1. 名谷教会
  2. 2015/03/15:聖日礼拝(旧音源)
2015-03-15 36:49

2015/03/15:聖日礼拝(旧音源)

2015/03/15 聖日礼拝(旧音源)




00:01
神様、おはようございます。
よくいらっしゃいました。
それでは、今日もメッセージに入る前に、初めての方が多分いらっしゃいますけれども、お互いに挨拶いたしませんか。
よくいらっしゃいました。
ありがとうございます。一言お祈りさせていただきます。
憐れみ深いものは幸いです。その人たちは憐れみを受けるから。
神様、私たちの賛美が、
その日まで続けられました。
その以降も、永遠に主の御名を褒め称える賛美のあの名に、私たちをつかせてください。
そして、私たちが心から永遠に主の御名を賛美し、また聖徒という名にふさわしい道を歩ましてください。
今から神様ご自身が、私たち一人一人に、今日でなければ聞くことができない、あなたの御声を聞かせてください。
素直な心を持って、主をお語りください。質問が聞きますと。
そのような謙遜と従順な信仰を持って、あなたの御言葉に耳を傾け、そしてその通りに行うことができる力も、上から主をどうぞお与え下さい。
感謝して、家様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
はい、今日はですね、三道水訓シリーズ、八福の五回目ですね。
憐れみ深い者は幸いです。
その人たちは憐れみを受けるから。
なんですけれども、先週は六節でした。
四回目で、地に植えかわく者は幸いです。
その人たちは満ち足りるから、という御言葉を共に教えいただきました。
私たちがですね、神に植えかわく者になりたい。
イエス・キリストに植えかわく者になりたい。
消え去る世の者に植えている者ではなく、
永遠にかわくことのない、
03:02
永遠にお腹すくことのない、植えることのない、
キリストその方の恵みに植えかわく者になりたい。
というメッセージをですね、先週共に分かってまた教えていただきましたけれども、
過ぎ去った一休がいかがだったでしょうか。
神に植えかわく、キリストに植えかわいた日々だったんでしょうか。
とりつく私も、また神の御言葉を聞いていらっしゃる会集の皆さんも、
御言葉として語られたそのメッセージをですね、
そのメッセージが自分の歩みに、
今日は哀れみ、哀れみ深い、
哀れみについて共に聖書から教えていただき、
そして単なる学びで終わるのではなく、
実際に私たちが哀れみの者、
神様のような哀れみ深い生徒にならしていきたい。
そこまで生徒していきたいと願うものであります。
皆さん、哀れみとは一体何でしょうか。
教会の中ではですね、多くの語られる言葉の中に、
哀れみという言葉があります。
皆さんは、哀れみ、哀れむという言葉をお口になったら、
頭にまず浮かぶイメージはどんなものでしょうか。
哀れむ、哀れみ。
かわいそうに思う、あるいは同情をする。
たぶんですね、そういった意味が思い出すのではないかなと思いますが、
それもあってはありますね。
ところが、聖書に書かれている、
哀れみ、哀れむ、あるいは哀れみ深いという意味は、
単なるですね、かわいそうだな、
それ以上にもっと深い意味合いがそこにあるわけなんです。
聖書で語っている哀れみとは、
いつも神様の御品性、あるいは神様の御性質を表すときに使われる言葉が、
この哀れみ、哀れむという言葉です。
そしてその言葉はいつもですね、
神様の真実な契約といつも結びついていて、
神様の契約、その真実性とこの哀れみは、
いつもセットな切り離すことができないわけなんです。
06:05
そのところですね、聖書をちょっと開きたいと思うんですね。
旧約聖書の中に、ネヘミヤキということがあります。
ネヘミヤキ、811ページ、ネヘミヤキ第一章、五節をご覧いただきたいと思います。
旧約聖書、811ページ、ネヘミヤキ第一章、五節。
それでは五節をですね、一緒にお読みしたいと思います。
三回言った、天の神主、大いなる恐るべき神、主を愛し主の命令を守る者に対しては契約を守り慈しみを賜る方。
ここにですね、主を愛し主の命令を守る者に対しては何を守りますか。契約を守り。
その次の、ここにはこの契約は慈しみと訳していますが、これが今日の哀れにと同じことです。哀れにを賜る方。
もう一箇所、同じネヘミヤキ旧約、31節、826ページ、826ページ。
ネヘミヤキ、第9章、31節。
これもご一緒にお読みしたいと思います。
三回、しかしあなたは大いなる哀れみをかけて、彼らを滅ぼし尽くさず、彼らを捨てられませんでした。
あなたは情け深く、哀れみ深い神であられますから。
ここにですね、神様は哀れみをかけて、彼らを滅ぼし尽くさず、捨てられず、情け深く、哀れみ深い神であられますから、彼らをかばって守ってくださった。
それが私たちが信じる主なる神様なんですね。
この哀れみというこの意味をですね、考えるために、このイスラエルのス・エジプト、それからアラノでのアの流れ、アのストーリーを一個にですね、考えてみたいと思います。
まず神様は、アブラウの時代から、神様とイスラエルは契約を結んでくださいました。
09:02
それは神様から一方的に、イスラエルの民を守るため、祝福するために、神様が条件を定義して契約を結んでくださいました。
その契約の条件と言いましょうか。
それは神様はイスラエルの神となる。そしてイスラエルをどんなことがあっても絶対に守る。どんなことがあっても絶対に祝福する。
そしてやがてはカナンという、土と水があふれ流れるカナンの祝福の地に導く。
それは神様が示した契約との条件です。
そしてイスラエルの川は何をするのでしょうか。
神様だけを自分だけの人とする。神様にのみ使える。神様にのみ拝むということが、神様とイスラエルの契約書ですね。
ところが、イスラエルはどうだったのでしょうか。
エジプトからアラノレですね。
彼らはその契約を守ったときもありましたけれども、守らなかったときがもっと多くあったのではないでしょうか。
神様にともに約束を守らなかった。契約を破ってしまったことが多くありました。
水がない。肉が食べたい。そしてモーセに神様に逆らいました。
マナーを与えたら食べてですね、飽きた。そしてまた呟いた。
そのようなことだけではなかったんですね。
モーセがシナイさんに登って、40日経ってそこで肉塊を神様から預けられて帰ってきたら、
なんと彼らはあのエジプトで拝んでいた金の牛を作って拝んで踊っていたわけなんですね。
そのようにイスラエルが一方的に神様との契約という約束を破ってしまいましたけれども、
それにもかかわらず、父なる神様は契約に真実な神様は彼らを破ったにもかかわらず、
ずっとずっと彼らを守って祝福して、この契約は無効だよと言ってですね、そうなさらなかった。
アラの時代、スキの時代、あるいは王国の時代、イスラエルが北南に分かれたときに、
安倍の補正のときに、帰ってきたときに、いや、今に至るまで神様のあの憐れみの契約は有効であって、
12:09
永遠に続いているのではないでしょうか。
このように皆さん、原則的にもともとは罰せられるべきである者たちが、
許されるべきでない者たちが、呪われるべき者たちが、
呪われず、許され、罰せられず、神の愛に畏まることができる、そのようになった力、
それが憐れみなんです。それが神様の憐れみなんです。
許されることができない者たちが許される力、それが憐れみではないでしょうか。
呪われるべき者たちが呪われず、祝福、むしろですね、祝福される、それが憐れみではないでしょうか。
愛されるですね、何の条件も規格も持っていない者が一方的に愛される、愛を受けること、それが憐れみなんです。
ですから皆さん、憐れみという言葉は、単純な憐れみ、同情、憐憫よりもと崇高な神様の心です。
聖書ですね、四篇をちょっと開けたいと思います。四篇、五十一篇一節です。九百聖書、四篇、五十一篇一節、九百五十四ページです。
四篇、五十一篇一節にですね、神様の憐れみがどのように現れて記されているのでしょうか。それを見ていきたいと思うんですね。
一節を一緒に読みましょうか。一節、二節まで一緒に読みましょう。
神よ、御恵みによって私に情けをかけ、あなたの豊かな憐れみによって私の背きの罪を拭いさせてください。
どうか私の戸賀を私から全く洗い去り、私の罪から私を清めてください。
このように、皆さん、憐れみはいつも許しとセットで聖書に出てくるんです。憐れみ深い神様であられますから、許してくださるわけなんですね。
15:09
もう一回、同じ四篇の八十六篇、十五節です。九百九十二ページ、八十六篇、十五節。ここも一緒に読みたいと思います。
三杯、しかし主よ、あなたは憐れみ深く情け深い神、怒るのに遅く恵みと誠に富んでおられます。アーメン。
これが私たちの父なる神様の憐れみなんですね。憐れみ深く情け深い神様であられますから、怒るのに遅く恵みと誠に富んでおられます。
皆さん、神様は、イエス・キリストは恵みと憐れみに富んでおられます。神様は、イエス・キリストは許しと憐れみに富んでおられるお母さんなんです。
ですから皆さん、私たちがですね、イエス様を信じれば信じるほど、どのように変えられるのでしょうか。信じれば信じるほど、どんどんどんどん、イエス様の憐れみ、イエス様の許し、イエス様の怒るのに遅く恵みと誠に富んでおられる、
イエス様のご神聖に見習って、そこまで成就させていただく、これが信仰生活ではないでしょうか。
イエス様を信じれば信じるほど、自分のこの人格、神聖が、イエス様の憐れみのように変えられる、イエス様の許しのように変えられる姿勢としていって、そして私たちを誰が見ても、私たちの内側から憐れみがあふれている姿が見えてくる。
イエス様はこの四表を使いました。そこぞそ開けたいと思います。新約に行きまして、マタイの福音書9章13節を開きたいと思います。
新約正章15ページですね。マタイの福音書第9章13節。それでは13節一緒に読みたいと思います。
私は憐れみは好むが、生贄は好まない。とはどういう意味か、言って学んでしなさい。私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。アーメン。
18:17
皆さん、イエス様が私たちに求めておられるのは、神の憐れみを受けること。そして私たちも憐れみ深いものになることなんですね。
根本的に私たちの人格が、品性が、全人格がイエス様のように変えられること。それがイエス様が望まれることではないでしょうか。
そしたら皆さん、誰かの神とさせて、立派な信仰を持っていると。それは、その人の内側に憐れみと許しに富んでいる。慈しみに富んでいるという意味ではないでしょうか。
正しい信仰とは、皆さん、立派な信仰とは、このようにイエス様の品性まで、舌丈まで成長していくことなんです。成長したい。イエス様に見習いたイエス様の憐れみのように自分も憐れみ深いものになりたいと願いを持って歩むこと。聖なる欲を持つこと。それが正しい、望ましい信仰ではないでしょうか。
このような聖なる欲を持ちたい。イエス様のようになりたい。
あのイエス様の人格、イエス様の品性にまで、そこまで、高いところまで成長させていきたい。そのこの渇き、欲、ニーズを持つこと。そのようなクリスチャンになりたいでしょうか。
皆さんは普段、どんな欲を持っておられるでしょうか。何に対して、ああ、こんなになりたい。こんな人になりたい。あるいは、ああ、こういうものが欲しいと。何を皆さんは求めて、うげかわいているんでしょうか。
祈るときに、礼拝するときに、あるいは普段、お家で、会社で、学校で、しこしていらっしゃるときに、皆さんの内側には、どんなニーズ、どんな欲を持って、しこしていらっしゃるんでしょう。義にうげかわくものと同じく、憐れみ深いものにならせていただきたい。
21:12
イエス様のあの素晴らしい、あの憐れみ、私もそのような同じ憐れみ深いものになりたいと。それを主が好まれるということなんです。
皆さんは、いかがでしょうか。皆さんのお家でですね、夫や妻や、あるいは子供、あるいは親に、あるいは教会に来たら、兄弟妻達から、皆さんが見られるときに、皆さんの内側にイエス様が見えてくるでしょうか。
そしたら、皆さんは立派なクリスチャンでしょう。皆さんの夫が、皆さんのご主人さんが、皆さんの奥さんが、皆さんのご両親が、あるいは皆さんの子供がですね、あるいは教会に来たら、誰々さんが、皆さんを見るときに、皆さんの内側で、イエス様のような憐れみと、イエス様のような許しに富んでいるとしたら、それは素晴らしいことなんでしょう。
皆さん、そのようなクリスチャンになりたい。妙なに教会がこのような教会になりたい。このようになるためには、誰よりもまず、僕自身であるこのものが、憐れみと慈しみと許しに富んでいなければならないでしょう。
いつもですね、自分自身には、この憐れみと許しがあまりにも足りないなとですね、それを強く考えさせられて、それを悲しみですね、祈って祈っておるわけなんですね。
主よ、私を憐れみ深いものにさせて下さい。
朝ごとですね、上天のとき、胸を叩きながら、主よ、このものを憐れみ深いものにさせて下さい。
私には憐れみが足りない。慈しみが足りない。愛が足りない。
ですね、悲しんで悲しんでおるわけなんですけれども、仕事を思うたびに、皆さんにはですね、本当に申し訳ないなと思うわけでありまして。
憐れみも足りなくて、許しも足りなくて、愛も足りなくて、本当に欠けただけの僕でありまして、本当に皆さんには申し訳ないと思います。
24:07
皆さん、私たちみんなは、イエス様のこの憐れみと勇気の品質を見習いたいです。
そもそも掘り下げて考えてみたいと思いますが、新約聖書の第一ペテロのところをちょっと開きましょうか。
第一ペテロ二章十節です。新約聖書の後ろのところなんですが、第一ペテロ二章十節。
四百五十四ページです。では十節ですね、一緒に読みたいと思います。
三、あなた方は以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前は憐れみを受けない者であったのに、今は憐れみを受けた者です。
皆さん、私たちみんなは、全ては神の民ではなかったのです。
神の憐れみを受けない者でした。しかし今はどうなっているのでしょうか。
憐れみを受けている、受けている、受けている。神の民になっている。
その証拠、その証は、私たちがこの礼拝の場に集えること。それが憐れみを受けている、許されている証ではないでしょうか。
私たちの中で誰一人も、私はここに来る、私は近くはありますよ。
私は研究もたくさんしましたし、昔ながらの信者だから、ここに来る近くなんじゃ私にありますよと、質問できる人は一人もいません。
神の憐れみがなかったならば、私は許されなかった者たちでした。
神の憐れみがなかったならば、神様を信じることすらできなかったはずですし、
神様の憐れみがなかったならば、賛美すら、礼拝すらできなかった者たちだったのではないでしょうか。
それが許されていて、ありのままでありますが、時には鈍感な者ではありますが、時には穢れのままでありますが、
27:02
でも、人の御前に集うことができる、扉が開かれている、許されているということが、憐れみ、その結果であり、その証ではないでしょうか。
ですから皆さん、その憐れみを受けている者は、自分は憐れみを受けている。
それを常に感じて、常に感謝している者たちは、人の御前に近づきますと、いつも謙遜で、謙遜で、へり下る者になる。
聖書をいただきましょうか。
フィリピン人への手紙、2章3節です。新約聖書、フィリピン人への手紙、2章3節。384ページです。フィリピン人への手紙、2章3節、ここも一緒に読みたいと思います。
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へり下って互いに人を自分よりも優れたものと思いなさい。
これが、憐れみを受けた生徒の人格であって、人生ではないでしょうか。
何事でも自己中心や虚栄からするのではなく、みんなこのようになりやすいです。
しやすいです。しかし、自分はもう憐れみを受ける何のしかともないのに憐れみを受けている。
それをわかっている者は、へり下って互いに自分よりもみんな周りの人々は私よりみんな優れている、みんな素晴らしい人がいると謙遜になります。
それが信仰の証拠なんです。それが信仰の意なんです。
こういう記事がありましたら、お使いしたいと思いますが、皆さんにまず一つセッションをしたいと思います。
2000年人類歴史の中で最大の発明品は何だと思いますか。
2000年この人類の歴史の中に人間が発明したものの中に最も素晴らしいものは何だと思いますか。
30:02
アメリカのジョン・ブロックマンというサイエンティスト、ジャッジの作業さんがそれをアンケートとさせてまいりました。
世界で有名な教授や科学者や哲学者たちにEメールでアンケート調査をしたんですね。
いろんな答えが来ました。ある人はやはりコンピューターでしょ、やはりインターネットでしょ、あるいは鏡でしょ、あるいは印刷術でしょ。
いろんな答えがありました。皆さんは何だと思いますか。
その中、アメリカのニューヨーク大のラッキー・トップという教授が意外な答えをしてくれました。
彼の答えは、人類最大の発明品は消しゴムですと。どういう意味でしょうか、皆さん。
彼はこう言いました。もしも世界にいろんな消しゴムがある、あるいは消すということがある、行いがある。
もしそうがなかったならば、書き間違ったらそれを書き直すことはできなくなる。
黒板いっぱいに書いて、それを消すことができなかったらどうなるんでしょうか。
パソコンにGELと削除のDeleteという削除のキーがありますか。それがもしなかったならば。
人生の中に消すというあの行いがなかったならば、私たちの人生はどうなるんでしょうか。
だから消しゴムはそのものが最高の発明品だと。
彼はこう答えました。そこから一つ教えられました。
そうなんですよね、皆さん。生きていく中で、私たちはいろんな失敗や過ちや間違った考えや間違った行いをすることがみんなにはあるんですよね。
しかし、もしそれを消してもらったり、消してあげることがもしなかったならば、私たちはみんなその罠に、鎖に縛られてずっと今までいるかもしれない。
皆さん、家様の哀れみはまるで消しゴムのようなものではないでしょうか。
ゴムの消しゴムは使えば使うほどすり減ってなくなるんですよね。
しかし、家様の哀れみという消しゴムは、私たちの罪も汚れも罪も過ちも失敗も、それをですね、消しても消しても痕もなくなって、完全に削除できる、きれいにしてくださる、その消しゴムが神様の哀れみではないでしょう。
33:04
私たちもみんな、哀れみという消しゴムを持っているみたいです。
せいさ、昨日の夜、皆さんのご主人が、あるいは皆さんの奥さんが、あるいは子供が何か悪いことをしたんですか。
ちょっと自分の気に入らないことをしてしまいましたか。それを消しましたか、皆さん。
今から誇りで切って差し上げましょう。
家様から私はみんな今までですね、それを消していただきました、消していただきました。
だからこの場に集うことができるんですよ。
それを私たちは忘れているしばしばです。
忘れてですね、自分もそうなんだけど、自分が偉いかと思って、ここまで幸運なことをしたからといって、勘違いしている時が自分のうちにある。
いや、そうではない。
もしも、家様があの哀れみという消しゴムで消してくださらなかったならば、
私は本当に上辺はきれいに見えるかもしれませんけれど、このうちにある人はですね、本当にみっともなくって、
ここに住むことはできなくなるのではないです。
どうか皆さん、その家様の哀れみという消しゴムにきれいに洗い流して消していただけますか。
それが私であり、それがあなたである。
そうすれば、私たちも哀れみ深いものにならせていただけます。
そして、家様から哀れみという消しゴムで洗い流して消していただいたように、
私たちも哀れみ深いものとして、家族をはじめ、兄弟姉妹たちをはじめ、周りのみんなをですね、
哀れみという大きな大きな消しゴムを持って消してさせてあげましょう。
きれいに洗い流して忘れてしまいましょう。許してさせてあげましょう。
それが哀れみなんです。それが哀れみ。
メッセージを終わりたいと思いますが、最後にですね、先日もご紹介しました水野玄造さんの、
これは多分賛美の方と思いますけれども、十字架の愛という、
賛美の方と思いますが、それをまたご紹介しまして、今日のメッセージを終わりたいと思います。
私が読ませていただきます。
主耶穌が歩まれた道は、昔も今も誰も歩いたことがない。
36:04
主耶穌が歩まれた道は、私を誠の道へ導くため、歩まれた十字架の道。
主耶穌が語られた言葉は、昔も今も誰も語ったことがない。
主耶穌が語られた言葉は、私を罪の中から救うため語られた十字架の言葉。
主耶穌が示された愛は、昔も今も誰も示したことがない。
主耶穌が示された愛は、私の心に愛を満たすため示された十字架のお祈り。
36:49

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