2022-08-07 27:45

#117 新しい創造 22/8/7

ガラテヤ-15からの礼拝説教。2022年8月7日録音。パウロはこの手紙を締めくくるにあたり、これまで教えてきた大事なことを、特徴的な表現で言い換えています。そのことに注目しつつ1.世間体に右往左往する、2.この世も私も十字架につけられた、3.新しい創造に生きるために、の3つの点から学びましょう。



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印鎧訳聖書2017年版の訳でお読みします。
空手家人の手紙、6章、11節から15節。
ご覧なさい、こんなに大きな字で、私はあなた方に自分の手で書いています。
肉において外見を良くしたい者たちが、ただ、キリストの十字架の上に、
自分たちが迫害されないようにと、あなた方に滑礼を敷いています。
滑礼を受けている者たちは、自分自身では立法を守っていないのに、あなた方の肉を誇るために、あなた方に滑礼を受けさせたいのです。
しかし、私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとする者が決してあってはなりません。
この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。
滑礼を受けているか、受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは、新しい創造です。
以上です。今日はこのところから、新しい創造と題して、御言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
8月になりました。先週は、前半はとても暑い日でした。
水曜日以降、雨が降って、木曜日は土砂降りになって、
私がそうだったのですが、天候と温度が上下すると、体がついてくるのがやっと、
本当に気持ちも起きせずにしましたけれども、何とか一緒に、今日も礼拝できることを感謝しています。
さて、ガラテア人の手紙をずっと学んできましたが、いよいよ、今日、そして来週で終わりです。
そして締めくくりの部分を、パウロは書いています。
最初にですね、ちょっと教養として言ってきますけど、
ガラテア、今日のところですね、最初にパウロが、こんなに大きな字で書いていますと言っているのですが、
当時はですね、羊の皮でできた高級な皮にですね、簡単に言うと、自分の手下とかね、下辺が書いた。
それをパウロが言ったのを下辺が書いたんですけども、最後だけ私が書いたんですよというサインをする意味で、自分で書いていることがあるんです。
当時の写本ではですね、本当に字体が変わっているようなものも見つかっています。
パウロの手紙は現存していないんですけども、当時の手紙ではそんなものがありました。
今、反抗したり署名するようなものです。
そんなので、こんなにも大きな字で書いていますとパウロは最後締めくくっているんですけれども、そして一番大事なことをもう一回復習しています。
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そしてその復習を特別な表現でパウロは書いて、最後に絶対忘れないでくださいと言い残しています。
その点でですね、今日は新しい創造ということで3つのことから学んでいきましょう。
まず最初はですね、世間体に右往左往するということなんですね。
今日の最初の歌詞を読むと、このガラティア教会の問題ですね、教会を何でしょうか、間違った教えで教会に反対する人たちがいたんです。
そういう人たちにパウロが警告をして、純粋な人たちを守ろうとする、そういう背景がありました。
そしてその反対者たちという言い方をしますけど、反対者たちの問題は世間体を気にしていたということですね、そのことがわかります。
その背後にはですね、この世の基準、この世の基準というのはですね、イエス様やセイスと違った世間一般の基準で
自分が価値ある人間かどうかということを測って右往左往する、そういう人の様子が見ております。
それはですね、今の私たちにも共通する問題ですね。
一般的にこの世はですね、どんな仕事をしているか、どんな学歴か、収入や財産どれくらいか、
あるいはこういう関係、どんな友達と付き合っているかということで、私たちを価値ある者、価値ない者と判断しがちです。
そしてそういうことで自分をまた見つめて、心が上がったり下がったりしてしまう、右往左往してしまう、そんなことがあります。
実はこの6節、12、13節、前の画面にも出てますけど、その背景がわかります。ちょっと読んでみますね。
肉において、肉においてというのは、この身体ですね。肉において外見を良くしたい者たちが、ただキリストの十字架の上に自分たちが迫害されないようにと、あなた方に活礼を敷いています。
難しいんですが、ここから読めるか読んでみましょうか。
活礼を受けている者たちは、自分自身では立法を守っていないのに、あなた方の肉を誇るために、あなた方に活礼を受けさせたいのです。
ここにありますね。外見を良くしたい、十字架の上に自分たちが迫害されないために、そしてあなた方の肉を、いわゆる世間体を誇るために、活礼を受けさせた。
活礼は詳しく言いませんけど、ユダヤ人がですね、自分の男性が身体に傷をつける、そういうユダヤ人としての証拠を身体に刻んで、そして自分は選ばれた人間だということを、神の前と人の前で明かしする。
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それが活礼。それが受けた人が本当のユダヤ人、本当の神の選びの民だ、そういう背景が当時のユダヤ人社会にあったわけです。
そして、ちょっと難しいかもしれませんけど、そういう背景があったんですね。
そしてガラティアのクリスチャンというのはユダヤ人じゃない、ローマ人やギリシャ人だったので活礼を受けていなかった。
そういう人たちに、この活礼を受けさせる。そして立法を守らせる。
ちょっと難しいんですけど、ユダヤ人は活礼を受けていない、立法を守っていない、違法人と交わったら、ご飯を一緒に食べたら汚れると言われたんです。
当時、教会でユダヤ人以外の人がガラティア人なども神の民、クリスチャンになって加わってきた時にユダヤ人がですね、
ああ、あの違法人たちは汚れている、活礼を受けていないし立法を守っていない、そうやって彼らを批判していたし、
違法人と一緒に食事をするユダヤ人クリスチャンも批判していました。
だからそのユダヤ人クリスチャンは反対者としてですね、ガラティア人に活礼を施して、そして立法を守らせていた。
そうすると何が起こるかというと、ガラティアの人たちは活礼を受けて立法を守っているから汚れていないと。
だから汚れていないガラティア人と一緒にご飯を食べているユダヤ人も問題がない。
そうやって別のユダヤ人から迫害されない、あるいは評価が下がらないで済む、そういう世間体を彼らは気にしていたと言うんですね。
自分のユダヤ人社会での立場や地位、それを確保するために、
自分も活礼を受けるけれども、自分が付き合う違法人にも活礼を受けさせて、自分が汚れないようにする。
相手にも同じことを押し付ける。自分の価値判断を押し付けるということが起こったわけです。
この価値判断はですね、活礼を受けることによってその人の価値が上がる。立法を守ってこそその価値が保障されるという価値観です。
それをさっきも言いましたが、今の私たちに置き換えれば、こういう仕事に就けば、こういう学歴を持って、これだけの収入と財産があれば、
あるいはこういう人たちとの付き合いがあれば、自分は社会で価値があると考える。
余談です、脱線ですけど、今話題になっているある宗教団体と政治家の関係はですね、
宗教をやっている身からすると、ああいう政治家たちと付き合えば、自分たちの教会の価値も上がると考える。
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それで擦り寄っていったし、そして政治家の人たちは、そういう教団の力を借りれば、自分も社会的な地位を維持できるということを考えたわけです。
ちなみに、教会って名前がついてもですね、先週も言いましたけど、あれはカルトですから、本当の教会ではありませんので、困ったら私たちの教会に相談してください。
話に脱線しましたけど、いわゆるこの世の価値判断で、私たちは自分を測ったり、人に自分が測られたりと思って右往左往してしまうという、
そういう問題が今も当時のユダヤ人社会にもあったということです。
そして違法人にもあった。
2番目、パウロはその中でですね、この世も私も十字架につけられたって言ってるんですね。
6章の14節でパウロはこう言っています。ちょっと難しいんですけど読める方は読んでみましょうか。
しかし私には私たちの主イエスキリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。
この十字架につけられて与私に対して死に、私も与に対して死にました。
これはね、使徒パウロの肖像。実際見た人いないんだけど、いろんな肖像画がですね、名画にありますけど、こんな感じだったのかなパウロは。
でですね、パウロはここでこう言うんですね。
自分はこの世の価値観に対して自分を図らない。
私たちの主イエスキリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。
イエス様の十字架だけが私の拠り所だって言ってるんですね。
強い否定系の決してあってはなりませんという言葉です。
名下の意と決して怒らってはいけない。
そして十字架以外の価値判断を否定しています。
その理由として十字架につけられて与私に対して死に、私も与に対して死んでいる。
そういうことです。
簡潔に言えばですね、パウロはこの世の価値観に対して自分は死んでいるって言ってるんですね。
この世の価値観に対して死んでいるってどういうことかっていうとこの赤い字にありますが、
この世の価値観によって自分は価値を裁かれないし、
自分もこの世の価値観によって自分の価値を判断しないと言っているんです。
そういう中でですね、パウロは実はここで問題になっているいわゆる立法って言うんですね。
立法とかユダヤ人社会での地位が実はこの当時問題になってたんですけれども、
実はこのパウロほどですね、この立法とかユダヤ人社会の地位を自慢したら自慢できる人は本当はいなかったんです。
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立法とかユダヤ人の価値観をよりどころとすれば、彼の右に出る人は当時いなかった。
実はパウロはそのことを他の聖書の箇所でこういうふうに告白しています。
フィリピンの教会にあった手紙、ちょっと長いんですけど読んでみますね。
パウロ自身がこう言っています。
他の人が人間的なもの、いわゆる肉ですね、人間的なものに頼むところがあると思うなら私はそれ以上です。
私は8日目の割礼を受け、違法人と違って生まれてすぐ割礼を受けましたよ、立法についてはパリサイビと。
その熱心は教会を迫害したほどで立法による義についてならば非難されるところのないものです。
しかし、私にとって得であったこのようなものを皆、私の主であるキリストイエスを知っていることの素晴らしさのゆえに
すべてのものを捨てて、それらを散り飽くた。
これね、文字通り訳すと犬の糞という意味なんです。
犬の糞だと思っている。
ちょっとここから読める方は読んでみましょうか。
それは私にはキリストへ、またキリストの中にあるものと認められ、立法による自分の義ではなくて、
キリストを信じる信仰による義、すなわち信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができるという望みがあるからです。
簡単に言うと、この世に認めてもらおうがもらわないが、私は神様によって価値があるとされているから大丈夫だと言っているんですね。
神様によって正しい人間だと認められているから大丈夫だ、イエス様の十字架のゆえにとパウロは言っています。
ですから私たちもこのパウロに倣って、この十字架こそがイエス様の十字架こそが、私たちを神様の前で正しい存在、価値ある存在にしているという根拠に立ち得ましょう。
実はですね、なんで立法を守ることに固執したか、それは自分が間違いを犯した時に立法の通りに行うことによって、神の前の自分を取り繕うことができると考えたからです。
皆さんどうですか?自分が正しいと言って、神様の前で自分を取り繕うことができますか?
あなたは私の前で自分の正しさを証明できますか?と言われたら、できる人はいないんですね。
でも、イエス様が十字架で私の罪を全部許してくれたから、私の罪の罰を全部イエス様が十字架で負ってくれたから、私は罪なき者とされて、神様はあなたの前で自分の立場を正しいと言えるんです、と言えば、神様はその通りと言って、私たちを受けてくれます。
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ですから、私たちもパウロに習ってイエス様の十字架よりどころとして、この世の価値観に対しては、死んだ者と自分を考え、その価値観によって右往左往することはやめましょう。
でもね、これね、じゃあ何もしなくていいってことじゃないんです。実はね、そういうところから自由になると、もっとですね、頑張れます。
人から評価されなくていい。自分は神様と人の前で最善を尽くすっていう、そういう堅い決意が与えられますから、実はこういうこの世の価値観に死んだ人こそですね、自分が成すべきことを迷わずに前進していくことができるんですね。
そのことも覚えておいてください。努力は等ということです。仕事や勉強、頑張ることも悪いことではありませんので、それはそれとして覚えておいてください。
最後、じゃあ新しい創造に生きるためにというところを見てみましょう。パウロは続けてこう言っています。6章15節読めるかと読んでみましょうか。
3、かつれいを受けているか受けていないかは大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
私たちは教会に集っているクリスチャンはイエス様を信じて新しく作り変えられました。パウロはそのことをここで新しい創造だと言っています。
つまりこの世の価値観に振り回されるのではなくて、イエス様の復活の命に預かって新しく作り変えられ続けることが一番大事なのであるとパウロは断言しています。
大事なのは新しい創造だ。かつれいはこの世の価値観ではない。大事なのは新しい創造だ。ニュークリエーション。それが大事だと言っています。
まず始まりがなければスタートしません。会社に入らなければ社員にならない。学校に入学しなければ学生にならない。学生生活スタートしない。始めがなければいけない。
じゃあ新しい創造の始めは何か。ある学者はこう言うんですね。難しいから読める人だけ読んでみようか。
新たな創造は私が世界に対してまた世界が私に対して十字架につけられることなしには始まらない。
新たな創造の始まりは十字架につけられることだって言うんですね。
一体それはどういうことか。この救いの始まり。新しい創造の始まりは救いの始まりなんですけど、それはイエス様の復活の前にイエス様の十字架の死があった。
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同じように私たちは新しい創造の前に死を体験しなければいけないということです。
そのことを学者は比喩的な死ですけどもこのように述べてるんですね。新しい創造が始まるために十字架につけられることなしには始まらないと言っています。
それはどういうことか。私たちクリスチャンが体験してきた通りですね。クリスチャンというのはイエス様を救い主として信じます。
私の罪のためにイエス様が十字架で死んでくださいました。償いをしてくださいました。イエス様ありがとうと言ってイエス様を信じてクリスチャン生活が始まります。
そして信じた証としてバブテスマ。洗礼を受けます。これはよその大きな教会の儀式ですけど、こうやって水の中につけるんですね。バシャーン。
これも2000年間教会に続いていることです。それ何を意味しているか。これはですね、バブテスマというのは洗礼という日本語で言うんですけど、イエス様と一つになるという儀式なんです。
何が象徴されているかというと、イエス様の死と一つになるということが象徴されています。
水に浸かるときに私たちはイエス様と一緒にお墓の中に埋葬されたということ、神の前で起こったことをこうやって象徴しているんです。
そしてこの後どうしますか。柱さんもバブテスマを受けましたけど、沈められたままでした?
水から起こさないと本当に僕逮捕されちゃいますからね。沈められた人はこうやって今度起こされます。
それはどういうことか。それは水の中から出るとはイエス様と一緒に墓の中で甦えたということを象徴しているんです。
つまりイエス様と一緒に十字架にあって罪に死にました。この世の価値観に死にました。
それだけじゃなくてイエス様と一緒に新しい想像を始めるべく救いに行きました。復活しましたというのがこのバブテスマ式の意味なんですね。
実は私たちはここで始まったんですけども、それで全てが終わった、完成したわけじゃないんですね。
実はまず水から上がったら生涯をかけて一生をかけてイエス様の復活の命に私たちは預かるんです。
だからすごいあっちゃいけないんですけど、万が一アクシデントで死んでしまったとしても私たちは死んでしまったとしても新しい命に生きるんですね。
そうやってイエス様とずっと生き続けます。
でもそれだけじゃなくてイエス様の使徒もずっと一緒のまま人生を送るんです。
お前は既に死んでいるという昔漫画があったんですけど、もっと言うとお前はまだ死んでいると言われるんです。
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どういうことか、物騒じゃないかと言うんですけど、それはどういうことかと言うと、実は私たちは人生で苦しみを体験しなきゃいけないと言うんです。
それはイエス様と一緒に死んでいることでもあるんだ。
何度もここでお話ししたように、実はイエス様を信じて罪を許されても私たちは罪と葛藤します。
自分の嫌な部分をずっと生涯見つめらなきゃいけなかったり、そういうものは私たちはこの世で生きている限りなくならないんですね。
肉体にある限り。だから自分の罪に悩んだり、罪の誘爆になったりして苦しむ。
実はそういう状態がイエス様と一緒に死んでいるということ。
そしてイエス様と共に死んでいるというのは、時に罪を犯してしまうことがあっても、イエス様と共に死んでいる人は、その罪の罰を死んで償ったとされているから、その罪の罰を負わなくても大丈夫だということです。
それ犯罪じゃなくてですね、神の前でその罪を償う必要はないという、そういう意味で死んで償いが終わっているということなんですね。
こういう状態はですね、難しい言葉で言うと前に出てます。救いの緊張関係って言うんです。
それどういうことかというと、もうとまだの緊張関係を生きるということなんですね。
どういうことか、つまりですね、もう救いが始まっていますが、まだ完成していないということなんです。
イエス様と共に十字架に死んで復活しました。もう新しい創造が始まっていますが、まだ完成していない。
いつもこれ言ってますよね、私がね。完成するのは、私たちが簡単に言うと、この世の生涯を終えた後、イエス様と再会した時に、罪がない、病気もない、悩みがない体に完成する。
それはこの史上の生涯では完成しないので、もう新しい創造が始まっているが、まだ完成していない。これがもうとまだの緊張関係を生きる。
罪に悩む。それはイエス様と共に死ぬ、死んでいるということでもあるわけですね。これが現実です。
このことが分かると、私たちは宗教カルトに騙されません。今話題になっている宗教カルト、例えばですね、あなたが自分の罪に悩むのは、あなたの前世の人が悪いことをしたから、あなたは罪に悩み続けるんですよ、と言ったり。
あるいは、あなたの先祖が悪いことをしたから、そのたたりであなたは罪をやめられないんですよ、そういうことを言って落とします。
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だから、これだけ献金すれば、こういう壺を買えば、こういう印鑑を買えば、これだけお金を払えば、あなたは先祖の罪から自由になるし、あなたは前世の罪から自由になるから、お金払いなさいと言って、騙されていって、
1億も10億も払う人が出てくるわけです。何でか、それは今言ったように、私たちは生涯ですね、自分の罪に悩まなくなることはないんです。悩まなくなることはないから、脅されるたびにお金を払ってしまうわけです。
でも、イエス様の救いは違います。そう、私は罪に悩むけども、この悩みのためにイエス様が十字架で全部罪の償いをしてくれました。だから私は罪に定められません。
この悩みの中を生きていきますし、不完全でありますが、私の中にイエス様の復活の力や、精霊の力が働いているから、その精霊の力に頼って新しい創造を生きるんです。何度も再スタートできる。それが救いなんですね。
だから何回も言いますが、そういう罪を許されるためにお金を払いなさいとか、伝道しなさいとか、教会に使いなさいということを言ったら危ないですから、誰か私に相談してくれれば、そんなものは嘘だと言ってあげますから、いつでも相談してください。それは余談でした。
とにかく私たちは救いについて、こう考えるのが現実的なんです。新しい創造はもう始まったが、まだ完成していない。イエス様と共に十字架で死んだが、今もその十字架を背負っている。
罪や人生の悩みを追っているんだ。しかし復活の新しい命、精霊様によっても生かされている。そこに希望があるんだ。これが現実的なクリスチャンの考え方ですね。
最後にですね、パウロはこの同じことを別のローマ人の手紙の中で言っているので、それを読んで終わりにしましょう。私読みますね。私たちはキリストの死に預かるバブテスマによって、キリストと共に葬られたのです。最後は難しいです。読んでみましょう。
それはキリストが御父の栄光によって死者の中から蘇られたように、私たちも命にあって新しい歩みをするためです。ローマ6章4節。お祈りしましょう。
イエス様、あなたの十字架によって私たちは神の前での罪の償いを終えたものとされました。しかし私たちはまだ罪がある存在として生涯かけてその罪の苦しみを担うことがあります。
でも、イエス様の十字架の上にその許しがいつも与えられていることを感謝します。そして、この罪の苦しみを体験しながら、聖霊によって新しい命に歩み続けることができますからありがとうございます。
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どうか、もうとまだこの救いの緊張関係の中、イエス様の十字架と聖霊の新しい命に頼りながらこの世を歩んでいくことができるようにどうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
それでは一分だけそれぞれ黙祷して聖書の言葉神様に応えて祈りましょう。
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