、1127ページです。
伊沢書、第1章、18節。
一緒に読みましょうか。
さあ、来たれ、論事あお。
と主は仰せられる。
たとい、あなた方の罪が、
血のように赤くても、
雪のように白くなる。
たとい、紅ように赤くても、
羊の毛のようになる。
アーメン。
皆さん、実は私たちの罪は、
悪は、
死のようですか、紅のようですか。
いや、真っ黒でした。
しかし、いくら赤くても、
いくら黒くても、
主は白くして下さる。
いや、白くして下さいます。
また、これからも白くして、
42:00
許して下さるんですね。
もう一ヶ所、2編。
103ペン、12節です。
103ペン、12節。
1008ページです。
10節から12節です。
ちょっと長いですけれども、
一緒に読みますか。
103ペン、10節から12節。
神様は私たちの過ちや罪を、
どのように扱われるのか、
見ていきたいと思うんですね。
3、私たちの罪に従って、
私たちを扱うことをせず、
私たちの徒がに従って、
私たちに報いることもない。
天が地上はるかに高いように、
御恵みは主を恐れる者の上に大き。
しかしが西から遠く離れているように、
私たちの背きの罪を、
私たちから遠く離される。
アーメン。
罪に従って扱われないんですね。
報いることもない。
そしてもう東が西から遠く離れているように、
私たちの背きの罪を、
私たちから遠く離してくださる。
この許しの恵みを覚えようではありませんか。
先週のキャンプに、
イエス文化協会のシム先生と
政治的にいろいろ話し合っていました。
その時に、
牧師同士で、
漢字と言いましょうか、
話し合うのは、
私たちは本当に、
牧師として働く資格があるものなのか。
どこを見ても、
神様に用いられるような、
賜物も資格もない、
情け不格、
怠け者で、
口は穢れて、
一通り一つすら犠牲ができない、
許しつけない、
愛が足りない、
憐れみもない、
そんな牧師だなと、
言ったりですね。
私だけ感じていたのかなと思ったら、
彼も同じ話をしています。
パールがこう言っていますね。
45:08
それは視聴者たちに向かうメッセージでしたけれども、
多くの人々を神に導いて、
救われるように導いた。
でも自分は救われない。
そういう視聴者があり得る。
いくら自分のことを振り返ってみても、
家庭においても、
教会においても、
選挙区としてみても、
足りないところばかりで、
何より神様の身頃にかなったものなのか。
常にですね。
牧師の悩みは、そういう悩みがあります。
大体そういう悩みを抱えているかなと思うんですけれども、
口談に立つ。
メッセージできるなら、
愛もなく、
許しもなく。
そういうところですね。
常に常に、
だから、
ひざまずいて泣くしかないんですね。
でも、神様に感謝したいことは、
こんな日々だらけのものでさえも、
主は用いて下さい。
許して下さい。
そして、弱い時にこそ、
主の使用者が現れる。
私は弱くとも、神様は強いお肌であられて、
私は穢れた櫛を持っている、
情けない牧師でありますが、
しかし、主は強いお肌で、
主は主の働きを、
主御自身がなっていかれる。
そういうところをですね、
まだ防災の年数、
最高尊敬に比べたら、
はるかに短いものだしけれども、
常にそれを考えさせられるわけなんですよね。
皆さん、神の許しなくしては、
48:01
私たちは賛美も奉仕も礼拝も、
何もできないわけなんですよね。
しかし、主が、
永遠に永遠にあえて、
我々はその愛をもって、
許して下さった。
その愛のゆえに近づくことができる、
礼拝することができていることを、
忘れてはいけないんですよね、皆さん。
この私の憐れみと許しが、
どれほど大きなものなのか。
それをわかっているならば、
私たちが人を許すのは、
当然のことではないでしょうか。
夫を許し、妻を許し、
あるいは親をしゆとめを許す。
隣の誰々さんを許す。
教会の誰々さんを許す。
あるいは自分に悪事をした、
誰々さんを許す。
避けされたあの方、
悪事をしてきたあの人、
そうした人々を、
神の許しを私たちが思うならば、
それがわかるならば、
許すことができますし、
また、許さなければならないことなんですね。
神は愛なり、
仲良しは愛のお方である。
主は大きく二つと申し上げました。
神様は聖なるお方です。
そして、いつまでも許してくださるお方です。
その御品性にかたどって作られたものとして、
聖なる生き方を歩もうでありませんか。
そして、許しのこの道を歩もうでありませんか。
お祈り致します。
49:59

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