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2026/05/17:使徒信条(4)独り子を信じる
2026-05-17 28:56

2026/05/17:使徒信条(4)独り子を信じる

2026/05/17 聖日礼拝

加藤満牧師

ヨハネの福音書


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サマリー

本講話は、使徒信条における「独り子を信じる」という信仰告白に焦点を当てています。加藤満牧師は、イエス・キリストが神の完全な啓示であり、私たちに神を理解させる唯一の道であることを強調します。イエス様を見れば神様のことが分かり、キリスト教における霊性はイエス様を見つめることによって養われると説明します。 さらに、イエス・キリストが「神の独り子」であることの意味を二つの側面から掘り下げます。一つは、イエス様が神を啓示する唯一無二の存在であること。ギリシャ語の「モノゲネシス」という言葉が示すように、イエス様は「類を見ない」「他に似たものがない」存在であり、スペア(代わり)が存在しないことを意味します。もう一つは、この独り子であるイエス様が、父なる神にとってかけがえのない、失うことのできない尊い存在であることです。これは、アブラハムが独り子イサクを捧げようとした場面や、神がご自身の独り子イエス様を十字架に捧げられたことからも明らかです。 神が独り子を捧げられたのは、私たち世を深く愛されたからであり、その愛は人間の理解を超えたものです。イエス様の十字架は、神の愛の大きさ、そして私たち一人ひとりが神にとってどれほどかけがえのない存在であるかを示しています。私たちは、イエス様こそが人生における神を示す唯一の基準であり、人生の主権者であると告白することで、揺るぎない希望を持つことができるのです。

祈りと礼拝への感謝
それでは一言お祈りを致します。
恵みと哀れみに富んでおられる、私たちの父なる神様、
今日も死の御前へと一人一人を招いてくださり、あなたは大きい礼拝ができます幸いを感謝を致します。
祈られたように、本当に急に熱くなってきました。
それぞれの心と身体と霊とをお守り下さいますよう、お願いを致します。
私たちの日々には様々なことが起きてまいります。
しかし、その時にもいつも私たちが御言葉から約束されていることは、
死の永遠の懐などは常にその下にありということです。
あなたは私たちを愛し抜いてくださり、
御子イエスキリストを十字架へと捧げてくださいました。
私たちの罪を許し、神のことし、永遠の復活の命を与え、
永遠に死と生き続ける新たな命を与えてくださいました。
それゆえに、何があろうとも、私はあなたと共にいるというその約束のゆえに、
どんな時にもあなたに見放されずに、あなたと共に、
あなたの恵みに支えられながら歩んでいくその幸いな生涯を、
あなたが開いてくださっていることをありがとうございます。
神様、私たちは日々本当にそれでも足元が揺るがされます。
世界の戦争もありますし、私たちの周りにも様々なことがあります。
どのようにそれを捉えてよいか、わからないこともあります。
しかしよ、わからないこともすべてあなたが握っていてくださることを信じます。
どうかあなたを仰がしてください。
そして今日も日々コツコツと、あなたの御言葉に聞きながら生きる勇気を与えてください。
お願いをいたします。
これからのひとときを御手によだれます。
御言葉を開き、私たちを養い導いてください。
イエスキリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン
使徒信条の中心:イエス・キリストへの信仰告白
使徒信条を続けて見ております。
今朝からは使徒信条の真ん中あたりに位置しますけれども、中心点にありますが、
私は私たちの主イエスキリストを信じるという、
イエス様への信仰告白へと内容を移ってまいります。
以前使徒信条というのは、キリスト教の信仰の告白をギュギュギュッとエッセンスとしてまとめたようなものだとお伝えしましたが、
この短い使徒信条の中には、三位一体の神様が告白されているわけですね。
父なる神様、子なるイエス様、そして聖霊なる神様に対する告白です。
ただ、長年告白してきてくださるとお気づきかもしれません。
明らかにイエスキリストへの告白の分量が大半です。
イエス様に対する信仰告白が実はその多くを占めている。
それはおそらく当時の社会においてもイエスキリストは何者であるか、難しい言葉で言うとキリスト論といいますか、
それをどういうものなのか確定していくためにこの信条があったということの背景もありますが、
しかしもう一つ明らかなことは、私たちの信仰の中心はイエスキリストこそが私の主ですという告白だからです。
キリスト社の信仰の告白はイエスキリストは私の主ですなんですよ。
どんなことがあろうともイエスキリストは私の主なのです。
そしてイエス様主であるという告白なのです。
しかしこの古代においてもそして現代においても問われることは、
じゃああなたが主と仰いでいるイエスキリストはどんなお方なんですか。
私たちが伝道するときに大概問われることです。
イエス様ってどういうお方なんでしょうか。
実はそのことをこと細かに人信条は、いや一番重要なこととして告白をしているのです。
一つでも言えることは何かというと、イエスキリストは神の完全な啓示であるということが最初に大事なことだと思います。
イエスキリストは神の完全な啓示である。
簡単に言うならば、イエス様を見たら聖書の神様のことがわかると私たちは信じているのです。
そうではないでしょうか。福音書もそう語ります。
イエス様を見るならば、私たちは神様はどういうお方か全部、全部というかわかってくる。
私たちが神を信じると言います。
しかしキリスト教において神を信じるというのは何を意味するのか。
イエスキリストにおいて啓示された神を信じているのです。
それはとても大事なことですね。
だから、ヨハネの福音書でイエス様が言われました。
私が道であり真理であり命なのです。
私を通してでなければ誰も父の身元に行くことはできません。
イエス様というフィルターを通して私たちは神様を知っていくし、
いや、もっと言うならばキリスト教には霊性という言葉がございます。
キリスト教は単に聖書の勉強をしているわけではありません。
私たちは聖書は神の言葉として私たちの霊性を養うんです。
でも古代から言われている霊性が養われる唯一の道筋は何か。
イエスキリストを見つめることなんです。
私たちが内なる霊性が養われると、
いつもイエス様を見つめることによってそれは養われていきます。
カトリックではそれが牧草だとか観草という文化があります。
プロテスタントにはそういうものがありません。
しかし、だからこそプロテスタントの私たちにとってそれは
このようにイエスキリストを集中的に聖書から聞きながら
改めてイエス様ってこういう方なんだということを味わっていく。
それによって私たちの霊性、いわば神を知るという営みは行われていくんですね。
そういうことを覚えながら、今朝は少しイエス様の一つの特徴に注目をしていきたいと思います。
神の独り子イエス・キリスト:唯一性と啓示者
それは、私たちは一人御、私たちの主イエスキリストを信じると告白しましたが、
神の一人御、イエスキリストは神の一人御であるということは、
一体何を意味するのかということを、今朝ご一緒に注目をしていきたいと思っています。
説教用紙にも書きましたが、二つのポイントでお話をさせていただきます。
まず一つそれは、神を啓示する唯一の一人御であるということです。
実は、聖書を見るときに、イエス様は一人御である、
イエスは一人御であるという言葉はどこに書かれているでしょうか。
多くはこれは、ヨハネの福音書の中に記されています。
少し開いていただきたいのですが、例えば、ヨハネの福音書の1章の14節というところを読みします。
ヨハネの福音書1章、新白清書の175ページにございます。
ヨハネの福音書1章の14節から読みしますと、こういう言葉があります。
言葉は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。
父の身元から来られた、一人御としての栄光である。
この方は恵みと誠に満ちておられた。
そしてちょっと飛んで、18節も読みしますと、こういう言葉があります。
いまだかつて神を見た者はいない。
父の懐におられる一人御の神が、神を解き明かされたのであるということが言われます。
双方に一人御という言葉が出てまいります。
一人御、この言葉はギリシャ語でちょっと見ますとモノゲネシスという言葉でして、
その意味は一人御という意味なんですが、もうちょっと厳密に言うならば、
この言葉の意味は類を見ないとか唯一のという意味です。
類を見ない、唯一の、いわば他に似たようなものがないということです。
類を見ない、唯一の。
ですからもう少し平たく言えば、一人御というお方は唯一のお方であり、
もっと言うならばスペアがないということです。
スペアが存在しない、そのようなお方である。
神はイエス様唯一であるということをちょっと見ていきますと、
イエス様が唯一であるということは先ほど見ましたこの1章の18節に記されているわけですよね。
父の身元から来られた一人御と14節は言いますし、そして18節でも父の懐におられる一人御。
ヨハネはこの最初にイエス様というお方は特別、父なる神様から来られたお方であり、
そしてこのお方は父なる神様の懐に抱かれていた神の子であるということを語るのです。
そしてそのような父の懐に抱かれ、そのようなお方だからこそ唯一、
父なる神様を表すことができるお方なんですよということを言うのです。
いまだかつて神を見た者はいないとヨハネが言いました。
確かにそうなんです。旧約聖書を見ていても神様の声を聞く、もしくは神様の後ろ姿を見るとかね、
ちょっと通り過ぎた後を見るってありますけども、直接見たという人はいない。
モーセが羽織と顔を合わせたということを書いていますが。
しかし誰も見ることのできなかった神御自身というお方をまさに全く見せることができる、
掲示することのできるお方がこの世界に来られたのです。
それがイエス様。なぜそれができるのか。
人間は有限な存在であって、永遠で無限の神様の存在を直接的に見ることなんかできない。
できないのだけれども、でも神様について、
この神であるお方が人間になってくださったから私たちは神を知ることができる。
人間は神様について哲学的に試作することはできます。
でもありのままの神の姿を自力で把握することは不可能なんです。
イエス様を見なければ神様を見ることができないのですね。
この父なる神様と同じ本質を持ち、
永遠の昔から父なる神様と一対一の親密な懐の中にいた、
その唯一無二の存在である巫女こそが肉体を持ってこの地上に来てくださいました。
それゆえにイエス様だけが父なる神様を完全にお見せすることができる。
私たちはこれまでマルコ以外の福音書を見てきましたね。
ルッカー、マタイ、ヨハネの福音書を見てまいりました。
この方はその福音書で書いてますが、
アブラハムからダビデの約束を成就するお方であり、
完全な光として来られましたけれども、
イエス様を見ていただくならば、
イエス様の活動というのは実に私たちの目にいつも特別な思いを与えてくれましたね。
病人を癒すその時にもイエス様は手を伸ばし病にも死にすら触れていかれた。
イエス様は罪人を招きます。
神に近づけない人たちを一番最初に食卓に招いたのはイエス様でした。
そして流された涙の一つ一つが、
まさにイエス様がこの世界に対して持っておられた思いでしょう。
死に対して涙を流し、そして不従順で滅ぼされるエルサレムに対してイエス様は涙を流されました。
それがイエス・キリストの思いであり、それは神様の思いなんですね。
限りない神の愛の体現そのものがイエス様でした。
私たちは最近いろいろなニュースを見ながら、神様ってどういう方かって迷いがちです。
巷には福音派なるものがいろいろと溢れてきています。
今度の今度の水曜日あたりにちゃんとそのことの講義を水曜日にします。
神様は本当にこの世界の戦を望んでおられるのか。
悪と断定してそれを滅ぼすことを望んでおられるのか。
聖書の記事を引用してそういうことを言う人たちもいます。
でもそれはそもそもの前提がずれています。
聖書はキリスト社はイエス・キリストを通して神を理解するんです。
私たちはキリストから神様を理解しなければならない。
時にイエス様はじゃあそのことを願われるかということです。
それは福音書を読みながら考えていただきたいと思います。
私はそうではないと思っています。
私たちの主は独り子であり、その独り子なる主を信じていると告白するときに、
それは何を意味するのか。
このイエス・キリスト以外に神を余すところなく示し、
私たちを父なる神へと結びつけるお方はいないという告白です。
このイエス・キリスト以外に神を余すところなく示し、
私たちを父なる神へと結びつけるお方はいない。
イエス様だけなんです。
だからイエス様を見つめるんです、私たちはね。
イエス様の唯一性に対する絶対的な信頼の表明、
それがこの告白だと言ってよいでしょう。
そういう意味でイエス・キリストは独り子。
イエス様は独り子であるということです。
神の独り子イエス・キリスト:かけがえのない存在
しかしもう一つだけ目を向けていきます。
二番目のポイントです。
しかしこの神の独り子という意味は、スペアがないという意味を持っています。
スペアがないのです。
独り子であるお方は唯一なるお方です。
それ故にスペアがありません。
これを失ったらイエス様の代わりはいないのです。
天においても父なる神様においても。
父なる神様にとって独り子イエス様は
変えのきかない尊い存在です。
実はこれはイメージしやすいように人間の話にしていくならば、
実はこの独り子、モノゲネシスという言葉が
新約聖書で特徴的に使われているもう一つの箇所は
ヘブル書の11章です。
ヘブル人への手紙の
11章の17節から19節というところを読んでいただけるでしょうか。
ヘブル人への手紙の
11章の17節から19節。
新約聖書の452ページの下の段にございます。
ちょっと上見しますとこういうことが書いてあります。
ヘブル人への手紙の11章17節から
信仰によってアブラハムは試みを受けたときに
遺作を捧げました。
約束を受けていた彼が
自分のただ独り子を捧げようとしたのです。
神はアブラハムに
遺作にあってあなたの子孫が起こされると言われましたが
彼は神には人を死者の中から
甦らせることもできると考えました。
それで彼は奇遇的に言えば
遺作を死者の中から取り戻したのですと
ヘブル書は語ります。
この17節の独り子
これはモノゲネシスという言葉です。
いわば
買いが利かないスペアがないというのは
アブラハムにとっての遺作のようなものなんですね。
独り子
待望の約束の子
この子がいなかったら自分たちの将来がなくなるというような
大切な独り子ですね。
アブラハムの歌詞は皆さんよくご存知かと思います。
創世記に書いてありますが
神様から独り子遺作を捧げるようにと言われました。
私は親ではないのでわからないところもありますが
どうでしょう。お子さんがいらっしゃる方々は
想像していただいていいかもしれません。
神のために我が子を捧げよ
あなたの子供をその命をほふりなさいと
与子も命令されたらどう思われるでしょうか。
ヘブル書の著者は結構楽観的なんですね。
神様が将来取り戻してくれるからということを言いますが
創世記のアブラハムの記事だけを見るならば
アブラハムはそういうことは多分考えていません。
彼は神様からの重たいテストを受け止めながら
淡々とあの山へと向かっていったのですね。
どうでしょうか。
しかし私たちは知っています。
アブラハムは本当に遺作を失う覚悟で旅に出ましたが
遺作がほふられる直前に
神様がそれを止めてくださった。
あなたの思いはわかったと言ってそれを止めてくださった。
遺作の命は奪われませんでしたね。
私たちはそれを見ながらほとんど胸をなどおろすわけです。
あ、そうか。やっぱり子供を捧げるっておかしいよね。
ということを思うわけですが。
しかし神はご自身の独り子イエス様が
十字架でほふられるのを止めませんでした。
わが子が裏切られ、
鞭打たれ、血だらけになり、
釘であの十字架に打ちつけられる姿を
父は見ていたのですね。
そこに私たちは十字架を見ると
イエス様の痛みを見ますけれども
同時に想像を絶する
父なる神様の痛みがそこにあることを
私たちは知ります。
神様が差し出されたのはものげ姉室。
永遠の愛の交わり。
父の懐にいたあの取り替えのきかない
スペアのない愛する独り子を
十字架に捧げられたのですね。
イエス・キリストは十字架で死なれたのです。
なぜ私たちには
きっと私たちにはすることのできない
理解を超えたそのようなことを
なぜされたのか。
それが先ほど読んでいただいた
ヨハネの福音書3章の16節の御言葉です。
私たちには耳にタコのように
一番有名な言葉として聞いていますが
大事な言葉です。
神は実にその独り子をお与えになったほどに
よを愛された。
よを愛された。
それは御子を信じる者が
一人として滅びることなく
永遠の命を持つためであると言われています。
神は実に独り子をお与えになったほどに
よを愛された。
愛するスペアのきかない御子を
十字架に捧げられたのはなぜか。
それはよを愛された。
よにある私たちを
キリストを捧げても惜しくない
理解を超えますね。
でも独り子を捧げても惜しくない
そのような思いを持って
十字架に捧げられた。
イエス様は十字架の上で
我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですかと
叫ばれました。
しかしその時、父なる神様は
沈黙をなさいました。
沈黙の中でその叫びを受け止められました。
神は全能です。御子を十字架から
救い出す力を持っていたでしょう。
しかしあえてそうはなさらなかったのは
その独り子が全ての罪を
引き受けることなしに
罪の中に死んでいるこの世を
私たちを神の子として
抱きしめることができないからです。
究極の選択ですね。
しかし神はそうなさった。
神はスペアのきかない愛する御子を
この世界に与えられたのです。
その壮絶な痛みを覚えます。
神の愛の大きさ:独り子を捧げた究極の選択
しかし何度も申し上げます。
なぜそのようになさったのか。
要愛されたから。
神様の目にはスペアのきかない
イエス様と同じぐらい
私たち自身のこともスペアのきかない
愛する独り子として
愛する神の子として見ておられるからですね。
ナルニア国物語などを著作書いた
シエス・ルイスという人物がいらっしゃいます。
彼がその著書の中で
こういうふうに書いていました。
神が人間になったというその出来事は
歴史の中で一度だけ起こった
取り返しのつかない
そして変わりのない一撃でした。
それは
天の富をすべて投げ打って
失われた一匹の羊を探しに来た
あの羊飼いの行為そのものですと
彼は書きました。
私たちには馴染みがありますね。
99匹の羊を置いて
1匹の羊を探しに行ったあの羊飼いの姿
あれは父なる神様の姿である
99匹天の富の宝は一体何なのか
イエス・キリストである
イエス・キリストを地上に送ってしまったら
天は空っぽになるということはよく言われる話ですが
しかしそのようなことを神はなされた
確かにと思います
ダサン的に考えるならば
99匹を危険に犯すのは損です
リスクもあります
しかし神の愛はダサンではないのです
神の愛はダサンではない
自分の大切なものを捧げたとしても
その一匹を抱きしめたい
一人子を与えてなお
あなたを抱きしめたい
それが神様の愛です
だから私たちには神様の愛は計りきれないのです
今の話を聞いて理解しきれますか?
理解できない
でも神がなさったことなんです
大きすぎて非論理的すぎて分からなくなるほどに
大きな神様の愛
しかし私たちはイエス様の十字架を見つめ
この愛を小さくしないようにと招かれているのです
もう終わりますが
信仰告白の意義:希望と神の愛の確信
私はその一人子
私たちの主イエスキリストを信じますと
私たちは告白をいたします
その告白をするたびに
私たちは今朝の二つの事実を心に刻んでいきたいと思うのです
それは第一にイエスキリストこそが
私たちの人生において
神を示す唯一のお方である
その基準であるということです
このイエス様の中にこそ真実があり
私たちの歩むべき道があります
暗闇の中を照らすインマヌエルですね
神我らと共におられるという
そのようなお方として来られた方が
私たちの人生において神を示し
今や私たちはイエスを主と告白するわけですから
人生の主権者となってくださった
これこそが何があっても
私たちの揺るぎない希望です
私の主人はもうイエス様なんですよ
もう握られているんだ私は
そしてそのお方に表された神の愛というのは
理解しきれないほど深いんだ
私たちが簡単に疑って覆るほど
ゆるいものではない
神様はスペアのない独り子を捧げてくださいました
そうまでしてなお
神様は私たちを探し出し
御指針の子として取り戻したいと願われたのです
私たちを襲う言葉はいつも
私は無価値だ
私はこんな罪深い
私はダメだ
私は人として不十分だ
そういう言葉が私たちを責め立てますが
何度も申し上げます
それは神の言葉ではありません
神様の言葉は
私の目にあなたをこうかでたっといですよね
御子イエスキリストを捧げても惜しくないと思うほどに
私はあなたを取り戻したと言われる
だから十字架を見てください
ここにあなたを神の子とするために
既に神様が支払われたものの大きさ
大きすぎるものがここにあるのです
そこにある独り子を見つめてください
神様があなたに向けられた愛を
どこまでも小さく見積もる誘惑と抗ってください
そうではない
そうではないということです
今日の御言葉を読んでもう終わります
神は実にその独り子をお与えになったほどに
世を愛された
それは御子を信じる者が独りとして滅びることなく
永遠の命を持つためである
私たちはいつも十字架を前に
驚きが最初に来るはずです
どれほど大きな
どれほど尊い
どれほど甲斐のきかないお方を
私のために主は捧げてしまわれたのか
今朝はその改めて
いつも知っていることですが改めて
その主が私たちのために与えてくださったお方の大きさ
その犠牲と痛みの大きさ
それに比して表された
神様の愛の大きさを
確かに驚きながら
主の御前に跪かせていただきたいと思うのです
一言お祈りをいたします
28:56

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