1. 名谷教会 podcast
  2. 2015/03/08:聖日礼拝(旧音源)
2015-03-08 41:33

2015/03/08:聖日礼拝(旧音源)

2015/03/08 聖日礼拝(旧音源)




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みなさん、おはようございます。よくいらっしゃいました。
では、今日のメッセージに入る前に、よろしかったら、周りの方々と挨拶をしませんか。
よくいらっしゃいました。久しぶりの方もお目になっておられますので、よくいらっしゃいました。
よろしくお願いします。
ありがとうございます。一言、短くお祈りさせていただきます。
神様、今日も、こうして、私たち一人一人を、心も体も、主が、しこやかにしてくださいまして、このところに集めてくださり、ありがとうございます。
主の皆を賛美し、また賛美を捧げました。どうぞ。
今から、この聖書の御言葉から、命の御言葉から、神様の御声をお聞きしたく願って集まっている我らに、どうぞ、あなたの御心を示し、教えてくださいますように。
それが、私たちの永遠なる糧となり、命とならしてください。感謝して、期待して、イエス様の御名によってお祈り致します。
アーメン
はい、今日も、この中江の福音書第五章の一節から十二節の中の三条推訓の中に、八の福と言われる御言葉が書かれていますが、
その中の、今日は第四回目でございます。それで今日は、六節を周知して、共に恵みをいただきたいと願っております。
六節を、私がもう一度お読みしたいと思います。
次に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
とあります。一見見ますと、現代の私たちには、次に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
という、この言葉だけ読みますと、ピンとこないかもしれません。
ところが、日本語の聖書には、今、私たちの教会で使っている神会役聖書もありますし、公語役聖書、あるいはカトリックと教土で訳した神教土役聖書、
他にもリビングバイブルとか、また個人役ですけれども、現代役という聖書もありますけれども、
03:06
その中で、現代役聖書は、この六節をもっとわかりやすく訳していて、これもいいかなと思うんですね。
私が読ませていただきます。こういう内容で訳しています。
ああ、なんと幸いなことでしょう。身心を飢え渇くように求める人たち。神様がその人たちの心を満たして下さい。
もう一度、読みまして。
ああ、なんと幸いなことでしょう。身心を飢え渇くように求める人たち。神様がその人たちの心を満たして下さい。
本当にわかりやすいと思うんですけれども。さて、義に飢え渇くとあります。
これは今日のメッセージのポイントだと思いますが、義に飢え渇く。一体これはどういう意味なんでしょうか。義に飢え渇く。
まず、この飢える、渇くということを考えてみたいと思います。飢えるとか渇くとかは、私たちもみんなわかっていると思うんです。
例えば、一日とか、あるいは三日間とか、あるいは一週間、何も食べていないとどうなりますか。お腹空いて大変なことになりますね。
女性の中では一日とか二日とか食べなくても平気ですと言われる方がおられるかもしれませんけれども、一週間ほど何も食べずにいると大丈夫ですよと言える人はいないと思います。
人は幾日間何も食べずにいると、食べたくて、その食べ物を欲しくてもいられなくなる、たまらないんですね。
求めます、探します、食べ物のために何度も何でも気を取っているのが人間の気持ちだと思うんですね。
そして、飢えている何も食べていない人には、食べ物がその人にとっては答えになります。飢えている人、何も食べていない人に一冊の本をあげても、それは答えにならないんですね。
飢えている人には、万が一あるいは五万が、食べ物が必要なんです。そしてそれが与えられたときに、その飢えているそれがなくなるわけなんです。
06:13
この飢える、飢えというこの感情をこのあたり一緒に覚えていただきたいと思うわけなんですね。
また同じく、渇きも一緒でしょ。例えば、暑い夏、グラウンドを何周も回ったとしましょう。
そしたら本当にですね、渇いて渇いて、もう水を飲まないとですね、死にそうになります。渇いている人には水を与えなければならない。渇いている人に他のものを、例えばその人にパンをあげたら、それはいらないんです。水が欲しい。
このように、飢えとか渇きというものは、私たち人間が感じる感情でもあります。ところが、今日イエス様はですね、パンに飢え渇くものでもなく、あるいは水に飢え渇くものでもなく、義という言葉を語られました。
ですからイエス様がですね、この朝私たちに語っておられるのは、あなた方、パンとか水とか、あるいは金とか、そういうものではなく、義に飢え渇くものになってほしいと語っておられるんですね。
このように皆さん、私たちクリチャーは、実は飢え渇くものにならなければならないと思います。ところが何に飢えているんでしょうか。何に渇いているんでしょうか。それが大事だと思うんですね。自分は果たして何に飢えて何に渇いているんでしょうか。
昔の人たちも今の人たちも、何かに人はですね、飢えて渇いていると思います。特に現代の人々は、ほとんどの人々が何かに飢えている、渇いているのではないでしょうか。
その中のいくつかを挙げますと、まず一つは、人に認められることに飢えている、渇いていると思います。人によってその程度は違うかもしれませんけれども、少なくとも人に認められたい、認めてほしい。
09:04
その認められることに対する渇きがあるのではないでしょうか。現在の人々は、この認められることに対して飢えている、渇いている。
そういうことですね。夫たちは妻に認めてほしい。また、妻も夫に認めてほしい。子供は親に認めてほしい。あるいは会社に行くと、部下は上司に認めてほしい。
学校に行ったら、学生たちは先生に認めてほしい。うちの家族、子供は3人いますけれども、たまに子供たちが学校で試験をして、たまに満点したら家に来るんですね、この前も。
木曜日かな、金曜日に生光の秘書が、「お父さん、漢字満点受けたよ。」って来ました。それ、えらいね、と褒めてくれました。子供も大人も認めてほしいという気持ちがあるんです。
あるいは教科の中では、神徒は他の神徒たちに認めてほしい。あるいは牧師先生に認めてほしい。あるいは逆に牧師も人間ですから、神徒たちに認めてほしいという気持ちがあるかと思います。
そして、自分を認めてくれたら、ものすごく喜ぶんですけれども、認めてくれないと気づいたりすること。現在の人々は、この認められることに飢えていると、渇いていると言っても囲んではないかと思います。
もう一つ、関心です。関心。関心を受けたい。人々が自分のことをもっと思いやってほしい。考えてほしい。注目をしてほしい。自分が何に渇いているのか、何を求めているのか、それを知ってほしい。自分の話に耳を傾けてほしい。渇いている。
そして、自分に対する関心が、もし少なくなって、冷めて、何か感じていないならば、すごい惰性痛感を感じたりするんですね。
もう一つあげますと、現代人は特に成功というものに飢えて、渇いているかなと思います。学校でも社会でも、この成功というものが、現代人の渇きの一つだと思うんですね。
12:24
教会の中にも、そういった成功というシンドロームが浸透しているんじゃないかなと思います。例えば、日本もそうなんですけれども、名門校とか名門のどこどこの大学を卒業、成立すると言われて、その人を二度目が触るんですね。
ああ、そうですか。えー、すばらしい、すごいですね、とか。あるいは、名刺を出して許可をするんですね、初対面のときに。
そしてその名刺に、例えば社長、教授、赤瀬、藩次、委員とか書いてあったら、頭が下がって、その人に対する態度が変わる。
ところが、みなさん、この勃開さたちにとっても、もっとも大きな誘惑の一つが、この成功ではないかなと思います。
もちろん、みんなの独占型だったら、みんなそうではないと思いますが、例えば、大きな教会、豊かな財政、街道も多くて、人も多くて。
こういった成功シンドロームに勃開さたちが影響を受けて、それが実は致命的な毒なのに、それを飲んでいるこの時代ではないかなと思います。
私自身もこのメッセージを準備させていただきながら、振り返ってみました。
そしたら、「あなたの中には、そういった成功という主義、成功シンドロームは全くないのか?」と、主から聞かれますと、ないとは言えないと思います。
自分の中にも、勃開成功というシンドロームという毒を飲んでいたかもしれません。
成功、あるいは高ぶり。自分の人は無知にそれを飲み続けてきたのではないかと。
自分で警戒をしていなかったわけではありませんが、一瞬の間にかその警戒が緩んでいて、その成功シンドロームというものにとらわれそうな、そういった時があったかなと振り返させていただきました。
15:01
ところが皆さん、今日のメッセージに、今日の見言葉を見ますと、
比叡様がこの箸の服に対してお語りになるときに、その3節から10節まで今日読んでいただきましたけれども、
一つ一つ読んで、いくら何度も読んでみても、今のこの社会で人々が求めている、認めている至福とか成功とか富とか、全く関係のないような見言葉ではないでしょう。
悲しいものが幸いである。悲しむものが幸いである。にうわなものが幸いである。上へ渇くものが幸いである。憐れみ深いものが幸いである。心の強いものが幸いである。平和を作るものが幸いである。地のために迫害されているものが幸いである。
ところが、そこに真意があるわけです。
今日、ぜひどうか今日の見言葉を通して、私たちを福になった神様、イエス様が求めておられる福が一体どんなものなのか、根本的で究極的な福がどういうものなのか、それをぜひ知っていただきたいと願っております。
今日、イエス様は認められるもの、感心を受けるもの、成功したものが幸いですと語っておられないんですね。義に上へ渇くものが幸いですと。そして、その人たちは満ち足りると仰っていました。
この義というものは、政府の中には深い深い意味のある言葉の一つですけれども、それをもっと簡単に絞って絞って絞って言うならば、この義は神様ご自身であって、神様の身心そのものだと思います。
ですから、イエス様が私たちに今日、この中ですね、語っておられるのは、あなた方は何に飢えているんだろうか。何に渇いているんだろうか。
あなた方が飢えて渇くべきそのものは、成功や富や感心や金や認められる名誉ではなく、実は私である、私の心なんだと語っておられるんですね。
最後一ヶ所、一緒にですね、開きたいと思いますが、「よがれの福音書6章35節」です。新約聖書6章35節。186ページです。私がお読みいたします。
18:23
イエス様がこのように言われました。イエスは言われた、私が命のパンです。私に来るものは決して飢えることがなく、私を信じるものはどんな時にも決して渇くことがありません。
イエス様が教えました。認められること、感心や稽古や、あるいは成功、そういったこのものをいくら食べても飲んでも、いつかは飢えを感じられるだろう。渇きを感じられるだろう。
しかし、私に来るものは決して飢えることがありません。私を信じるものはどんな時にも決して渇くことがありませんとお語らにあります。
ですから、先ほどお読みいたしました、現代学の、その御言葉は通りなんですね。ああ、なんと幸いなことでしょう。御心を飢え渇くように求める人たち。神様がその人たちの心を満たしてくださいませ。
何にしもですね、食べなくて、渇いている人々がですね、パンを求めるように、水を求めるように、欲しがるようにですね、神様を、イエス様を、精霊様を求める。その方の心を求める。そしてその方が喜ばれることを、私も求める。それが、義に飢え渇くものという意味ではないでしょう。
ですからですね、今日イエス様がおっしゃったように、他のものではなくですね、神様御自身だけを求める、神様の御心だけで私は十分ですとですね、それを謳っている人がいました。旧約聖書の羽伯句という人なんですけれども、そこをですね、開きたいと思います。
羽伯句書第三章十七節。旧約聖書の終わりのところですね。1537ページです。1537ページ。私がお読みします。
21:36
オリーブの木も実りがなく、畑は植物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は従者にいなくなる。しかし私は羊にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。アーメン。こういう御言葉がありました。
これですね、私がですね、現代風にちょっと変えてみました。例えば、こういう意味はどうでしょうか。
夫や妻がいなくても、冷蔵庫の中に食べ物が一つもなくても、にもかかわらず私は家様さえおられれば、その方の家に喜び踊ろう。
という意味が、幅くくゆげんしゃのメッセージであって、今日の家様がお飾りになった、実に植えかわく者は幸いです、という意味ではないでしょうか。
皆さん、植える、かわくという表現は、欠乏を意味しますね、欠乏。
ですから皆さん、実に植えかわくという意味は、主よ、私にはあなたが満たされていない。あなたの御心が私には欠乏しています。
主よ、あなたで満たして下さい。あなたの心で満たして下さい。それが、実に植えかわく者の信仰ではないでしょう。
私、みんなですね、このような信号をお持ちしたい。
家様、お一人だけで感謝し、満足し、喜び踊るクリスチャーになりたい。
24:08
座っていても、立っていても、歩いていても、働いていても、目を覚めていても、寝ていても、あなたお一人だけで私は十分ですと。
そしてですね、神様を求める。その信号、その信号をこの朝、イエス様が私たちに対して語って求めておられるのではないでしょうか。
そしてその人々が幸いですと、なんと幸いなことでしょうと語っているんですね。
大臣、現代人は何かに飢えている、渇いていると申し上げました。
聖書にヨガネノミクイントというところを見ますと、一人の女の人が登場します。
彼女には夫が五人もいました。五番目の夫と一緒に暮らしていました。
しかし彼女はその渇きが、飢えが、きりがない。
その彼女はですね、その自分の渇き、飢えをですね、夫を持ってそれを満たそうとしていたわけですね。しかしきりがありませんでした。
そしてイエス様はその飢えて渇いているサマリアのシカルのあの町の女の人に手話あってくださって、彼女に手話、そのように優しく語ってくださいました。
そのどころがですね、ヨガネノ福音書ですけど、そこをちょっとお見かけいたしましょうか。
ヨガネノ福音書4章13節。ヨガネノ福音書4章13節14節です。新約聖書179ページです。
私から読みます。イエスは答えて言われた。
この水を飲む者は誰でもまた渇きます。しかし私が与える水を飲む者は誰でも決して渇くことがありません。
私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命への水が沸き出ます。
皆さん、私たちは体のために飲む水は何杯飲んでもちょっと時が経ったらまた渇くなるんですよね。
27:11
食べてもそうなんです。朝ごはんを食べても夕になったらまたお腹が空いて何かを食べないといけない。
実は私たちの体だけではなく、私たちの魂も心も同じなんです。
そこに何かを持って満たしてもらわなければならない。
そういった私たちの最初の救われた神様の意図があるわけなんですね。
ところが世のものやいろんなものを持ってそれを埋めようとしても満たそうとしても、
その時は一時期には満たされて満足感を感じられるかもしれませんけれども、
また渇いてしまうのであります。
その根本的な答えをイエス様はおっしゃいました。
私が与える水を飲む者は誰でも決して渇くことがありません。
飢えることがありませんと。
私たちの人生には様々な渇きを、飢えを、私たちは覚えているかと思います。
しかし皆さん、それらが全く要らないわけではありませんが、
根本的に究極的に私たちの渇きを、飢えを満たして解決してくださる方は、
イエス・キリストお一人しかいません。
ですからイエス様の身元に近づく時に、
私たちはそこから究極的で根本的なこの渇きに対する、
飢えに対する答えを私たちは手にすることができるのです。
もう一回私からお読みします。
ヨハネの福音書7章37通ですけれども、そこでイエス様がこのようにおっしゃいました。
ヨハネの福音書7章37説。
生徒のお持ちの方はですね、一緒にお読みしましょうか。
190ページです。ヨハネの福音書7章37・38説でございます。
それではご一人お読みしたいと思います。
3回。
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは勝手大声で言われた。
誰でも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。
30:00
私を信じる者は聖書が言っている通りに、
その人の心の奥底から生きる水の川が流れ出るようになる。
皆さん本当にそうなんです。
もし皆さん何かに飢えていらっしゃるんでしょうか。何かに渇いていらっしゃるんでしょうか。
それを感じていらっしゃるでしょうか。あるいは感じているようないないような気持ちなんでしょうか。
今日イエス様は私たちに招いて語っておられるんですね。
誰でも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。
そしたら心の奥底から生きる水が永遠に溢れ流れるだろうとおっしゃってくださいました。
イエス様にお会いして信じて救われた多くの人々は、
渇いていた人、飢えていた人、何かに欠乏をすごく感じていた人々がイエス様のもとに来てですね、イエス様に出会って、
そしてここに答えがあった。ここに誠の愛があった。ここにこの渇きを解決してくださる真意がここにあったとそれにあって、
そしてこの37、38節の御言葉をですね、もうまるまるそれを体験している人が多くおられるわけであります。
皆さんは最近何かに飢えてはいないでしょうか。何かに渇いてはいないでしょうか。何かに対して欠乏を、そういった感情を覚えていないでしょうか。
イエス様の身元に近づいてまいりましょう。イエス・キリストを求めようではありませんか。
皆さん私たちがお腹空いてですね、食べ物が欲しかったらどこに行けばいいんでしょうか。マンライやラムーや丸足に行ったらいいんですね。
物が渇いたら水を買って飲めばいいんです。ところが魂が渇いている、心が飢えているんだったら、ラムーに行ってもマンライに行ってもそこには答えがない。答えられない。
私個人的な赤日なんですけれども、青春のとき、大学二年生のときでした。あのときに韓国はまだまだ民主化運動が本当に激しくて、大学のときにもほとんど授業が休校のあれが続いていました。
33:08
そしてそういった社会の問題や、あるいは自分の人生のことや、将来のことで本当に悩んでいる青春の悩みの時期がありました。
もちろんクリスタンでした。そのときに教会に行っていないわけではありませんが、何かの渇きを感じて、そして自分なりに本当にそれをどうしたらいいんだろうか悩んで悩んで、
一人でいきなり東の方に大きな高い山があるんですけど、3日間山に行ったり、自転車に乗って1日も2日もどこへでもいいからと言って走って旅行をしたり、そういった悩みを抱えていましたけれども、
そのときには心がすっきりになって、ああ気持ちいいなあって、海を見たり気持ちいいなと思うんですけど、帰ってきたらもう同じなんですね。何も渇いていない。変わっていない。渇きも飢えも解消されていないんですね。
そしてそのときにあのときの私が、青年のときのあのときの先生から、先のイエス様の言葉を導いて教えてあげました。私に来て飲むものは永遠に渇くこと。
皆さん、私の魂が渇いていて飢えているときには、礼拝の場、祈りの場、御言葉の場に近づかなければならないんです。神様を求める礼拝、神様の御心を聞く礼拝、神様の御言葉に耳を傾ける礼拝と祈りと御言葉のある場に、
その名に近づくこと、それが義に上へ渇くものの信仰ではないでしょうか。
先ほど申し上げました、サマリアのスカルのあの女性にイエス様が結局ですね、教えられたメッセージは、誠の礼拝でした。
4章23節に続いてイエス様はこうおっしゃいました。誠の礼拝者たちが、礼と誠によって父を礼拝する時が来ました。今がその時です。
父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は礼ですから、神を礼拝する者は、礼と誠によって礼拝させればなりません。
皆さん、渇いている者、飢えている人々に究極的に根本的に必要なのは、神様への礼拝ではないでしょうか。誠の礼拝、神を賛美する礼拝、
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それだけがですね、それこそが私たちの渇きを、欠乏を、飢えを解除してくれる唯一の答えではないでしょうか。
私たちみんな、イエス様が求めておられる誠の礼拝者になりたい。
皆さん、お一人お一人が誠の礼拝者になる時に、私たちの礼拝が誠の礼拝になる、神様を求める、神様の御心を求める誠の礼拝者になりたい。
ところが、皆さんここで一つ教えられるのは、誠の礼拝というものは、第一は神様のための礼拝であるということです。
その次が、私たちが恵まれることです。この順番が変わりますと、ホンマスペントのものになると思います。
聖書を見ますと、アベルやアブルハム、神の人々は、神のために祭壇を作ったり、築いたりしました。
神様のために生贄を、そこには、自分のために祭壇を築いたという記録は、聖書にはないのです。
私たちの礼拝が、アベルやアブルハムが神様のために祭壇を築いたのように、神様のために生贄を捧げたように、私たちも第一は神のために礼拝を捧げる礼拝者、誠の礼拝者でありたいと願っています。
また、イノクイン書第6章33節に、イエス様は、それをこのように言われました。
皆さん、ご存知の方なんですね。神の国とその人をまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものは全て与えられます。
皆さん、どうぞ。神様をお求めください。神様の御心をお求めください。
そうしますと、私たちが悩んで欲しがっている全てのもの、ニーズを、飢えを、渇きを、欠乏を、主が満たしてください。
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最後に一人の方を紹介して、ミッセージを終わりたいと思いますが、皆さん、きっとご存知かと思いますが、
新世界にも292番、334番の歌詞を作者した水野玄造さん、ご存知ですか。
長野県の、漢字難しいな。羽島郡坂木町で1937年に生まれました。そして1984年、47歳で典任めされた方です。
9歳のときに、これはせきりと読みますか。せきりの高熱で全身まいの体になって、もう言葉を話すこともできなくなったわけなんですね。
すでに彼が12歳のときに初めて聖祖に触れて、そして13歳で神におけてクリサになりました。
こっちですね、もう話せないんですから、お母さんの背助けで、この日本語のあいうえの五重音のですね、この目のまばたきで合図を決めてですね、多くの日を作ったんですね。
ドラマでも作られたようなんですけれども、それでですね、まばたきの知人とも言われている、その方の見心のままにという詩があります。
それをですね、ご紹介しまして、そのメッセージを読みたいと思いますが、こういう詩です。
見心のままに。この道行きたいと願っても、見心でなければ行かれない。見心なしさもう、見神よ。見心のままに行かせたまえ。
試練を避けたいと願っても、見心でなければ避けられない。見心なしさもう、見神よ。見心のままに助けたまえ。
最後です。どんなに生きたいと願っても、見心でなければ生きられない。見心なしさもう、見神よ。見心のままに生かせたまえ。
お祈りします。
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