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改めて皆さん、おはようございます。今日も礼拝にようこそいらっしゃいました。先週はゴールデンウィークでしたけれども、いかがお過ごしだったでしょうか。
多分ね、家族とか、あるいは良い時をお過ごしだったのではないかなと思いますけれども、また元気になられて、礼拝にお見舞いになって、本当にうれしく思います。
メッセージの前に隣の方と挨拶しましょうか。よくいらっしゃいました。
では、短く一言お祈りいたします。
主よ、私の願いを聞いてくださったことを感謝いたします。私は、あなたがいつも私の願いを聞いてくださることを知っておりました。
主よ、今日もこのような心を持って主の御前にやってまいりました。神様がいつも私たちと共にいてくださること、そして願いを聞いていてくださること、叶えて答えてくださっておられることを信じて、また今日も神の恵みを求めてここに参りました。
どうか、御自立とっている我らこの群れの上に、主よ、豊かな神の恵みと、あるいは悟りを、あるいは鈴木を、あるいは福き心をお与えくださいますようにお願いをいたします。
このものは隠して、神様御自身が御精霊様がお語りになりますように、イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
はい。私は神の作意というシリーズのメッセージをさせていただいております。
今日はその8回目になって、日常の言葉を祈りに変える、日常の言葉を祈りに変えるという題にして、恵みを共にお受けしたいと思います。
さて、先週のメッセージはどんな内容だったでしょうか。覚えていらっしゃるでしょうか。
先週は簡単に申し上げて、意欲的に聖書をお読みしましょうということでした。
いかがだったでしょうか。1週間、聖書を開く時間が増えたでしょうか。
テレビを決定、ラジオを決定、新聞をポジテ、聖書を開く時間が増えたでしょうか。いかがだったでしょうか。
今日は祈りについてお話をさせていただいたと思います。
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普段、私たちは1日の間、どれくらいの言葉を語ると思いますか。もちろん、男女違うと思いますけれども。
また、言葉の数が多い人もいますし、少ない人もいますから、その格差はあるかと思いますけれども。
日本の統計ではなくて、アメリカの統計ですが、ボットングローブという研究所がリサートをしました。
そしたら、アメリカ人の成人の場合、男子は1日平均的に単語で言って、約2000単語くらいしゃべるそうです。
女性はどれくらいでしょうか。なんと、7000単語くらいしゃべるそうです。3倍も超えますね。
日本はどうでしょう。大体同じかもしれませんけれども。神様が私たちを話せる、言える存在としてお作りになったから、それもいいかもしれませんけれども。
ところが、私たちはクリスタンとして、日頃の日常生活において、日常の言葉を、それをどれくらい祈りに、神様への祈りにそれを変えているのでしょうか。
例えば、皆さん日頃、一人で何かをしゃべる人もいますし、家族といろいろ話し合う人もいますし、お茶会にいて2時間も3時間もおしゃべりする女性の方もいますし、
仕事と交渉するために、会議をするために、いろいろしゃべらなきゃいけない、いろいろあるかもしれませんか。ところが、ここで立ち止まって考えていただきたいことがあります。
それは、私たちはその多くの言葉を、どれくらい神様への祈りに変えているかということです。ここに陰になる事実、真理が一つあります。
それは、神様はいつも、私と皆さんと一人一人、私たちと共にそばにおられるという事実です。それから、その方はいつも私たちが話した、しゃべった言葉をすべて聞いておられるということなんです。
間違いないですよね、皆さん。ですから、私たちが一日何かをしゃべっている、話させている。その中に、神の臨在をどれくらい意識しながら日常生活をしているかによって、日常の言葉を祈りに変えるかどうかが決まると思います。
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神様の絶えざる臨在が、本当の私と共にあるという現実と、その素晴らしさを理解するとき、祈りは本物になりますし、日常のしゃべりはただのしゃべりで終わるのではなくて、それが祈りに変えられると思います。
また、神様が聞いておられる、共におられると、私たちはみんな信じていますよね。あるいは、祈るときに、私たちと共にいつもいてくださる日を感謝しますと祈る人なら、他のところで、そこにない、例えばですよ。
第三者の噂話や駆け口などはしないでしょう。いつも我らと共にいてくださる日を感謝いたします。私たちのことを聞いてくださる日を感謝しますと祈って、その後出て悪口をする。
イエス様は今日の御言葉から見ますと、父なる神様が共におられることを絶えず心に覚えつす日々を歩んでおられました。
だから今日も、ラザロー氏からよみがえらせた時、イエス様はまず目をあげて、祈るところから始められました。それは今日の41節、42節です。まず41節をもう一度お一緒にお読みしたいと思います。
ヨハネノ福音書第11章41節、それではご一緒に。
そこで彼らは意思を取り除けた。イエスは目をあげて言われた。父よ、私の願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
それからその後の42節を私がお読みします。私はあなたがいつも私の願いを聞いてくださることを知っておりました。と祈っておられますね。
つまり、これを解釈して申し上げますと、神様はイエス様が、あるいは私たちが祈っている時だけではなく、いつも私たちが何を喋るか、何を話すか、どんな話をしているか、すべて聞いておられるということをイエス様は知っておられました。
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私たちも実は知っているんです。神様に向けられた言葉でも、他の人に向かって言われた言葉でも、神様はいつもイエス様に応答してくださいました。
いや、私たちにも応答してくださっておられるということです。だからイエス様から教えられる大事な祈りに関する教訓は、イエス様はいつもミキシの前で話しておられ、ミキシはいつでも応答しておられたということです。
では、三つのことを分かれてお話ししたいと思います。
それでは、私たちが普段の日常の言葉を祈りに変えるにはどうしたらいいのでしょうか。
まずその一つ。私たちの問題について神様に話すことです。皆さんの問題について、課題について、神様に申し上げることです。
私たちは生活の中で、いろんな領域において、いろいろ課題や問題やトラブルやいろんなことが起きたりします。
例えば、人間関係、仕事、あるいは自分の感情、何かの習慣、あるいは健康、あるいは外見、金銭の面、様々なことが起きたりします。
もしも皆さん、これらのうちにありは今並べていない何か一つは問題が、課題が、トラブルがもしも終わりでしょうか。
あるいは問題、課題じゃなくて、これから何かをしていかなくならない大事なことを前にしているんでしょうか。
結婚とか、就職とか、引っ越しとか、転職とかするは、皆さんが祈りを始める、いや祈りに励むにちょうど良い機会となるということです。
私たちの持つ原則というか、単なる考えには、問題があるから心配するのだという考えがあるかもしれません。
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それで問題さえなければ心配することもないと考えるのです。大体の人々は。
ところが皆さん、良いことを教えてあげましょう。私たちの問題はいずれ必ずなくなります。しかし、嫌なことも一つ教えてあげましょう。
その日は私たちが死ぬまで訪れません。その日には問題がもはや私たちを苦しめなくなっていることに驚くでしょう。
しかし、その時まで人生にたくさんの問題、課題がつきまとうのです。
よく言われることですけれども、どこに目をほどめるかによって、物事は違って感じられるということなんです。
例えば、自分は弱くて無力だからと感じていると、その問題にとらわれがちです。
しかし、今日のイエズス様のように、そして今日からはそれぞれの問題や課題があったとしましょう。
それを、神様が私を祈りへ招いておられるんだと、祈りへの招きとして受け止めてみてください。
何か病気ができたのでしょうか。神様にお話ししましょう。
何か自分の弱さを感じていらっしゃるでしょうか。神様にお話ししましょう。
誰かに対して腹を立てているでしょうか。神様にお話ししましょう。
何かを解決しなくてはならない、何かの課題、トラブルがあるのでしょうか。神様にお話ししましょう。
それぞれの問題、課題、宿題、しなくならないこと、それを祈りへの招きとして受け止めてください。
神様が今、祈りなさいとサインをしてくださるんだと、それを受け止めて祈れば、自分も恵まれますし、またこの課題が変えられる、答えられる恵みに預かるならないでしょう。
問題がある、課題がある、いつまで呟いていて、心配していたとしても、それは変えられない。その心配を、呟きを、祈りに変えるということです。祈りに変える。
最近、私のことですけれども、祈るように神様から招かれているというか、促されているというか、一つの課題が起こりました。
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当然、人間においては、お祈りとして祈っていただいておりますけれども、韓国の院所にいる私の母が、先日、何の事故もありませんでしたけれども、
今年で83歳で、腰の骨にヒビが生えてしまって、ほとんど動けなくなって、今、入院しておるんですね。
私はもう8年前に小笠原福岡に行って、その翌年に亡くなって、その時にもそばに私はいることはできなかったのですけれども、
そういう連絡を兄から聞いて、神様が祈るようにと招いておられるんだと聞いて、さらに祈りに励んでおるところであります。
何回、私の母のことはお明かしさせていただきましたように、母は私が7歳の時、腫瘍が末期をあずらって、また私が22歳の時は、交通事故で両足の骨がほとんど折れてしまったことがありました。
また私が32歳の時、その時は新学生の2年生の時でしたけれども、脳梗塞で倒れました。しかし神様はその時その時に祈りに応えてくださって、もうすべて奇跡だったんですね。奇跡を起こしてくださって、癒してくださった。
もちろん7歳の時に祈った記憶は私にはありますけれども、22歳の時は青年でしたし、32歳の時はもちろん新学生でしたから、本当に祈って祈って祈っておりました。
皆さん、この世に生きている人には何かの課題・問題がつきものなんです。そしてその問題・課題はいずれにせよ神様は、私たちをより成長させるために、私たちのその課題・問題を用いておられるということなんです。
だから皆さん、普段の心配、つぶやき、怒り、様々なすべてのその喋りを、言葉をですね、祈りに変えていこうではありません。
2番目、日常の言葉を祈りに変えるには、その2、私たちの願うものについて神様にお話しすることです。
今日も神様が私の願いを聞いてくださったことを感謝いたしました。きっとですね、皆さんもこういう風な祈りをよく祈っておられるんじゃないでしょうか。
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また42節のように、私はあなたがいつも私の願いを聞いてくださることを知っておりましたと、皆さんも祈っていらっしゃるんじゃないでしょうか。
そして普段ですね、いろんな皆さん、願い事があるでしょう。子供にもありますし、大人にもありますから、人間はですね、いろんな願い事があると思う。
それを普段皆さんが教会で、あるいはお家で、あるいは歩きながら、あるいは運転中で、あるいは人と何か相談しながら、話し合いながら皆さんの願い事を神様にお聞かせしているかもしれないです。
私もですね、この教会の周辺をたまに歩くときにですね、皆さんからどう思われるか知りませんけれども、ちょっと変な願いを持って変な祈りをしていることがあります。
それはですね、名所は言いませんが、この近くに大きな焼肉屋さんがありますよね。宿舎も広いですし、建物、それはいいところですね。通りながら神様、保護がなんて教会になったらいいですよね。
宿舎も広いですし、あそこにバスケット場を置いたら、子供もバスケットもできるし、なんと素敵じゃないでしょうかとですね、そう祈りながらですね、通ったりすることがあるんですね。
またあるところにですね、素敵な建物があったりしたらですね、神様ここが教会になったらすごいと思いませんかとですね、言いながら通るところがあるんです。
あるいはですね、時々ですね、6月にも選挙地震が来たりするんですけれども、大型市内バスのような、そんなバスはちょっと無理かもしれませんが、
それよりもっと小さい、25人乗りの、23人乗りのマイクロバスとかありますよね。そのバスを見かけた時にですね、神様に一人で言うんですよ。
神様、あのバスの運転ができたら、より多くの働きができると思いますけどね、とですね、祈ったりするんです。
皆さんいかがでしょうか。
要するに、神様に自分の願いを素直に正直にお話しすることです。隠さずに申し上げることです。
なぜなら、神様はいつも私たちの祈りを聞いておられる。いや、祈りだけではなく、私が何をしゃべるか、その言葉をすべて神様は聞いておられるから、
無駄に話してしまうんじゃなくて、それを神様へ願いとして、祈りとしてそれを変えるということです。
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皆さんにはいろんな願い事があるかと思います。
家族の救い、病気が治ること、収入のこと、あるいは子供さんの結婚のこと、あるいはお娘さんとおむこさんとの関係のこと、
あるいはお孫さんの健康や救いや、あるいは就職、あるいは子供の学費、いろんな願い事がおありでしょう。
それを隠さずに、神様にそれを祈りに変えて申し上げることなんです。それはすべてのことについて祈るということではないでしょうか。
皆さん、ですから今日から日常生活に普段神様にお話ししましょう。申し上げましょう。祈りに変えましょう。
3番目、日常の言葉を祈りに変えるには、この3番目は今までの1と2番とはちょっと違った話になるかと思います。
それは、「どんなものも祈りに変わるものはない。」ということであります。
祈りに変えられるものはあります。ここで変えるは大王の。
例えば皆さん、私たちは教会でいろんな法事をしております。
とても感謝のことですし、尊いことですし、神様は喜んでおられます。
また、私は僕として本当に皆さんのいろんな法事を感謝しております。
しかし、どんな法事も祈りに変わるものにはならないということであります。
祈りには変えられないということであります。
結構前のことですけれども、ある日、私は神様から強く示されたことがありました。
その日だけじゃなくて、僕たちはいろんな仕事があります。
作業をします。メールをチェックしたり、送ったり、ファクスを送ったり、
時には原稿も書いて、パソコンを打って、パソコンの作業も多くあります。
文章を作って、いろんな作業をします。時には掃除もします。時には電球も取り替えもします。
クモの巣も工事するときもあります。洗車もします。
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しかし、それはそれが悪いとかダメとか取り離してあります。
それは必要なことですし、その教会のためにさせていただいていること、
法事ですから、私も喜んでさせていただいている。
そして神様にも喜ばれる法事だと信じています。
ところが、ある日でした。
その日も朝から夜8時くらいまで、いろんな仕事がたくさんあって、
本当にそれを全部こなして、やっと終えて、いわゆる自己満足で、
いや、もう全部できたと、それでちょっと体は疲っておりましたけれども、
仕事をやって帰るみたいな伝統を消して帰ろうとしたあの瞬間でした。
心に強く神様から示されました。
それは、どんな仕事もどんな作業もどんな法事も、祈りには変えられないよ。
皆さん、皆さんの尊い法事を、それがですね、
掃除であろうが、何かの調理であろうが、他の法事であろうが、
それはとても尊いことです。
神様に喜ばれることに違いあります。
しかし、それがどんな法事であろうが、どんな作業であろうが、どんな仕事であろうが、
祈りそのものには変えられないということであります。
だから、私たちがですね、他のことを教会のために、
兄弟姉妹たちのために、いろんな法事を、作業、仕事をしております。
とても感謝のことです。それをこれからもどんどんやっていただきたいと願っております。
しかし、それが祈り、お祈りそのものに変えられるものではないということであります。
あの日、私は本当に神様に悔やかれました。
仕事って祈りには変えられないよ、という神様の示しでした。
そうなんです、皆さん。どんなものも祈りには、
法事は法事ですし、祈りは祈りなんです。
メッセージを終わりたいと思います。
皆さんどうか、今日から日曜の言葉を祈りに変えようではありませんか。
おしゃべりより、怒りの言葉より、つぶやきより、噂話、掛け出しよりですね、
祈りは遥かに偉大なものなんです。
なぜなら、神様は聴いていてくださって、
そして、祈りこそ奇跡を生み出す力だからです。
アメン、お祈りします。