00:01
はい、おはようございます。先週の月曜日でしたか、
ユン先生の方からメールが入りまして、急遽入院するので、約1ヶ月近くどうもそれがかかりそうだと。
あとでまた御一緒にお祈りしたいと思いますが、とりあえず今度の日曜日、
説教の方針をお願いしたいという、そういう要請がありました。
こういう時のための、食卓牧師として、名谷教会に今、使わされておりますから、はい、分かりましたということで、お受けいたしました。
あるいは来週もそうなるか分かりませんし、イースター礼拝もそうなるか分かりませんので、どうぞ先生の前回のためと、
また私のその責任を果たすことができるように、お祈りをいただきたいと思いますね。
それでは、お互いまず御挨拶をして、そして聖書の言葉に入ってまいりたいと思います。
どうぞ、ご近所の方と御挨拶ください。
それでは、お読みいただきました、この「又えによる福音書の四章」、この歌詞を御一緒に見ていきたいと思っております。
御承知のように今は、柔軟説、あるいは至純説とも言われておりますけれども、
あるいはカタカラの言葉で言いますと、レントというね、イエス様が十字架にお迎えなさるその大切な期間というのが、今のこの御純説の中の一つの日曜日であります。
したがって来週は、シュロの聖日と言いまして、そしてその日曜日の後の一週間が、柔軟週という、そしてよく日曜日を迎えますとイースターとなる、そういう大切な時なんですね。
今御意味にしようとしております、この歌唱は、そういう柔軟説などでしばしば開かれる、そういう歌唱です。
一つは、柔軟説というこの期間は、約四十日間、イエス様が復活されるまでの四十日間の間を、私たちは柔軟説として迎えます。
03:09
今イエス様は、この歌唱に記されておりますように、荒野に導かれて、そして四十日、四十夜そこで祈りの時を、そしてまたサタンの試みにお会いなする、そういう時をお持ち漁っていらっしゃる。
そういうところから、四十日という、そういうことに加えて、この柔軟説の中での歌唱として読まれます。
ちなみにこの聖書では、この四十日とか、四十年とかという、非常に意味のある数字なんですね。
もちろんここでも、イエス様が荒野で持って、四十日間、サタンの誘惑にお会いなさる。
あるいは、もっと古くを見てもらいますと、イスラエルが出江地府として四十年間、荒野をさまようわけですね。
そして、やがて火難の地に入っていくという、そういうところも。
聖書には、この四十日というのは、そういう意味においては、非常に苦難とか、そういう意味合いもそこには含まれている、そういう時なんです。
で、今朝のこの歌唱は、そういう中でイエス様が五十難を受けなさるという、試みを受けなさるという、そういうこの歌唱であります。
ここで私たちが意外に思うことは、実はイエス様は、この前の参照の終わりでもって、バクテスマのヨハネから洗礼を受けなさるんですね。
で、本来イエス様が洗礼を受けなさるということは、本来はあり得ないわけですよ。
洗礼というのはご承知のように、罪の許しというものがそこに見されて、そしてこの洗礼というのが行われるわけです。
ですから罪の許しということに係りのないイエス様が、それこそ罪なきお方が、罪の許しを受けるために洗礼を受けなさるということは、それはあり得ない話。
ところがイエス様は、このバクテスマのヨハネがヨルダン側でもって洗礼を授けておるその中に加わって、そしてさすがにバクテスマのヨハネも躊躇した。
いや、私がイエス様あなたに洗礼を授けるなんてことはということで躊躇したんですけれども、しかしイエス様はこれは正しいことだから、私にも洗礼を授けてほしいと言って。
そしてバクテスマのヨハネの足元に挿して、そしてヨルダン側で洗礼を受けなさったわけですね。
06:06
私は洗礼をお勧めするときの一つの聖書の箇所はここにもあるわけですね。
つまり私たちはこれからイエス様を信じていく。
やるならばイエス様が、これは当然正しいことだから行くべきことであるとイエス様が教えているんだから、私たちがそれを拒否する必要はないでしょう。
イエス様のように私たちも洗礼を受け、そのことが大切でしょう。
イエス様はそこで天からの声があって、そしてこれは私の愛する子だというお声があった。
そしてイエス様のこれからの三年数ヶ月の公の伝道がそこからスタートしていくわけですよ。
ですから非常に大切なそういう箇所の一つです。
ところがそのこれからスタートするという一番大事なときに、ここで私たちは意外にもイエスは御霊によってアラノに導かれた。
この四章の一節を見てまいりますと御霊に導かれてアラノに向かって行かれたと書いてある。
誘惑というのは、これはクリスチャンになったらそういう一切の誘惑に私たちはもうかからないんだとか、合わないんだとか、
そういう試練にも合わないんだとか、そういうことはあり得ないということがここにまず言われていることですよね。
時に精霊は私たちをそういう一番大事なときに一つの心の中に私たちを向かわせるという、
その一番象徴的なことがこの箇所、イエス様の身に起きたこの箇所がそこに挙げられるかと思います。
私たちはそこで誘惑に対してどういうふうに対応すべきなのか。
それはいろんなそれぞれにちなんだ、ちなんだと言いましょうか、その人その人に向かってのサタンの地へある最高の誘惑がそこで向けられていくわけですね。
ここはそういう点においてはね、申し上げたようにイエス様はその参照のわりでもって洗礼を受けなさったときに、これは私の愛する子だ、
神の子としての宣言が父なる神からそこで持って親切りされたわけですよ。
ところがサタンはそれをも用いたんですね。
ですからこのイエス様が受けなさるこの誘惑を見てまいりますと、これは三節ですね。
09:05
すると心見る者が近づいてきて言った。
あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。
あなたは先ほどね、父なる神によって私の愛する子だと言われた。
あなたは神の子だ。
だったらこれをやってみたらどうか。
神の子としてのイエス様に対するサタンのね、もう無謀な挑戦と言ったらいいと思うんですけども、そういうことをやってきたわけですよ。
サタンは私たちにはそういう試みと言いましょうか、誘惑は向けてこないですよね。
いくらクリスチャンだからと言って、あなたは神の子なら、この大きな技をやってみなさいということは言わないと思います。
ただ私たちが日常の生活の中でね、時に私たちはクリスチャンになって、本当にあなたクリスチャンかって。
だったらどうなんだというようなことでもって、いろんな角度から私たちにサタンは心見てくるんです。
その人、その人に応じた。
この人にとってはここが一番の弱みだなというところを彼は知っていますから、そこでこう入ってくるわけですね。
イエス様は、ここでもってサタンから受けたその誘惑は、神の子ならこの石をパンに変えてみたらいい、そう言ってきたんですね。
私たちにはそんな誘惑はないですよ。
あなたクリスチャンだったら、この奇跡の一つや二つできるだろう、石をパンに変えてみたら。
パンを石のように固くしてしまうということは、あるいは皆さん方も経験したことがあるかわかりませんけれどもね。
長いこと忘れとって食べようと思ったら、もうカチカチになって食べれない。
しかしサタンはそうは言わないですね。
私にとっては、このパンは時にはね、私の一番の好物なもの。
自分の好きなものは、運転していてもそれは目につくんですよ。
ドライブしていましてもね、あ、あんなところにラーメン屋さんがある。
こっちにもある。いや、こっちにはお蕎麦屋さんがある。
いやーって言ってね、宝石店とか何かだったら全然気がつかないんです。
私にとって一番身近で、一番陥りやすいその誘惑の、そういうお店の看板があったりすると、
だからそんな話をしますと、よくそんなところ走ってて気がつきましたねって言われるんですけどね。
好きなものだけに気がつくんですよ。
けれどもそれは私にとっては、誘惑の一つですよね。
けれども同じ誘惑でもね、こちら側に、その誘惑にかかるようなものがなければね、
12:02
看板見ても、あるいはいい香りを、その店の前を通っても、それは誘惑にはならないですよ。
買うお金がなかったら、あ、こんなところにお店があったな、でも今日はダメだなって言ってね、
そしてその前を通過しちゃうだけですよ。
たまたま自分の好きなものと、あるいはその誘惑に、誘惑を受ける、
そういう条件点でしか、それがこっちにあると、誘惑になるんですよ。
だから、ちょっと今日は500円一枚あるから、あ、ここは290円って書いてあるから、
じゃあちょっと入ってみようかな、餃子ぐらいは食べれるかなって言ってですね、
そういうのを計算して、そしてそういう店に入ったりもするわけですね。
だけどいくら安いからと言っても、こっち側にね、あ、今日はもう財布持ってない、
持ってても中軽みだって言ったらもう、誘惑にも何もならないです。
やっぱりその人にとって、それは可能なだけに、誘惑になるわけです。
ですから、イエス様だから、イエス様が神の子だから、
だったら、この石をパンに変えなさいっていうことを、あえてサタンは言ってきたわけです。
この言葉は非常に有名な言葉ですね。
イエス様がそのサタンに対して答えなさったこの言葉。
人はパンだけで生きるものではないんだ。
神の言葉によって生きるんだっていうことを、ここでもってイエス様はおっしゃったんですね。
パンだけっていうところに一つのテーマがあるかと思いますよ。
イエス様は何もパンを無視してるわけではないんですね。
パンに象徴される経済とか、いろんなそういう、私たちが今を生きるための必要なものがたくさんあります。
だからイエス様はそれをよくご存知ですから、
やっぱりそんなパンなんか食べとったらダメよ、っていうようなことはおっしゃらないんですね。
先ほど私たちは一緒に主の祈りを下げしました。
大きく主の祈りを前半と後半と分けますと、前半は父なる神に憧れるようにっていう、
天上のことについて、イエス様の、この神様のことについての、それがそこにあるわけですね。
そして今度は私たちの側のお祈りとなると、一番最初に出てくるのが、やはりパンのことですよ。
日曜の糧を、っていう言葉でもって話されています。
私が教会行って間もない頃ね、日曜日だから日曜日しかパン食べなかった。
いや日曜日ってこう思っちゃったんですね。
15:01
日ごとのっていう、昔は日曜のっていう、そういう風な、今文語訳でもそうですけどもね、
そう書いてありますから、日曜日はじゃあご飯食べたらいいかな、ライスでいいかなとか、
いうようなことで、変にこう受け止めたりもしましたけども。
やはり私たちの毎日毎日の必要の中においてのパンっていうのは、非常に大きな、あそこにはテーマですよね。
私たちは、そのパンを得るためにどうしたらいいか。
もっと私たちの家庭が裕福になるためにはどうしたらいいだろうか。
あるいは経済的に保障される、そういう会社に行くのにはどうしたらいいだろうかっていう、
そういうパンにまつわるその私たちのその胃の問題については、いろんな課題がそこにあります。
私たちが生きるためには大切なことなんです。
ですからイエス様は、だからあなた方はね、やるパンを抜きにするのではなくして、
パンも必要だけどもね、人が生きるのはそれだけではない。
無視したイエス様ではない。
考えてみますと、このイスラエルの人たちってのは本当に我が思う勝手なことをやってきた人たちですよね。
あのシテイジプという公会を二つに分けなさった神様が彼らを約束の地に向かわせる。
やっとそういう公会を渡るという大きな大きな神様のなさった噂の中において、彼らはついにこのシテイジプとしたわけです。
ところがアラノにおいての生活に入っていくと、最初のうちはエチプスを出るときに、
しっかり蓄えてきたものもあったでしょうけども、あの果てしないアラノの中での生活ですから、もうすぐに底をついてしまう。
そして彼らは、いや我々を神が申せを通して、あのエチプスではなくしてこのアラノでもってね、
私たちを亡くすためにここを我々の墓場にしたんだ、みたいなことを彼らは勝手に言い出した。
そういうことでもって彼らは、神様がこれまでどんな大きなことをなさったかということをそっちの方に置いちゃって、そして今を生きるためにパンが欲しいんだ。
そして申せに向かっていったんです。
そしたら神様は、その必要なパンを毎朝彼らに与えなさったという、その出来事がそこに続くわけですよ。
そしたら今度はね、パンだけじゃダメだって、もう喉がカラカラになっちゃって、水が欲しいって言ってきたわけでしょ。
確かにパンだけ食べてたらね、口の中がもごもごしちゃって、ちょっとここでコーヒーでもちょっと飲んだらいいのになと思うことはありますよ。
18:04
考えてみましたのは、アラノでね、水のない生活っていったら、これはもう死に至る生活です。
私もイスラエル旅行をしました時にアラノを通りました。
もうどんなにバスが、高速のバスがガーッと行ってもですね、何時間もかかってそうしていくんですけども、その水らしいものはないですよ。
最初は海が見えますけどもね、けど海の水を私たちは飲むわけにいかない。
ガエルさんが最初、初めて行った時は大きなボトルの水を買いましてね、それまで私は水を買うっていう習慣がなかった。
何でこんなとこで水を買わんとならんのかな、こんな大きいボトルでした、それも。
そしてガエルさんが言うのには、喉が渇いてから飲むんじゃダメですよ。
すぐ脱水症で起こして、そしておかしくなっちゃうから。
もう喉が渇かない前から、もう少しでもいいから口に含んで、そしてしてください、と。
こう言われたんですけども、私はもう水を飲む習慣がなかったもんですからね。
ついやっぱりこう忘れてしまう。
で、ああ喉が渇いたと思ってこう飲む。
私たち日本だったら疾患が高いですから。
ですからあんまり喉が渇くってことはない。
ちょっと喉が枯れてきました。
ですからあんまり喉が渇くっていうことはないですよね。
せっかく要してボトルに水を持って、そして自分の部屋に寄って時々飲もうと思いながら、水忘れちゃってね。
せっかく冷たい水を持ってきたのに温まってしまったような水を、これはもう飲めないなと思って、飲まないで済んじゃうことがありましたけども、
ああいう渇いた土地ではね、本当に水は大切だ。
ですから私たち以上に命の水っていうことに関してはね、
あのパレスタの、あの辺りに住んでいる人たちにとってはもうこれは貴重でしょうね。
あらのでの生活の中で、毎朝マナダがおりますから、
それでもって彼らは、あ、これで人安心だ。
神様がとうとうね、最後の約束の地に入るまで、
そして彼らがそこで持って、その地で持って、新しい産物を得るまで、神様はちゃんとマナを与えなさったんですよ。
ですからもうそれ以降、パン問題で彼らは苦労することはない。ただ水の問題だって。
ある時にこんな話をしてましたらね、そりゃそうだ、パンだけじゃダメなのにバターもいる、ジャムもいるって。
そんなことでチャチャ入れたのがありましたけどもね。
けどもイエス様は、人が生きるのは、パンも必要だけども、しかしそれ以上に大切なのは、必要なのは、これは神の言葉だってことをおっしゃった。
21:08
そう、聖書に書いてあるでしょってこうおっしゃったんですね。
ここがいいとこですよね。
イエス様がご自分の言葉としてそれをおっしゃる、いやもう既におっしゃってるんですけども、
しかしあえてイエス様は私たちが手にしているこの聖書を持ちなさって、あなたの持っている聖書にこう書いてあるじゃないですかっていうことを、
まあ言うならばイエス様はあえてご自分の言葉でもありますけども、しかしながら手にしているこの聖書に書いてある、聖書の権威っていうものをここでね、私たちに教えてくださってるんです。
ですから私たちはクリスチャンとして当然、神の言葉っていうものを私たちは本当に大切にする。
何よりも神の言葉っていうものがどんなに必要か大切なものか。
バートラン・ラッセルっていうですね、英国の思想家がおりましたけども、
彼はファン問題が解決した後にこそ最も深刻な問題がそこに生じてくる。
今私たちの日本、いや日本だけじゃない世界はそういうとき、いやアフリカの方行ったらまだまだファン問題で解決しないところがそういう上に苦しんでいるところが人たちが大勢おる。
いや日本でも時にはね、ガシって持って亡くなるという方が時に起きるわけですけども、たくさんの食べ物がありながらそれでもガシしてしまうという。
そういうこの事故っていうんでしょうか、事件が時に新聞に出てまいります。
私たちはこの胃袋の問題、経済問題解決したらそれじゃあとはもう幸せになれるのかっていう幸せ感から考えていった場合に決してそうではない。
むしろそういう仕事のパンのことでもって解決した後にこそ私たちは最も深刻な問題に直面する。
ずいぶん前になりますけど、当時の朝日新聞の転生人号で、これからの日本はね、今まではそのとにかくパン問題で、もう食べることを優先して、
そしてもう公害が起きようが何が起きようが、もうどんな会社でもいいからこのうちの町に来て、そしてどんどん町を活性化し、そして金が生まれるようなそういうことをやってほしいということでもって、
一時はもう日本はそういうことを最優先しました。そして後にいろんな公害問題が出てきたわけですね。いまだに解決できないところがあるのあるのや。
24:11
確かにそういう時代を経て日本は世界の有数のこの留める国として成功してきました。あの戦後の何にもないところからよくぞっていうような感じになりますよ。
大阪でも東京でも行ったら、どうなんだろうかと。もうあれが50年前、60年前、その時の日本がこんなにあるなんて誰も思わなかったと思うんですよ。
けれどもそこはもう一生懸命働いて働いて、そして少々の問題が起きてもっと言ってやってきたわけですよ。もう経済優先ということで来たわけですね。
けれどもこれからの時代を考えていくと、確かに私たちはこの日本はある程度そのパン問題においては解決し、あるいは見通しも経ってきた。
けれどもこれから迎えるのは心の時代だと思う。心の時代というのは何かものがそこにあってそして満たされるというような、そんなんでもない。
確かに求めてそしてそれを得た時にはそれなりの幸福感幸せ感は得るかもしれない。
けれどもそれは次々と飽きてしまうし。またメーカーも、もう何で早くこういう便利なものを先に作ってそして出してくれないんだろうかと思うぐらい、小出しにして小出しにして小出しにして、
また来年、今年今使ってたものがもうダメになっちゃう、古くなったとか言って、そしてやってくる。もうそんなに小出しにせずに、最初からってこっちは思いますけれども会社はそれは、
やっぱり小出しにしていかないと、製品が売れていかなきゃいけませんから、まあ小出しになるわけなんでしょうけどね。
私たちの心の弱さっていうのを、そういう証拠のたくましい、そういう世界の人たちは小出しにして、そして少しでもみんながこれを買ったら満足する、
これを買ったらハッピーな生活ができる、これを買ったならばもっと幸せになれるんだっていう、そういうことでね、みんな飛びついてくる。
それをいつも目の前にチラつかせながら、こうやる、そういうことを言うわけですよ。しかしそれも得た、これも得た、後に何が残るのか。
結局、物を得た時は満足するけれども、しかしそれでもって、心のそれはどうなったんだろうか。むしろ、得た時のその喜びよりも、それで満たされない喪失感っていうんでしょうかね。
何かこう失ってしまっているっていう、満たされないままのこのことに、私たちは一体どうしよう。
27:08
最近の、あの中学1年生の子をね、3人の高校生たちが寄ってたかで、そうして殴り戻してしまったっていう、あの事件は、私はそういう非常に象徴的な事件ではないだろうか。
心をおざなりにされた、そういう家庭の中であるいは社会の中で、力だけは得てきた、ある程度の知識は得てきた、こうやったら人を殺せるんだみたいなことで、そういったものをやってきた。
けれども、それだけですとね、こっちのことが置き去りになってしまうと、もうそれこそとんでもない目から入ってきた、耳から入ってきたような、そういった事柄でもって、考えられないような犯罪がそこでもって生じてくるわけですよ。
ですから、大切なことはね、本当に心の問題です。
イエス様は、パン問題が解決するのではなくして、パンも必要だけども、神の言葉にこそとおっしゃった。
で、もう一つ受けなさったイエス様の誘惑は、それは高いところに連れて行かれて、そしてあなたが、ここでも神の子なら、六節書いてありますが、ここから飛び降りてごらんなさい。
あなたが言っている聖書に、神の子が地面に叩きつけられる前に、彼らが言って、そしてあなたを支えるだろう、救うだろう。
サタンは今度は、あえて聖書の言葉をそこにやる。悪用しながらそういうことを言ってきたわけですね。
ですから、聖書の言葉というものに対して、私たちは健全な信仰と知識と思って、そしてこれを受け止めていかないと、
聖書の言葉にそう書いてあるから大丈夫だと言うならば、妄心的な理解の仕方をしてまいりますと、とんでもない間違いを犯してしまう。
もう一箇所だけを読んでね、もうこれこそが全てだと言って、そしてあとはもういいというようなことでもって、それはある意味によって、この聖書の言葉に対する趣味の世界です。
自分にあった、あるいは自分の好きな言葉はそこでも受け止めるけれども、しかし自分の都合の悪いのは、いやもういいですよと言って、それを受け付けない。
キリスト教の遺憾というのは、そういうところから生まれてきていると言えます。
都合のいい解釈を持って、そしてそれを人に押し付けていく、そしてそこにマインドコントロールさせて、そして操っていく。
30:07
もうこの言葉さえあればもういいんだというようなことでもって、せっかくの天然な聖書信仰のその信仰を委ねてくることをサタンはやってきますからね。
ですから私たちは、聖書はそれこそまんべんなくって。
そうでないとこういうところを読みますとね、そりゃイエス様は神の子だからね。
そりゃこの大きな奇跡をなさることはできなさる、そういう方だって。
天使もイエス様に仕えるんだから。
その聖書に書いてある通りなんだから、そう思いなさっても、間違いでもないですけれども誘惑ですよ。
イエス様は高いところに上がって、そこからジャンプしてやったら天使がサーッと来て、そして支えて、そしたらもう世界中が拍手喝采してね。
イエスキリストはあんな考えられない高いところから来て、そうしてやった。
私にはそういう誘惑はないです。
私はだいたい高所恐怖症ですから、ちょっと高いところに行っちゃうと、なんでこんな高いところに上がっちゃったんだろうかな。
それこそ梯子でもって屋根の上に上がっただけでも降りるのが難しいみたいな、そういう人間ですからね。
ですから私にはこういう誘惑は、最初から私はもう断りますけどね。
けどもサタンはね、やはりそういうことに、何かこう曲解をしたならばうまく乗るような人に対しては、高いところに登らせてね、
あんただけが一番だよって言って、そうかなと思って、えーっていう、それこそを自己中心の最たる、そういう頂上に上がってそうしてやるわけですよ。
後のサタンの仕掛けっていうことに対しては、私たちは無防備なんですね。
しかしイエス様は、うまく聖書のことを用意してそうしてやってきたこのサタンに対して、けれども聖書にはこう書いてある。
七節。イエスは言われた。あなたの神である主を試みてはならない。とも書いてある。
見事なまでのイエス様の反撃ですよ。
このサタンは畳み掛けるようにして私たちの弱いところを、そして私たちが、あんじゃ信じていくっていう、その信仰すらも、時にはこうやってきて、そして、私の言うことに間違いないんだから。
私が言う通りにやったならば、みんながあなたを注目するから、この奇跡をやってみたら。
33:02
そういう誘惑を受ける一つは、やっぱり病気。私も大阪の教会で30年余りおりました。
本当にいろんな病気と直面するその教会が多かったんですね。
で、ある牧師が、何で平方はそんなに、もう普通考えられないような病気を持つ人が多いんだろうねって、こう言われたことがあります。
そうだね。しかしまあ、それぞれそういう中から守られては来てるっていう、そういう話もそこで持ってきましたけどもね。
病気から来るところの、それがあります。
まあ、私は前に申し上げたように、交通事故を起こしてしまった。自動車で持って、1歳10ヶ月の子を踏んでしまった。
けども、本当に不自在をしている普通の子は、1ヶ月もかからない。
そういうことでもって、このお医者さんも、もう大丈夫ですよ、どこも悪いとこないですよって、こう言われたぐらい。
けども、警察の見立てはね、子供が着ていたシャツのそういうところから、あるいは私の自動車のタイヤのところから、もうかなりこれは大きな事故になっているはずだ。
だから警察で聞くと、もうだんだん気持ちがこう、萎えてくるわけです。
だけど、実際には何もそんなことない。だから私は申し上げたんですけどね。
私は転死を見たことないんですけどね。
けど、私の車が、その1歳10ヶ月の子を前輪と後輪とで踏んでいくわけですよ。
ですから、とてもじゃないけども、生きられないはずですよね。
あるいは、外傷がなくても中でやっているかもわからないというのが、お医者さんのその見立てでしたから。
だから何か今晩でも起きたらば、すぐに救急車で運びなさいと言われたぐらいですからね。
ですから本当にこう、満塵してもできなかった。
けど、だんだん分かってきたらね、あの踏んだ時に、転死を私の車を支えたんじゃないかなと。
それでその重みが、その1歳10ヶ月の子の行かないように支えて、そして通過したんじゃないかどうか。
変な表現ですけど、手応えはあったんですよ。
ハンドル持っていて、ガタンガタンと言いますからね。
それからしばらくはもう、ちょっとした音にもすぐにこうやって、
わーっと思ってバックミラーボみたいになんかするぐらいに、しばらくはそういうことが続きました。
またやったんかな、というような思いを持ちましたよ。
けどもそこでもってそういうことがなされて、それ以来、
そういう事故の持っていることでもって、何かあったというわけじゃない。
36:07
私にすらも奇跡ですし、こうして皆さんに話しても、
えー本当にこんなことがあったんですか。
そういうことを言われてきた私がね、私はちょっと力があるんかな。
そういうような奇跡がなせるんかな。
じゃあ交通事故にあった人のところへ行ってね、
あなた大丈夫か。あなたの事故はもう事故にならない。なんて。
もし私が打ち落てになってそんなことをやったならばね、
とんでもない犯罪者になったり、間違いを犯してしまう。
高いところに登らされるということはね、
その人その人でもって、いろんなそういう誘惑があります。
私がどんな奇跡を行えたとしても、
もしそういうことがあったとしても、
私は、もしそんなことがあったら私こうなっちゃう。
本当に、じゃあお祈りしてあげるから大丈夫、みたいなことでね。
そんな信仰じゃダメですよ、なんて言って。
そして、もう一生懸命周りを裁きながら、
私の言うとりをやったらいい、みたいなことでもって、
周りの人たちを混乱に、あるいは時には隅に陥れてしまう。
サタンはイエス様に、そういう誘惑をかけてきたんですね。
時間がありませんけども。
そして最後の誘惑は何ですか。
この8節を見てまいりますと、
あるやはり高いところにイエス様を導いて、
そうして地上のすべてをそこに、この店だから、
私を拝んでくれるならね、
これらのものは全部、あなたに任せる。
そういうことを言ってきたんですね。
所詮サタンは、何もすべてを彼が支配し、
またそれを持っているわけではないんですよ。
昔、小島英介という先生が、
初めてウィルソン号という豪華客船で乗って、
アメリカの南米、北米をずっと巡回電動を1年かけて行かれた。
ある時、豪華なホテルに案内されて、
どうぞここでお休みください、と。
もう調度品から何からも、何でも見たこともないような素晴らしいものがそこにある。
自由にお使いください、と。
よく主は正解でこの例をお話しなさったから、
お気になったと思いますけれども。
もし、もうこれは何でも、もうあなたのものですから、
どうぞお使いくださいと言って、そして、
ああ、それじゃと言って、これをスーツケースに入れるか、
フットボールに入れて、そして出たらどうだろうか。
日本から来た牧師がね、
ホテルの調度品の1つをスーツケースに入れて、
そして持ち帰ろうとしたら、とんでもないことになる。
その部屋の間は、あなたがここの中心だから、
39:03
もう何でも使ったらいいんですよ、と。
だから、使用権はあってもね、
所有権はホテルですから、という話です。
つまりサタンはね、あれは所有権はないんですよ。
私たちもそうですよ。
私をこれだけ持ち終えたとか、これだけの財産を残したって言って、
所有できますか?
使用する、それは委ねられていますけれども、
所有するのは、それは神。
サタンはね、そこもイエス様にこう言ってきたわけですよ。
私にね、今任せられているこの全ては、
もう私に一言でもいいから手前にね、
拝んでくれたら、もう私はあなたに全部任せる。
本当の所有者はイエス様なのにね、
サタンはいかにも自分がそれを持っているかのように、
彼は自分も思い込んでいたんでしょうし。
そしてそういう誘惑をかけてきた。
一度でいいからね、みんなの手前に拝んでくれって。
旧約聖書の出てくるある場面で、
この誘惑にまんまと乗ってしまった男がおりますよ。
イスラエルの最初の王様になりました、サウロですよ。
彼はこの戦いにおいてね、
もう相手のものを何もかも全部滅ぼし尽くしなさいってこう言われて。
そして彼はやったのは、
いや、ちょっと自分にとって必要なもの、魅力あるものを全部取っていた。
それをサムエルに指摘された時に、
もう神様はね、
あなたを選びなさったけれども、もうあなたはオミットですよ。
あなたを王としてこのまま立っていくわけにはいけませんよって言われた時の、
そのサウロは何て言いましたか。
国民の手前だけでもいいからね、私を王としてね、
一応そういう風にこうやってほしいなっていうことを陰で持って、
サウロはサムエルにそういうことを依頼してきたわけです。
ここと同じですよ。
とにかく今私の所有しているものを、
まあそれは確かに悪かったけどね、
一応みんなの手前、
なんとかそこを私の言うことを聞いて、そしてやってくれみたいな陰の取引を、
闇取引をしようとしてきた。
そして結果はサウロは落ちていくわけです。
イエス様はそういう闇取引には乗る必要もない。
そしてイエス様はここで致命的なことをしちゃった。
サタンに対してね。
イエスは、十節ですね、イエスは言われた。
引き下がれサタン。
42:00
あなたの神である主を拝み、主にだけ使えよと書いてある。
と書いてある。
まず礼拝をしなさい。
そして使いなさい。
私の仏会の中で一つ申し上げてきたことは、
ちょっとそういうのが目立ったからでしょうかね。
教会学校で奉仕をして、次の礼拝の人いないんですよ。
どこ行っちゃった?
いやなんか良かったら帰ったそうですよ。
いうようなことがね、あったんですからね。
いやそうじゃないでしょうか。
奉仕は二の次。
まず神様を礼拝する。
だからどうしても都合が悪かったでしょう。
教会学校のその奉仕はね、一応誰かにお任せして、
まずあなたはその礼拝するというところからやった方がいい。
ということをお勧めして、そしてだんだんとそういう風にもなってきましたけれどもね。
奉仕を優先させて、一番肝心のね、礼拝するっていう、
それが次のポジションになってしまうと、
信仰生活がおかしくなります。
ですから奉仕を終えてでも、
まず主なるあなたの神の家を礼拝しなさいという、
礼拝を大事にするということが、
私たちのクリスタル生活においての大切なポイントです。
それをイエス様は、この箇所で私たちに当てはまるケースの一つとして教えてくださった。
サタンはそうじゃないんですよね。
いや、そっちはいい。
とにかくここで私とこうやってくれならば、もうあなたの欲しいものを全部やるからみたいな、
そういうことを言ってきましたけれども、
しかしイエス様は、何よりも大切に神様を礼拝する。
そしてサタンは引きずれた。
ところが、同じこれがね、ルカニオルフ勲章に出ているんです。
ルカニオルフ勲章では、たしか四章、同じように四章で言ったでしょうかね。
そうですね。失礼しました。
ルカニオルフ勲章の四章。四章の十三節。
ここでね、誘惑の手を尽くした後で、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。
誘惑というのはだから、一回そこで勝利したらそれで終わりというのではない。
次々とまた新たな手を考えて、そしてやってくる。
考えてみますと、ここでイエス様がサタンに対してね、
45:02
サタンより静け!と激しく仰った。
このことをある人に言いましたよ。ペテロですよ。
ペテロに対してこのことを言った。
だから、サタンが時にね、イエス様が最も愛していると思われる、
あの弟子たちの人を被るとも否認し、また他の人たちも見ているかもしれませんが、
そのペテロを通してね、誘惑してきた。
そのペテロに対してサタンより静け!と。
イエス様から言われたら、これ致命傷ですよ。
そこからよくぞペテロは立ち直ったなと思いますけど、
もちろんそこにイエス様のそういう取りなしがあったからです。
それにしても、サタンは繰り返し繰り返し私たちにやってきますから。
ですから、ここでイエス様がお示しなさったように、
神の言葉というものに私が立つときに、
また二人で来ても勝利するそれは、この御言葉です。
お祈りいたしましょう。