1. 名谷教会
  2. 2011/07/10:聖日礼拝(旧音源)
2011-07-10 33:26

2011/07/10:聖日礼拝(旧音源)

2011/07/10 聖日礼拝(旧音源)


00:01
本日の聖書をお読みいたします。
本日の聖書の箇所は、マルコの福音書14章の1節から9節まででございます。
新約聖書の95ページをお開きください。
それでは、お読みいたします。
新約聖書95ページ、マルコの福音書14章1節から9節まで。
さて、杉越の祭りと種なしパンの祝いが2日後に迫っていたので、
祭司長・立法学者たちは、どうしたらイエスを騙して捕らえ、殺すことができるだろうか、と懸命であった。
彼らは、祭りの間はいけない、民衆の騒ぎが起こるといけないから、と話していた。
イエスがベタニアでサラートに侵された人・シモンの家におられた時、
食卓についておられると、一人の女が純粋で非常に高価なナルド湯の入った石膏の壺を持ってきて、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。
すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。
何のために高湯をこんなに無駄にしたのか。
この高湯なら300でなり以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。
そうしてその女を厳しく責めた。
すると、イエスは言われた。
そのままにしておきなさい。
なぜこの人を困らせるのですか。
私のために立派なことをしてくれたのです。
貧しい人たちはいつもあなた方と一緒にいます。
それであなた方がしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。
しかし、私はいつもあなた方と一緒にいるわけではありません。
この女は自分にできることをしたのです。
埋葬の用意にと、私の体に前もって油を塗ってくれたのです。
誠にあなた方に告げます。
世界中のどこででも福音が述べ伝えられるところなら、
この人のしたことも語られて、この人の記念となるでしょう。
以上でございます。
聖火体に賛美をしていただきましょう。
聖火体の賛美は、新聖火105番です。
聖火体の賛美に続きまして、
加藤博士より、できる限りのことと題してメッセージをしていただきます。
03:42
聖火体に賛美をしていただきます。
聖火体に賛美をしていただきます。
聖火体に賛美をしていただきます。
聖火体に賛美をしていただきます。
聖火体に賛美をしていただきます。
聖火体に賛美をしていただきます。
聖火体に賛美をしていただきます。
聖火体に賛美をしていただきます。
聖火体に賛美をしていただきます。
聖火体に賛美をしていただきます。
06:09
おはようございます。
安賀協会の加藤と申します。
私は出身は東北地方の山形県というところです。
座王山のふもとなんですけれども、関西地方に来まして20年ほど経ちまして、今今年45歳、46歳なんですけれども、
関西地方に来てだいぶ時間が経つんですけれども、東北の波長が全然抜けなくてですね、そういうものだと思って、
これから御言葉を取り継がさせていただきますけれども、お付き合いいただきたいと思います。
一言お祈りをいたします。
恵み深い天の父なる神様、とてみなあがめます。
十字架にかかられ、よみがえってくださり、私たちを尊い父親をもって清め、そして日々豊かな恵みに生かしてくださるイエス様、ありがとうございます。
すぐる一週間のうちも、私たち一人一人のうちに、豊かに臨んでくださり、計り知れない豊かな恵みを注いでくださって感謝でございます。
今日、敬愛する方々とともに、全能の主を仰ぎ、また御言葉に聞き、そしてまた新しい一週間の備えとさせていただきますことを感謝でございます。
これから小さき者が御言葉を取り継がさせていただきますけれども、どうぞ主の御声を私たち一人一人に聞かせてください。
あなたはお一人お一人の内なる願い、また内なる様々な求めや叫びをご存知の方です。
そして私たちの思いを遥かに超えて素晴らしいことを成そうとしておられる方であることを真摯感謝です。
どうぞ今日も上からの御言葉をお一人お一人に、そしてまた私自身にも聞かせてくださいますように。
時を同じくして持たれている日本イエスキリスト教団、宗教会の礼拝、また日本中にある主イエス様の宗教会の礼拝をも豊かに祝福してくださいますように。
御手におえだねし、イエス様の名前によってお祈り致します。
お祈りありがとうございます。
今日はお読みいただいたところから、とても不思議な聖書箇所なんですけれども、ここのところから目想したことを三つばかり皆さんに分かち合いしたいなと願います。
私、実は公務役聖書で準備してきまして、きょう来たら神科役だったということでちょっと慌てているんですけれども、お容赦ください。
09:06
教会は献金というものがあります。
それは両場の剣のようなものでありまして、大変な恵みの機会でもありますが、しかし時にはそれが誤った使い方をされることがあったり、あるいは人に誤解を与えるかもしれない、そういうものもありますが、しかし私たちに備えられた神様からの恵みのときだと思うわけであります。
今日のところは、そんなことを思いながら読ませていただいたんですけれども、三つばかりこのところから得られる教訓をお分かちしたいと思います。
一つのことは、時があるということだと思うんですね。
今日のこの箇所は、杉越の祭りの二日、それが二日後に迫っていたということは、二日後にイエス様が十字架にかけられるというそういう場面ですね。
ですからイエス様、生きているイエス様に何かしようかと思ったら、その機会というのはもう非常に限られたときしかないという、そういうときがあります。
そのときに、シモンのお家におられたイエス様のところに一人の女性がやってくるわけであります。
短説をお読みしますと、イエスがベタニアでサラウトに侵された人、シモンの家におられたとき、食卓についておられると一人の女が純粋で非常に高価なナルドの湯の入った石膏の壺を持ってきて、その壺を割り、イエスの頭に注ぎかけた。
そのことをイエス様は後に解説をされるんですが、八節をお読みしますとこうあるんです、八節。
この女は自分にできることをしたのです。
埋葬の用意と私の体に前もって油を塗ってくれたのです、とあります。
当時の葬儀の習慣として遺体に油を塗って処置をしてそして葬っていたということがあったわけです。
この女の人はなぜかもうすぐイエス様は死んで葬られるのだということを知っていたわけです。
きっと受難の予告とかいうのを聞いて、イエス様と近々亡くなられるのだ、葬られるのだ、そういうことを知っていたわけですね。
そして死んだ時にもちろん油が塗られるのですけれども、しかしそれも一体どういう油が塗られるか、これほどの高価な油が塗られるかどうかは分かりませんけれども、
12:14
きっとこの女性は今のうちにできるだけのことをしたい。
愛するイエス様のために何かしてさせあげたい。
そしてその機会はどんどん少なくなっているという中で、その時にできる最も良いことを彼女なりにしたのではないかと思うわけであります。
信仰生活の中には献金とかいろいろな奉仕があります。いろいろな捧げ物があるわけですね。
それは通常といいますか定期的なことがあるわけであります。
一方、特別なこと、特別な場合というのがあるわけですね。
手術エジプト期の場合の中で捧げ物の話が出てきます。
その立法によりますと、イスラエルの人たちは一日に二回羊を全焼の生贄として捧げていたんですね。朝一匹。
そして午後、夕方、三時くらいからまた一匹捧げる。
それを毎日毎日祭司が煙にして捧げていたわけです。
それは何でそんなことがあったかといいますと、全焼の生贄というのは何も残さないで全部煙にして灰にしてしまうという生贄ですね。
それは余すところなく私たちは神様のものですということを表すのが全焼の生贄だったんです。
それは常々のことなんですよね。
これは私たちの信仰生活にもそういう思いというのが必要なことです。
けれども時にはその時しかできないこと、その時に特別に必要な働きあるいは捧げ物というものがあったりするわけです。
そんなに多い機会ではないとしても、その時を逃したならばそのことに対して捧げる機会がなくなるという機会があるわけですね。
このイエス様の柔軟と葬りというのは歴史上一回しかない出来事ですね。
それほど稀ではないとしても、私たちの教会生活の中にもそういう時が時としてあるかと思います。
一人一人、それぞれいろいろな場合があると思うんですが、一生に一回あるいは二回あるかどうか、そういう特別な機会があったりするかなと思います。
例えばすぐ思い当たるのは、懐動を捧げるときとか、あるいはこの度の震災の義援金とか、今結構被害が大きかったので長い期間募集されているとは思うんですが、
15:08
それでもこの時を逃したらできないものの一つかと思うわけです。
いろいろなことが考えられるんですが、その時を逃したらできない、いつかすればいいやとか、そういうことがきかない捧げ物というのがあるわけです。
耐えることのない神様への献身の思いを持ちたいものでありますが、しかしまた特別な捧げ物の機会というのがありまして、その時を逃したらできないという働きがあるわけですね。
そのような時を逃すことなく捧げたいなと思います。
それが一つ目の教訓です。
二つ目の教訓があるんですが、この女性は大変大胆な捧げ物をしたと思います。
大胆な捧げ物が時には必要なのではないでしょうか。
この鳴門湯の値段が、私たちはちょっとわからないんですけれども、身近にないのでわからないんですが、後に弟子たちが300でなり以上にでも売ってというふうに言っているところからすると、何百万円というものであります。
その何百万円もするものを、この女性は大変大胆に捧げるわけです。
この彼女の大胆を表している一つの単語を思うんですが、それは三節の終わりくらいに、その壺を割りイエスの頭に注ぎかけた、注いだとあるんです。
その壺を割ったんですよね。
壺を割ったということは、どういう入れ物なのかよくわからないんですが、壺を割ったということは、もう戻せないわけですね。
ちょっと半分くらい使って取っておきましょうかということができないわけですね。
もう入れ物自体がないわけですから。
もうドバーッと惜しむことなくと言いますか、もう大胆にと言いますか、全部気まよく捧げたのであります。
弟子たちが憤慨したとあるわけですね。
憤慨したというほどに、これは本当に大胆な捧げ物だったのであります。
そのことができることをしたのだというふうなイエス様の言葉になっていくんですね。
これが、皇后薬成書では8節です。
8節ちょっとお見せしますと、この女は自分にできることをしたのです。
18:00
自分にできることをしたのですという、これ新海薬成書なんですが、皇后薬成書では自分にできる限りのことをしたのですという、そういうイエス様の評価になっていったんですね。
できることをしたのです。できる限りのことをしたのです。
彼女なりに考えて、今この時にしかできないことは何かないだろうか。
そして大胆な捧げ物を彼女はすることになったわけですね。
いつもこういう大胆な捧げ物ができるわけではありませんが、しかし時には大胆な捧げ物が必要な時もあるのではないかと思います。
この必要に応えて大胆に捧げるには、日頃からの備えといいますか、あるいは日頃からの節約とか貯蓄、そういうものが必要なのかなと思います。
献金するために貯金をするわけではありませんけれども、しかしいろいろな備えになるわけですから、
時には大胆な捧げ物をするためにも日頃から備える必要があるのではないかと思わされたところです。
三つ目の教訓なんですが、それは無駄にならないということを思うんです。無駄にならないんです。
この女性の捧げ物は、弟子たちにしてみたら大変な無駄に思えたわけですね。
四節を読みしますと、こうあります。
すると何人かの者が憤慨して互いに言った。何のためにこういうをこんなに無駄にしたのか、憤慨したわけですね、人々は。
そして無駄になったじゃないかと言うんですよね。
こういうを注ぐということは、確かに無駄なような気もするわけですね。
弟子たちは、これを貧しい人に施したならば良かったのに、そうですよね。
貧しい人に施したならばお腹が膨れるなり、何らかの救いになるわけですね。
しかし、こういうを注ぐというのは、良い香りが漂うということであって、誰かのお腹が膨れるとか、
誰かが実際的に何か救いを得るということではなくて、本当に無駄であるかのような行為なわけですね。
しかし、イエス様にとっては無駄ということはないのではないかと思うのであります。
七節のこのイエス様の言葉を見たいと思いますが、七節。
21:01
貧しい人たちはいつもあなた方と一緒にいます。
あなた方がしたいときはいつでも彼らに良いことをしてやります。
しかし、私はいつもあなた方と一緒にいるわけではありません。
すみません、ちょっと間違えましたね。
すみません、ちょっとやっぱり聖書が違いますね。申し訳ないです。
公文学聖書ではこうあるんですね。
七節で、公文学聖書でお読みしますと、
あ、すみません、失礼します。六節です、ごめんなさい。六節。
六節、新海学聖書でお読みしますと、
するとイエスは言われた。そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。
私のために立派なことをしてくれたのです。
ここに私のために立派なことをしてくれたのだとあるんですね。
普通は無駄と思えるわけですね。
誰かが何かの救いを得る、何かの助けになるわけでも何でもないんです。
けれどもイエス様からしてみたら、私のために立派なことをしてくれたとイエス様は言われたんです。
他の人から見たら無駄、意味がない、無駄遣いだ。
でもイエス様からしたら立派なことだったんですよね。立派なことだったんです。
私たちの法師もそういうふうな世の中の人々の評価があるかもわかりません。
何で教会に行っているんですか。何で研究をするんでしょうか。
一体それにどういう良いことがあるんでしょうか。
そんなことを考えると、普通の人にしてみたらいかに無駄なことをしているのだろうかと見えるかもわからないんですね。
でもイエス様からしたら立派なことをしてくれたのです。私に良いことをしてくれたのですと言われるわけですね。
そして旧説もお読みしますと、誠にあなた方に告げます。
大衆のどこででも福音が述べ伝えるところなら、この人のしたことも語られてこの人の記念となるでしょう。
この女性のしたことが記念として多くの人々にも伝えられる。
そして今も私たちはこの物語からいろいろな教訓を得たり導きを得たりすることができるということを考えたときに、
この女の人はどれだけ報えを受けたのかどうかはわかりませんけれども、
24:01
しかしこの話は今にまでも良い影響を私たちに与え続けている話であります。
ナルドの公有というのは大変強い香りが出たそうであります。
私たちのように毎日お風呂に入るという生活をしていないので、きっとこの香りというのは最後の晩餐のときもその部屋に漂い、
そしてイエス様がゲッセマネで祈るときも漂い、そして捕まえられてお縄になるときも漂い、
ポンテオピラトの前でも漂って、そして十字架の上でもお墓の中でも多くの人々にイエス様の良い香りを話し続けた香りだったと思うんです。
そしてその香りは私たち噛むことはできませんけれども、その麗しい話というのは今にまでも漂っているわけであります。
イエス様のために働く、確かに一見すると無駄であるかのような働きがあるかもしれません。
しかし主は私に良いことをしてくれたのです。私のために立派なことをしてくれたのですと言われるわけですね。
私たちのいろいろな働きが、たとえ無駄になるようなことがあるかもしれませんし、
他の人々から見たら何の意味があるんだろうかと、そのようなことをしているように思えるかもわかりませんが、
しかしイエス様から私のために立派なことをしてくれたのですと言われるのであるならば、それでよしとしたいと思うのです。
第一コリン島の十五章の五十八章にこういう見言葉があります。
だから愛する兄弟たちよ、固くたって動かされず、いつも全力を注いで主の業に励みなさい。
主にあってはあなた方の労苦が無駄になることはないと、あなた方は知っているからですと言っていますね。
あなた方の労苦が無駄になることはない。無駄になると思えるようなことがあるわけですね。
けれども無駄にならないと主は約束しておられるわけであります。
この話を考えているときにヨキサマリア人の話を思い起こしたんですね。
ヨキサマリア人は瀕死の怪我人を宿屋に運びまして、大変な危険を犯して運ぶと思うんですが、そこで宿屋の主人にお願いするわけですよ。
お金を渡してお願いする。どうかこの人を看病してください。
もしこのお金で足りなかったら私が帰りがけにまた来て払いましょうと言うわけですね。
宿屋の主人というのはこの場合、教会だったり私たちだったりすると思うんです。
これだけこんな怪我人のために働いていったら何になるだろうかと宿屋の主人は思う必要はなかったわけですね。
27:05
そのサマリア人がまた来て、親切なサマリア人ですからきっと来て信用できるだろうということで恐らく看病したと思うんですが、
その帰りに私が来て私が支払います。要件に費用がかかったら私が支払いますと主が言われているのであるならば無駄になることはない働きを私たちは進めていきたいなと思うのであります。
最後にウエスレイの説教を紹介したいと思うのであります。
ウエスレイは金銭の使い方という説教の中で3つの原則を言っているんですね。
1つのことはできるだけ稼ぎなさいという言葉ですね。
人の健康を、命とか健康とかですね、心を傷つけたりあるいは犯罪となるようなことをしないでできるだけ稼ぐように。
あるいはまたその稼ぐときに人から奪ったりとかむさぼったりすることがないようにとにかく勤勉に働けと進めるわけですね。
2つ目のこととしてできるだけ蓄えなさいと言うんです。
せっかく稼いだものを目の良く肉の良く生活のおごりのために使ってはいけません。できるだけ蓄えなさい。
蓄えたものはどうするか。できるだけ与えなさいと言うんですね。できるだけ与えなさい。
できるだけ稼いでできるだけ蓄えるのは与えるためにそうするのだと言うんです。
そのときに与えることによってそれは本当に神の財産の管理人になれるんだ。
それを与えないままであれば財産の所有者であるけれども神の管理人ではない。
それを他の人に与える捧げるそういうことを通して本当に神様の財産の管理人となって神に捧げることになるんですよということも彼は説教するんですね。
彼は最初の給料は年間30ポンドだったそうなんですね。
30ポンドいただいて28ポンドで生活をしたと言うんです。
30ポンドで28ポンドの生活ですから2ポンドは献金として捧げた。
そこを聞くと10分の1献金に足りないのではないかと思うんですよね。
けれどもその次の年、彼の収入が60ポンドになるんですね。倍になった。
では彼の生活費はいくらだったかというと、
昨年が28ポンドですからちょっと増えたかなと思うところですが、
30:02
同じ28ポンドで生活してそれが全部福音宣教に捧げていくわけですね。
そういうことを彼はずっと継続していくわけです。
神様からの賜物、それぞれいろいろお持ちかと思いますけれども、
神様から与えられたものを適切に管理して、適切に捧げていきたいなと願うわけです。
結論です。ちょっとまとめてみますと、
今日はこの物語から三つるばかりの教訓をお話ししました。
一つのことは時が大事だということです。
その時を逃したらできない捧げ物というのがたまにあります。
ぜひその時を逃さないで捧げていただきたいと思います。
二つ目のことは時として大胆な捧げ物が必要だということです。
勤勉な働き、質素な生活、そして蓄えることを通して神様が必要とされるときに備えたいと思います。
三つ目のことは捧げ物は無駄にならないということであります。
どのような形でどのように身を結ぶのか、どのように報いてくださるのか、
それは神様のみが知ることであり、神様にお任せすれば良いわけでありますけれども、
聖書はあなた方の労苦が無駄になることはないと言われるわけですね。
そして一見無駄と思えるようなことであっても、
イエス様は私に立派なことをしてくれたのですと、
イエス様が喜ばれることを私たちはしたいなと願います。
それでは一言お祈りをいたします。
一人の女が純粋で非常に高価なナルド油の入った石膏の壺を持ってきて、
その壺を割りイエスの頭に注いだと。
恵み深い天の父なる神様、とうとう皆をあがみます。
また御言葉の恵みを感謝でございます。
私自身の生活は一体どのようなものであったのかと改めて思う次第でありますけれども、
私に対して立派なことをしてくれたのだと言われたその女性の行動に、
私自身も私たちも習うものとしてくださいますように。
時を逃すことなく捧げるものとしてください。
また時には大胆な捧げ物ができますように日頃の生活を整えてください。
そして一見無駄になるかのような捧げ物だったとしても、
神様が喜ばれるような捧げ物をさせてくださいますように。
そしてまた神様が喜んでくださるとの日々の確信を与えてくださいますようにもお願いいたします。
今日から始まる新しい一週間もどうぞ主がお一人お一人とともにいてくださって、
33:05
主の豊かな恵みの中をあげましてください。
暑い日々が続きますけれども体調を崩される方がありませんように、
日々の生活をもお守りくださいますように。
主耶穌様のお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
33:26

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