1. 名谷教会
  2. 2026/06/07:使徒信条(6)ポンテ..
2026/06/07:使徒信条(6)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ
2026-06-07 30:18

2026/06/07:使徒信条(6)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ

2026/06/07 聖日礼拝

加藤満牧師

マルコの福音書 -39

感想

まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!

サマリー

この礼拝では、加藤満牧師がポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられたイエス・キリストの受難について語っています。牧師は、カトリック教会の十字架にかけられたイエス像を見た経験から、その苦悶の表情と「我が神、我が神、なぜ私を見捨てになったのですか」という言葉を結びつけ、自身の罪深さについて問いかけます。罪の本質は「的を外して生きること」であり、神ではなく自分自身を人生の主や王とすることだと説明します。イエス・キリストの受難は、この罪の力そのものに立ち向かうものであり、イエスは自らの意思で命を捨て、私たちの罪を背負うために十字架にかかられたと強調します。最後に、介護の末に罪悪感に苛まれた女性の証しを通して、イエス・キリストの十字架が、私たちの罪や苦しみをすべて担い、赦しと愛を与えてくれることを伝えています。

祈りと信仰告白
お祈りをいたします。
恵みと憐れみに富んでおられる、私たちの父なる神様、
今日も死の御前へと私たちを集わして下さり、
あなた仰ぎ礼拝ができます幸いを感謝をいたします。
限りない憐れみをもって、あなたは私たちを愛し抜いて下さいました。
我が神、我が神、どうして私をお見せになられたのですかと、
そのように十字架で埋めくイエス様の姿を私たちを仰ぎながら、
あなたに近づこうとしています。
あなたがその流された血潮により、私たちの罪が許され、
それだけではなく復活の命、永遠の命を私たちに与え、
今や永遠の日と共に生きる新たな命を与えられて、
子よしっかりしなさいと、そのように私たちに語り、
永遠の身腕をもって今もどんな時にも、
私たちを支えて下さっていることを覚えて、
主の皆をあがめ感謝をいたします。
どうか主よ、御言葉を開いて下さい。
あなたの命の言葉こそ、私たちの足の灯火であります。
どうか今日も命の言葉によって私たちを強め、
勇気を与え、主を仰ぐ信仰をあなたが与えて下さい。
そしてここから、あなたと共に出ていくことができますように、帰りにいて下さい。
ここに来たくても来れないお一人一人がいることを覚えています。
ご自宅におられる方、施設におられる方、
心を痛めてここに来れない方がいらっしゃることを聞いております。
どうか主がお一人一人を慰め、共にいて下さいますように。
全世界で持たれている礼拝、特に戦地における礼拝を主がお守り下さいますように。
世界の威勢者になお、あなたが働きかけ、
世界の真っ事の王である主ご自身による平和が築かれていくよう、
それぞれの働きを持ち、導いて下さい。
お願いいたします。
これからの時を見てにゆだねます。
主が御言葉を語って下さい。
皆さまのお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
ポンテオ・ピラトのもとでの苦しみと十字架
人心上の告白を味わう歩みを続けております。
今朝ご一緒に目を向けますのは、
ポンテオピラートの下に苦しみを受け、十字架につけられというそのような文言、告白です。
皆さんは十字架に張り付けにされたイエス様というのを
どこかでご覧になられたことがあるかと思います。
それは絵画の中でもそうでしょうし、
私自身が実に鮮烈に覚えているのは、
カトリック教会の十字架を見たときでした。
私は3年間福島県の北方というところで
ご奉仕をさせていただきましたが、
そのときにアイズのキリスト教会はすごく仲がいいんです。
どこが仲がいいかわからないですが、
カトリック、聖公会、ペンテコステ派、キョウメ派、日本キリスト教団、
それが一挙に集まって協力関係を築いていました。
そしてその会議の会合に使われたのが
カトリックの北方教会でした。
神父様はとても丁寧に優しい方でして、
教会に行くとよくこれはカトリックではこうなんですよと
案内してくださいましたが、
やはり目に留まったのは
その教会の礼拝堂の前にある十字架でした。
しっかりとこの木の十字の十字ではなくて
カトリックの十字架には
イエス様が張り付けにされている像があります。
そこでうなだれているイエス様の体、
そして苦悶に満ちた表情を見たときに
私は今日のマルコの十五章の
この我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか
という言葉がふと思い浮かびました。
主よ、
どうしてあなたはここまで苦しまれたのですか。
世界の王であり、権威あるお方、
栄光に満ちあふれた神の子が
なぜこのような苦しみを負われたのですか。
模範回答的に私の中に即座に浮かぶ言葉があります。
それは私の罪のため。
しかしその苦悶の表情のイエス様を
じーっと眺め続けていく中で
もう一つ疑問が私の中に浮かびました。
それは主はここまで苦悶の表情をなさり苦しまれたが
私は私の罪がここまで主を苦しめるほどのものであると知っているのか。
私は私の罪深さを本当に知っているだろうか。
というそのような問いでした。
イエス様の十字架は誰のためであるか。
何のためであるか。
私たちは互いにキリスト者です。
すぐに答えが浮かびます。
それは我が罪のためなり。
賛美もいたします。
我が罪のためなりと。
しかし今朝ご一緒に立ち止まり
共に問われたいこと。
しかし私たちはその我が罪のためなりと歌う
我が罪を知っているだろうか。
このポンテオピラトの下に苦しみを受け
十字架につけられというこの告白
それはイエス様の御受難ですけれども
その苦しみは一体誰の
何のためであったのか。
実はそれがわからないと私たちは本当に十字架がわからない
そうではないかと思うのです。
私たちの罪とは何か
二つのポイントで今朝少し聖書の言葉に聞いていきたいと願っております。
第一のポイントそれは私たちの罪
私たちの罪とは何かということです。
先ほどマルコの十五章を読んでいただきました。
いわゆるこれはイエス様の受難のクライマックスであります。
ポンテオピラトの下に苦しみを受け
十字架につけられと言われた
その聖書で書かれている現場そのものが描かれているところです。
ただマルコの福音書を順に読んでいきますと
この受難の場に至るまで
イエス様は三回ご自身のこのご受難を
予告されていたということを皆さんご存じかと思います。
箇所で言うならば八章の三十一節と
九章の三十一節と
十章の三十三節というところなんですが
また見ていただいたらと思いますが
十章の三十三節をちょっとお読みしますと
イエス様の予告の言葉が
このように言われていることに
私たちは聞きます。
マルコの福音書十章の三十三節
ご覧なさい。
私たちはエルサレムに登っていきます。
そして人の子は
妻子長たちや立法学者たちに引き渡されます。
彼らは人の子を死刑に定め
違法人に引き渡しますと言われるのです。
これまた並べて読んでいただいたらいいと思いますが
気づかされることは実は
この三度の予告が並べてイエス様が語られるときに
実は徐々に増えていく言葉が一つあるのです。
それは引き渡されるという言葉です。
引き渡される。
イエス様はポンテオピラトのもとに苦しみを受け
この受難のことを私たちは見るわけですが
しかしイエス様ご自身がそのことを予告されるとき
それは引き渡されるとご自身で表現をなさいました。
引き渡されるという言葉は何でしょうか。
いわばそれは
自分では何一つ抵抗する力を持ち合わせず
されるがままにされるということです。
されるがままにされるということです。
まさに受難というのはこの内容にそのまま当てはまることでしょう。
これまでイエス様は権威を持って福音選挙をなさいました。
悪霊にも力強く出て行けということができました。
奇跡を起こされました。
力ある王であるご自身を表してこられました。
しかしあのローマ兵にとらわれる団に至り
イエス様ご自身は一切抵抗をなさいません。
むしろあえて抵抗をなさらない。
そしてされるがままにとらえられ
ユダヤの最高法院に引き渡され
次はローマ総督ピラトのもとに引き渡され
そしてその後はローマ兵のもとへと引き渡され
その間、悪行と暴力にされるがままに受けられて
そして十字架城に引き渡され
十字架のもとで人々は言いました
あれは他人を救ったが自分は救えない
そのようなことまで言われながら
イエス様はされるがままにあざけられ
最終的には十字架の死そのものへと
引き渡されて行かれました。
それがまさに受難というものです。
福音書はこの一連の流れをまさに受け身形で書きます。
ですからイエス様はただただ受けるのです。
苦しみを一切抵抗せず。
この引き渡されるままのイエス様
そのお方を襲ったのは何か
それは人間に働く罪の力そのものでありました。
十字架の場はまさに
罪と呪いのるつぼとよく表現されますが
まさにあそこは十字架が
罪と呪いが凝縮したような
そのような現場ですね。
つくづく思うのです。
罪とは何なんでしょう。
罪とは何でしょうか。
言葉の面から言うならば
罪というのはそれは一言で言うと
的を外して生きることです。
的を外して生きること。
私たちを創造された誠の神様を認め
神様を信じ
そのお方を見つめながら
このお方を私の人生の主であり
王であると告白しながら生きていくときに
私たちはそれは的が合っているんです。
的が合っている。
私たちは神様に創造された非造物であって
私自身が神ではない
神というお方を神として生きていくときこそ
私たちの的が合っている状態と言えるでしょう。
しかし、そうではない。
善悪の知識の実を食べたアダムとエヴァに起きたことは何か
それは善悪の基準を自分の中に持つようになった。
人間が罪を犯し的を外しているとは一体何のことを意味するのか
それは神様を見ずにその的を自分自身に定めるときに
それを罪人というのである。
自分自身こそが自分の主であり王とするならば
私たちは的を外します。
神様が私たちのことを高価で尊いと認めてくださっています。
あなたは良いものだとして創造されたと言われます。
しかしその声を自分が王であるときに聞こえることができません。
そして私にとって価値があると言われるのに
私たちはその声が聞こえないために
自分自身を何か価値あるものとして
明かししなければならないという薬器になっていきます。
しかし基本的にこの世界も他の人も互いに的外れの場合
誰もあなたは素晴らしいと言ってくれることは少ないかもしれませんね。
そこでは愛があるのではなく
比較的比較と競争が起きやすい。
人は人からの評価を恐れ
本当の自分を見せることができなくなっていく。
罪というのは人間の心を閉ざします。
的をはずし恥ずかしくない
自分を明かししなければと薬器になりながら
でもそうあれない自分を恥ずかしく思う。
心を閉ざしていく。
神様に対して心を閉ざし
隣人に対して心を閉ざす。
閉ざされた自らの心を一人で抱えて生きていく。
罪人とはそういう生き方でしょう。
しかしそれだけでは終わりません。
罪というのは悪化をしていきます。
まさに病草のように広がりながら
孤独である互いは他者を求めるのです。
しかし心を開くことができないときに私たちは
隣人の存在が祝福ではなくなる。
むしろ自分を否定する存在
ストレスの源
私の敵になっていってしまう。
あのカインが弟アベルを憎み
劣等感を覚えたように
隣人であるはずの存在が
自分を否定する敵へと変わっていく。
ついにカインはアベルを殺害をいたしましたが
孤独な心というのは常に
脅かしと怒りがその中にあります。
自らの存在を
いや大丈夫だ、私はあなたを愛しているんだ
という言葉を聞くことができない
肯定を与える神様を知らないがために
常に不安で
心を通わせる相手がいないために
人生が形になっていきません。
人によっては生きていること自体が苦痛になっていく。
しかし人間はぼんやり時を過ごして
生きていくわけにもいけませんので
この心の隙間を埋めようと快楽を求めます。
一番の快楽は何でしょうか。
邪魔者を殺すことです。
邪魔者は私の期待に応えてくれない救い主などを
十字架につけろ。
殺してしまえ。
十字架につけろ。
十字架につけろ。
実は実にイエス様を取り巻いているこの時
そこには罪が取り巻いている。
人間が罪人として生きている
そのありのままの姿が取り巻いている。
しかし
これは自戒を込めて申し上げますが
今申し上げた内容は
少なからず私自身の胸を裂くような思いをするような言葉です。
それはもしかしたら皆さん自身もそうかもしれません。
私たちは互いにイエス様を信じた神の子なのです。
すべてが新しく自由になりました。
しかしながらなおも罪にとらわれることがある。
罪の力はなおも私たちをとらえることがあり
そして的が外れて
その外した状態がずっと自分の中に残り
自分自身を変えられないといううめきとしてずっと残っている。
私たちは的を外したらどうすればよいのでしょうか。
簡単です。
悔い改めればいいのです。
方向転換をすればいいのです。
しかしながら時に
私たちは方向を合わすべき神様すらも見えなくなるということすらあります。
神様がわからない
見えない
神の愛がなおも私に注がれているとは信じきれない
そういうことが私たちはある。
イエス様が十字架上で言われました
父よ彼らを許しください
彼らは自分が何をしているのかわからないのでいるのです。
罪人であるという現実は何か
それは私たちはどれほど自分が的を外しているかすら自覚ができないということです。
そのぐらい致命的な状況のことを私たちは罪人と表現します。
しかしそれは少なからず私のことであるなと私は読みながら思います。
イエス・キリストの十字架の受難
ただ罪許された罪人や神を知らない罪人の大きな違いは一体どこでしょうか。
それは帰り道を知っているということです。
あの宝塔息子のように父を知っているかどうかです。
しかし申し上げました私たちは時に神様を見失います。
どこに標準をまた合わせたらいいかがわからなくなるときに
じゃあ私たちは一体そこからどういう方向へとまた的を合わせればよいのでしょうか。
いつも私たちが思い出さなければならないのはその時に焦点を合わせるのは十字架なんです。
イエスキリストの十字架に目を合わせる。
二つ目のポイントを申し上げます。
それは私たちの罪のためにイエスキリストは十字架につけられたということです。
そのことを見ています。
先ほど見てまいりました。
主の受難というのは引き渡されと言われてきました。
なされるがまま受け身で進んだと申し上げました。
確かに外見的に見るならばこの十字架上のイエス様というのは無力さの極みです。
しかしじゃあイエス様ご自身はこの状況をただただなされるがままで
ただただ敗北をなさっていたのかというとそうではありません。
一箇所だけ聖書をお読みしますが
ではヨハネノ福音書の10章の18節というところを少しお読みいたします。
ヨハネノ福音書10章の18節というところをちょっとお読みいたしますと
イエス様の言葉ですが
ヨハネノ福音書10章の18節
新約聖書202ページの下の段にございます。
このようにイエス様は言われました。
誰も私から命を取りません。
私が自分から命を捨てるのです。
私にはそれを捨てる権威があり、再び得る権威があります。
私はこの命令を私の父から受けたのですとイエス様はおっしゃられました。
私が自分から命を捨てると言われる。
イエス様が言われたことは
私はこれから受難に遭うのだけどもしかし
それは人間に無理やり命を奪われるのではない。
されるがままに敗北していくのではない。
違う、私は自らの意思で自ら命を投げ打ち
罪人への愛ゆえにこの命を捧げたのだと言われるのです。
まさに我が神、我が神、どうして私をお見捨てになられたのですかというときに
しかしそのどうしてを主は同時に知っておられる。
ああ、それは罪人のためである。
どうしようもない罪人のためである。
そのことがよくわかるのはイエス様が十字架上で言われた一つの言葉です。
ヨハネの十九章の三十節にありますが
完了したとイエス様は十字架上で言われました。
完了した。
これは当時の商業用語では大金を全て支払い終わったという意味ですね。
有名です。全てを支払い終わったという意味です。
きわたされる中にイエス様ご自身は
されるがままであるけれども
同時にその中にご自身の能動的な意思を持って
ご自身の身業を進めておられた。
それは自分自身を救わないことによって
他人を救ったが自分を救えないじゃないです。
他人を救うために自分を救わなかった。
その救いを成し遂げるために
全ての罪をその身に負いきられることを
あの中でなさった。
まさにイザヤショが語る通りです。
彼は多くの人の罪を負い
背いた人のために
たちのために取りなしをするといった通りですね。
主が十字架の上で完了したと宣言された
その最大の身業とはひとえに
私たちの罪を
その主をご自身で背負い尽くす
受け切る
それがイエス様の十字架でなされた
完了された身業でありました。
うめく私の罪も
わからないあの人の罪も全てです。
イエス様はあのカトリック教会で私が見た
あの苦悶の表情を浮かべながら
血を流しうなだれつつ
あなたのその隠された罪も
主にも
誰にも言えない恥も
痛みもすべて
今私がここで背負っている
私が身代わりとなって引き受けているのだと
私たちに語ってくださっています。
すべてを担ってくださった。
ある一人の方のお証をしても終わりますが
あるご夫人とお話をしたことがあります。
その方が打ち明けてくださった話でしたが
その方は長年連れ添われたご主人を先に
天に贈られたご高齢のご夫人でありました。
ご夫婦ともにクリスチャンで熱心に
教会に仕えてこられた。
ただ奥さんがいらっしゃらないこの方は
いわば晩年は牢牢介護という状況になっていかれた。
奥様はまさにイエス様の愛をもって
最後までご主人を愛し
解除しそうそうとなさいました。
しかし現実は大変です。
昼夜を問わず介護が必要です。
病院通いに行かなければなりません。
息つく暇のないそして心身ともに
疲弊し続ける日々が続く中で
ある日ふと奥様の心をよぎったそうです。
ああこの人が早く天国に行ってくれたらいいのに
その数日後にご主人は天に召されました。
この方は激しい罪悪感に襲われます。
なんということを私は願ってしまったのか。
しかし同時にうちに怒りがあるのです。
でもあの時私は限界だったじゃないか。
じゃあ私は一体どうしたらよかったのか。
そのようなもっていきようのない
怒りや悲しみを抱えた。
我慢強い方だったので
教会では笑顔で振る舞っておられました。
しかし心の中にはそういう暗闇を抱えて
そしてその暗闇はいつしか
神様を見せなくさせていった。
神様が途中で別れなくなった。
しかしある礼拝のことです。
その日の牧師がメッセージで
今十字架の主を仰ぎましょうと招かれたそうです。
その時その方はぼーっと
教会に架けられていた小さな十字架を
ぼーっと見つめられた。
その時に視線の先にただ力なくうなだれ
人々の悪意に引き渡され
苦悶の表情を浮かべるイエス様の姿が
プロテスタントの方ですから像はなかったと思います。
しかし十字架に架けられたイエス様の姿が
リアリティをもって自分に迫ってきた。
その時にそのあまりに深い苦悶の表情を見ながら
姉妹はこう問われたようです。
主よ、あなたはなぜそこまで苦しまれるのですか。
するとその姉妹に対して
主がこのように声を響かせてくださったそうです。
子よ、私はあなたのその罪を
うめきをここで担っているのだ。
私はあなたが言いたくもなかった思いを
抱いてしまったあの後悔も
笑顔の裏のうめきも全てを知っている。
だからあなたが抱えたその重荷を
既に背負いながら
私はここで苦しんでいるのだ。
もう自分を許しなさい。
私はあなたを責めていない。
私はあなたを愛している。
そう聞こえたそうです。
その瞬間姉妹は重荷がわかったとおっしゃっていました。
私は自分自身を裁き続けていたけれども
しかし主は既に私を許し
その私の痛みを引き受けてくださっていた。
涙ながらにこう祈ったそうです。
主よどうか私をお許しください。
何と愚かでひどいことを思ったのでしょう。
しかしあなたは私の過ちも
うめきもご存じで
重荷で担ってくださっていたのですね。
どうかあなたの重荷の愛から
私の人生を始めさせてください。
そのように祈られたようです。
その時に長年の罪悪感から解放されて
自由を得ましたとおっしゃっていました。
私はその話を聞きながら改めて
イエス様の重荷というのは何と鮮やかに
人を救い救い続けるのかと思わされました。
今朝最初に申し上げました。
罪悪感からの解放と十字架の愛
重荷は私の罪のためであると私たちは告白をいたします。
しかし私の罪とは何でしょう。
それはきっとそれぞれ違うのだと思います。
同じものは何一つないでしょう。
しかし改めて思う罪の本質は的外れです。
それは単に何か悪いことをしてしまったということの話ではない。
私たちの実存がどこかずれている根本からずれる。
その時に深くうめくそこに起因する不安
不安を神様以外の何かで埋めようとする
痛々しいまでの自己防衛
焦点を死に合わせたいと願いつつ
いつもずれていってしまう私たちの弱さ
それが私たち私も含め等身大の罪人の現実ではないでしょうか。
しかし同時に今朝確かに覚えたいことは
私たちは神の子なのです。
帰り道を知っている。
私たちは改めて今どこを見つめるべきかを知っている。
そしてそこで主が何を語られているかも知っている。
帰り道はあるのです。
どこかそれは十字架です。
十字架なんです。
それはまさにそのままで
そのままの姿で十字架の下に来なさい。
そして私を仰ぎなさい。
私はあなたのすべてを担っている。
この愛から始めなさいと
私たちを招いておられるのではないでしょうか。
主は今朝も私たちを優しく招いておられます。
一言お祈りをしてもう終わります。
一言目お祈りをいたします。
30:18

コメント

スクロール