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2026-07-19 21:56

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2026/07/19 聖日礼拝

加藤歩名牧師

マルコの福音書 -15


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サマリー

加藤歩名牧師は、イエス様が荒野に追いやられた出来事を、私たちが日々の厳しい現実に直面する状況に重ね合わせ、神の愛と守りは荒野にあっても変わらないと語ります。また、ヨハネが捕らえられた後もイエス様は神の国の到来を宣言し、その恵みの支配はすでに始まっていると述べます。この神の国は、奪うのではなく与える愛によって成り立ち、私たちの日常の荒野にあっても神の国はすでに存在し、神は私たちと共にこの国を完成させていくパートナーであると強調しています。

祈りと礼拝
では、一言お祈りさせていただきます。
神の神様、主の皆を賛美いたします。
主が愛しておられるお一人お一人とともに、
日曜日の朝、神様を礼拝できる恵みを感謝いたします。
夏に入り、本当にまいてしまうような 暑さの日々でありますけれども、
神様がなおも私たちを背負い持ち運んで くださっていることを覚えて感謝をいたします。
続けて、健康を支えてくださり、
この季節も歩ませてくださいますように お願いをいたします。
共に二言葉を聞かせていただきます。
ここにおられるお一人お一人、
そして、露魂を通して礼拝されている方、
皆様と共に聞かせていただきます。
主の言葉によって私たちを元気づけ、
養ってくださいますようにお願いをいたします。
イエス様の皆によってお祈りをします。
アーメン。
荒野への誘い出し
前回、私は子供祝福式の礼拝で、
マルコの1章1節から11節のお話をさせていただきました。
イエス様が洗礼を受けられ、
あなたは私の愛する子、
私はあなたを喜ぶという、
神様からのグッドニュースが響き渡った場面をご一緒に見ました。
私たちは何か立派な成果をあげる前から、
ただそこに存在しているだけで、
百点満点に愛されている神の子だというメッセージを共に受け取りました。
今日はその続きでありますが、
今日開いた最初を見ると、
それからすぐに三玉はイエスを荒野に追いやられたとあります。
さっきまで私の愛する子と抱きしめられていたはずのイエス様が、
すぐに荒野へと押し出されてしまったという不思議な流れの場面です。
マルコの福音書はすぐにという言葉がよく出てくると言われていますけれども、
そんなに急がなくてもなぁと思いながら読んでいます。
荒野の現実とハリネズミ
私たちも神様の大きな恵みを受け取って、
感謝だなぁ、頑張ろうと励まされた途端に、
日々の現実で一変した厳しい荒野に立たせられるような時があると思います。
どうやらイスラエルの荒野にはハリネズミがいるらしいんです。
ハリネズミという動物。
最近では買いやすいペットランキングで上位に来ている動物だそうです。
これぐらいの大きさで一見かわいいらしいんですけれども、
彼らは危険を察知すると、
ハリをトゲトゲトゲと逆立てて丸まって、
とても触れなくなってしまうような動物です。
荒野に立たされるということは、そういう防御力が必要なんですね。
私たちの心もこれと似ているところがあるのではないでしょうか。
日常が荒野のように思え、
誰も助けてくれない、自分で守るしかないと怯えたときに、
心の中にたくさんのトゲを生やしてしまう。
そしてそのトゲは身近な人へのイライラやトゲトゲした言葉になって、
現れてしまうということがあるかもしれません。
まさにイエス様は私たちが日々直面するような、
そんな厳しい孤独な場所に追いやられたのです。
今日は私たちと同じ経験を、現実を経験されたイエス様が、
すでに与えてくださっている恵みを共に聞ければ幸いです。
荒野でも変わらない守りと恵み
一つ目のポイントです。
荒野でも変わらない守りと恵みです。
イエス様が追いやられた荒野は、サタンからの誘惑を受ける場所でした。
平行箇所のマタイやルカには、この荒野の誘惑という場面は有名です。
サタンとのやりとりが他の箇所では詳しく書いてあるんですけれども、
マルコには詳しく書いてありません。
書いてあるのはこれだけです。
13節
イエスは40日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。
イエスは野の獣と共におられ、蜜貝たちが仕えていた。
荒野という場所は、私たちが思っている以上に過酷な場所のようです。
13節にあるように、野の獣が共にいた。
先ほどのハリネズミのような小さなものだけだったらいいんですけれども、
人を襲うような獣もいたでしょう。
そういう危険な場所です。
荒野は何もないというイメージが私は強かったですけれども、
何もないどころか、いつ命を落としてもおかしくない危険な場所、
そんなところにイエス様は追いやられたのです。
しかし聖書は、イエスは野の獣と共におられ、蜜貝たちが仕えていたと書いています。
本来なら襲いかかってくるはずの獣たちが、
イエス様の隣に共にいる、おとなしく寄り添っているイメージでしょうか。
そして天の蜜貝たちがイエス様のお世話をしていたと書いているのです。
これを読むと旧約聖書にある有名な話を思い出さないでしょうか。
ダニエル章6章に記されている物語です。
6章を開ける方は開いてもいいと思いますが、こんな物語です。
預言者ダニエルという預言者がいました。
彼は彼を妬む役人たちの陰謀によって、
お腹をすかせたライオンがいる深い穴の中に落とされてしまうという事件があったのです。
誰もがダニエルはもう終わりだと、ライオンに食べられてしまったと思いましたけれども、
次の日の朝その穴をのぞくと、ダニエルは無傷のままライオンたちの真ん中にいたのです。
6章22節でダニエルはこのように言っています。
私の神が密会を送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の危害も加えませんでした。
密会が、神様が密会を送ってくださって、ライオンの口を完全にふさいでくださったという事です。
猛獣のいる危険な檻の中は、密会が守る安全な場所へと帰られました。
この荒野の出来事も同じ状況だったかもしれません。
そしてここからわかる大切なメッセージがあります。
それは、どんなに厳しい荒野に立たされても、
神のことされた私たちへの神の愛と守りは、一ミリも変わらないということです。
どんなに厳しい荒野に立たされても、神のことされた私たちへの神の愛と守りは、一ミリも変わらない。
荒野の中にいざ立たされると、どうしても私たちは忘れてしまうことです。
そしてそれこそが、サタンの誘惑・試みといえます。
荒野での誘惑とは、ただ悪いことをしたくなるということだけではありません。
その本質は、神様の愛を疑わせるということです。
私たちの心に、サタンは誘惑を持って囁いてきます。
本当に神に愛されているなら、なぜこんなに苦しいのか。
神は何もしないじゃないか。
自分の力で自分を守るしかないんじゃないか、というように。
私たちは、そんなサタンの誘惑によって、神様への信頼を失い、不安と恐れでいっぱいになり、
時に周囲に対してトゲトゲした言葉を使ってしまう、
私たちが日々直面している荒野の誘惑ではないでしょうか。
でもそうではないのです。
荒野の中にあっても、誘惑の中にあっても、
神様の恵みと守りが存在しない場所は一つもありません。
イエス様が獣の真ん中で見つかりたちに守られていたように、
自分は神様に見捨てられたのではないかと思うような瞬間にも、
神様の守りはそこに変わらずあります。
このことを私たちは共に思い出していきたいと思うのです。
そしてそれはまさに、この後イエス様がおっしゃられる神の国のことを指しています。
すでに始まっている恵みの支配
二つ目のポイントを見たいと思います。
二つ目のポイントは、すでに始まっている恵みの支配です。
14節を見てみますと、暗いニュースが飛び込んできます。
ヨハネが捕らえられた後、
イエス様の先駆者であったバクテスマのヨハネが、
時の権力者によって捕らえられてしまいました。
力づくでヨハネの自由と命を奪う、この世の支配による出来事です。
でもイエス様はこの暗闇の中で立ち止まることはされませんでした。
むしろここから立ち上がり、ガリラへ向かって行かれ、言われるのです。
15節
時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。
時が満ちた。
これは、イエス様がこの地上に来られた、
その瞬間から神様が計画されていた時が始まったということです。
それは、神様の恵みの支配がこの世界すべてに及ぶ時です。
世の中のニュースを見ていますと、
悪が勝ち、多くの人が苦しむような、
暗い荒野のような現実が目につくかもしれません。
しかしイエス様が語られた、神の国が近づいたという言葉は、
まさにそのような現実を生きる私たちの日常に関係をしています。
神の国とは、どこか遠い天国のことでも、
あるいはこの教会という建物の中だけのことではありません。
今私たちが生きているこの世界、このすべての場所に、
神様の恵みの支配がすでに届き始めているということです。
これまでは、力のある者が勝ち、弱い者が奪われる、
そんな世界が当たり前だったかもしれません。
しかしイエス様が来られたことで、
愛され、許され、生かされるという新しい恵みのルールが、
この世界に始まりました。
これは私たちにとって大きな恵みです。
そして私たちの日常の荒野にあっても、
私の歩んでいるこのすべての場所に、
すでにイエス様の恵みが支配しておられる。
私はこの国の市民なんだと、
ゆるがない安心の土台が与えられていることを覚えたいと思います。
そしてこの神の国は、やがて完成し、
すべての悪に完全に勝利をしてくださいます。
奪うのではなく、与える神の国
3つ目のポイントです。
奪うのではなく、与える神の国です。
ではイエス様がもたらす神の国の統治、
ルールとは一体どのようなものなのでしょうか。
この世界は他者から何かを奪うことで、
支配をしている世界かもしれません。
ヨハネを捕らえたヘロデ王のように、
力で相手をねじ伏せ、
自由を、富を、そして命を奪う、
相手から奪うことで支配する世の中の価値観。
しかしイエス様がもたらしてくださった神の国は、
まったくその真逆なのです。
イエス様は力づくで奪うことによって勝つ王様ではありません。
むしろ、ご自分の命すらも進んで与えることによって、
勝利し納められる王様です。
イエス様はこの後、私たちの罪や失敗、
心のけがれをすべてその身に背負って十字架へと向かわれます。
そして、ご自身の命を惜しみなく与え尽くしてくださいました。
この与える愛によってイエス様は、
使徒スパタンの力を無力にし、
神様の恵みの支配を完全に決定づけられました。
力で奪う勝利はいつか何かに奪い返されます。
しかし、命を与えることによって完成したイエス様の十字架の愛は、
誰にも悪魔にさえも二度と壊すことができません。
圧倒的な恵みの支配です。
私たちに用意されている神の国というのはそのような場所なのです。
神の国を共に作り上げる
さて、私たちは日々、それぞれ日常という名のあらのをこれからも生きていきます。
時にトゲトゲした言葉が飛び交う野の獣のような環境に身を置くこともあるかもしれません。
しかし時が満ちて、神の国はもうすぐそばまで近づいている、もう来ているのです。
神様の恵みと守りは、私たちのあらののただ中にすでにもうあるのです。
ただ、確かに神の国はまだ完成の途中でもあります。
不思議なのは、神様はご自身の全能の力で一瞬にしてこの世界をひっくり返して、
完全な神の国にもできるはずです。
でもなぜかあえてそうはされていない現実なのです。
なぜなのでしょうか。
それは、私たちの生きるすべての場所で他ならぬ私たちを通してこの神の国を完成させようと働いておられるからです。
神様は、神のことされた私たちのことをただ守られる存在ではなくて、
神の国を共に作り上げていく大切なパートナーとして私たちを信頼してくださっています。
明日からの日常の中でも、神様の愛を疑ってしまうようなあらのの誘惑はあるかもしれません。
しかしその時こそ立ち止まって思い出したいのです。
賛美歌の中に、神聖歌ではなくて賛美歌の90番に
ここも神の国なればという、御国なればという賛美歌があります。
ここも神のという賛美ですけれども、
あの曲が私はすごく大好きで結婚式でも歌ってもらったような曲なんですけれども、
ここも神の御国なればという賛美歌の3番がこのような歌詞です。
ここも神の御国なれば
横島しばしは時を討とも
主の御旨のややになりて
雨土ついには一つとならん
もう一回読みます。
ここも神の御国なれば
横島しばしは時を討とも
主の御旨のややになりて
雨土ついには一つとならん
サタンの悪魔の働きはこの世界で
一時的には幅を利かせるかもしれない。
でも、必ず主の御旨は
この世界に完全に実現するということです。
神様の愛を疑ってしまうような
アラノの誘惑に出会った時
私たちは立ち止まって
このことを共に思い出したいと思います。
イエス様は言われました15節
悔い改めて福音を信じなさい。
それは、世の奪い合うルールに背を向け
イエス様の方を向く
それが悔い改め。
そして、この愛に満ちたイエス様のルール
福音をもう一度信じて生きていきなさい
という招きです。
私たちがつまづくその場所にも
すでに神様の恵みの支配はあります。
この地上で
あらゆる苦しみとつまづきを通られたイエス様が
私たちのつまづき、痛みを知って
今共に担ってくださっています。
アラノの真ん中から
イエス様の手を握り
この確かな御国の完成を信頼して
共に一歩踏み出していきたいと思うのです。
小さく思える私たちのその歩みを用いて
神様はこの世界をご自身の愛と
恵みのご支配の完成へと導いてくださいます。
一言お祈りをいたします。
21:56

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