00:01
みなさん、おはようございます。
今日は、わたしたちが信じて、告白すること、第12回目、福音を正しく宣べ伝え、という題をもって、共に御言葉の恵みをいただきたいと思います。
誠実恋愛を自宅での恋愛に切り替えて、一ヶ月が経ちました。
そんな中で、先週の水曜日からは、やっと水曜人会を再開することができました。
普段のように、兄弟姉妹たちが集まって、一緒に賛美したり、御言葉をいただきたり、また共に祈る時を持ちました。
もちろん、窓を全開して、ドアも開けて、椅子の間隔も十分開けて、注意しながら集会を持たせていただきました。
出席された兄弟姉妹たちは、主に御手をも感謝しながら、また感激しながら、教会と兄弟姉妹たちのために、祈る時を持たせていただきました。
全ては主の恵みだと信じておりました。
今日は、先週に続き、教会についてのメッセージになりました。
その中で今日は、福音を正しく述べ伝えるということですから、選挙伝言についてのメッセージになりました。
まず、教団の信仰告白部分を見ますと、教会は公道の礼拝を守り、主の命令に応えて、福音を正しく述べ伝えとありました。
先週は、教会はそのイエス・ヒリストを頭としている、そして私たち一人ひとりはその体の各器官であることを学びました。
そして教会は何であるか、それは神様に召された生徒たちの集まりであるということを学びました。
今日は、教会を称えられた神様の目的は何であるか、そして私たちは何のために教会の生徒として集まっているのか、
その答えを聖書の御言葉から見つけて学んでまた実践していきたいと願います。
03:03
ある組織や団体が作られたとしましょう。
そしたら、その団体や組織を設立した理由、目的が確かにあると思います。
例えば、学校を建てたとしましょう。
そしたら、学校は生徒たちを集めて、そこで学問、勉強、教える、教わる、それが目的なんですよね。
あるいは、病院を建設したとしましょう。
そうしたら、その病院では患者さんを治療すること、それがその病院の目的なんですよね。
それぞれにその組織や団体が作られたゴール、目的がある。
そして、それに相応しく働くということになります。
そして、そのときにそれが学校になったり病院になったりするということなんですよね。
ところが、例えば病院を建てましたけれども、病院で患者さんを治療したり手術したりするより、
お医者さんと患者さんと話ばかりしている、あるいはボール遊びをしている、あるいは毎日バーベキューばかりしているとしたら、
それは病院で亡くなってしまうんですよね。目的を失われているということになります。
そこで皆さん、教会も同じだと思うんです。
教会は主御自身がお盾になりました。
ですから、教会の存在の目的は、私たちの願いにあるのではありません。
私たちが教会の生徒として集められた目的は、私たちの願いや心にあるのではなく、
そこから作り出せるのではなく、その目的は主にある。
主の中にあるから、主の中でそれを見出して、見つけて、そして主にお尋ねすべきであります。
教会が建てられた目的、主が教会をお盾になった目的、
私たちを教会の中の生徒として集められた、召してくださった、そのゴールがあるということ、
それを私たちは聖書の御言葉から今日学びたいのです。
聖書の御言葉をまず開いてみましょう。
06:03
第2ペテロ2章9節です。
ここを見ますと、
しかし、あなた方は選ばれた種族、王である妻子、聖なる子込み、神の主流とされた民です。
それは、あなた方を闇の中からご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方の素晴らしい御業をあなた方が述べ伝えるためなのです。
つまり、神様が私たちを神の主流とされた神とした目的は何であるか。
もっと簡単に言いますと、私たちを救ってくださった第一の目的は何であるか。
それは、神様の素晴らしい御業を述べ伝えるためなのです。
私たちが救われた第一の目的も、教会の生徒として集められた、召された第一の目的も、
それは神様の素晴らしい御業を述べ伝えるためなのです。
宣教なのです。伝道なのです。
福音を述べ伝えること、これが私たちが教会に召された神様の第一の目的なのです。
これは、イエス様が三年の間、公の生涯を終わられて、天に登られながら、
その時に残される弟子たちに命じられた御言葉に、とても明らかに書かれていました。
今日も中心征服を見ますと、マルコノクイーン書16章15節ですね。
そこに、イエスは彼らにこう言われた。
全世界に出ていき、すべての作られたものに、福音をもべ伝えなさい。
マルコノクイーン書は、四つの福音書の中で一番先に書かれた福音書です。
マルコはペテロの弟子のような人なんですけれども、彼はペテロからイエス様のお話を聞いて、
そして精霊に満たされて、このマルコノクイーン書を記録しました。
09:04
そんなマルコが、この福音書を早い展開方式で書き記して、
そして最後にイエス様がこの地上で残された最後の命令を、とても簡潔に記録しています。
全世界に出ていって、すべての作られたものに、福音をもべ伝えなさい。
皆さん、これが教会の第一目的なんです。
私たちが救われた第一の目的であり、教会に集められた生徒の第一の目的でもあります。
まるで病院が患者を治療するとき、病院が病院であるように、
教会が福音をもべ伝えるとき、教会が教会になるということであります。
例えば皆さん、私たちが教会に集まって、交わりばかりしている。
お茶ばかり飲んでいる。食事ばかりしている。
そして教会の中の人々だけで、互いに慰め合って、交わりばかりしているならば、
実は神様が作られた教会の第一の目的を、もう失われた団体になってしまったのではないでしょうか。
交わりも慰めも、教会に新しい命が生まれて、
宣教して伝道して新しい命が吹き込まれるときに、
そこにその交わりも慰めも意味のあるものになるんです。
もはやこれ以上救われる人もいない。これ以上伝道する人もいない。
とすれば、教会はもう衰退してしまう。
そして最も大事な主の命令に従わない、ただの集まりにすぎないということになるのではないでしょうか。
もし私たちが、いくらもうイエス様と深い交わりを持っているとしても、
兄弟姉妹たちが家族以上に交わりをしていたとしても、
もし私たちが伝道しない、宣教しないとするならば、
教会は主の命令に従わない、ただ不忠順の団体であり、最後の日には主に裁かれることにしかないでしょう。
パイはパイの福音書の最後の部分にこのように記録していますね。
12:05
パイの福音書28章、19節、20節です。
それゆえあなた方は言って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして父、子、生命の皆によってアプテスマを授け、
また私があなた方に命じておいたすべてのことを守るように彼らを教えなさいとあります。
パイはすべての人々を弟子としなさい、アプテスマを授けなさい、
イエス様が教えられたことを守るようにしなさいと記録しました。
この御言葉の中で唯一目的になる動詞があります。
それが弟子としなさいということなんですね。
つまりあの弟子パイはこの福音書を記録するときに、
イエス様が昇天直前に自分たちにもう最後の優言のように、
主の命令としてこの言葉を思い出して記録したと思うんです。
それは弟子とすること、アプテスマを授けること、
そのためには福音を正しく述べ伝えること、それが前提なのではないでしょうか。
皆さん、実際にイエス様のこの福音を述べ伝えなさいという御言葉をいただいた
あのエルサレム教会の信徒たち、また使徒たちはどんなものに従ったのでしょうか。
まず使徒パウルはこのように言っていました。
テモテイノテガミ第一二の四節
神はすべての人が救われて真理を知るようになるのを望んでおられます。
また使徒の働き二十四章二十四節には
けれども私が自分の走るべき行程を走り尽くし、
主イエスから受けた神の恵みの福音を明かしする任務を果たしあげることができるなら、
私の命は少しも惜しいとは思いません。と言いました。
使徒パウルは神の願いは人々が救われることである。
自分は神の福音を明かしする任務を果たしあげることができるなら、
自分の命を少しも惜しいと思わないと言っているのですね。
皆さん神様の願いは何でしょうか。
教会を建てられた主の目的は何でしょうか。
15:03
それは魂が救われることです。
そして宣教が進むことです。
そして神の国が拡張されていくことではないでしょうか。
では私たちはどのように伝道宣教すればいいのでしょうか。
まず第一としては、私たち自分自身が日々神の恵みに満たされることです。
私が神の恵みに満たされていたら、その恵みを分け与えることができるのです。
その恵みについて、神の恵みについて話すことができるのです。
見たこともない、経験したこともないことを私たちは伝えることができないのです。
だからまず宣教のために、伝道のために、まず第一としては、
私たち自分自身が神の恵みに十分に満たされる生活をすることです。
御言葉を通してでしょう、祈りを通してでしょう、恋愛を通してでしょう、通して。
精霊に満たされることなんです。
だから皆さん御言葉を通して、祈りを通して、そこに専念して、精霊に満たされていてください。
そうすれば、その恵みと精霊が溢れ出て溢れ出て、周りの人々を潤すようになるのです。
皆さん、これが一番大事なんです。
恵まれた人が、精霊に満たされた人が、その中にですね、伝道したい、
本当に情熱に満ちあふれて、そこから伝道が進むのではないでしょうか。
二番目としては、福音を御手伝えることのためには、遠慮せずに、
家族に、友人に、知人に、神について、家様について、話して、また話して、また話して、伝えることなんです。
また、私たちがもしもですね、この福音を御手伝えることを遠慮しているだけならば、
その家族が、友人が、知人が亡くなったならば、私たちは福音を御手伝えることができなくなってしまうんですよ。
皆さん、福音に、この福音に囚われている人は、このイエス・キリスト、この神の福音を御手伝えずにはいられない、
18:00
この情熱を持っているんじゃないでしょうか。
そして願わくは、皆さん、福音を御手伝えるんですけれども、伝道するんですけれども、
家族の方や、友人、知人の方々が、もう一年でも早いうちに、この地上で罪を徹底的に悔い改めて、清められて、
福音のために、神のために生きることができるようにですね、もう一刻も早く福音を述べ伝えてほしいんです。
亡くなられる直前に、救いに導くことも素晴らしいことだと思うんですけれども、
できるならば、全ての人々が死のために、一生懸命に生きることができるときに、
福音を御手伝えてですね、その魂が救われるに導く、私たちでありたいと願います。
人々が、もう一生、自分のために生きていって、亡くなる直前に、どうしようもないから信じるとおなずいたとしても、
私たちは真剣に考える必要があると思うんです。
もちろんですね、そこには、私たちにはわからない、神の憐れみ、恵みによる救いがあるかもしれません。
救いは、もう全く神の主見によるものですからね。
でも、もしもですよ、実は信じていない。
でも、自分が死ぬことが怖いから、母親から言われて仕方がなく頭をうなずく人もいるかもしれません。
私たちは全てのことを知りつくことはできませんが、
また、ここの救いは、ただ神様だけがご存知のものでありますし、
救いも神の御手にあるものでありますから、私たちはただ神の恵みを求めるだけなんですけれども、
でも大事なのは、救いの恵みを求める祈りもですね、
本当は救われていない人が救われるように祈っても、そしてその方が亡くなったとしても、
救いはそこにはなかろうということであります。
皆さん、遠慮しないで。
今日、皆さんの家族に、友人、知人に、やり方はいろいろあるでしょう。
21:02
今日福音を述べ伝えようではないでしょう。
今日家族に、今日友人に、今日知人に、イエス・キリストを、神様を、この福音を伝える私たちでありたいと願います。
ところが三番目として、この伝道・宣教というものはですね、
自分の力ややり方や考えで知ることのできるものではなく、ただ精霊の力によってのみできることであります。
それはイエス様の弟子たち、エルサレム教会の信者たちを見たらわかる。
使徒のたらき第一章8節を見ると、
「しかし精霊があなた方の上に臨まれるとき、あなた方は力を受けます。
そしてエルサレム、ユダヤとサマリアの前路及び地の果てにまで私の証人となります。」とありますよね。
精霊があなた方の上に臨まれるときに、精霊に満たされるときに、
私たちはイエス様の証人として福音を述べ伝えることができる。
だから精霊だけが、精霊の力だけが宣教伝道の根本的な力であるということです。
それで皆さん、ペンテコステの日に精霊に満たされた弟子たち、信者たちはどう変わったのでしょうか。
精霊に満たされたあのペテロが、その日、その場で立ち上がって福音を大胆に語りました。
勇気を持って伝えましたね。
おそらくその場所にはペテロの友達や友人、知人、町の人々もそこにあったと思うんです。
明日また付き合わなくなる人々もそこにいたと思うんですよね。
でもそんな状況なんだけれども、ペテロは決して遠慮しないで、躊躇しないで、大胆に福音を述べ伝えました。
まるでですね、今日私はこの福音を述べ伝えて、明日もう死んでもいいというふうにペテロは福音を述べ伝えました。
聖書を全部読むことはできませんが、あの千歳の第二章のあの時にペテロがそこで福音を述べ伝えて、
そしてそこにいてですね、ペテロの説教を聞いた、伝道メッセージを聞いた人々はどんなふうに反応したのでしょうか。
24:02
それが千歳二章三十七節、三十八節にこのように書かれています。
人々はこれを聞いて心を捧げ、ペテロと他の人たちに、兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうかと言った。
皆さん、ペテロが聖伝に満たされて伝道したら、その福音を聞いた人々がもうすぐに応答を知り始めたんですね。
そういう奇跡が起きたんですよ。
兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうかと応答しました。
そしたらペテロがこう語りました、三十八節、
悔いやらめなさい。そしてそれぞれ罪を許してだとために、
イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。
そうすれば賜物として聖霊を受けるでしょう。
ペテロは大胆に語りました。
皆さん、罪を悔いやらかめてください。
そしてイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。
そしてそうすれば賜物として聖霊を受けるでしょうと、福音を語りました。
皆さん、その結果はどうなったのでしょうか。
四十一節を見ると、
そこで彼の言葉を受け入れた者はバプテスマを受けた。
その日三千人ほどが弟子に加えられたとありました。
一日に三千人が罪を悔いやらかめて、
イエス・キリストを信じる、そしてバプテスマを受ける奇跡のようなことが起きたんです。
これは聖霊様がなさったことですよね。
聖霊様が聖霊に満たされたペテルを用いてくださった人たちを用いてくださったんですね。
今も生きておられる、そして働きかけてくださる聖霊様、
魂を救ってくださる聖霊様が私たちを用いようとしておられます。
聖霊に満たしてくださって、
そして私たちが満たされて聖霊にとらわれているならば、
私がやるのではない。
聖霊様が私たち一人一人をとらえて、
そして用いてこの救いの御業を起こしてくださることを信じます。
メッセージをおられたいと思います。
教会とその中に召されて集まっている生徒が、
主の命に応えて福音を正しく述べ伝えなければならないんです。
これが第一の目的であり、最高の目的であります。
27:05
そしてこれは私たちの幸せであり、使命であり、命であります。
生きる指針であります。
どうか主の命に応えて福音を正しく述べ伝える明沢教会、
私たち一人一人でありたいと説に。