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2026/07/05:キリストを土台として
2026-07-05 18:25

2026/07/05:キリストを土台として

2026/07/05 33周年記念礼拝

加藤満牧師

コリント人への手紙第一 -21


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サマリー

名谷教会は建道33周年を迎え、加藤満牧師はコリントの信徒への手紙第一を用いて、教会の土台がキリストにあることを強調しました。教会の土台はキリストの贖いと十字架の言葉(ロゴス)にあり、それは単なる人間の知恵や成功法則ではなく、神の愛と力であると説きました。また、信徒一人ひとりが聖霊に満たされた神の宮であり、共同体として共に生きることが教会であると語り、34年目もキリストを土台として歩むことの重要性を訴えました。

教会の土台はキリスト
改めて、幸いなお証を感謝いたしますとして、
まあ、株元はしっかり無言に立ってますという言葉に、私はちょっとうるっときそうになりました。
そうおっしゃっていただけることの心強さと、しかし共にそこの苦闘に立っていく私たちであることを、改めて思わされて感謝でした。
主の無豊かな恵みと、多くの諸生徒の祈りと献身のうちに、名谷教会は建道33年を迎えました。
心から主に感謝し、皆を褒めたたえます。
私たち夫婦は、この教会に来てまだ3年過ぎたぐらいですから、きっと皆さんには、33年、いや、先ほどの話というならば、
建道の前からこの地で祈り、またこの教会のために、ある種多くの喜びと、また試練と、
時に涙ながら共に一人祈る、そのような時を経ながら、この33年を迎えておられると思います。
揺れ動く中にあって、しかし変わらない事実があります。
それは、教会の土台、教会の頭は、キリスト御自身であるということです。
そのことは、何度も何度も覚えたいことです。
今朝、御一緒にお開きしましたのは、第一コリントの手紙です。
コリント教会という教会は、揺れ動いている教会でありました。
教会は始まったのです。
しかし、それが平穏に続くということは、当然のことではありませんでした。
教会の中にはいろいろな人がいました。
時には教会の中で、私は指導者の優遍さが欲しいといった人がいます。
教会の中で、いや私にはこれだけの知恵がある、もしくはこれだけのキャリアがある、
そういうふうに誇りながら、それぞれがいろいろなものを持っているのだけれども、
それを誇りながらいろいろな方向を見ていた、そのような教会であった。
兄弟姉妹であるはずの互いが、ライバルになっている、そのような教会でありました。
しかし、パウロはそこに語るのです。
いや、あなた方は教会の原点を見失っていないだろうか。
この節目、別にコリント教会におよだと言っているわけではなくて、
この節目に私たちはそのパウロの言葉を聞きたいと思うのです。
改めて、教会とは何であるのか、
そのことをご一緒に短く、今朝三つのポイントで確認をさせていただきたいと思います。
第一のポイントそれは、キリストの贖いが土台にあるということです。
キリストの贖いが土台にあるということです。
先ほど読みしました聖書の中に、3章11節の御言葉にこのようにあります。
誰も既に据えられている土台以外のものを据えることはできないからです。
その土台とはイエス・キリストですとパウロは語りました。
いわばこれは教会の土台のことです。
教会の土台はイエス・キリストですとパウロははっきりと語る。
土台がキリストであるとは一体どういう意味なのでしょうか。
教会は教会道だけではなくて、私たちイエス様を主と告白する私たち、
それ自体が教会であるとよく言われますけれども、
しかしその教会の土台は、このコリントの文脈で言うならば、
誰かの有名さが土台にあるわけではない。
誰々に知恵があるから教会が持つのではない。
誰々さんという立派な人がいるから教会が立つのではない。
そうではなくて、教会が立つただ一つの理由、
それは私たちそれぞれがキリストの贖えによって救われ、
生かされているという事実に他ならないということです。
それはキリストが私たちの罪のために十字架で死なれ、
3日目によみがえり、天に昇られたと今、首都心寺をやっておりますが、
しかしそのキリストを通して成してくださった神様の御業、
それに救われた私たち、それが私たちにとって土台であり、
そしてそれ以外のものが土台にはならないということです。
キリスト御自身が、キリストの御業が100%教会の土台である、そのように語る。
私たちは注意しなければならないのは、コリント教会へのパウロの注意は、この土台がずれたのです。
しかし気をつけなければならないのは、土台を間違えるときに教会は倒壊します。
建物があってもです。土台が間違えると教会は倒壊をします。
コリント教会のように何々先生がいるから大丈夫、私見て思うことはないと思います。
でも誰々先生がいるから大丈夫。
誰々さんがいるから、教会に何かお金がたくさんあるから、立派な街道ができたから、それぞれ素晴らしいことですよ。
祝福として受け止めたらいいのです。
しかし土台ではない。それらはいつでもなくなり得るものです。
そして人間は完璧ではありません。そりゃ牧師もそうです。
そしてそれはまた私たちの信仰も同じでしょう。
土台を自分自身の感情や何々ができるだとか、私は今日神様信じれる気持ちになっているだとか。
でもそれらはいいときはいいわけですが、私たちはいつでもいい状態でいれるわけではありません。
落ち込んだら信仰はガクンと崩れていきますね。
しかし聖書が語る土台はキリストの儚いなのです。土台はキリストご自身なのです。
大切なのは教会の土台というのは私たちの内側ではなく外側の事実にあるということです。
それは神が成してくださった神業自体に私たちの土台がある。
だからこそ時代の変化、もしくはその中に色々な人間がいる。
人間は弱いです。時に様々なことで私たちは崩れます。
しかしどれほど人間が崩れたとしても、時代が私たちを揺さぶってきたとしても、
教会は倒壊しません。
なぜなら教会の土台、十字架は人間の愚かさ、私たちの弱さを推してなおも立ち続けるからです。
だから教会は崩れない。何があってもです。そこに土台がある限り。
私たちはそのことを思う時に改めて思います。
今私たち明太利教会は土台を間違えてはいないか?
そのことは私が一番問われるわけですが、しかしそのことはご一緒に確認したいと思います。
土台はどこにあるのでしょうか?
十字架を見上げましょう。
十字架の言葉(ロゴス)こそ教会の力
そして二つ目のポイント。
キリストの十字架の言葉、ロゴスが土台にあるということもまたご一緒に覚えたいと思います。
それは今朝の箇所ではないのですが、1ページ前をめくっていただくと有名な第一コリントの言葉があります。
1章の18節の二言葉です。お読みいたします。
1章の18節。
十字架の言葉は、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
そのようにファウローは語りました。
十字架の言葉は、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
十字架の言葉、ギリシャ語で見るならばこれは十字架のロゴスという言葉です。
ロゴスというのは言葉という意味もありますが、もう一つ大切な意味、それは論理という言葉なんです。
十字架の論理。
十字架の論理。
十字架の論理、すなわちそれは十字架にご自身を捧げるまでに低くなり、罪人を愛されたあのキリストの論理です。
言葉を変えるならば、イエス・キリストの生き様と言えるでしょう。
あの十字架に進んでいかれた、あのイエス様の生き様の論理です。
それが、パウロの手紙はコリントンの手紙だけじゃなくて他の手紙もそうなんですが、
この十字架に進まれたイエス・キリストの姿を手紙が痛感するんです。
教会は様々なことがある、でもあなたたちはこの十字架に進まれたキリストの姿を忘れてやいないかい。
それがいろいろなところで、それに照らし合わせるならば、今のあなたたちの歩みはちょっと間違っているんじゃないか。
そういう風にパウロの手紙は進んでまいります。
それはコリントンの手紙の中にも何度かパウロは書きますね。
2章の2節にも、十字架につけられたキリストの他には何も知るまいと私は決めました、決心しましたと言いますし、
また2章の16節でも、私たちはキリストの心を持っていますと彼は語ります。
キリストの心を私たちは持っています。
これは当時のコリント社会の中にいる人たちにとっては、とても説得力のあるメッセージでした。
コリント社会というのは現在にちょっと近いかもしれません。
コリント社会における知恵というのは、いわばギリシャ式の知恵でして、
人々を魅了する遊弁術であったりだとか、もしくは何かの成功法則ですね。
そのような姿を示せることが人々にとっての知恵でした。
そうであるならばですよ。
遊弁さ、そしてまた成功ということで考えるならば、十字架に向かわれたイエス様の生き様というのは、
愚か以外の何者でもありません。遊弁ではありません。成功したようにも見えません。
敗北者、十字架のイエス様はそう見えました。
しかし、イエス・キリストは神であった。神は愛であられるのです。
イエス・キリストの生き方は成功ではなかったかもしれません。遊弁ではなかったかもしれません。
しかし、そこに神の愛が鑑定された生き方でした。
罪人を愛し、低くなり続けた生き方でした。
愛するがゆえに、自らが神であることすら手放すほどに、罪人を愛された愛でした。
それが、キリストの十字架の論理である。
私たちもつくづく思います。この33年間、宮谷教会の講談からは一体何が語られてきたでしょうか。
おそらく多くの先生方が語ってこられたことは、
それは、時代に合わせた成功法則を語ってきたわけではないでしょう。
人間をただ心地よくさせるような耳障りのいい話を語ってきたわけではないでしょう。
教会を通して語られてきたことは、このイエス・キリストこそ主です。
そして、そのお方、キリストの歩みに私たちは従っていくんですよということが語られ続けたはずですよ。
宮谷教会が教会であり続けることが大事だなといつも思います。
そしてそのために必要なことは、様々な変化の中で色々な新しいことが始まっていきます。
モニターも買いましたし、そして教会同士の協力が必要だなと言われるような時代にもなってきました。
しかし、私たちが教会であり続けるために必要なことはこれまでと変わりません。
十字架のロゴスを語りそれに生きることです。それ以外ありませんよ。
そしてその倫理に生き続けること。
私たちの主は十字架のイエス・キリストなんだということをもう一度しっかりと胸に刻むことではないでしょうか。
それに従うのだ。それがどれほど愚かに見えてもです。
それがどれほど効率が悪いなという道であったとしてもです。
そして御言葉が訳することは、そこにこそ神の力は働くのですね。
私たちはそのことをしっかりと受け止めながら、
ああそうだ、あの十字架に進まれたイエス様の生き様、私は教会はそこに立っているかなということをいつも覚えたいと思います。
信徒こそ神の宮、共同体としての教会
そして三つ目のポイントです。
このキリストの救いとロゴスに生きる民こそ教会であるということです。
3章の16節、先ほど読みいたしました。
あなた方は自分が神の宮であり、神の御霊が自分の家に住んでおられることを知らないのですか?とパウロは語りました。
あなた方は神の宮だということをわかっていますか?とパウロは問いかけるのです。
神の宮、それは神殿を意味します。
神殿というのは神様がご臨在なさる聖なる場所です。
聖なる主があなた方のうちに臨在しておられるということをパウロは語るのです。
それと同じようにイエス様に救われた者は、
聖霊様が宿っているあなた方はすでに神の御霊、聖霊様が住んでいる聖なるお方を抱く聖女に互いがなっているという事実を知っていますか?
知らないのか?ということを問いかけるのです。
そして大事なことは、これはあなた方はと語るときに複数形で語られているのです。
あなたはじゃない。
あなた方というのは、そういう聖とされている、聖なるものとされている神殿のようにされているあなた方は、
いわば共同体のことを言っている、互いに共に生きる群れに対して言っている。
一人ではないのです。
ウェスレイも言いますが、一人で清められることなんか不可能です。
私が神様につながっていたらいい、ではない。
私たちはその民が共に集って生きていく。
そしてそのようなあなた方、教会こそが、あたかもあの神殿のように、
神のせい、神の臨在をこの世に持ち運んでいくのだということをパウロは語る。
私はつくづくそういうようなことを願っております。
33年間の間、いえ遡ればですね、ルーツを神戸西部教会に持つ明谷教会は、
もっと前からこの地域に御言葉の種がまかれて、
多くの生徒たちの祈りが積み上げられてきました。
そこに多くの信仰の先輩たちがいたでしょう。
精霊様に導かれて、主に応えて生きてこられたお一人一人がいるでしょう。
そこに主の臨在を見ることも私たちはあったはずです。
そのバトンが今私たちに渡されてきました。
私たちは教会道33年を祝うときにあえてこういうことを言うのはどうかと思いますが、
しかしあえて申し上げます。教会というのは教会道ではありません。
教会は精霊様に導かれ、聖なる方に跪きつつ、主に応えていこうとする私たち一人一人です。
教会は民です。教会は人です。
そこで私たちは先ほどの証にあったように、建道のときに主は生きておられる。
ここが主の家になる。素晴らしいなと思います。
主は生きておられると高々と賛美していく私たちが教会なんですよ。置かれたところにおいて。
私たちという教会が建て上げられていきますように、34年目を刻む私たちが互いに抱く願いではないでしょうか。
今朝はその原点を確かに握り直したいと思うのです。
その土台とはイエス・キリストです。その土台とはイエス・キリストです。
33年間教会を支え成長させてくださった父なる神。
そしてそれからこれからも教会の土台であり頭となってくださるイエス・キリスト。
そして私たちの中に今なお臨在され、私たちを聖なるものとしてくださる聖霊なる神様。
三味一体の主に囲まれながら導かれながら、私たちは34年目の教会を
恵みの御業を喜びつつ、賛美しながら相まっていただければ幸いだなと思っております。
一言お祈りをいたします。
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