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2019-06-09 39:01

2019/06/09:神に祝福された人生の法則21(1)信仰の法則

 2019/06/09 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヘブル人への手紙 11:1-6

00:01
皆さん、おはようございます。
ありがとうございます。一言お祈りいたします。
信仰は、望んでいる事柄を保障し、目に見えないものを確信させるものです。
神様の法則には、何より信仰が必要です。
信仰によって生き、信仰によって歩み、信仰によって礼拝し、信仰によって家庭生活を、社会生活をする、信仰によって天に行く、そういうものになりたいです。
ですよ、この朝、神様が私たち一人一人に励まして、また悟らせてくださって、ますます私たちの信仰が引き上げられ、強められますように、
どうか私たち一人一人、良しを憐んでくださいますように、お願いをいたします。
感謝して、神様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
ありがとうございます。
ヨハネの福音書の後悔説教が終わりまして、ちょうどその間、フィリピンに行ったりして、
今日から新しいこのシリーズメッセージをさせていきたいと思います。
いろいろテーマを挙げて祈っていく中で、これにたどり着いて決めさせていただきましたけれども、
大きなタイトルは、神に祝福される人生の法則21。
ですから、今日から21回のシリーズメッセージになると思います。
というのは、私たちが信仰生活をしていく中で、神を信じることと、また私たちの実生活、非生活が当然結びついて、
03:02
信仰によって恵まれる、信仰によって祝福される信者であるべきですね。
教会の中でだけではなく、家庭においても、社会においても、そのために私たちに何が必要なんだろうか。
礼拝の時間とその他の時間が分離している生活ではなく、それが一つとなって、
神を信じる者として、神様は私たちに祝福を与えたい、与えようとしておられる。
恵みの行為を与えようとしておられる神様であられますから、
今日から法則という名を付けましたけれども、
今日はその中で第一回目として、信仰の法則ということから見ていきたいと思います。
皆さんは聖者の人物の中で誰が好きですか?
アブラームですか?モーセ?ヨシスワ?ヒットパウダー?たくさんいますけどね。
多くの人物が聖者の中に登場しています。
その多くの人物のストーリーを読んでみると、ある人はとても祝福され、
またとても道徳大いに用いられたりします。
ところがよくですね、聖書書き読んだり観察して、あるいは選挙してみたら、
そこには必ず何かの彼らの共通点があると思うんですね。
あるいはそうでない、祝福されない、その人との違いがあったりしますね。
何が違うんだろうか。
今日はどんな人が神様に祝福されたのか、どんな人が神様に用いられたのかを言い聞きながら、
そこには信仰が第一であるということです。
そして私として、説教者としてのお願いとしては、他のメッセージでもそうですけれども、
このシリーズメッセージを皆さんがお聞きになりながら、こういう願いを持って一緒に歩んでいきたいんですね。
主よ、私にはあなたの祝福が必要です。
06:02
あなたの祝福が受けたいです。
用いられたいです。
主よ、導いてください。
こういった願いを持って、共にメッセージを、神の声を聞きたいと思います。
第一の法則は信仰の法則です。
まずイエス様が言われた言葉の中には、信仰についての言葉がたくさんありますね。
文書だけね、読んでみてもたくさん書かれています。
マルコの9の23を見ると、すぐとイエスは言われた。
できるものならと言うのか、信じるものにはどんなことでもできるのです。
またマサイ21の21、イエスは答えて言われた。
誠にあなた方に伝えます。
誠にあなた方が信仰を持ち、疑うことがなければ、
一軸の木になされたようなことができるだけでなく、
たとえこの山に向かって動いて海に入れと言っても、その通りになります。
マルコ11の23、誠にあなた方に告げます。
誰でもこの山に向かって動いて海に入れと言って、心の中で疑わず、
ただ自分の言った通りになると信じるなら、その通りになります。
またマサイの9の15の28、その時イエスは彼女に答えて言われた。
ああ、あなたの信仰は立派です。
その願い通りになるようにすると、彼女の娘はその時から治った。
またヨハネ14の12、誠にあなた方に告げます。
私を信じる者は、私の行う業を行い、またそれよりもさらに大きな業を行います。
私が父のもとに行くからです。
あらゆるところでイエス様は、私たちに必要なのは信仰なんですよ。
信仰を持ってさえいれば、その信仰通りに私が答えてあげるよ、という御言葉ですね。
だから皆さん、イエス様が私たちに求めておられるのは、他でもなく信仰なのではないでしょう。
イエス様の御言葉からわかることがあります。
それは、神の子供にとって信仰というものは命なんです。
09:08
すべてが信仰によって与えられたものなんです。
私たちが救われたのは何のためなんですか。信仰のためなんです。
私たちが神の子供とされたのも信仰のため。
永遠の命を得ているのも信仰のゆえです。
生きていくために最も大切なものはお金ではないんです。
健康でもないんです。信仰なんです。
ですから、信仰を持っていればすべてを持っているのと同じであり、信仰を失っていればすべてを失っているのと同じ。
だから、ローマ表1章17、ガラティア3の11、ヘブル10の38節に、義人は信仰によって生きるとある。
義人は何によってですか。信仰によって生きるんです。
これを忘れてはいけない。
私たちは普段ですね、家庭のことや子供のこと、お孫さんのこと、夫婦のこと、お金のことや健康のことやこの世界のいろんな問題や事件やさまざまなことが、ニュースがいろんなことが飛び込んできている中で、
義人は信仰によって生きるんだ。これを忘れないでください。
どんなことが起きても、どんなことが自分に押し寄せてきても、私は信仰によって生きるものなんだ。
これを覚えたいですね。
それでは今日の11章の1節をですね、1節と2節、もう一度一緒に読みましょうかね。
ヘブル11の1と2節。
一緒に読みますね。せーの。
信仰は望むことから始まる。
ありがとうございます。
信仰の法則第一、信仰は望むこと。
信仰は望むことから始まると言っても間違いではないと思います。
12:01
皆さん、信仰には具体的な対象があるわけないんです。
私は誰を信じますか。
善のなる神様を信じますね。対象があるわけないんです。
そこには具体的な内容があり、具体的な行動があるわけないんです。
信仰の法則を理解するとき、一番大事なことは、信仰の対象を理解することです。
それは神様です。
信仰は神様を信じることから始まり、神様を望むことから信仰は進むのです。成長するのです。
だから今日の6節、6節も一緒にもう一度読みましょう。
6節。
信仰によっては神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを信じなければならないのです。
神に喜ばれたい、神を喜ばせたい気持ちがあったとしても、
もし信仰がなくては、それができない。
そして皆さん、今日もこのように神に近づいてきました。
このとき、私たちに何が必要なんでしょうか。何が求められるでしょうか。
神がおられること、そして神を求める者にはどうしてくださるんですか。
神が報いてくださる方であることを信じて近づくのです。
皆さん、今日も礼拝に来られました。神様に祈ります。
祈るときに、私の祈りが神に聞き入れられて、神様が報いてくださる方なんだということを信じて祈り、礼拝します。
何度かの礼、じゃなくてね。所詮難しいだろう、じゃなくてね。
求める者には報いてくださる方が私の神である。その信仰があるかどうかの問題なんですね。
神様がおられることを信じることが信仰です。
神様を求める者には報いてくださることを信じることが信仰なんです。
私たちが信じる神様は、小さな小さな神様ではないんです。
15:07
全能の神様であって、全知の神様である。
ですから、神様に支配されるときはどんなときなんでしょうか。
その神を信じて、目を開けて、神を見上げて、神を望むこと。
人生には大きさがそれぞれ違うと思います。
その大きさが何よって決まるかと言いますと、
それは自分が何者であるかによってではなく、
私たちと共に働かれる神様によって決められるわけです。
ですから、私たちは弱くても小さくてもある意味で構わないんです。
お金がなくても病気であっても、実は構わない。
ですから、神様は全知全能の神様である。
ですから、皆さん、私たちに持つべき知識は、神を知る知識。
皆さんが信じている、皆さんが知っている、皆さんが経験した神様はどんなお方なんでしょう。
たまにいいことをしてくださる神様ですか。そうではないでしょう。
できることも多いんだけれども、できないこともある神様ですか。
そう思っているならば、あなたの神様はその通りなんですね。
私が考えている神様、私が経験している神様、
私が制限付けている神様が、あなたの私の神様。
同じ神様を信じていても、ある意味でそれぞれ違った神様のイメージを持って信じているのかもしれない。
だから、神を正しく知る知識が本当に大事なんです。
その知る知識によって、私たちの夢や思考や言葉、行動、未来が決定付けられるのです。
だから皆さん、私たちが経験した神様の大きさによって、私たちの未来が決定付けられるのです。
聖像の中に、ダビデは偉大な神様を経験しました。
18:04
そして彼は、第一歴第二十九章十一から十二節に、このように神様を描いて飾って賛美しています。
第一歴第二十九章十一
主よ、偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。
天にあるもの、地にあるものは皆そうです。
主よ、王国もあなたのものです。
あなたはすべてのものの上に頭としてあがむべき方です。
富みも誉れは見前から出ます。
あなたはすべてのものの支配者であられ、
御典には勢いと力があり、あなたの御典によってすべてが偉大にされ、力付けられるのです。
アーメン
素晴らしいと思いませんでしょうか。
こんな賛美が、こんな信仰の告白が、こんな祈りが、私たちの口から出ておくのです。
そう思いませんでしょうか、皆さん。
偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。
天にあるものも地にあるものもすべてあなたのものです。
王国もあなたはすべてのものの上におられます。
富みも誉れも見前から出ます。
私はそれを信じます。
それを宣言し、それを祈り、その神様を信じるものであり。
皆さん、ある意味で神様には私たちがいなくても、神様には何の変わることもないのです。
しかし、神様のない人間は、私たちにもし神様がおられなかったならば、私たちは何者でもないのです。
そう思うでしょうか、皆さん。
ですから最も偉大な出会いは、その偉大な神様にお出会いすることです。
そして最も偉大な決断は、その偉大な神様を信じる決断です。
信仰の法則第二、信仰は見ることです。
信仰は見ることです。
信仰は願いや望んでいることを見ることです。
この見ることが大事なんです。
今日の一節にもね、信仰は望んでいること柄を保障し、その次の言葉ですよ。
21:06
目に見えないものを確信させる、何が信仰か。
まだ未来のことなんです。
目に見えないんですけれども、信仰を持っていたら信仰が私たちの内側にあって働いて確信させてくれるんです。
まだ未来のことなんだけれども。
まるで今自分の手で持っているかのように。
それが何の違いですか。
信仰の使徒は何を見るかによってその人の未来が決定しけられます。
夢がビジョンとともに、夢が信仰とともに働くときに、そこに素晴らしいことが起こり、神様に祝福される人生が起こるのです。
皆さん覚えていただきたいです。
何を見ているのかが大事です。
信仰は望んでいること柄を保障し、目に見えないものを確信させる。
皆さん、何を望んでいらっしゃるんでしょうか。
何か皆さん望んでいることが終わりでしょうか。
それを見てください。
内にある信仰を働かせてください。
目に見えないものですが、それを見てください。望んでください。
信仰によって見て、信仰によって望んでください。
こういう言葉があります。
疑いの人は人生の障害物を見るが、信仰の人は未知を見る。
疑いの人は暗い夜を見るが、信仰の人は明るい昼を見る。
疑いの人は誰が信じるかと言うが、信仰の人は私が信じる。
皆さん、人生の障害物を見ていますか。
未知を見ていますか。
暗闇を見ていますか。
明るい光を見ていますか。
私が信じると答えていますか。
誰が信じようかと疑います。
信仰の法則を第三。
信仰は宣言することです。宣言する。
この口に告白する。
皆さん、信仰によって生きるというのは、神の言葉の力によって生きることです。
24:05
この三節にも、
信仰によって私たちはこの世界が神の言葉で作られたことを悟りとありますね。
このように、神の言葉の力を信じて、その言葉の力によって生きること。
そして、望んでいることを主が報いてくださる。
求めるものに報いてくださるんだと、口にすることです。宣言をすることです。
皆さん、そういう経験がありますか。
主にまだ答えられていない。叶えられていない。
でも、祈って主を信じます。
主が与えてくださること、これをこういうふうにしてくださることを私は信じますと、
告白して宣言したことがありますか。
それですが、そのとおりにしてくださったことはありますか。
そういう証をたくさん持ってほしいです。
どうなるか。自信なくても宣言しても、後からできなかったら恥ずかしいからと言えないでください。
恥を恐れる。
それが実は私たちの信仰による宣言を妨げる一番大きな邪魔者が恥という思いなんですね。
フィリピンのお話をね、まだちょっとわかっておりますので、
今回訪ねたフィリピンの友人の先生と、そこにいたフィリピンの先生のお若しですけれどもね、
建中教会の中で、5年前は教会、街道がなかったんですね。
先生もいらっしゃって、神徒も何人かいたようですけれども、
まだ年もない、お金もない、街道もない。だからね、神徒の家で礼拝を守っていた。
それは決して悪いことではありませんが、でもその中でも、その先生も神徒さんも、
夢がない、ビジョンがない。主が祈って、主が奇跡を起こしてくださる、与えてくださる、
それが十分にできる神様なんだという、この夢というかビジョンがない。
それで、私の友人の専教師がですね、彼もね、性格的にはとても控えめで、声も小さくて、
消極的で、そういう人柄なんだけれども、牧師になってだいぶ変わっているんですね。
それで、彼が8年前にフィリピンに行ったわけですけれども、
27:05
そこでね、現地の先生方と本当に良い交わりをしている中で、街道もない、お金もない。
でも、そういう何とかさせていきたい心が神様によって与えられて、その先生とお話をしている中で、
先生、私の専教師が現地の牧師に言った話ですよ。
先生、どこかに街道を建てたいんですか。その場所はありませんか。
そしたらこの先生が、特にないですよ。お金もないですし、そう答えた。
そしたら、お金のことは心配しないで、ただ、街道を建てたければ、どこかの場所を見ておいてください。
ここに建てたらいいな、そういう場所はあるはずですよ。
そういうふうに言って、そして祈りますよ。神様が与えてくださるんですよ、とね。
そしたら、その現地の先生も、はい、わかりました。
彼の名前はシムですけれども、英語の名前でライアンと言いますけどね。
ライアン先生が言うならば、そういうふうにしましょう。
その牧師は当時は車もなかったから、バイクを持っていろんなところを通るたびに、
ここがいいな、あそこがいいな、そういうふうに見たわけなんです。
それで、今の街道が建てたところに、周りは何もない、ほつんといい土地があって。
それで、その先生の心の中には、ここがいいなと思って、その後、キム先生と一度そこに行ってみたんですね。
そしたら、キム先生も先生に祈りました。
神様がね、何でも言ってくださるんですよ。
祈り始めたんです。
それで、その選挙師も祈り、その現地の先生も、数人の信徒さんもね、祈り始めたんです。
その後、どんなことが起きたと思いますか。
数ヶ月が経ちました。
そして、不思議なことが起こりました。
その友人の選挙師の後輩の牧師が、若いんだけれども、教会の担任牧師に分任した。
そして、その教会とのまた関係のある、全然違う教会から、そういう選挙献金が、
積み立て金があるんだけれども、それがどこかの国に海土を建てるために献金をした。
30:05
で、違う教会が友人の選挙師の後輩の牧師と話し合って、
そしてその後輩が、私の友人の選挙師に、もしフィリピンにこういう建築ができるんでしょうか、という連絡が突然来たんですね。
お願いしたわけではないんですよ。
彼が、彼も私みたいにね、ちょっとあれだから、韓国のあらゆるところにメールをいっぱい送ってですね、
献金してください、献金してください、そうするタイプの人ではない。ただいまただ。
で、突然連絡が来て、そして実際にその後輩の牧師と、この関係の牧師が来て、
そしてここに建てたいんです、この先生です、この信藤さんです、いいじゃないですか、建てましょう。
それで献金が捧げられて、建物が建てられたんですよ。
晴れるや、皆さん、神様は生きておられるんです。
信仰による宣言、信仰による唇の告白を神様が聞いてください、応えてくださるんです。
それを信じることが信仰なんです。
もしそれは私が信じないならば、私には神はないと牧師の罪が書かれていますから。
神を求める者には報いてくださる方であることを信じなければならないんです。
皆さん信じますか?
まあ、たまにはそうしてくださるでしょう、と思ってはいないでしょう。
シリーズシーンではできるかもしれませんが、日本は無理ですよ、と思ってはいないでしょう。
あの人にはいいかもしれませんが、私にはもうとつごって無理ですよ、とは思っていないでしょう。
すいませんが、そういうふうに思っているならば、それが皆さんの信仰なんです。
私は信仰によって神に喜ばれる者になりたいです。
全能の神様がここにおられることと、神を求める者には報いてくださることを信じたい。
いや、信じなければならない。
皆さん、神様に願いを言ってください。
神様が望んでいる事柄を叶えてくださると宣言します。
主は叶えてくださいます。主は応えてくださいます。
そういった宣言をしていますか、皆さん。
先に叶えられないことを、もう心配して言っていないのではないでしょう。
33:13
義人は信仰によって生きるからです。
セブル十章三十八三十九節を見ると、私の義人は信仰によって生きる。
もし恐れ切り損なら、私の心は彼を喜ばない。
私たちは恐れ切り損いて滅びる者ではなく、信じて命を保つ者です。
信仰は恐れ切り損く者ではありません。
信仰は信じて命を保って前に進むのです。
それでは、信仰の法則に従って生きるために、二つのことをお話したいと思います。
まず、信仰の創始者であるイエス様から、目を離さないでいてください。
セブル十二章二節を、生徒お持ちの方は開いて一緒に読みたいと思います。
セブル十二の二節です。
一緒に、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。
イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、恥ずかしみをものとせずに、十字架を忍び、神の膝の右に作者されました。
アーメン。
皆さん、信仰の創始者です。
信仰は、イエス様が創始者なんです。
だから、イエス様が作ってくださるし、完成してくださる、その方から目を離してはいけない。
見続けて、望み続けていくことなんです。
皆さん、ですから、私が考えるべき方は、黙想するべき方は、イエス様なんです。
だから、普段皆さん、イエス様のことをよくよく黙想して、イエス様のことを考えて、イエス様と話し合って、イエス様のことをよくよく、たくさん考えて、黙想してください。
心配事や思い忘れや、自分を黙想するんじゃない。
イエス様から目を離さないでいてください。
もう、くっつけしてください。
これが信仰の基本ですね。
皆さん、1週間どれだけイエス様を黙想していますか。
どれだけイエス様を考えていますか。
どれだけイエス様と話し合っているんでしょうか。
36:02
イエス様をよくよく考えて、よくよく黙想して、これがね、信仰の基本中の基本なんですね。
信仰を成長させるためには、2番目としては、神の御言葉を、イエスの御言葉を、たくさん読んでください。
たくさん食べてください。
ローマ図10章17節、信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについての御言葉によるのです。
だから皆さん、聖書をたくさん読むなら、聖書をたくさん読んで、そこでそれを、この礼の糧を食べて食べていくときに、信仰が成長するんです。
これはもう当然なんです。
信徒の人は、神の人は、神の言葉を聞きます。
世の声じゃない、神の声を、神の言葉を聞きます。
経験より、相談より、社会活動よりもっと大事なのは、神の言葉なんです。
イエスの言葉なんです。
このイエスの言葉を毎日、たくさん食べてください。
皆さん、1日3食していらっしゃいますか?
お休みまで入れると、5回、4回食べていらっしゃいますか?
フルーツも食べておられますか?
それ以上、聖書を読んでください。
それ以上、聖書を食べてください。
分からなくても読んでください。
理解しようと努力するよりは、ただ読んで、ただ食べてください。
また、説教をたくさん聞いていてください。
私の説ではなくていいです。もっと素晴らしい説教はたくさんありますから。
神の言葉が、その言葉を聞く人の信仰を成長させるんです。
自分で自分の信仰を引き上げようとするのではなくて、
御言葉を食べて御言葉を聞くと、この御言葉が私たちの内側で働いて、
身を結ばせて、知恵を与えて、信仰を成長させてくれるんです。
神の御言葉です。
先生、終わりたいと思います。
神様に祝福される人生の法則、第一は信仰の法則です。
その一は、信仰は望むことです。
第二、信仰は見ることです。
三、信仰は宣言することです。
その信仰を成長させるためには、信仰の創始者であるイエス様を見分け続けてください。
そして、イエス様の御言葉をたくさん食べてください。
お祈りします。
39:01

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