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おはようございます。青垣キャンプ場がありました頃ですね、よく名谷教会の皆さんと一緒に
二泊三日小学生のキャンプを行いましてですね、亜里奥さんをはじめ一緒に教授させていただいたことを、本当に懐かしく思っております。
今日は、教区の一斉交談交換ということでですね、何年か前ですね、100年前に交談交換の話に呼んでいただいたことがあるんですが、
名谷教会の皆さんと一緒に礼拝できますことを感謝しております。さてですね、いきなり質問をするような感じですが、
ある新学校でですね、聖書に出てくる人物のですね、人気投票をしたんです。
イエス様は別としてですね、旧約の一番人気は誰だったと思いますか?
旧約聖書でですね、一番、新学生ですよ。新学生がこれから牧師になる人で、牧師主治になる人にね、人気投票をしたらですね、
旧約聖書の中で一番どの人が魅力的かと。答えはですね、ヨナ。ヨナさんですね。
新学は誰だったと思いますか?実はこのペペロなんですね。
お互い共通しているのは、人としての弱さが明らかな信仰者ということでしょうか。
私たちは、私もですね、20歳ぐらいで信仰学をイエス様が分かってですね、いいクリスチャンになろうと思っていたんですね。
ところが牧師業を20年やっていてもですね、分かるのは、それは無理だなと。
それは、成長を諦めているという話に、イエス様の恵みがあるから前に進めるんだなということがですね、
年を取れば取るほど、少し分かってきたわけですね。
そして聖書をよく読んでみますと、聖書は理想の人間像を描いているというよりは、
弱さを持っているその不完全な人が、キリストの恵みによって変えられていくというね。
そういうところなんじゃないかと言ってですね、50ぐらいになりましたので、
私もですね、そういうふうに心から思えるようになってまいりました。
今日はこの皆さんもよくご存知の、ペペロの座説を通して、主からのメッセージを共にいただきたいわけです。
イエス様が十字架につけられる前の夜です。
イエス様を憎む人たちは、多くの人を騙してですね、剣や棒を担いで、イエス様を捕まえにやってきました。
そしてそこで一悶着はあるのですが、結果として弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。
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弟子たちはですね、実はこの時、数時間前に全員がこう言ったんですね。
たといご一緒に知らなければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません。
全員がそう言ったわけです。
ところがキリストが逮捕されて、そして自分たちも危ないというふうに思いましてですね、
実際はみんな裏切ってしまったわけですね。
そんな中で、この一番弟子と自負していたペテロはですね、何とかイエス様についていこうとして、54節ですね。
彼らはイエスを捕らえ、引いていって、大祭司の家に連れてきた。ペテロは遠く離れてついていった。
いく度は逃げ出したのですが、やはりイエス様のことが気にかかる。ペテロは遠く離れてついていきました。
そして55節ですね、彼らは中庭の真ん中に火を焚いてみんな座り込んだので、ペテロも中に混じって腰を殺した。
イエス様がどんなふうに扱われるか、ペテロは見届けたかったのかもしれません。
私はですね、これは勇気ある行動だと思うんですね。
皆さんだったらどうしますか。私ならですね、ちょっと怖くて、よういけないなと思うんですね。
そこでまず今日はですね、一つ目は、私たちの限界と弱さということをね、受け止めたいんですが、56節から60節申し上げますね。
すると女中が、日明かりの中にペテロの座っているのを見つけ、まじまじと見ていった。この人もイエスと一緒にいました。
ところが、ペテロはそれを受けして、いいえ、私はあの人を知りませんと言った。
しばらくして他の男が彼を見て、あなたも彼らの仲間だと言った。しかしペテロは、いや、違いますと言った。
それから一時間ほどたつと、また別の男が、確かにこの人も彼と一緒だった。この人もガリガヤ人だからと言った。
しかしペテロは、あなたの言うことは私にはわかりませんと言った。
それと一緒に、彼がまだ言い終えないうちに、見渡りがない。
焚火の光に照らされたペテロの顔を見て、一人の女の人が言ったわけですね。
この人もイエスと一緒にいました。しかもまじまじと見てですね。
この皆さん、焚火の光に照らされたペテロはどんなものだったでしょうか。
ズバリとですね、予期せぬ自分の本当のことを疲れたわけですね。
そうすると、彼の心から飛び出した言葉は何だったかというと、
模擬の中でですね、ペテロはそれを打ち消して、
いいえ、私はあの人を知りませんと言ったわけです。
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ペテロの淵から出てきたのは、3年間ですね、愛を注いでですね、
共に生活したそのイエス様を否定する言葉でした。
とっさに不意をつかえたわけですね。
まず覚えてもらいたいのはですね、おそらくペテロはですね、
人を恐れたんだと思います。
ここで女の人は、この人もイエスと一緒にいましたと言いました。
もしも皆さん、この女中さんとペテロが2人だけならば、どうだったでしょうか。
ペテロは、ああそうだよと認めたかもしれません。
ではなぜペテロは否定したのでしょうか。
それは女中の言うことを多くの人が聞いていたからです。
多くの耳があって、多くの人の目があった。
だからペテロは恐れたわけですね。
ここに私は、私たちお互いのですね、弱さがあると思います。
私は自分が弱い人間だと初めてわかったのはですね、中学校2年生の時です。
父がですね、牧師でいたので、住んでいたところが、
その区分けの中学校がありますよね。
ここだったらどこに行くんですか。
え?
それないのね。上品な中学だと思うんです。
私がいたのはですね、神戸市で三本の夢に入るですね、
担任が二人いてですね、
しかも神戸市の先生の給与の給与プラス10%高く出る学校。
誰も行きたかった学校ですね。
大変だったんです私もですね。
もう本当に3年間、自分がいついじめられるかということで、
そういう嗅覚をいられておりました。
中二の時にですね、中一の時は結構いじめられたんですが、
中二の時にどういう学期かですね、ある学期ですね。
副委員長になっちゃったんですね。
委員長は女の人の吉本さんという優秀な人でしたが、
普段は話し合ってですね、お互い立派なことを言うわけですね。
そして何かあったらやっぱり先生にすぐに言いにいくというね、
ルールがあるわけです。
でも何かあった時に先生に言いに来たらどうなるかと言ったら、
その不良人をお前なぜ言ったと言われますからですね。
ところがどういう学期か、中学、二学期の終わりに
一人の担任が交代してですね、三学期から新しい先生が来た。
それは和田大学を出たですね、文学青年の人ですね。
ところがその人が不良に目をつけられたわけです。
09:00
そしたらその先生の授業の時にですね、不良が四人入ってきてですね、
先生を取り囲んでですね、ボコボコ殴り出したわけですね。
みんなこう、そしてこう、先生体浮いてますね。
そしてそういう時に実は私が職員室に行かなきゃならない。
でも私はどうだったかというとね、動けやすいわけです。
何かあったら、行ったら私が袋だらけになりますからね。
そしたらその委員長の吉本さんという人がバーッと出て行ってですね、
他の先生を呼んで来たんですね。
助けに来た先生もボコボコ殴り出ましたけど、その後ですね、
吉本さんが口を聞いてくれました。
あなたは普段偉そうなことを言っているんですね。
いざとなったら何にもできないじゃないかという視線ですね。
私は自分は偉そうなことを言うけれども、実際はできない人間だなということでね、初めて少しずつ自覚。
ペテロは大まじめでイエス様に生涯を捧げたと思いますが、
いざという時どうなったかというと、彼は逃げてしまいました。
そして58節ですね、こう書いてますね。
しばらくして他の男が彼を見て、あなたも彼らの仲間だと言った。
しかしペテロはいや、違いますと言った。
第一の嵐の後ですね、第二の暴風がペテロを直撃しました。
今度はいや、それは違う。
嘘も方便と言いますが、一度嘘をつくと私たちはその嘘に辻褄を合わせるためにまた嘘をつきます。
ペテロもこの難を乗り越えるためにイエス様をまた指定したのです。
仲間というのはあのグループにいたよねということですね。
嘘は嘘を考えます。一つの嘘がその嘘の辻褄を合わせるためにまた嘘をつくようになる。
私が最初にですね、盗みをしたのは小学校2年生でした。母親の財布からね。
森たけし君という仲のいい友達がいて、その友達の誕生日に何かしてあげたいなと思ったわけです。
そしたら母親はあの布団の中にいつも財布を入れているなと思い出すわけです。
小さい時から10回を聞いているわけですよ。でも誰も見ていないと思って200円。
40年以上前ですからね。200円と言ってもいいものが買えるわけです。
そして私は文房部屋に行って森君のためにそれなりのものを買って、誕生日にあげてですね。
もう忘れているわけです。森君も森君のお母さんも喜んでくださってですね。
そしたら1ヶ月ぐらい経ってからですね、産官日があったんですね。
そしたらですね、森君のお母さんが言わなくていいのにですね、
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先日はお宅の息子さんが私の息子にいいものをくださりましてですね、こう挨拶をしてくださってですね。
そしてその後ですね、授業が終わってから私は帰りますね。
そしたら父親と母親がですね、なんか暗い顔をしてですね、こう座っているわけですね。
広瀬、ちょっと来てください。なんかいつもと違う雰囲気ですね。
そしたら、広瀬、今日森君のお母さんに会ったんだけど、お母さんが、
何かお前、森君に誕生日プレゼントしたらしいなって言われて、
うーんって感じでね、まずいと思ってですね。
じゃあお前そのお金、どうしたんだって言われたんです。
その時に何て言ったかってね、得金してたんですよ。
何も取ったんですよ。考えても何にもないんです。
そしてですね、父親はですね、母親はですね、裏がってくるわけで、いや違う、僕は。
まあその場はなんとか1時間くらい乗り切りましたけどね。
結局、まあ今考えてみると何かっていうと、
嘘のためにまた嘘をつくという、その自分の罪の本質がまさに浮かび上がって、
ですからこういうところを読んでいてもですね、ペペローが一言だと思えないわけですね。
そして59節に後悔ですね。それから1時間ほど経つとまた別の男が、
確かにこの人も彼と一緒だった。この人もガリラヤ人だからと言い張った。
彼はどういうわけかその場に1時間もいたわけです。
私だったらもう無理だと思ってですね、出て行ってしまうわけですが。
そして決定的な一言がペペローを襲いました。
確かにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから。
今度は動かぬ証拠を突きつけられました。ガリラヤ人。つまり方言ですね。
私も東京に7年いましたからですね、それなりに標準語は話せるようになったわけですけどですね。
感情が抜き出しになるときはですね、感情が抜き出しになるわけです。
腹が立ったときにですね、何言ってるのなんて言わないですね。
何言ってるんやね、という感じになるわけですね。
この時もペペローはどちらかというと軍部出身ですよね。
ここはエルサレムですから、私たちでいうと東京のようなところでありますからですね。
あなた言葉なまりで、あのイエスという男と一緒の出身だということがわかるよと言われたわけです。
そうしたら彼は何と言ったかというと、しかしペペローは、
あなたの言うことは私にはわかりません。
彼はイエス様との関係を完全に否定した。
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自分が不況に追い込まれたら、私たちの罪の性質はですね、
自分で自分を守って、これが皆さん、私たちの現実ではないでしょうか。
ペペローは人の目が怖く、嘘で自分の立場を守ろうとし、結局イエス様を否定するしかできなかったわけですね。
そこで私たちは問わなければならないですね。私たちは彼を笑えるのか。
いいえ、笑えない。私たちの人を恐れやすく、その場しのぎの嘘をつき、
いざとなったらイエス様なんかどっかに吹っ飛んでしまうお互いかもしれません。
しかしイエス様は、そう言う私たちをそれで終わらせないわけです。
二つ目は、イエス様の憐れみの眼差しということですね。
59節から62節をもう一度見ますね。
それから一時間ほどたすと、また別の男が、確かにこの人も彼と一緒だった。この人もガリデア人だからと言い張った。
しかしペペローは、あなたの言うことを私にはわかりませんと言った。
それと一緒に、彼がまだ言い終えないうちに鶏が鳴いた。主が振り向いてペペローを見つめられた。
ペペローは今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度私を知らないと言われたというお言葉を思い出した。
彼は外に出て激しく取り返しのつかないことをやってしまったペペローを、実はイエス様が見ていたわけです。
イエス様は偽りの裁判で、大祭司の家でひどい取り扱いをされていました。
裁判を夜に開くなんていうのはもってのほかですね。
初めからイエス様を殺そうとする人たちの策略です。
イエス様は無実なのに裁かれていました。
おそらく二階でですね、そのでっち上げの裁判に服しているそのイエス様が外を見られたわけですね。
そのイエス様の目と、庭でイエス様を三度知らないと言ったペペローの目があったわけですね。
主は振り向いてペペローを見つめないと。
皆さんこれは私たちに何を伝えているのでしょうか。
そこで二十一章、二十二章ですね。三十一節から三十四節をちょっとお見せください。
同じルカム福音書の二十二章の三十一節から三十四節です。
四問みなさい、サタンがあなた方を無理のように奮いにかけることを願って聞き届けられました。
しかし私はあなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈りました。
18:00
だからあなたは立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい。
四問はイエスに言った。主よ、御一緒なら老であろうと死であろうと覚悟はできております。
しかしイエスは言われた。ペテロ、あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでにあなたは三度私を知らないと言います。
これはペテロがイエス様を裏切った数時間前ですね、最後の晩餐の時です。
ペテロはどんなことがあっても自分だけはイエス様にどこまでついていくとですね、応募しました。
他の福音書のこと、他の弟子たちは別として私だけは違いますと言い切ったわけですね。
ところがイエス様は何と言ったかというとですね、きょう鶏が鳴くまでにあなたは三度私を知らないと言います。
ここでイエス様がこう言ったのは、イエス様がペテロという人間をすべてご存知だった。
皆さん、私たちは自分を知っているようで実はそんなにわかっていないところがあると思いますね。
私も家内と娘が二人で四人家族ですけどね、もう完全に分が悪いですね。
女性の視点と男性の視点でですね、父さん自分が見えていないと言ったことはですね、よく言われてですね、いやそんなことないよと言いますけど、
一人になってですね、考えてみると向こうの方が合っているかもしれないというようなことはよくあるわけです。
私たちは自分が一番自分のことを知っていると思いたいわけですが、しかし一番自分のことをわかっていないのも自分かもしれません。
しかし一番私たち一人一人をよくご存知なのは誰でしょうか。それはイエス様です。
私たちの良いところも個性も弱さも弱点も愚かさも罪深さも。
ここでイエス様はペテロが裏切ることを十分承知の上でこうお祈りされました。
31節ですね。
諮問諮問を見なさい。サタンがあなた方を無意のように奮いにかけることを願って行き届けられました。
しかし私はあなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈りました。
だからあなたは立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい。
皆さん立ち直るとはどういうことでしょうか。それはペテロが挫折するというわけです。
一度すまづくのです。信仰者としてですよ。
イエス様を信じている人間がイエス様を否定してしまう。
彼が大きな失敗、自分でも自分が嫌になる罪を犯してしまうわけです。
21:02
そのことをイエス様は十分わかった上でペテロを愛しておられた。
これが皆さん無条件の愛ということなんでしょうね。
私たちは相手に魅力が感じる限り相手を愛しますが、相手に魅力が感じられなかったら愛せないお互い。
ところがイエス様はペテロが自分を完全に否定するということがわかった上でも、
あなたの信仰がなくならないように私はあなたのために祈ってきた。
そしてあなたは挫折する。でも立ち直ったらその恵みをもって兄弟たちを力づけてやりなさいとメッセージを彼に語ったわけです。
そのことを皆さん踏まえた上でもって59節から62節を見てほしいわけです。
それから1時間ほど経つとまた別の男が確かにこの人も彼と一緒だった。この人もガリレア人だからと言い張った。
しかしペテロはあなたの言うことは私にはわかりませんと言った。
それと一緒に彼がまだ言い終えないうちに鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。
ペテロは今日鶏が鳴くまでにあなたは3度私を知らないと言われた主の言葉を思い出した。
彼は外に出て激しく。
ここで皆さん私たちは今ペテロに対するイエス様の眼差しを感じ取りたいわけです。
イエス様がペテロを見つめられたのは裁きや憎しみでしょうか。
そら、見たごらん。言った通りだろう。
そうではないですね。そういうことは一切ない。
ペテロへの憐れみです。祈りを込めた目です。
そしてペテロを許そうとする愛の眼差しなのです。
いざとなれば罪を犯すことしかできないペテロの弱さを思いやるイエス様の愛です。
イエス様は愛するペテロのために祈り続けておられたわけです。
私たちが罪の許しを知るのはこのイエス様の恵みを味わう時ではないでしょうか。
ペテロが3度イエス様を知らないと言った時にイワトリが泣きました。
その時ペテロはイエス様の御言葉を思い出しました。
このようにペテロはイエス様を完全に否定した。
しかしイエス様はこのペテロの罪や弱さをすべて知っておられた上でペテロという人を受け止めてくださっていたわけです。
皆さんこれが重要とかね、福音ということでは。
24:00
ペテロはこの時まで自分が他の弟子たちよりも少しはましな人間だと思っていたことでしょう。
ところがペテロは初めて自分の決心や誓いではイエス様についていけないことがわかったのです。
ところがイエス様はそのペテロを愛と憐れみのまなしでご覧になっていたわけですね。
しかも自分は偽りの裁判の中で恥ずかしめられた。
こんな孤独な気持ちにおられるイエス様がそのペテロを憐れみの目で祈りを持って見ていた。
そして彼は外に出て激しく泣いた。
彼は初めて自分の興味や弱さを本当に向き合ったのではないでしょう。
自分がやっていけるのはこのイエス様だけなんだな。
もちろん彼はその後回復していくわけです。そして持ち入れられるわけですが。
そこでですね、ここからは非常に大事だと思いますが、一つ二つ私たちは止まらなければいけない。
一つお尋ねしますが。
皆さん、ペテロが信仰者として立ち直れたのは何があったからでしょうか。
それはイエス様の取りなしの祈りがあったからです。
22章32節ですね。
不信仰な私たちが信仰を持って歩めるのはどうしてでしょうか。
それは信仰の世界にはイエス様の取りなしとあれが中心にあるからです。
皆さん、キリスト信仰は人間の頑張りや信じんでやるものではありません。
それは無理です。不可能です。
恵みがあるから信じれるわけです。
こうあるべきだ、では無理なんですね。
恵みの主が罪深く不信仰な私たちを受け入れ続けて下さっている。
ある方が言いました。
信仰とは不信仰なものを受け入れて下さる神を信頼する。
信仰とは不信仰なものを受け入れて下さるイエス様を信頼する。
この座説を通して、ペテロは自分の力では無理だということが分かって、後に精霊に満たされて、
そしてまた兄弟たちと一緒にチームを組んで行く放射に変えられていったわけですね。
皆さん、お祈りというのは、イエス様の祈りというのはすごいですね。
27:02
私も今でこそ募集をさせていただきますが、高校生の時はだいぶ反発しまして、
父は母があまりにも真面目すぎて逃げ道がなかったわけであります。
礼拝に出ないでね。
プロポーズ大作戦とか見てましたよ。
ラブアタッチとかですね。
そして伝道集会の時に下でガンガンレッドセプリンとかクイーンを聞いてですね。
自分は邪魔してるつもりはないんだけど、要するに自分の日曜日を過ごしたいからということでね。
後で聞いたらですね、父親は何度も役員会に辞書を出したんです。
そしたら役員の人が、先生、祈りましょう。先生、祈りましょう。
だから私はあるわけですね。
私が信仰なんかないわけです。
だけど祈ってくれた人がいるとある時に気づいたんです。
ですから私たちがですね、信仰を持っているのはイエス様の祈りと多くの方々の祈りがあったから、
私たちも今度はどうするかというと、まだキリストに心を開いていない人のために、
愛を持って祈り、神様が働かれるということを信じる世界を信じなきゃいけないんですね。
ということは私たちも神様の私に信仰をください。
もう一つお尋ねしますと、もしこの挫折を経験しなかったなら、ペテロはどんなリーダーになっていたでしょうか。
もし彼が自力でこの場を切り抜けて、俺はキリストの弟子だと何か文句あるかとね、
三度の私はイエスキリストを信じているんだと言えたらどうなったか。
もし彼が自力でこの場を切り抜けていたら間違いなく人を裁くリーダーになっていたと思います。
いざとなったら他の弟子たちに言うわけです。
俺はあの時従いそうした。だからお前たちとは違う。
自分の優秀さを自慢する指導者になっていたでしょう。
皆さんそこに精霊による一致は出てきますか。
無理ですよね。
イエス様の御心は何だったかというと、
私はあなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈りました。
だからあなたは立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい。
イエス様は彼が挫折して立ち直ることが主の御心だとおっしゃったわけです。
やがてペンテコスの日ですね、彼は精霊に満たされて、そして11人の人と一緒にチームで奉仕しているわけです。
30:05
そういう皆さんですね、福音書を読むとですね、最後の晩餐の時でも誰が一番偉いかと議論している。
一緒に心を合わせるというようなことはないんですよ。
ところがペンテコスの前の祈りの時、おそらくペテロも、
すみません、私は皆さんを裁いている。
そうやって皆さんですね、そこに精霊が臨んで、
彼らはどうしたかとペテロがリーダーとして指すわけですが、
みんな彼を支えてね、一緒にチーム。
これが皆さん、教会ですよね。
教会ですね。私こそ許され続けているんだ。
だから彼が精霊に満たされてメッセージをした時も、
そうですね、お前ら信じろってですね、
私も憐れみを受けてキリストを否定したものですけども、
皆さん、あのイエス様の十字架が私たちを許してくださるんです。
そして復活が私たちの永遠の命の保障なんですよ、とですね、
彼はメッセージしたんではないでしょうか。
皆さん聞いてください。私も憐れみがあるからここにいます。
いいですよね。
そしてまさに彼から恵みと愛が流れていたわけです。
そのためには、彼は常に傷を持つ男で良かったわけです。
皆さん、本当の信仰はイエス様の憐れみを100%受け入れるところから始まるのではないでしょうか。
私も牧師をさせていただいていますけども、失敗の多い人間であります。
そして本当に信徒の方のですね、気持ちを十分分かっているわけではないわけです。
そしてですね、言わないことを言ってしまったりですね、本当に言うべきことを言わなかったりですね、
そういうことが現実にあるわけです。
しかし、自分がじゃあなぜ信仰を持ち続けることができるのか、
それは憐れみがあるからなんだ。
そこにいつも立たせていただいて、じゃあその次の一歩。
じゃあどうしたらいいか。
そこでは、例えば役員からしても、こっちにもならないと無理なんですね。
牧師の言葉としては無理だし、支えられている。
自分ももちろん役員の方を支えなければならないけども、自分も支えられている。
そしてみんなで祈りながら、じゃあここで。
何度も伝えてみました。
20歳ぐらいの頃はですね、自分はいいクリスチャンになると思っていたわけですね。
頑張っていたと思います。
でも、今それは無理だと。
だけど、そんなものにイエス様の憐れみがあるから。
そして憐れみが神道の人の方にも、そしてまた救助者の方にも、また今拒絶している人にも注がれているんだから、それを信じよう。
いや、信じさせてください。イエス様、私に信仰を与えてください。
そんな感じでですね、やっているわけです。
33:02
皆さんもですね、福音派がですね、伸びている頃はですね、信じたら必ずこうなりますというね、メッセージがよく語られていました。
必ずこうなります。
皆さん、必ずこうなりますか。
信じていても、がんにもなります。
信仰を持っていても、いろんな家族の中にいろんな痛みが出てきます。
それは、私たちが間違いを犯し続けているから神様に裁かれているんでしょうか。違いますよね。
私たちを信じていても失敗するし、子供の心が分かっていないこともあるし、
そしてまた自分が正しいと思っていたことが、後で振り返ってみると一面でしかなかったということがですね、後になってくると思います。
でも、神様はそこで私たちを減り下らせて、その私たちの家族を回復させるわけです。
その時に何があるかというと、神様の憐れみに寄りすがるということが、私たちは分かってくるのではないでしょうか。
自分が一生懸命やってうまくいったら、私たちは絶対誇りますよ。
私が祈ったから、私が従ったから、私が捧げたから、こうなったんだ。
それでは神様の栄光にならないじゃないですか、皆さん。大事なのは自分の弱さ。
子の憐れみを信じてですね、そして兄弟姉妹を認めて、共に生きることではないでしょうか。
今週もいろんなことがあると思いますが、子のキリストの真似し、またペテロの挫折を通してですね、
私たちは福音を味わいながら、祈りながら、また兄弟姉妹と分かち合いながら進んでいきたいわけであります。
お祈りをいたします。