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2017-04-30 33:32

2017/04/30:わたしは神の作品(7)どうやって聖書から養われるか

2017/04/30 聖日礼拝

尹善鎬牧師

詩篇 1-40

00:00
改めてみなさん、おはようございます。
世の中はゴールデンウィークで、あちらこちら遊びに行っているらしいですけれども、
かわはぶことなく、主の御前に集まっていらっしゃいできます。この見込みは感謝いたします。
では、隣の方々と挨拶しましょうか。
おはようございます。よくいらっしゃいました。
ありがとうございます。一言を短くお祈りします。
このとおり、わたしはあなたの御真面目を浸しています。どうかあなたの御によって、わたしを生かしてください。
アーメン主よ、この朝、神様どうかあなたの御言葉を持って、わたしを生かしてください。
あなたの恵みによらなければ、あたしは生かされません。
どうかこの朝、あなたの御言葉を主体求めている、この群れの主の尊い霊の家庭、霊の命をお与えください。
神様の御名によってお祈りします。アーメン。
はい、今日は私は神の作品第7回で、どうやって聖書から養われるか、どうやって聖書から養われるかという題にして、御言葉のめぐみを共にしたいと思います。
先週のことと続きのような内容になると思います。
私たちは普段、いろんな良いものを持って、自分の心や精神を養う自由があると思うんですね。
例えば、クラシック音楽が好きな方は、クラシック音楽を聴いて、自分のマインの心を養うこともできるでしょう。
あるいは、古典文学がお好きな方は、本を読まれながら自分の精神を養うこともできるかと思います。
あるいは、何かの講演を聴くのが好きな方は、いろんな講演会に行ったり、あるいはそのDVDとか、あるいはネットでそれを聴いたりすることもいいかもしれません。
しかし、私たちの精神だけではなく、礼を心を養うにあたって、聖書ほど、神の御言葉ほど最古のものがありません。
03:06
御言葉は、神様がどなたであり、神様が人間のために持っている目的は何なのかを描き表した定義の言葉です。
その影響力といい、重要性といい、聖書の右に出るものはありません。
アメリカにユージン・ピーターソンという有名な牧師先生がいらっしゃいます。
メッセージバイブルという古人学がありますけれども、日本語ではまだ訳されていませんが、とてもわかりやすい現代語の聖書です。
追い取りの先生が、もう長年かかって、聖書を10年間翻訳したほどの、とても素晴らしい牧師先生ですけれども、
その先生が、聖書に関してこういう話をしました。
栗ちゃんは御言葉を食べる。
食物が人間の体を育てるように、聖なる御言葉は聖なる凶暴体を育てる。
栗ちゃんは単に御言葉を学んだり、覚えたり、用いたりするだけではない。
御言葉が生活の中で行いとして消失するように、それを自分の内に取り込み、評価し、自分という人間の一部にするのだと言いました。
確かにその通りだと思います。
食べるだけではない。ただ、用いるだけでもない。取り込んで、評価して、飲み込んで、自分の一部にする。
それが神の御言葉ではないでしょうか。
日本の場合は、調査によれば、栗さんの中で聖書を持っている人たちは、平均3冊ぐらいの聖書を持っているそうです。
たぶん、長い間禁錮すればするほど、3冊以上持っておられるかもしれませんね。
効果薬、進化薬、何薬もなく、いいですよ。
このように、聖書を手に入れることは、これまでになく、もう容易な時代になっています。
ところが、御言葉を吸収するのは、これまでになく、困難な時代になっていると思います。
さあ、お尋ねしたいと思います。心の中でお答えを見てください。
先週に必要か、あるいはこの1か月、礼拝とか教会の集会じゃなくて、他の時間に、個人的に、
聖書を開いて、どれくらい聖書を読んでいらっしゃるでしょうか。
06:02
誰もこれに出しては言いませんが、実は少なくない人が、栗さんでも、
聖書はちょっと難しいなとか、聖書は退屈だなとか、面白くないなと思っているようです。
でも、これは深刻な問題であって、また、この近年になって、現代になって出てきた問題でも、
調べてみたら、日本語に退屈という言葉がありますね。英語はボーリングでしょうかね。
調べてみたら、この新約聖書が書かれたギリシャ語がありますね。
現代のギリシャ語とはちょっと違いますけど、あの古代ギリシャ語には、日本語にあたる退屈という言葉がないそうです。
英語も数世紀前までは、退屈という単語に現在のような意味はなかったそうです。
つまりどういう意味でしょうか。古代の人々は、昔の人々は、退屈を知らなかったということです。
言葉は、時代によって昔はなかった言葉が出てくるんですよね。作られるんですよ。作られる。
というのは、退屈は、昔の人は、例えば、アブラムの時代、ダビデの時代、イエス様の時代は、退屈という言葉を知らなかったということなんです。
ところで皆さん、もし私たちが、ここにいらっしゃる三十何人の方々が、みんな一緒に大町に乗って、古代の世界に戻っていくとしましょう。
暮らしてするんです。今の頭の考え、そのまま言ったら、たぶんみんな、もうすることないし、もう面白くないし、退屈で退屈でたまらないと思うかもしれませんね。
ところが皆さん、古代の世界にはテレビもありません。新聞もありません。雑誌もありません。インターネットもありません。文豪版のあの本もありません。映画もありません。
DVD、CD、レンタルショップもありません。本もほとんどないんです。本当にやることないと思うんですね。
ところが、そこに行った、もし行けるだけです、行った私たちだけ退屈だと思うでしょう。この人々の、当時の人々は退屈を知らないんです。
自然の中で物事をゆっくり考えて過ごすわけないんです。やることなくして。だから、現代人より昔の人が考える思考能力は作れていたと思います。
09:11
本人というのは、とりあえずはどうでしょうか。いろんな外部から悲劇があまりにも多すぎるんですね。テレビ、ラジオ、インターネット、本、人の声、さまざまな音。
それに、その悲劇に依存することで注意を集中させて、物事をじっくりと考えることを保ちむ力が弱まってきまっている。また、焦るんですね。
それで、世界学者たちの意見によれば、現代人は思考能力が弱まっているため、古代中世人たちの哲学とか音楽のような素晴らしい作品は、現代にはなかなか作られていないと言われています。
確かに皆さん、音楽の分野だけ見ても、バッハとかベートベンとか、そのような音楽家は現代になかなか現れてこない。それくらい考える能力が弱まっていると思うんですね。
実際に身近なことを考えても、携帯電話を普及するにつれて、電話番号を覚える能力はもう弱まってしまっているんですね。私だけそうなんです。
そうなんですよ。娘への電話番号を覚えていない。携帯を押せば出るので、覚えなくなってしまったんですね。
また、昔はプロマンはあっても、どこまで行くんだったら地図を見るか覚えて推理って探していくんですけど、今は考えることはいらないんですよ。
ピュッピュッピュッと教えてあげる。ナビを案内します。
推理する能力、覚える能力、考える能力がもう衰退して退化しているかなと思うんですね。
ところが、ある本を読んだら面白い話がありました。
世界中で人口大比例最も多くの知人を生み出した国はどこなのか、皆さん知っていますか。
これはとても案外でした。北極世界のアイスランド人だそうなんです。
なぜなんですか。その知人は他にすることがないからそうです。
年中、半年、6ヶ月間は太陽を見ることがないんですね。朝から晩までずっと暗いんです。
小屋にこもって、寒いでしょう。外に出て遊ぶこともあります。小屋にこもって、ただ吹く風の音だけを聞きながら長い時間を過ごす。
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それでアイスランド人はペシカとかダンノの前で挟まって語り合うんですね。
それで自分たちの舞踊団とかお話とか、それを作ったり、それを話したり、面白くそれを演出したり、お菓子食ったり、それを楽しむ。
それによって一人きりのときでもいろんなことを考えるようになって、暗記するようになって、その結果イメージ、想像力が優れて、
アイスランド人から大勢の詩人が出てきたそうなんです。ところで、ささてのことに戻りまして考えていただきたい。
皆さん普段、聖書を読まれていると思いますけれども、本人というのはささてに聖書を読む中で、
ときどき本当にやる気で知られて読んでも、もうやめましょうとポジティブに迫るところがところどころあるかなと思います。
例えば旧約の経図が出てくる。誰が誰を生まれて生まれて生まれて生まれて。長いです。歴代のところよりもっと長いんです。
ところが、その経図を読んで退屈だな、つまらないなと思っていることは、私だけだけです。
実はその当事者たちは、その自分たちの先祖のことであって、その経図自体が彼らのストーリーであって、アイデンティティなんですね。
だから彼らはその一人一人が重要人物だから、それを読むのがとても楽しみなんです。
また、現代の私たちによって、この聖書を読んで楽しむことが難しくなった理由の一つは、
やりたいことが他にもたくさんあるからではないでしょうか。やりたいことがたくさんあるんです。
音楽を聴きたい。テレビを見たい。スマホやタブレットや本や雑誌や講演会やら、やりたいことがたくさんあります。
ショッピングボールに行きたい。遊びに行きたい。花見に行きたい。ゴールデンウィークでどこか遊びに行きたい。
やりたいことがたくさんあるから、それが実は、今日読んでいただきましたダビデのような、ダビデの時代の人のようにじっくり座り込んで考えながら聖書を読むことが、なかなかできなくなっているのではないでしょうか。
ダビデも羊の番をしていただき、他にすることはないでしょう。
もし今のような羊会だったら、ほったらかって携帯でゲームをやっているかもしれないですね。今の羊会だったら。そうでしょう。
15:10
たまにマックとかファミリーウェブサイトで、お母さんと子どもとあるいは家族が一緒に食べに来るんですね。
子どもは一緒に食べていて、お母さんと子どもはスマホでゲームをやっているんですよ。悲しい時代だなと私は思うんですね。
でも、あのダビデは、詩編を考えて、それを書いて、暗記して、歌えました。
そして彼の心は、例は、神の御言葉によって形作られたわけなんです。
だから、あの多くの詩編が生まれてきたじゃないでしょうか。
主は私の羊かい、私は乏しいことがありません。
もしダビデは今日に生まれたら、あの詩編は生まれてこなかったかもしれない。
現在は、今の頃はですね、私の心を簡単に楽しませてくれるものがたくさんあります。
注意をそらせたりすることがたくさんあります。
選択肢があまりにも多くあるから、政府がですね、第1の順位じゃなくて、第2、第3、第4の順位にですね、こうなっているかもしれない。
だからこそ、私たちは神の御言葉によって養われることを学ばなければならない。
政府によって養われることこそ、我々人間の霊園の命にかかるとっても大事なことであります。
ぜひ今日から、聖書によって養われることに熱心に励んでいただきたいです。
本当に励んでいただきたいです。
そのためには、シンプルライフ、シンプルイズ、ベストという言葉もありますけれども、シンプルに暮らすことも必要ではないでしょうか。
では、具体的にどうやって聖書から養われるか、いくつかの聖書の読み方をお話したいと、そしてお勧めしたいと思います。
まず、その1、コーヒーチーンを持って聖書を読むことです。
コーヒーチーンを大勢にして、聖書を開いて読むことです。
問いかけを持って聖書を読むならば、聖書からですね、多くのことをたくさん学べます。
例えばですよ。この書物は誰が書いたんだろう。誰に向けて書かれたんだろうか。
これは例え話だろうか、教えだろうか、手紙だろうか、歴史だろうか。
自分に問いかけて考えるんです。
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これを受け取った人たちはどのように理解したんだろうか。
この出来事が起きた場所はどんなところだろうか。
あの出来事とこの出来事はどういう関係があるんだろうか。
コーヒーチーンを持って聖書を読むことです。
皆さんいかがでしょうか。普段本当にコーヒーチーンを持って聖書を読んでいますか。
このようにですね、読むことをお勧めします。
ぜひ実践してみてください。
しかし、聖書から養われることを妨げることがあります。
それはこういうところの姿勢です。
私は既に知っていると思うことです。知っている。
読みながら知っていると思い込むことです。
あるいはメッセージを聞きながらも知っていると思ってしまうことです。
この聖書を読む前に、あるいはメッセージを聞く前に知っている、全部知っているというこの姿勢がですね、
聖書から養われることをもう阻んでしまうんです。
ある情報によるとですね、人間の脳は目新しいものを見ると活動でいいというものがあるらしいですね。
活動でいいがもう活発になるんです。
しかしですね、見慣れたものにはなかなか脳は反応ないそうなんです。
つまり見言葉を開いて読むとき、自らに問いかけて、これまでに気づいていなかったことを探しながら読むんです。
そしてより深く見言葉の中に入っていくことができるでしょう。
2番目、本音で聖書を読むことです。本音で聖書を読む。
以前、ある方と聖書の学びをしていたときのことです。
この方がですね、こんな話をしました。
私は聖書が真実だとは本当に信じていないことに近づきましたと言いました。
この方が自分の中にある疑問をついに正直に口にすることができたということなんですね。
聖書を読んだりしますけれども、皆さんどうですか?全部わかりますか?
全部わからないんですよ。理解できないところがもっと多いかもしれない。
時には読んだ内容に困難がある。あるいはとても信じられないと思うところがあるかもしれません。
そのときにどうしたらいいんでしょうか?無理にですね、信じようとしたり、
信仰を揺るがせないためにわかりにくい価値を飛ばしてしまったりするなら、
そのような聖書の読み方は、見言葉によって心を安らぐ上でははまされとなるかなと思います。
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皆さん、聖書を読んでいてわからない箇所が出たとしましょう。
そしたら本音で素直に神様に祈りながら読むことです。
神様、わかりません。教えてくださいと祈ればいいです。
今日の見言葉をちょっと開いて見ていきましょう。
33節と34節を一緒に読みたいと思います。よろしいですか?33と34節。
主よ、あなたの起きての道を私に教えてください。
そうすれば私はそれを終わりまで守りましょう。私に悟りを与えてください。
私はあなたの身教えを守り、心をつくってそれを守ります。
アメン。ここにですね、私に悟りを与えてください。
このような心、本音で祈りつつ聖書を読むことです。
読んでいてですね、わからない信じ難いところが出たときからですね、
わからないから悔しいと思ったり、やはり自分は風神語だとせなったりする必要はないです。
神様の言葉を人間の私たちがわからない箇所が多くあることは実は当然なんですね。
だからこのように私に悟りを与えてください。教えてくださいと祈りながら聖書を読むことです。
ですから皆さん、聖書を読んで、もし疑問を感じたときに無理に頑張って信じようとしないでほしいんです。
ゆっくりゆるく読んでいいです。
神様に皆さんの我々のその疑問あるいは疑いを知っていただきましょう。
そうすると聖書は神の霊感によって書かれたものですから、もう必ずですね、きっと教えていただけるのです。
3番目、期待をもって聖書を読むことです。期待をもって聖書を読むことです。
皆さんいかがでしょうか。今朝礼拝に来られたときに期待をもって来られた方、一人もいらっしゃらないです。
期待をもって教会に来る。期待をもって聖書を開く。期待をもって聖書を読み始めることです。
何事にも期待をもってその場に臨むことはとても大事だと思います。
その姿勢からその人は変えられる。
24:05
今日はどんなお池があるんだろう。今日はどんな祭りがあるんだろう。
今日は必ず神様にお会いしたいという、その期待をもって聖書を読むこと、あるいは礼拝に臨むことが必要なんです。
今日の記念の40節を一緒に読みたいと思います。40節、一緒に読みましょう。
このとおり、私はあなたの忌ましめを使っています。どうかあなたの義によって私を生かしてください。
ここにあなたの忌ましめを使っています。この忌ましめは全部御言葉ですね。
教え、あるいは忌ましめ、それは全部御言葉のことです。使っているのです。使う姿勢が大事です。
もう一つ読みましょう。同じ詩編ですけれども、42編に行きましょう。詩編、42編、1節と2節です。
私の聖書では946ページです。よろしいですか。1節と2節を一緒に読みたいと思います。
しかが谷川の流れをしたいあえぐように、神よ、私の魂はあなたをしたいあえぎます。
私の魂は、神よ、生ける神を求めて渇いています。いつ私は生きて、神の御前に出ましょうか。
このような姿勢なんですね。しかが谷川の流れをしたいあえぐように、あなたをしたいあえぐ。
どういうことだ。神の御言葉を、魂を持って、神をしたいあえぐように、聖書を読むことです。恋愛に臨むことです。
それによって、その期待を持っている人に、神様が幾倍も満たしてくださるんです。
皆さん、自分自身のことを、帰りにいてみてください。どれだけ、期待を求める、期待にあえぐ心を持って、わくわくとする期待を持って、聖書を読んでいらっしゃるでしょうか。
恋愛に来ていらっしゃるでしょうか。期待を持って、神様に期待を置いて、聖書を開く人は、心の目を開き、何か自分を超えた神様に対する期待をする。そして、探すようになるのです。
27:03
今日はどういった教えをいただけるのだろうか。今日の聖書は楽しみだという期待を持って、聖書を読むことをおすすめします。
しかし、聖霊様が私たちの思いの中を流れようと待ち構えておられるときに、私たちの注意がもう散漫で、聖書に耳を傾けるところではないとしたら、どれほど聖霊様をがっかりさせることなんでしょうか。
期待を持って御言葉に向かうなら、何か必ず違う恵みが起こり始めるんです。
最後ですけれども、よく考えながら聖書を読むことです。よく考えながら、かみしめながら、聖書を読むことです。
ある意味ですね、ダビデのような昔の人々は、よくよく考えながら、何度もかみしめながら、聖書を読んでいたのではないでしょうか。
今はみんな忙しいんですね。またやりたくなることがたくさんありますね。気を取らせることがたくさんあります。
ある意味ですね、ちょっと失礼な表現ですけれども、聖書をじっくり考えながら読むためには、お尻が重いほうがいいかもしれませんね。
座り込んで、1時間も2時間も3時間も座り込んで、じっくり他のことをしないで、聖書を読める。
普段、もしそんなことができなかったとしたら、年に1日でもあるいは1週間でもあるいは3日間でも、他のところ全部、そこから離れることができたら、
他のことは全部やめて、ひたすら聖書を読むことはいかがでしょうか。あえてでも考えながら、聖書を読むことです。
神様はなぜこのように語られたんだろうか。この言葉を聞く私は何をしたらいいんだろうか。
神様は今、私に何をしてほしいと思われるんだろうか。この歌詞はなぜここに書かれたんだろうか。
と、じっくりゆっくり深く考えながら、聖書を読むことです。
最近、感謝のことが一つあります。今日は礼拝に来ていませんけれども、いつまで続くかわかりませんが、
最近、藤本巨大と、朝、彼がパートのお仕事が午後1時からしたとするので、朝8時ごろ、彼が教会に来て、
30:09
私と軽くポーストを食べて、聖書を毎日1書ずつ読んでいます。
漱石から始めて20章超えていますけれども、私から教えるんじゃなくて、実覚化するように話し合っています。
まず読んで、ちょっと黙想して、そして私がいろいろ問いかけをするんですね。それで話し合っています。
その中で、この前、漱石のロトがアブラムと別れたところ、彼がこういう話をしてくれました。
ロトがソドムとゴモラの地を選んだことに対して、ロトは信仰によってではなく、目に見えることばかり考えて、勝手に選んでしまったから、
結果的に悪い街を選んでしまった。それで自分も家族も信仰的に不信仰に陥ってしまった。
という話をして、藤本くんが、いつか自分は故郷に帰らなければいけませんけれども、
このまま故郷に帰ったら信仰も中途半端になってしまう。ロトが悪い環境の中で信仰が良くなってしまったみたいに、
今のまま故郷に行ったら信仰の苗種紹介のような、信仰の仲間も周りにいなくなるので、自分も信仰が弱くなるかもしれないから、
もうここでもっと熱心なトリッサンになりたいですと、そういうふうに言ってくれました。
皆さんではどうでしょうか。ゆっくりゆっくり深く考えながら、聖書を読んでいこうではありませんか。
気を逸らせること、やりたいこと、たくさんあります。もちろん、しなければならないこともたくさんあります。
しかし、忙しいから祈るように、忙しいからこそ、聖書を開いて読まなければならない。
その聖書の御言葉によって、私たちは養われるからです。
聖書の力はとても素晴らしいことです。
私たちの聖書のところには入ったものが出てくるんです。インプットされたものがアウプットされるんです。
心の中に、聖書の中に、霊の中に、何をインプットしているんでしょうか。何を皆さん入れているんでしょうか。
それが、口から、考えから、自分の行いから、それが出てくるんです。
聖書に養われましょう。神の御言葉によって養われましょう。
33:05
そしてどうか、心の中に、霊の中に、神の御言葉のある聖書をインプットしましょう。
聖書に養われるクリスチャンは、本当に幸せなクリスチャンです。
お祈りします。
それでは今日の御言葉を覚えて、それぞれ応祷の祈り、あるいは決心の祈りをしばらくお祈りしたいと思います。お祈りしましょう。
33:32

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