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2026/07/12:使徒信条(9)かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん
2026-07-12 33:34

2026/07/12:使徒信条(9)かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん

2026/07/12 聖日礼拝

加藤満牧師

コリント人への手紙第二 5:1-10


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サマリー

この礼拝では、使徒信条の「かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」という箇所に焦点を当て、特に最後の審判について深く掘り下げています。加藤満牧師は、アルツハイマーを患いながらも「主は生きておられます」と証しした中村さんの言葉を引用し、見えるものに囚われず、見えないけれど生きておられる神に目を向ける「生きた信仰」の重要性を強調しました。 使徒信条の最後の審判の告白は、初代教会の人々にとって恐ろしいものではなく、苦難の中での希望でした。パウロはコリントの霊肉二元論に対し、肉体は魂を閉じ込める監獄ではなく、神が宿る「幕屋」であると説きました。私たちがこの世で抱く「うめき」は、単なる嘆きではなく、死すべきものが命によって飲み込まれ、天からの住まいを着せられることを待ち望む渇きの表れであると語られました。 さらに、私たちは皆、キリストの裁きの座の前に立つことになります。しかし、この裁きの座は罪を断罪する恐ろしい場所ではなく、イエス様ご自身が愛と十字架の贖いをもって座しておられるため、私たちの善行や日々の誠実さが報われ、地上での誤解や不当な評価が正される希望の場所であると説明されました。最終的に、神が願うのは裁きを恐れる奴隷根性ではなく、キリストの愛を知り、主に喜ばれる歩みをすることだと結ばれています。

はじめに:生きた信仰と見えない現実
お祈りをいたします。 天の父なる神様、主の御前へと私たちを注わしてくださり、
あなたは奥義礼拝ができる栽培を感謝をいたします。
暑くなってきました。本当に夏に近づいてきている中で、
私たちの心と体と霊とが弱りやすくなるそのさなかに、
しかししよ、あなたは限りない愛をもって、私たちはあの十字架で愛しぬいてくださり、
神のことしてくださり、永遠なる人と共に生きる永遠の命を与えてくださり、
どのようなときも私はあなたと共にいる。
私の永遠のカエナが常にあなたの下にあると私たちに約束をしてくださり、
この季節においてもあなたはそれぞれに恵みを備え、
またその中で主は生きておられることを知るようにと、
私たちにそのときを備えてくださっていることを覚えて感謝をいたします。
どうかこの礼拝のときをあなたが成別し、あなたご自身を仰ぐことができますように、
私たちには様々な梅木、様々な芽に見えるところに囚われるところがありますが、
しかし、芽に見えずとも生きておられる主を仰ぐようにと招かれます。
御言葉を開いてください。御言葉を通しあなたご自身を知ることができますように、
そしてあなたと共にここからまた立ち上がっていく勇気を得ることができるように。
主が望んでください。お願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人、ご自宅で礼拝を守るお得ない方、
心がここから離れてしまっている方、痛みの中にいる方を覚えております。
また、今治療の中にある方々も覚えております。
どうか主が共にいてください。必要な慰めを与え、
あなたをその場所で知ることができるように祝福を注いでください。お願いいたします。
御言葉を開いてください。あなたに期待をいたします。
イエス・キリストの皆によってお祈りをします。アーメン。
先週は幸いな33周年の記念礼拝を持つことができました。
礼拝の中で中村真子さんがお明かしをしてくださいましたが、
改めてこの妙谷教会がどれほどその前から祈られ、
また多くの方々の献身によって立てられてきたかということを再確認する機会をいただきました。
ただ私が個人的にとても感動をしたのは、
この礼拝が終わった後、皆さんご覧になられたと思いますが、
ここに中村さんが出てこられてですね、開講一番、
主は生きておられますと告白したことです。主は生きておられますと。
中村さんは赤裸々に話してくださいましたが、
ご自身が今アルツハイマーを患っておられるということ、
しかしそのような不安の中でも主は生きておられて、
私にこのようなことを、このようなことをしてくださいました。
ここに立っていること自体が主の奇跡ですと、そのようなことを言ってくださった。
そう明かしする中に私は、
キリスト社として輝いているなあということをつくづく思ったのですね。
生きておられる主を前にして、主は生きていると告白しながら生きていく。
かからずも3年前に上山先生がここで30周年の記念礼拝を語ってくださったときに、
タイトルは生きた信仰でした。
私の中では点と点が何か結びついたような気がしたんですね。
西武教会、そして宮谷教会には、こういう生きえる主を仰ぎながら、
生きた信仰に生きてきている。
そのような伝統が受け継がれているんだなあと思いました。
信仰というのは頭の勉強じゃありません。
信仰というのはいつも生きておられる主の前にひざまずくことです。
確かに私たちには見えるところには不安や悲しみや恐れがあるかもしれません。
ただ中村さんの話を聞きながら、そこだけを見れば解決はないのかもしれないけれど、
そのときにどこを見るのか。
信仰というのは視線だとお話をいたしますが、
今朝読んでいただいたこの第2コイントの中にもこのような言葉があります。
7節に。
私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいますとタオラは語ります。
そしてこの7節の言葉は実はちょっと前の4章の18節に結びついているのです。
上の段の一番左端にありますが、
4章の18節も読みするとこういう言葉です。
私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を止めます。
見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからですとタオラは語りました。
生きた信仰を生きていく。
その一つの鍵は中村さんを見ながらも思いましたが、
見えるところばかりに目を止めるのではない。
むしろ見えずとも生きておられて私たちに約束してくださっている神様の現実を見つめること。
そうなのではないかなということをつくづく思わされました。
使徒信条の告白:最後の審判と希望
そういうことを思うときに実は今朝ご一緒に続けてみていますが、
今朝の使徒信条の告白はまさに私たちが見えないその現実に目を止めるようにと導くような告白です。
それは古い言葉で読みますと、
かしこよりきたりて、生けるものと死にたるものとさばきたまわんという告白です。
ここには二つのことが告白されています。
かしこよりきたりて、これはイエス様の再出について。
生けるものと死にたるものとさばきたまわん、これは最後の審判についてです。
今朝は特にこの最後の審判に目を止めていきます。
厳粛な内容です。
ただ厳粛な内容でありながら、
最後の審判と聞くと私たちは何かそこに恐ろしいイメージを抱きかちです。
ただ初代教会にとってこの最後の審判のときというのは恐ろしい、怯えるような場所ではありませんでした。
むしろ最後の審判というのは初代教会の人たちにとってそれは恐れではなく、
苦難に目を覆われる中でも仰ぎ続けることのできる希望でした。
最後の審判は希望でした。
そのことを今朝はこの第二コリントの箇所からご一緒に聞いていきたいと願っております。
三つのポイントでお話をさせていただきます。
第一のポイント:天を求めてうめく
一つ目のポイントは、今生きている私たちは天を求めて埋めいていますよねということです。
天を求めて埋めいている。
コリント人への手紙を開くことはなかなかありませんので、少しだけ背景をお話をしますならば、
コリントの街というのはご存知のとおり、ここはアジアとギリシャの中継地点になる公安都市でした。
いわばギリシャの都市なんですが、アジアからの様々な文化が入ってくる中で、いろいろな文化思想が混在している街、
そしてそのような流通があるところというのはいわば商業のチャンスがあるわけです。
多くの飽きない人がそこで商業をなし、実に莫大な富を築く人もいれば、そうではない人もいるという貧富の差がとても激しい、
そういう街であったと言われます。
私たち覚えがあるのは第一コリントの11章で、生産式の箇所がありますけれども、
まさにコリント教会で起きていた問題は、お金持ちの神徒が教会の真ん中でご飯を食べて貧しい人たちが住みに追いやられるという現実があった。
そんなことをしていたら生産になりませんよと言ったのが11章でしたが、
そのようなある種協楽的な雰囲気がある街中で、コリントの人たちに根深く結びついていた一つの世界観がありました。
それは何かというと、難しい言葉で言いますと、霊肉二元論というものです。
簡単に言うならば、私たちの内にある魂は清くて素晴らしいものなんだけれども、
その魂を入れている私たちの体というのは不完全で穢れている監獄なんだというふうに捉える見方です。
私たちの体は不完全で穢れている魂の監獄である。
そういうふうに考えると人々はどうするかというと、いわばこの世界の苦しみはたくさんあるわけです。
でもその世界の苦しみは協楽的に何かで気を紛らわせながら、楽しむだけ楽しんで、あと死んだら自由になれるのです。
死んだら自由になれる。この世界はだから気を紛らわすために楽しむだけ楽しめばいい。
しかしその考え方の問題は、実に自分が生きていることに対して無責任になりがちですね。
死ねば全部解決。
しかしパウロはそこに対して、キリスト社って本当にそうなのかということを問うのです。
私たち、これとは別れ、でも私たちは本当にそうなのだろうか。
そのことを書いているのが5章の1節以下です。
1節を読みますとこういうことをパウロは言います。
たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に神が下さる建物、
人の手によらない永遠の住まいがあることを私たちは知っています。
パウロはコリントのこの思想を意識しながら書いています。
肉体というのは魂を閉じ込める汚れた監獄じゃない。
私たちの体というのは幕屋なんだと彼は言います。
私たちの体は幕屋なんだ。
幕屋であるというのは旧約聖書をご存知の方はお分かりでしょう。
これは神様、聖なる神様を内に宿すテントですね、幕屋というのは。
そのようにあなたたちの体は聖なる神様を内に宿している聖なる良いものなんだとパウロは言います。
その通りに私たちの体は汚れたものでも何でもありません。
神様が作ってくださったとても良いものです。
しかしながらパウロは語ります。
でもその幕屋は私たちの肉体は風にさらされれば痛み破れ古くなるように私たちの幕屋も壊れてしまうものである。
私たちの幕屋も徐々に徐々に年齢を重ね衰えや病を経験しながら劣化していくそのようなものである。
そして三節には裸という言葉も出てきますが、
まさに人は徐々に徐々にそのような幕屋が壊れていく中で裸になっていく。
このメタファーはよくわかるような気がいたします。
自分が築いてきたものが剥ぎ取られていく。
何によっても最終的に自分が持ってきた何によっても自分が覆えないという状況になっていく。
思うようにならないもどかしさや悲しみがある。
だから五章の四節の前半でパウロはこういうふうに言います。
確かにこの幕屋の内にいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。
うめくというこの言葉は胸の内にあって言葉にならないため息という言葉です。
うめく。
そのような実感は私たちそれぞれが感じるところかもしれません。
ただパウロがここで言うのは、
もしもそのようなうめきを私たちが抱いているのであれば四節を全部読みますと、
確かにこの幕屋の内にいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。
それはこの幕屋を脱ぎたいからではありません。
死ぬはずのものが命によって飲み込まれるために、
天からの住まいを上に来たいからですと彼は言うのです。
どういうことでしょうか。
パウロはクリントの人々の考え方を理解しています。
この幕屋を脱いだらハッピーで解決するんだ。
そんなことを聖書は言っているのではない。
私たちがうめいているのは幕屋を脱いで全て終わらせたいからではない。
むしろ私たちがうめいているそのうめき、
いわば私たちが徐々に裸にされていくその裸の私。
そこでうめく私。
しかしそれはその場所は死ぬはずのものが命によって飲み込まれる場所である。
天からの住まいを上に着せられる場所である。
私たちキリスト社がうめいているうめきというのは、
それを知っていてそれを求めている渇きのうめきなんじゃないんですか、
ということをパウロはここで言うんですよ。
私たちはそのようなうめきを失っていないだろうか。
死へと向かうことを嘆くだけのうめきではない。
全て剥ぎ取られた私の裸の私。
しかしその裸の私こそ、神様が天から住まいを着せてくださる場所なのだとパウロは言います。
うめきは嘆きだけではない。
うめきは同時に、主よこの体はあなたの命で満たされることを待ち望むばかりです。
そのようなことを思う深いうめきがそこに重なっているということをあなたたちは知っているかということを言うのです。
私は38、この8月39になる若造ですので、
わかりきっているようなことを言えません。
歳を重ねて聞く言葉は悲しいということを聞くことがあります。悲しい。
わかりきれないなということを自分の中で思いながらも、
しかしそうなのかもしれないなと思うのは、やはり悲しみを覚える。悲しい。
あれがこれができない悲しい。
そのような中で私たちは気を紛らわせていきたい。別に紛らわせてもいいんだとも思います。
ただ私たちはその中で、死んだら全部解決だということではないんですよ。
神様は人間の内にあるうめきを無視はなさいません。
むしろそのうめきを紛らわすのではなくて、
そのうめき自体が次の確かな希望に結びついている約束なんだよということを、
私たちへと示してくださっている。
死ぬはずの者が命によって飲み込まれるという圧倒的な新しい命を与えると、
神様が約束してくださる。
そのように神がそうなさってくださる、そのようにふさわしく整えてくださるとパウロは語り、
その保障は精霊であると語説に語られます。
神はその保障として御霊を下さいました。
私たちの中でそのようなうめき、目に見えるところだけで言うならば、
何か暗くならざるを得ないうめき。
しかし精霊様はそのところで私たちに気づかせてくださるというのです。
あなたのその場所が、神様があなたに気づいてくださる場所になるということを知っていますか?
そしてそのような私たちの歩みが二つ目のポイントにつながってまいります。
第二のポイント:裁きの座の前に立つ
二つ目、いつか裁きの座の前に立つということです。
パウロは語ります。
私たちは心強いのです。
そのような精霊様が私たちを捉えて、
そして私たちにそのような上から天を着せてくださるという約束、
命の約束があるからこそ私たちは確かに心強いのですが、
むしろ肉体を離れて主の身元に住む方が良いと思っています。
パウロは主の身元に住む、神様のところに上がっていくということを意識を致します。
では、その主の身元、いわばそれは下宿を入れ来たり、主が再臨をなさり、
主と共にまた逢いまみえるその時、何が開かれているのか、十節です。
私たちは皆、善であれ悪であれ、
それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、
キリストの裁きの座の前に現れなければならないのです。
主が再び来られる、そのところで私たちの前に開かれるのは、
キリストの裁きの座です。
聖書は厳粛な事実として、
全ての人が主の裁きの座の前に立たされるということを語ります。
ペブルビトへの手紙の9章に、
人間には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっていると書いてあります。
ただ、私たちはこの厳粛な事実を前に恐れだけを抱くのではない。
新約聖書のキリスト社たちは、実は先ほど申し上げたように、
この裁きの座、キリストの裁きの座を恐ろしい場所として捉えてはいませんでした。
むしろ、この裁きの座こそ、
この裁きが成立しないこの世界の中で、
私たちにとっての唯一な確かな希望として、
主が再び来られて、ここに裁きの座が、
キリストの裁きの座が開かれるということを希望として見ていたのです。
それはなぜでしょうか。
この10節を見たら、じっくりと見たら、見えてくることがあるのです。
まず、10節を見るならば、
ここで開かれるのは、キリストの裁きの座の前にということなんですね。
この裁きの座は、キリストの裁きの座である。
私は法学部なので、模擬裁判をしたことがありますが、
実際には裁判所には行ったことがありません。
しかし想像してみるに、裁判所で被告責任を立たされると緊張するでしょうね。
目の前には裁判官と裁判長が立っている。
裁判長というのは、基本的には利害関係を結ばないために、
契約関係には制限がかけられます。
そのような職業。
ですから、被告責任に立つと、
だいたい全く知らない怖い人が裁判長として立っているわけです。
そしてそこでは、法律に則って厳正な裁きを下されるでしょう。
しかし、私たちがそれぞれ立つと言われる裁きの座の裁判長席に座っておられるのは誰か。
イエス・キリストなのです。
そのイエス様はどのようなお方でしょうか。
私たちが知っているのは、
イエス様は私たちの罪を断罪するために地上に来たお方ではない。
私たちの罪を許し、私たちを罪から解放するために、
私たちの罪をその身代わりとなって十字架で裁かれてくださったお方ですね。
そしてそれほどまで、ご自身で十字架にご自身の命を捧げるほどまでに、
私たちを愛してくださったお方です。
私たちの人生のすべてを、それは善も悪も含めて、私たちのすべてをご存じの上で、
私たちのために十字架にかかり、よみがえり、天にのぼり、神の右の座に立し、
今は私たちのために取り成してくださっている大祭司、
そのお方が裁判長席に座っている。
そうであるならば、実はこの裁きの座でなされる裁きというのは、私たちの罪の断罪なのか?
そうではありません。そうであれば論理矛盾です。
キリストの十字架は無駄になってしまいます。そうではない。
そうではないという理由をもう一つ探すならば、実はこの裁きの座という言葉です。
この裁きの座というのは裁きの座、裁判所みたいな意味合いもあるのですが、
もともとの言葉はギリシャ語のベーメという言葉です。
これは何かというと、町の中の一段高いところという意味です。
それは通常、町の中で裁判所としても用いられたので裁判所という訳も可能ですが、
しかしこの町の中で一段高いところは、もう一つ重要な意味で用いられるところがありました。
それは何か、競技大会での表彰台です。
いわば競技大会によって勝者に冠を授与する、要は月刑所の冠を授与する、
その宝鐘、栄誉を与える場所がこの裁きの座という言葉にはあります。
ですから、十節が語る裁きとは、私たちは小さく罪をつつかれるように罪を挙げつらわれて、
お前は不合格だから地獄へ落ちろと宣告されるような、そういう場所ではないということです。
そういう場所ではない。むしろそこではこの十節にありますが、
それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受ける場所であるということを書かれます。
これも一つ一つの行いを全部あげつらってじゃないですけれども、
そういうところでチクチク言われるようなイメージがありますが、そうではない。
できていなかったことを一つ一つあげつらわれるというよりはむしろ、
あなたが日々の中で行ってきた、神に対して向き合ってしてきた小さな祈り、誠実さ、愛の技、
あなたがどう生きたか、それは誰にも気づかれずに誤解もされて、
しかしそういう歩みが主にすべてを覚えられている、主が一つ一つそれをあげてくださる、そのようなニュアンスです。
キリストの裁きの座の前では、いわば隠されていた善がすべて光の中に現れ、
私はすべてを知っていた、そのように主から評価される。
地上での誤解や不当な評価がすべて正され、真実が認められ、名誉が回復する。
これは地上においてはちゃんとした評価が受けれないというのは旧約聖書からずっと続く嘆きです。
なぜ善人は苦しみ、苦しみは悪人は栄えるのでしょうか。
それは真約聖書の中でもずっと言われます。イエス様もそうです。
神の前に忠実である者がなぜ十字架につけられ、悪人が栄えるのでしょうか。
しかしこの裁きの座、いわばキリストの裁きの座においては、それがすべて確かに認められるようになってくる。
裁きというのは本来あるべきところに形が戻っていくという動詞です。
その通りに、神の前にあった忠実さが認められ、回復されていく。
そして地上での信仰の戦いを走り抜いた一人一人に、主がよく頑張ったと命の冠を捧げてくださる。
だから裁きの座というのはキリスト社にとっては報いの場所であり、慰めの場所であり、希望の場所だったんです。
当時のキリスト社は少なくともそのように見ていました。
一箇所だけ開くならば、ピリピリトへの手紙の四章、四節から五節というところ。
パウロが語る言葉があります。ピリピリトへの手紙の四章の四節から五節。
こういう言葉をパウロが教会に向けて語っています。
ピリピリトへの手紙の四章の四節から五節。
お読みしますと、こういう言葉です。ゆっくり読みますね。
いつも主に会って喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
あなた方の寛容な心が全ての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。
主は近いのです。喜びなさい。ピリピリトへの手紙は喜びの手紙と言われますが。
喜びなさいと言われて喜べるでしょうか。なかなか難しいですね。
私は何かしんどいときに喜びなさいと言われるとうるさいと思ってしまう。
でもパウロは言うんです。それでも喜びなさい。
あなたたちの目に見えるところは喜び得ないかもしれないけど、でも喜びなさい。
喜び得るんだ。なぜなら主は近いから。主は近いというのは主は再び来られるときが近い。
そしてそこに裁きの座が開かれるときも近い。
そこであなたを不当に苦しめてきた様々なことが報えられて、神があなたはよくやったと言ってくださるときは近いのだから。
喜びなさい。喜びなさい。私たちは喜び得るのだということをパウロは語るんですよ。
全活中なる下人よ。森山先生がよくおっしゃられた言葉として聞いていますが。
そのような時が来る。もうすぐ近くまで来ているのだからそこを仰ぎなさい。
パウロは言うんですか。目に見えるところではなくて信仰によって歩んでいるというのは一体どこを見つめているのか。
それは主が再び来られる。そして私たちはいつかは分からないけれども、
すべてが、それは生ける者も死ねる者も善人も悪人も、この主の御前にあなたが立たされるときが来る。
そのときにあなたはよくやったと言われるときが必ずあるのだから。
だから喜びなさい。目の前のことばかりにとらわれているな。そのようなことを語られるのです。
だから三つ目のポイントです。心から願うことは主に喜ばれることだとパウロは語ります。
第三のポイント:主に喜ばれること
この裁きの座を仰いでいるから9節です。
そういうわけで、肉体を妻としていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは主に喜ばれることですと彼は語ります。
主に喜ばれることです。
私たちはこの10節の言葉、裁きの座がただただ恐ろしい場所だと思うならば、
主に喜ばれることですという言葉は、まさにその裁きの座で神様に断罪されないように、怒られないように、神様の前に罪を犯さずに生きていこうという奴隷根性になってしまいます。
しかしそうではない。裁きの座がキリストイエスの十字架にあって、慰めと希望の場所として開かれていると知るならば、
私たちはこのイエス・キリストの十字架にただただ感謝しながら、虫にも一式を賛美しましたが、そこに感謝をしながら、この主を愛して生きていこう。
この地上の最後まで、この主を愛して生きていこう。この主に喜ばれる歩みをしていこう。心からですよ。心から。
神様が私たちに願うことは、裁きを恐れて奴隷根性で生きることではありません。
神様が私たちに願うことは、十字架に御自身を捧げるほどまでに、私たちを愛されたキリストイエスの愛、神の愛を知って、愛されている神のことをして生きてほしい。
私を愛して生きてほしい。それが神様の願いです。
もう終わりますが、私たちはともすれば、地上の幕屋が壊れていく中で、自分自身の衰えを感じる中で、恐れ、もしくはもう一つ言えることは、自責にとらわれます。
私よくこれが多いかなと思います。自責です。
私はそれでも許されるわけがない。私はそれでも裁きの座に立たされたら、あのことこのことをキリストに責められるに違いない。
ああ、私はそこで天国にはいけないかもしれない。
でも、じゃあ十字架は何だったんですか?と思います。
イエス様は責め立てていない。責め立てているのはいつも私たち自身です。
私たちは自分自身を許しながら、イエス様はそんな小さいお方である十字架の救いはそんな小さいものであるとせずに、
私たちが不十分ながら、それでも主を見上げて必死に生きてきた日々を主が知らないわけがないのです。
その人生を最後イエス様が抱きしめ、その涙を拭い、最高のねぎらいをもって新しい天の住まいへと迎え入れてくださる希望の場所がこの裁きの座です。
だから私たちはこの裁きの座を震えながら恐れるのではなく、大きな希望として仰ぎ待ち望み生きていくようにと招かれています。
そしてあえて申し上げます。ヘブレーションに人間には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっているとは厳粛な事実ではあります。
キリストの裁きの座、その裁きの裁判長としてイエス様がそこに立っている。
イエス様は十字架の御手を広げて、私はあなたの罪のために全てその裁きを受けたと言われる。
しかし私たちの中で、そのキリストにそれでも背を向け続けるならば、それにふさわしい裁きがあることもまた事実です。
共に厳粛に思いながら、しかし目に見えることを全てと思わずにこの裁きの座を仰ぎましょう。
そしてそこに信仰を持って、希望を持って臨みたいのです。
私たちは最後まで心から願うことは、主がそのような報いをおいてくださっていることを覚えて、主に喜ばれたい。
そのような笑みをさせていただければ幸いだと思います。
一言お祈りをいたします。
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