00:01
改めて皆さん、おはようございます。
だいぶ暑くなってきていますが、このように守られて共に礼拝できること、本当に感謝いたします。
今年は梅雨が遅れるようですけれども、このように空欄もあって、椅子もあって、街道もあって、礼拝できること、本当に神様に感謝いたします。
では、周りの方に挨拶をしましょうか。
ありがとうございます。
ありがとうございます。一言お祈りいたします。
イエスは答えて言われた、神を信じなさい。誠にあなた方に告げます。
誰でも、この山に向かって動いて、海に入れと言って、心の中で疑わず、ただ自分の言った通りになると信じるなら、その通りになります。
神様を信じる、この信仰の恵み、また神様に許されて導かれて、この群れに入れていただいて、
共に愛し合いながら、助け合いながら、共にこの郷土の礼拝ができること、本当に感謝いたします。
主よ、周りを見れば、数えれば、感謝しなければならないことが山ほどあります。
主よ、神様に感謝し、また家族に感謝し、教会に感謝し、巨大爪たちに感謝する、そういう感謝にあふれる、我々の日々の生活でありますように。
そして何より、この魂が救われて、神のことされ、また永遠の命が与えられていることを、一番感謝できる我々だとしてください。
主よ、今日も一人ひとりに、神様ご自身が、子供にも大人にも、ストーカー、あなたのその一言のゆえに、その人生が変えられる恵みが、今日この朝、起きますように。
御言葉の中で御言葉を聞いているうちに、病が癒され、心が癒され、体が癒され、問題が治される、その恵みが起きますように。
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どうか、全知全能の神様を信じる信者として、信仰に従って、今日、礼拝できますように。
そして、喧騒をもって、主の言葉を聞きできますように、主を導いてください。
神様の皆によってお祈り致します。アーメン。
今日の言葉の法則です。三つは全部つながっていることなんですけれども、子供たちもちゃんと聞いてくださいね。
以前読んだある牧師のお若しです。この牧師はですね、高校三年生の時に受験を前に行っていたところ、肺の血格が発病して、本当に死との戦いが続いているような日々だったそうです。
もう咳があまりにもひどくて、また眠れない日々が続いていたり、学校にも行けない日がとても多かったそうです。
また治療のためには仕方がなく、当然とても強い薬を飲まなければならなかったそうです。
でも幸いに彼は、かつおこと逃げっさも信じていたんですね。
当業中に彼は、もう善のなる神様、癒しのある神様を信じて、日々こういうふうに宣言するように言っていたそうです。
神様が僕の病気をもう癒してくださる、僕は癒される、病気は治る、僕は元気になるというふうに毎日数回繰り返して信仰によって宣言していきました。
それは単なる無謀なことではないんですよね。聖徒の御言葉通りに宣言しただけでした。
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彼は高校三年生なのに、あの結核の当局の中で一つ決めたことがありました。
それはもう聖書をたくさん読むことでした。何をするにしても聖書を読もう、聖書を開いて読みましょう、みたいにね。
その聖書を読んでいるうちに、その御言葉に出会い、そして、「そうだ、俺もこの御言葉通りに話せばいいんだ、宣言すればいいんだ。」と思ったそうです。
その時に彼が出会った聖書が、マタイノムクンショ八書八説でした。
しかし百人大長は答えて言った、「主よ、あなたは私の屋根の下にお入れする資格は私にはありません。」その次の言葉でした。
「ただ御言葉をください。そうすれば私のひもべは治ります。」この言葉にすごい光がそこで放っているように、「そうだ、御言葉をください。そうすれば私のひもべは治ります。」
そして、この徳氏は、まだ徳氏になっていないね、高校三年生ですから、彼はもう信じることにしました。そして言葉で宣言し続けていきました。
そういうふうに毎日何回も何回も、「神様私を癒してくださる。私の病気は治る。」と投票しながら、でも無理をしてでもできる限り聖書を開いて、神の言葉を読み続けていきました。
咳がひどくて喉から血が出てきても、できる限り聖書を読んでいきました。
特に福祉編が大好きだったそうです。たくさんの福祉編を読みました。学校にも行けなかったので、ずっと聖書ばかり読んでいたそうです。
ところが、彼は信仰を持っていたクリスタルでしたけれども、毎日ずっと読んでいた福祉編の中から、そこで二度目とは言うと、後編がありますからとありますけれども、
もう改めて神様にお会いして、「本当だ、私の神様、生きておられるんだ。」と信仰をしっかりと学んで、
そしてこの信仰による言葉、そしてその宣言の大事さを学ぶようになったそうです。
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ところが、そういうふうに闘病が続いている中で、またその信仰による言葉を宣言している中で不思議なことが起こりました。
もちろん薬も飲んではいましたけれども、なかなか治らなかった。
ところが、そういうふうに御言葉によって、「神様、私は生きてくださるんだ。」と信じて宣言して、祈って聖書を読み続けていたある日から、咳が不思議にもだいぶ減ってきていました。
よく夜眠れるようになりました。
薬も減らしました。
そして薬も止めました。咳も止めました。
そして係の病院に行って検査したところ、その血格は癒されて、肺にあったあの血格はきれいに癒されたそうです。
その後大人になって牧師になったこの牧師は、こういう本を書きました。
考えと言葉をデザインすれば人生が101%変わる。
興味深いですね。
その本人の証のような体験談から書かれた本です。
皆さん、信仰による言葉がとても大事です。
信じている言葉を信仰によって話をする、宣言をする大事さを、この牧師先生は高校3年生の時に改めて教えられたそうです。
皆さん、神様は私たち人間を作ってくださって、我々人間にたくさんの素晴らしい魂物や能力をくださったんですけれども、
その中の本当に素晴らしいことは言葉、この言語なんです。
私たちがお展示する神様は言葉の神様、言葉の神様といっても間違いではないんじゃないでしょうか。
神様は言葉でこの天地万物を、宇宙万物をお作りになりました。
そして、皆さんよくご存知のヨハネイの勲章を見ると、イエス様はかつて言葉だと言っていますね。
ヨハネイの勲章1章1節、初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は誰でしたか。神であったと。
神様がアダムに言葉の能力を与えて、言葉の力をくださったから、童貞の2章を見ると、アダムが獣、獣や空の鳥の名前をつけるんですね。
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名前をつくるんですよ。鶏、鷲、豚みたいにね。名前をつけた。
そして、それがその動物の、獣や鳥の名前になったわけなんです。その通りになりました。
ここにね、言葉にも法則があるということなんです。未来をつくる言葉の法則がある。
それは信仰から始まるということです。言葉の法則は信仰から始まります。
今日のお話の中で、これが一番大事なことです。言葉の法則は信仰から始まります。
今日の聖書、22説をまず一緒に読みたいと思います。22説だけ一緒に読みますね。
イエスは答えて言われた。神を信じなさい。
言葉の話をする前にイエス様は、まず何の話をされたのか。神を信じなさい。
信仰が最初で、まず信仰があって、その信仰による、信仰によって生まれる言葉が出てくるということなんです。
信仰なしにただ無謀のね、できるできるじゃなくってね、信仰、神を信じなさい。信仰が先です。信仰が元なんですよね。
皆さん、先々週、先々週、今日の三つはもう全部つながって一つのメッセージですけれども、
私たちの信仰と考えと言葉はいつも同時に動いており、互いに切り離せないものなんです。
なぜなら、人は信じている通りに考えるし、また考えている通りに話すからです。
言葉はですね、その人の信仰と考えを表します。言葉はその人の信念と考えを反映します。一般的に言うならば。
何を書くのか、何を言うのかよく聞いたらですね、その人は、この人はこういう信念を持っているんだ、こういう考え方を持っているんだ、分かってくるんですよね。
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ちょっと一般的に話をしてみましょう。新聞ね、私そんなに読まないものですけれども、新聞に論説が書かれているんです。
でも、日本に海外に同じ出来事が起きても、例えばですよ、産経新聞と浅井新聞の論説の雰囲気は全く違いますね。
同じ事が起きたのに、不思議にも書き出したその文は全然違いません。なぜでしょうか。書いた人の頭や心の中にある信念と考えが違って、それが文に現れるということなんです。
信仰を持っている私たちはどうでしょうか。私たちは神様が言葉で宇宙万物を作りになった神様を信じています。信仰を持つこと、神様を信じるということは、私たちの心も考えも言葉も人生も人格も性格も行いも全て神様に支配していただくということなんです。
そして、イエス様の心やイエス様の考え、イエス様の言葉のように変えられていくことなんです。これが信仰生活なんです。イエス様のように神のように変えられるということなんです。
言葉の大事さを一般的にもいろいろ言われていますけれども、研究によれば、他の人たちと一緒に私たちが笑うときに、幸福感をもたらす脳内物質のエンドルフィンが放出されるということです。
そして、ナチュラルキラーという細胞を活性化させるということなんです。また、逆の場合もありますね。
人が悪い言葉を話すときに、あるいは悪い感情を持つときには、一瞬に血液の1ccの中に17人くらいの命を落とすことのできる毒素が放出されるみたいな。
クリーさんとして、私たちは神様が話すように、イエス様が話すように物を言う、話すものでありたい。
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そして、私たちは普段わかります。家族の中でも、教会の中でもあるよね。街や会社や学校のいろいろ話し合っていると、特にクリーさんとして、クリーさん同士で見るならば、その人の言葉を聞いてみたら、その人の信仰や考えの要旨がだいたいわかってきますね。
どんな信仰の人なのか、普段どんなことを考えているのかが、その人の話を聞いたら、言葉を聞いたらわかってくる。
政府には、その言葉の、信仰による言葉の大事さがどれだけ大事なのか、その人の未来を決めるという、いい例がたくさん出てきます。
旧約政府のヨシワキあるいはミンスキのところですが、皆さん、ヨシワとカレブ、ご存知ですよね。ヨシワとカレブ。
もう今日は過ぎました。そして、ヨルダン川を東から西の方に渡って、カナーに住んでいる原住民との、いわゆる政府戦争が続くわけです。
だいたい占領できたわけなんです。ところが、アナク子孫が住んでいる産地のあそこだけはまだ残っていました。巨人が住んでいる産地でした。
そこも、なんとか攻めなくてはならない時なんです。あの産地を攻めることは容易ではありません。しかも、そこには、巨人が住んでいるだけなんです。
その時でした。ここから、カレブさんの言葉を注目しながら読んでいきたいと思いますけれども、
ぜひ、今日、面白いのかと、説明をいただきましょうか。大事ですからね。説明を開きたいと思います。
子どもたちも一緒に説明を開きましょう。中学生、また、5年生、説明を開きましょうね。
吉脇十四章、八節からですよ。吉脇十四章、八節から、九二節までですけれども、私の成果では393ページです。
八節から、しばらくご覧になって私を見ますね。八節、私と一緒に昇って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神主に従いとおしました。
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そこで、その日、孟子は誓って、あなたの民が踏み行く地は、必ず永久にあなたとあなたの子孫の相続地となるあなたが私の神主に従いとおったからであると言いました。
吉脇十四章、今、九節を読んでおります。393ページです。
さあ、ご覧くださいね。カレブさんは、あの時、孟子が言った言葉を覚えて信じていました。十節、十四章の十節です。いいですか、十節。
今、ご覧の通り、主がこの言葉を孟子に告げられた時から、この方、イスラエルがアラノを歩いた四十五年間、主は約束された通りに、つまり主のお言葉通りに、私を生きながらえさせて下さいました。
カレブさんは信じていました。孟子の言葉通りになった。神の言葉通りになったことを、カレブさんは体験しました。目で見ました。信じました。
だから、続いて、今や私は今日でも八十五歳になりました。十一節、しかも孟子が私を使わせた日のように、今も蒼天です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。
十二節、一緒に見ましょうか。一緒に。
はい、どうですか、皆さん。このカレブさんがね、カレブは、あの孟子が亡くなる前に言った言葉通りに、今のそれが現実になっていることを、カレブは見ています。目撃していて、経験しています。
そして、孟子の言葉だけではなく、神様の約束のお言葉通りになっていることも、彼はもうリアルでそれを見ているわけです。
そしてカレブは、その言葉の力を信じていた。そして、八十五歳のおじいちゃんなんだけれども、でも、もう蒼天で、戦争にも、全力で何の不自由も耐えられる。
24:12
それ、何と言いましたか。どうか今、主があの日に約束された、この産地を私に与えてくださいと、八十五歳のおじいちゃんが。
最後の残っている、あの産地の巨人の穴口陣が、また城壁もある大きな町々を、私にくださいと言いました。宣言をしました。
皆さん、これは、こんなてたらめな無謀なことは言わなくていいでしょう、と思いません。
いや、わざわざ言って、もしできなかったら端をかくんじゃない、と思ってはいませんか。
いや、もう言わなくても、後からできたらそれでいいんじゃないの、とは思っていませんか。
カレーブさんは、あの孟子の言葉、神の言葉どおりに宣言して、それを言うときに、信仰によって言うときのそれがどういうふうになるのか、見てきたわけなんです、四十五年間。
そして、この結果はどうなったんでしょうか。これはただ、空を打つ虚しい言葉だったんでしょうか。決してそうではありません。
その後、十三、十四、十五節をご覧ください。私は読みますね。
十三、それでヨシアは、エフネノコカレーブを四国し、彼にヘブロンを相続地として与えた。
この産地がヘブロンなんです。それでヘブロンは、ケナグジンエフネノコカレーブの相続地となった。
今日もそうである。それは、彼がイスラエルの神主に従い通したからである。
これは、まあね、省略していますが、やがて、いよいよカレーブは、自分の部族の人を連れて行って、あの産地を責めて、自分の相続としてできたわけです。
この産地を私に与えてくださいと宣言したカレーブの言葉、信仰による言葉通りに、その地は、彼の子孫の相続地となりました。
信仰の通りにあり、信じた通りにあります。
ただの信念ではありません。
なぜなら、神には力があり、信仰には力がある。
みなさん、信者クリーちゃんとは何でしょうか。
カレーブの話から引き出してみますと、年齢を超えて、玄関を超えて、国を超えて生きる人がクリーちゃんなんです。
27:01
年齢に縛られない、国に縛られない生き方をするんです。
なぜでしょうか。私たちの国籍は、天にあるからなんです。
天国によって生きるというのは、国を超えて、人種を超えて、天国で今、家様と一緒に生きているように、
神様と一緒に生きているように、今この地で生きる、話す、宣言する、行う人が本当のクリーちゃんなんです。
なぜなら、天国には人種も国家もイデオロギも思想も何もないからです。
もう一度繰り返して申し上げましょう。
信仰は考えを生み出し、考えは言葉を生み出します。
信仰は考えを支配し、考えは言葉を支配します。
すべては、だから信仰から始まるんです。
素晴らしい信仰を持っていれば、その考えも素晴らしい信仰に似てきます。
そしてその考えから生み出された言葉も素晴らしい信仰に似てくるんです。
では皆さん、このようにしたら私たちは、信仰による考え、それから信仰による言葉、
ハレブのような言葉、イエス様のような言葉を話すクリーちゃんになれるのでしょうか。
答えは実はとてもシンプルで簡単です。
神の言葉を自分のものにしてください。
そのため、最初にお分かりしたように、神の言葉を、聖書をたくさんたくさんお読みください。
そしてその言葉を用いてください。使ってください。
ハレブのように、あの百人解書のように、あの証をしたあの牧師のように、神の言葉を宣言してください。信じて。
皆さん、神様を信じますか。神様の力を信じますか。その方の言葉の力を信じますか。
信じるならば信じて従っていきましょう。宣言していきましょう。それを用いていきましょう。
なぜでしょうか。神の言葉は生きているからです。生きていますよ。
テーブルの中に御言葉がありますよね。神の言葉は力があって、関節と骨髄を差し通すほどの力があるんです。
聖書の御言葉に書かれているならば、それが本当なのかどうか、皆さん試してみてください。
神の言葉を宣言して、本当にそれが生きている生き物なのかなのか。信じて。
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私たちが神の聖書、神の言葉をたくさん読んで、たくさん使うべき理由を6つお話ししましょう。
簡単に言いますが、1、神様の言葉は天地を作られた御言葉だからです。
2、神様の言葉は生きていて力があるからです。
ヘブル4の12節、神の言葉は生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも差し通し、
その次ですよ、心のいろいろな考えや諮り事を判別することができるからです。
3、神の言葉は人を医薬からです。
マサイの9日を8日を8節、しかし百人大教が答えて言った、
主よ、あなたは私の目の下にお入れする資格は私にはありません。ただ御言葉をください。そうすれば私のひもべは治ります。
百人大教は信じました。イエス様があの離れるところで、ただ御言葉さえすればその言葉、イエス様の言葉だから、それが力あると信じていました。
4番目、神の言葉は悪霊を追い出すからです。
同じその次の言葉ですが、マタイ8と16節、夕方になると人々は悪霊につかれた者を大勢身元に連れてきた。
そこでイエスは御言葉を持って、霊露も追い出し、また病気の人々をみな癒やされた。
5番目、神の言葉は私たちを導くからです。
神言の6章22節、これはあなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目覚めるとき、あなたに話しかける。
ここで、これは神の命令、神の掟なんです。
最後の6番目、神の言葉が万物を保っているからです。
ヘブル1挙3節、その力ある言葉によって万物を保っておられとあります。
皆さん、神の言葉は宇宙万物を作られたから、
神の言葉は生きていて力があるから、神の言葉は人を癒やすから、神の言葉は悪霊を追い出すから、
神の言葉は私たちを導くから、神の言葉が万物を保っているから、私たちはこの言葉をいただき、読み、食べて、それを用いさせていただいて、またその言葉通りに信じて宣言していくものであり。
33:11
それを読んでいても、メッセージを聞いていても、
日頃の生活と神の言葉の力とあまり関係がない日々を送っているならば、それは問題なんです。
神の言葉に支配を受けていないということなんです。
素晴らしい信仰を送れた多くの信仰の先人たちは、神の御言葉の力を信じました。
信仰が考えを支配し、考えが言葉を支配しました。
ですから、私たちの信仰を確かなものにする神の言葉をたくさんいつも聞いていてください。
聖書の御言葉を読んで、また読んで、また読んで、たくさん読んでください。
神に祝福される人生の法則を実は、その答えは、実はとても簡単です。
四字垣一書八節一律のことを開いてみましょうか。
聖書を開きましょう、子供たちもね。
369ページですね。四字垣一書八節。
一緒に読みたいと思います。
この立法の書をあなたの口から放さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。
そのうちに記されているすべてのことを守り行うためである。
そうすればあなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
繁栄したいですか?栄える人生を送りたいですか?
どうしたらいいんですか?
神の言葉を口から放さず、昼も夜もテレビを見るんじゃなくて、
昼も夜も雑誌を読むんじゃなくて、
昼も夜も無駄話をするんじゃなくて、
昼も夜もそれを神の言葉を口ずさむこと。
そしてそれを守り行うことです。
それが我々の人生が神に祝福される唯一の道なんです。
36:03
否決他にはありません。
ですから皆さん、言葉である言葉であるイエス・キリストを心に留めて、
信仰で心を満たしてください。
キリストで心を満たしてください。
皆さん、信仰も罪も結局心の中に何を満たしているかの問題なんですよね。
新元の18章21節にこういう言葉があります。
死と生はこの舌ですね、口の中の舌に支配される。
どちらかを愛して死とはその実を食べるとあります。
言葉の実を自分で言って自分で食べるということなんです。
私の話ではありません。聖書の話です。
私たちが話す言葉が私たちの未来を決めます。
未来が人生が祝福が私たちの言葉によって決定付けられます。
聖書が教えるとても大事な法則なんです。
アラノでのイスラエの話でもう少し話をしましょう。
皆さんご存知でしょうね。
イスラエの人々はアラノの40年間、確かにそこは食べ物もないし大変なところなんですよ。
岩と砂だらけのところなんです。
彼らはそこで言ってはいけない言葉をあまりにも口にしてしまいました。
それは不信仰の言葉であって怒りの言葉であって呟きの言葉でした。
その根底には不信仰があるからです。
こういう言葉をよく言いましたね、イスラエの人々は。
エジプトの地で肉鍋のそばに座り、パンを満たせるまで食べていた時に、私たちは死の手にかかって死んでいたらよかったのに。
あの時にもあのエジプトで死んでいたらよかったのに。
事実はあなた方はモーセンに入っていたんですよね。
私たちはこのアラノに連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているんです。
モーセンはそんなことをしたことはないんです。
でも飢え死にさせようとしているんですね。
またこんな言葉も言っていました。
私たちの兄弟たちが死の前で死んだ時、私たちも死んでいたのなら、死んでいたらよかったのに。
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死んだ方がマシだ。
あの時に死んだらよかったのに。
それを40年も続いて言って言って言って言っていたわけなんです。
神言の言葉。
どちらかを愛して人はその実を食べる。
彼らは自分たちが言ったあの言葉の実をその通りに食べて、
あのアラノでみんな。
それに対して神様はこう言われました。
あなたは彼らに言え。
神様はモーセンに言いました。
これは種の見つけである。
私は生きている。
はい、神様はみなさん生きておられるから、
私たちが信仰による言葉を話すかどうか、
全部生きておられる神様は聞いておられる。
神様の耳に全部入るということなんです。
そして神様はこう言いました。
私は必ずあなた方に、私の耳に告げたその通りをしよう。
死んでいたらよかったのに、その通りをしよう。
みな、しかしヨッツァとカレブはそこに賛同していなかった。
いや、違います。
覚えていてください。神様は生きておられます。
私は口にする言葉の実を毎日食べています。
それが我々の人生になって、顔になって、人格になっています。
信仰による言葉を口にしてください。
神は信じておられる。生きておられるから。
我々が口にした言葉が、我々の未来を決定しているということです。
みなさん、ですから神の言葉を宣言してください。
信仰によって宣言してください。
山に向かって海に移れと言ってみてください。
信仰によって話した言葉が、その後どうなるか、
本当に神様が生きておられて、
私だけのために、信じるもののために、
どんなふうにしてくださるかを試してみてください。
メッセージを終わりたいと思います。
神の人は神の言葉を話します。
御霊の人は御霊の言葉を話します。
イエスの人はイエスの言葉を話します。
みなさん、どうですか?
神の言葉、御霊の言葉、イエスの言葉を話していますか?
それとも、世の言葉を口にしていますか?
もしも、私だけのこの口から、
世の言葉、罪の言葉、神様に喜ばれない言葉、
42:02
神様に受け入れられない言葉を話したことがあるなら、
今、ここで食い温めます。
私の心を、この口を、
言葉をよくしてくださいと、食い温めてください。
それは考える問題であって、
結局、信仰の問題だからです。
神の人は、神の言葉を話します。
お祈りします。