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2026/06/21:使徒信条(7)死にて葬られ陰府に降り
2026-06-21 33:10

2026/06/21:使徒信条(7)死にて葬られ陰府に降り

2026/06/21 聖日礼拝

加藤満牧師

ペテロの手紙第一 -22


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サマリー

この説教では、使徒信条の「死にて葬られ陰府に降り」という箇所に焦点を当て、イエス・キリストが死と陰府(ハデス)に降りられたことの意味を探求しています。牧師は、死に対して言葉を持たない人間が抱える恐れに触れ、イエス・キリストこそが死に対して言葉を持つ方であると語ります。イエス様は十字架にかかり、葬られ、陰府に降り、そして復活されました。この陰府への降臨は、単なる場所への移動ではなく、囚われている霊たち(不従順な御使いたち)に対する勝利宣言であったと説明されます。これは、迫害に苦しむ当時の教会が、目に見える人間の迫害の背後にある悪魔の力に立ち向かうための希望となるものでした。イエス様は陰府で悪魔の支配を終わらせ、死の力を滅ぼされたのです。この勝利を知るからこそ、私たちは世の荒れ野を旅する者として、肉の欲や恐れに打ち勝つ必要があります。ペテロは、心の中でキリストを主とし、聖なる方として仰ぎ続けるよう勧めます。洗礼は、ノアの箱舟のように、死の世界から命の世界への移行であり、キリストが私たちの主となるという神聖な契約です。この信仰の正念場において、私たちは一人で戦うのではなく、互いに祈り合い、励まし合いながら、キリストを主として仰ぎ続ける歩みを続けることが大切だと結んでいます。

祈りと導入:死への恐れとキリストの言葉
お祈りをいたします。
恵み深い天の父なる神様、
主の御前へと私たちを集わせてくださり、感謝をいたします。
御言葉を聞こうとしています。どうか主が御言葉を開き、私たちに御声を聞かせてください。
主に任せよと賛美をいたしました。
それぞれのうちに抱えきれない思いがあります。
抱えきれない現実があります。
しかし、主にそれを委ねることができると。
あなたは私たちを十字架の愛において、完全に許し、神の子としてくださり、
永遠の復活の命を与え、主と共に生きるものとしてくださいました。
そしてそのお方が、私に任せなさいと招いてくださることは、なんと幸いなことでしょうか。
主を主の御前に下ろし、今一度あなたを仰ぎ、
下部やここにおります主をお語りくださいと、
あなたの御前に膝をつかしてくださいますように、お願いをいたします。
この時はあなたが御臨在くださり、成別してくださいますように。
そしてあなたの命の言葉によって、私たちをここからまた立たせてくださいますように、お願いをいたします。
聖霊様が望んでください。
世界においても様々な争いの中にありますけれども、
平和の神御自身が術を収めてくださいますように。
ここに来たくても来れない一人一人のことも、主が覚えてくださり、
慰めてくださいますように、お願いをいたします。
これからの時を見てにうだねします。イエスキリストの皆によってお祈りをします。
アーメン。
4月に御前礼拝を行いました。
その時にも少しお話した内容なのですが、
実は昨年、私は2つの結婚式の司式をさせていただきました。
その時に、あるブライダルの方とお話をしたんですね。
その方は個人経営でブライダルをやっている方でしたが、こうおっしゃられた。
先生、私の目標は結婚から墓場までです。
いわば、結婚のブライダルだけではなくて、
葬儀の仕事もできるようになりたい。
けれども、難しいですね。
何がですかと聞いたら、
結婚というのは、私も経験していますから、アドバイスすることができる。
しかし、死へと向かっていく人と共に歩んでいく時に、
私は言葉がないんですってことをおっしゃられたんですね。
私はとても誠実な方だなと思いながら聞いていました。
ああ、確かにそうだ。
死を誰も経験したことはありません。
だから、語る言葉が私にはない。
しかしその方は続けてこうおっしゃいました。
でも先生、宗教というのは死に対して言葉を持っていますよねとおっしゃられたんですね。
その方自身がミッション系の大学を卒業なさった方でしたから、
これは聖書のことを指して言ってくれているのかなと思いながら聞いておりましたが、
確かに宗教、あらゆる宗教はそうかもしれません。
死に対して言葉を持っています。
特に私たちが信じるこの聖書、イエス・キリストは死に対して言葉を持っていると言ってよいでしょう。
私たちは互いに死を迎えます。
そして自分自身はその死に対する言葉を持ち合わせていません。
経験していませんから。未知の世界ですから。
そしてそれに対して何かを、それを表現する言葉を持ち得ない時に、
もしかしたら私たちは死の恐れに翻弄をされるということがあるのかもしれません。
それはどれほど恐ろしいことかと思います。
しかしイエス様は死に対しての言葉を持っておられる。
なぜなら、イエス・キリストは十字架につけられ、死にて葬られ、
黄泉に下り三日目によみがえられた方であると私たちは告白をするからです。
死を経験し、イエス様はよみにまで下られた。
でもそれは言葉面だけではなくて、本当にそれは何のためであるのか、
そのことを今朝はご一緒に御言葉から聞いていきたいと思うのです。
それを明らかにしてくれるのは、実は今日開きましたペテロの手紙第一です。
イエス・キリストのよみがえりななるよみくだりといいますが、
それが書かれているのは新約聖書の中ではペテロの第一の手紙です。
少しこの箇所を見ていきたいと思います。
陰府での勝利宣言:ペテロの手紙第一の解釈
二つのポイントでお話をさせていただきます。
説教用紙にも書きましたが、第一のポイントそれは、
よみでの勝利宣言ということです。
実はイエス様がよみに下られた、そのことを書いているのは
ペテロの第一の手紙の三章の十九節、
今日読んでいただいた三章の十九節と、
そして四章の六節というところに書かれています。
少し見ていただきたいのは、三章の十九節に書かれています。
その霊においてキリストは、
囚われている霊たちのところに行って宣言されましたというのです。
実はこの三章十九節と四章の六節というのは、
新約聖書の中でも解釈が非常に困難な箇所と言われます。
それはこの箇所は本当に何を言っているかがよくわからないのです。
ただ、そのよくわからない一つの理由になっているのは、
おそらく翻訳の問題だと思います。
新科学2017で、ちょっと翻訳の比較をしたいのですが、
新科学2017では、皆さんの持っている聖書では、
お読みしたとおり、三章十九節は、
その霊においてキリストは囚われている霊たちのところに行って宣言されましたと書いています。
ただ、私は今から新科学第三版、この一個前をお読みします。
そこには公約されていました。
ちょっと見ながら聞いていただけたらと思いますが、
新科学第三版ではこういう訳でした。
その霊においてキリストは、囚われの霊たちのところに行って、
御言葉を語られたのですと訳されていました。
御言葉を語られたのです。
そしてもう一つ比較したいのですが、四章の六節も、
その前半だけお読みします。
四章の六節、そこも新科学2017はこう書いてあります。
この裁きがあるために、死んだ人々にも生前福音が述べ伝えられていたのです。
しかし私、新科学第三版をお読みしますと、ここはこう訳されていました。
裁きがあるために、死んだ人々にも福音が述べ伝えられていたのですが、
と訳されていました。
違いにお気づきでしょうか。
三章十九節では、実はこれは御言葉を述べ伝えたというふうに、
御言葉という言葉が加えられていました。
ただこれもともとのギリシャ語には御言葉という言葉はありません。
述べ伝えたという言葉だけです。
また逆に四章の六節では、2017になったときに、
死んだ人々に述べ伝えたではなくて、
死んだ人々に生前述べ伝えたという言葉が加えられています。
だいぶ印象が違います。
一体何が引いているのかといいますと、
この箇所はイエス様が読みに下り、何をなさったかを語るものです。
新科学第三版でずっと書かれていたときに、そこでは読みに下り、御言葉を語られ、
死んだ人々に述べ伝えたというふうに訳されていたので、
実はこの箇所は、いわゆるセカンドチャンスといわれる
進学的な思想の根拠にされてきました。
いわばそれは、死んだ後にも福音を聞いて救われることができますよというような
そういう論の根拠にされてきました。
しかし原文には御言葉を述べ伝えたという言葉はありません。
そして何よりもこのセカンドチャンス論がややこしいのは、
文脈と全く結びつかないんです。
ここだけ見るならばそう言えるんですが、文脈と全く結びつかない。
あくまで私たちは死後、人がどのようになるかということは
神様の見ての領域ですから、私たちは断定的なことは言えません。
ただし聖書が福音を信じるタイミングとして私たちに語っているのは
死後ではありません。
生きている今イエス・キリストを信じなさいと聖書は語ります。
そのことは確かに私たちは受け止めておきたいと思うのです。
神様がそのことを求めておられます。
では、この御言葉を語ったのではないならば、
イエス様はよみに下って一体何をしに行かれたのでしょうか。
鍵となるのはやはり今朝の3章の19節なのです。
改めてお読みしますとこういう言葉です。
その霊においてキリストは囚われている霊たちのところに行って
宣言されました。宣言されましたという。
宣言されたというこの言葉はギリシャ語ではケリュストという言葉です。
これはいわゆる神の言葉を述べ伝えたというときにも
同じこのケリュストという言葉を使いますから
だから御言葉を述べ伝えたというような意訳が出ることも納得はするのです。
しかしこのケリュストを宣言するという言葉は
もともとの意味はこれは
王様や皇帝の使者が宣承報告、命令を大声で宣言するという
そのような意味合いです。
もう一回言います。宣言するというのはこれは
王様や皇帝の使者が宣承報告や命令を大声でするという
大声で宣言するというそのような意味の言葉です。
この宣言をされた相手は誰かといいますと
19世と見るとこれは囚われている霊たちに向けて宣言されるわけです。
囚われている霊たちというのも私たちはよくこの人たちを
黄泉に囚われたいわば地獄に行ってしまった人間というように
見てしまうわけですがそうではないでしょう。
同じペテロの名を冠している第二ペテロの手紙の
二章の四節というところをちょっとひっくり返して見ていただくと
第二ペテロの二章の四節というところにこのような言葉があります。
第二ペテロの二章の四節ですね。
三枚ぐらい紙をめぐっていただくとありますが
第二ペテロの二章の四節にこういう言葉があります。
神は罪を犯した御使いたちを放置せず
地獄に投げ入れ暗闇の縄目に繋いで
裁きの日まで閉じ込められましたというのですね。
戻っていただくと第一ペテロの三章の二十節にも
この囚われている霊というのは脳の箱舟のときに従わなかった
神様に対しての不従順な霊たちを指して言われています。
要は黄泉に囚われている御使い霊というのは
これは神様に対して不従順であった霊の存在について言われているのです。
そこに対してイエス様は宣言をなさったわけです。
それは勝利宣言をなさった。
戦勝報告をなさった。
王による勝利宣言です。
あの十字架でキリストの勝利は確定したそのお方が
死にて葬られて黄泉に下って黄泉に囚われている霊に対して
勝利宣言をなさった。
これはペテロの手紙の全体に実に不法するんですよ。
なぜなら当時このペテロの手紙が書かれた相手というのは
一章の一節を見たらわかりますが
これは小アジアの諸教会
いわば迫害の中に苦しめられている教会でした。
教会は社会の中で今と変わりません浮いた存在でした。
その中で国家の圧力に晒されていました。
皇帝を礼拝しなければお前どうなるか知らんぞということを言われる
そのような社会でした。
そのような目に見える迫害があるわけですが
しかし特にペテロはそのことを意識しますが
その目に見える人間の迫害の背後には
実は悪魔の力が存在する。
第一ペテロの五章の八節から九節
第一ペテロの第一の手紙の五章の八節から九節というところで
ペテロはそのようなことを語ります。
第一ペテロの五章の八節から
次のページですねお読みしますと
身を慎み目を覚ましていなさい。
あなた方の敵である悪魔が声かける獅子のように
誰かを食いつくそうと探し回っています。
固く信仰に立ってこの悪魔に対抗しなさい。
ご存知のように世界中であなた方の兄弟たちが
同じ苦難を通ってきているのです。
目に見える迫害の背後には実は悪魔の力がある。
しかしペテロはここで言うのです。
私たちの主イエスキリストは
その悪魔の根城いわば黄泉ですね
その黄泉にまで乗り込んでいかれたのだ。
そしてそこで勝利宣言をなさった
悪魔よお前の支配は終わったと言われた。
だからあなた方を苦しめているその背後にある
人間にはどうしようもないような悪魔の力
しかしそれは既に武装解除をされ
囚われた囚人のようにされているに過ぎない。
あなた方の目にどれほど悪魔が声かけているように見えたとしても
その命運は既に尽きている。
いわば死と悪魔は最終的な勝利者になることは決してなくなったんだ。
そのことを語っているんですね。
イエスキリストが黄泉に下られたときに
そのことは確証された。
このことは現代の教会であまり語られなくなったかもしれませんが
しかし初期のキリスト社はだいぶ意識してそのことを語っていました。
初期のキリスト教会の中で優れた説教者
金の口を持つ男ヨハネス・クルトストモスという人物がいますが
彼が説教の中でこのように語っている言葉が残っています。
イースターの説教ですが、こう彼は語りました。
誰も死を恐れてはならない。救い主の死が私たちを自由にしたからだ。
主は死を耐え忍び、それによって死を滅ぼされた。
主は死を耐え忍び、それによって死を滅ぼされた。
主はキリストの肉体を飲み込んだ瞬間に大混乱に陥った。
なぜなら、人を飲み込んだと思ったら、主は神に出会ってしまった。
血を飲み込んだと思ったら、主は天を経験してしまった。
主よ、お前の棘はどこにあるのか。
黄泉よ、お前の勝利はどこにあるのか。
キリストはよみがえり、お前は打ち倒された。
そのように語っています。
力強い言葉です。
誰も死を恐れてはならない。私たちは互いに死を恐れます。
そこが未知の領域だからです。
自分一人で歩かなければならないからです。
私たちは今持っている何者をも、そして誰をもそこに連れて行くことはできません。
しかし、聖書はこのように語ります。
たとい死の影の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。
あなたが私と共におられますから。
イエス・キリストがよみに下りというその信仰告白をするときに、私たちが覚えなければならないこと。
それは、死という場所はもはや未知の場所ではなくなったという信仰です。
そうではない。死という場所。
そこは私たちの主イエス・キリストが歩み抜かれた場所である。
イエス・キリストの足跡がしっかりと刻まれた場所である。
イエス・キリストが勝利を宣言した場所である。
未知の領域である人間にとってそれはもはや絶望や終わりや行き止まりに見えたとしても、
そこには死に勝利されたイエス様が待ち受け迎え入れてくださる門へと死は変わったんだ。
そう私たちは告白するのです。読みに下りと。
死をお前の勝利はどこにあるのか。死をお前の棘はどこにあるのかと
第一コリントの手紙の15章の55節というところでは告白をされていますし、
そしてまたペラペラ読んで、でももう一箇所だけ読みますと、ペブルビートへの手紙の2章の14節。
まさに死に対する恐怖の言葉は聖書の中にはいくつもあります。
ペブル章の2章の14節、15節。
そういうわけで子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じようにそれらのものをお持ちになりました。
それは死の力を持つもの、すなわち悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。
ペブルビートへの手紙の2章の14節から15節というところにその言葉があります。
死の恐怖から解放するためにキリストはそのようにご自身を捧げられた。
私たちは死を恐れます。最後まで恐れてもいいと私個人的には思います。
しかし、絶望ではない。キリストがそこにはおられるのです。勝利宣言をなさった場所であるからです。
さて、今朝これで終わっていいような気がしますが、もうちょっと進みます。
キリスト者としての生き方:旅人、異邦人、そして洗礼
その先に、まさに死への勝利を読みに下り宣言をなさったイエス・キリスト。
そのことを知るからこそ私たちはどのような悩みへと招かれているのか、2つのポイントです。
生涯キリストを主とし、聖なるものとしなさいというその言葉です。
この言葉は先ほど読んでいただきました第一ペテロの3章の15節にペテロが書いている言葉です。3章の15節。
むしろ心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさいという招きです。
心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。
文脈的に見るならば先ほど見た3章19節もこのことを励ますための言葉です。
白外の中にあっても心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。
なぜならキリストは読みに下って勝利宣言をなさったから。
そういう繋がりです。
ペテロはこの手紙の中で何度かキリスト社に向かってこのようなことを言います。
あなた方はこの世にあっては旅人であり既留者ですよ。
ペテロの手紙に何度か出てまいります。
あなた方はこの世にあっては旅人であり既留者ですよ。
これは旧約聖書のアレノの40年を旅したイスラエルの民と重ねて言うのです。
教会というのはアレノの40年を旅したイスラエルの民と一緒。
あのような旅人であり既留者であるこの世のアレノを旅しているのが教会です。
アレノはあらゆる恐れが取りまえていました。
そしてその恐れを前にある種人間の本性が炙り出される場所でもありました。
空腹を恐れるがゆえに民はエジプトには肉鍋があったと神様に対して不平を言いました。
周囲の敵からの攻撃を恐れるがゆえにエジプトから連れ出したのはアレノで我々を殺すためかと神様に怒りました。
しかし私たちは旧約聖書を読んできて知っています。
日々の糧も戦いに対する守りも主はすべて恵みのうちに備えていてくださっていました。
しかし主の備えに信頼する前に目の前の恐れに囚われて神様を見失ってしまう。
それがイスラエルの民いいえ人間の本性であり私たちの現実かもしれません。
ペテロは教会に対して言いました。
ちょっといろいろペテロの手紙を見て申し訳ないですが2章の11節から12節というところも読みたいです。
ペテロの第一の手紙2章の11節から12節。
このように彼は語りました。ペテロの手紙第一の2章の11節から12節。
愛する者たち、私は勧めます。
あなた方は旅人、既留者なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
違法人の中にあって立派に振る舞いなさい。
そうすれば彼らがあなた方を悪人呼ばわりしていても、あなた方の立派な行いを目にして、
神の訪れの日に神を崇めるようになります。
あなた方は絶えず肉の欲によって魂に戦いを挑まれている。
アレノの現実、よくわかるような気がいたします。
魂への試み、それは恐れ、周りと一緒でなければならないという不安、
恐れによりまさに神様へ不平を言うか、それともなおも恵み深い死を仰ぐのか、
ペトラはここで選択肢を出すのです。
もしくはあなた方は違法人のように神様を恐れない歩みに進むか、
それともこの違法人の中で神を恐れ立派な振る舞い、
キリスト社としての生き様を選ぶか、
あなたはどっちですか、立派な生き方を選びなさいと彼は励ましますが、
しかし私たちはそのような選択の中に日々立たされます。
時にそれは危機の時に、もしくはこれは自戒を込めて申し上げますが、
長い信仰生活の倦怠の中にキリスト社としての実存を懸けた選択として問われることがあります。
あなたはこのところで違法人のように生きるか、
しかし違法人の中にあってそれでも心の中でキリストを主とし、
キリスト社として生きるか、あなたはどっちを選びますか、
キリスト社としての実存を問われる、これは正念場なのです、信仰者としての正念場です。
しかしこの世の荒れ野の中で戦うキリスト社に対し、ペテロは念ごろに教会を励まします。
心の中でキリストを主としなさい、このお方を聖なるお方としなさい、
イエスキリストをあなたの人生の主人として再び捉え直しなさい、
聖なる方としていたんさい、このお方をこの世の者と横並びにして考えてはならない、
あなたの富なのか経験なのか分かりません、でもこの世の者と同じように神を捉えてはならない、
神を聖なる方としなさい、本当に聖なる方として跪き恐れなさい、
なぜならこの十字架で死んで余命に下られたお方は死すらももはや身手の中に収めており、
それだけではありません。この3章の22節の言葉をちょっとお読みしますと、
まさに先ほど読んでいただいた言葉です。3章の22節。
イエスキリストは天に昇り、神の右におられます。
御使いたちも諸々の権威と権力もこの方に服従しているのです。
このイエスキリストこそ、黄泉の力も御使いすらも服従する権威と権力を
聖なる神は与えられたのだから、改めてこの方を主としなさいとペテロは励まします。
そして大事なのはこの21節なのです。よくわからない21節。
しかし21節このように書いてあります。
この水はまた、今あなた方をイエスキリストの復活を通して救うバクテスマの方なのです。
バクテスマは肉の穢れを取り除くものではありません。
それはむしろ健全な良心が神に対して行う聖約です。
一見わかりづらい言葉ですが、これは何を言っているのか、これはバクテスマのことを言っています。
洗礼です。
ペペロはここでキリストが主を信じバクテスマを受けたというのはこういうことだからねということを言うのです。
それはどういうことなのか。
かつてあなた方は古い世界に生きていたでしょうと。
それは創世紀6章のノアの洪水の前のような世界に生きていた。
人々はその洪水前の人々や見つかりがそうであったように、神を知らずに生きることに不平を言い、悲しみや不安をごまかすために快楽を貪り、
本当の守り手も裁き主もあなたの主人も王も知らずに人生の的を外して生きてきたでしょうと。
しかし今やあなた方はキリストイエスを知った。
そしてバクテスマを受けた。
それはあたかも、あのノアの箱舟に乗ったことと同じなのだと言っているのです。
地の世界から命の世界に移された。
もはやあなたは箱舟に乗ったのだ。
そしてこのお方を主として生きるというあなたの両親は神に対して制約された。
あなたは命に私は乗りますと神の前に制約をしたんだ。
宣伝を受けたということは、事実このお方を主とする制約をしたということです。
ただ同時にそれは事実。
天においても地においても、いや余味にさえも権威と権力を持っておられるイエスキリストがあなたをご自身の民としたという確証なんですよ。
バクテスマを受けたというのはものすごいことです。
だから宣伝を受けてくださいと言うんですが、本当にそうです。
すごいことなんですよ、私たちが宣伝を受けて救われているということは。
それは全てにおいて権威を持っておられるお方が、あなたは私の子であり民なんだとずっと確証してつけてくださる。
私たちが手を離してもキリストはずっと手を握り続けてくださる。
そのような事実を約束するものです。
だから断言をされる。
あなたは今や死の世界から命の世界に移ったんですよと。
洪水を越える箱舟となったのはイエスキリストの十字架ですよと。
そしてこのお方があなたの主であり王でありあなたの味方であるならば、この世の悪魔も余味もあなたから何者をも奪うことはできない。
だから言うのです。
この荒れ野の旅路の中において、信仰が骨抜きにされそうなその中において、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。
ここが正念場なのだ。的を外してはならない。
私たちキリスト者は互いにそのようなタイミングを迎えることはありません。
ここが問われている。ここで私はなおも神を信じるのか、それとも私はここでこの世に流れていくのか。
実存をかけた信仰の正念場です。
でもその時、私たちは覚えましょう。一人でそれに取り組む必要はありません。
互いにその時に祈り合うために境界があります。
そして私たちは互いに励まし合い、祈り合うために兄弟姉妹がいます。
どうか共にキリストを主と仰ぎつつ、聖なるお方としつつ、跪き続ける歩みを続けていきたい。
私たちはそのような戦いの時に、互いに祈りの手を挙げながら立ち向かっていくお互いでありたいと思うので、一言も祈りをいたします。
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