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2020-05-24 24:09

2020/05/24:わたしたちが信じて、告白すること(13)信じて告白して、そして行う

2020/05/24 聖日礼拝

尹善鎬牧師

マタイの福音書 -21

00:01
今日は、わたしたちが信じて、告白すること、チリチル説教の13回目、最後の回になります。
説教題は、信じて、告白して、そして行う、です。
今まで、私たちが信じて、告白する、信仰告白について学び、確認し、また改めて告白できましたことを、心から感謝いたします。
メッセージを始める前に、まず皆さんに、うれしい、よいお知らせをお伝えしたいと思いました。
来週の正月、5月31日から、教会法で礼拝を再開することになりました。
皆さんご存じのように、兵庫県の緊急事態宣言が解除されました。
したがって、礼拝法で、また、ともに集まって、礼拝を捧げてまいります。
数えてみたら、4月12日から8週間目になりました。
神様のお導きと憐れみに、本当に感謝いたします。
おそらく、皆さんも本当に、上かわけをもって、支配求める信仰をもって、礼拝とめの礼拝をどれくらい求めて、祈っておられたのでしょうか。
最初はですね、本当に、まるで憲法式を捧げることのようにですね、喜びをもって、礼儀との跡をもって、神様を礼拝する。
そういう正月礼拝でありたいと、切に願って、祈っております。
さて、私たちは、今まで、聖書、神様、イエス様、聖人様、それから、祝い、聖歌、教会について学びました。
私たちに、こんなに素晴らしいプロテスタントの信仰学学を教えて、受け継がせてくださった信仰の先輩たちに、本当に感謝いたします。
願わくは、私たちが、どんな時にも、固い信仰の上に立って、イエス様が再び生まれるその日まで、信仰にあって、勝利する私たちでありたいと、願っております。
この聖日礼拝をまとめながら、終わりながら、今後と一つだけは、最後に付け加えて、お話しさせていきたいと願わされました。
03:09
結論から申しますと、信じて、告白して、そして行うことです。
いわゆる、信仰と行いに対するお話になります。
まず、確実に、確かめておきたいものがあります。
最確認です。
それは、私たちは皆、ただ信仰によって救われます。
私たちが救われて、罪を許される道は、ただ信仰のみです。
この中に、行いが入る余地は一切ありません。
既に一緒に学んで確認した通りに、エペソニクへの手紙、2章8節9節を見ますと、
あなた方は、恵みのゆえに、信仰によって救われるのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
9節に、行いによるのではありません。
誰も誇ることのない限りです。
と、はっきりと聖書は、信仰のみによって救われるんだと語っています。
ですから、私たちが救われるにあたって、
例えばですね、信仰の役割が99%、
そこに善行が1%あるとか、そういう意味ではありません。
ただ、信仰によって救われます。
これは、確かな信約、許約ステージを語る真理であります。
ところが皆さん、それだけではないんです。
聖書の御言葉には、信仰によって救われるという御言葉の上に、
さらに信じるものを行いについても、とても強調して言われています。
簡単にお話をしますと、神様を信じますか、
聖書の御言葉を信じますか、信じるならば、
信じる通りに行いなさい、というメッセージが聖書にあるということであります。
聖書の御言葉は、神の御言葉は、信仰について語る同時に、
行いについても語っているということです。
06:01
まず、今日一緒に読みました赤いの九書の御言葉ですけれども、
イエス様の御言葉でした。
当時、例えばパリスタイ人たちとか、デッポ学者たちとか、
彼らがイエス様の時代に大勢いました。
彼らはですね、中略聖書を、例えば孟聖御書とかですね、
それを誰よりもよく知っていました。もう最高の知識を持っていました。
あるいは、人々に孟聖御書とか、中略聖書の立法を教えるラピー先生たちです。
そして、自分たちも周りの人々からも、彼らは神様の御事を信じる人だと言われていました。
ところが、イエス様の目から見れば、彼らには欠点的な問題があったわけです。
それは、たくさん知っていて、知識はたくさん持っているんだけれども、しかし、信じている通りに行わないということでした。
すなわち、彼らに知識や信仰というものがあるかもしれませんが、それに相応しい行いがなかった、欠けていたということ。
それに対して、イエス様は彼らを責められたということであります。
だから、そんな彼らの御事を指しながら、イエス様は弟子たちに今日の言葉を言われました。
十五段札から見ますと、同僚に、良い木は皆良い実を結ぶか、悪い木は悪い実を結ぶか、
そうですね、皆さん。良い木は良い実を結びません。悪い木は悪い実を結びません。
十八節、良い木が悪い実を流せることはできないし、また、悪い木が良い実を流せることもできます。
十九節、良い実を結ばない木は、皆死に倒されて、死に投げ込まれます。
二十節、こういうわけで、あなた方は、実によって彼らを見分けることができる。
最後の二十一節には、イエス様と言われました。
私に向かって主要、主要というものが、皆天に、天の御国に入るのではなく、
天によられる私の地の御心を行うものが入るのです。
父の御心を行うものが入るのです、とイエス様は言われました。
09:06
皆さん、ご存知のように、ここで言われている、木は人のものです。
実というものは、その人の行いを指しています。
例え話です。だから、その実、行いを見れば、
行いを見れば、この人が良い人なのか、信仰の人なのかどうかが見分けることができるということで、
この御言葉は、イエス様の私は、今から信じようかなと、求道者に対しての言葉ではないのです。
既に信じて長い年月が経っていく人々、古い信者たち、つまり私たちに対するイエス様のメッセージでもあります。
だから、イエス様に向かって、主よ主よ、この口先でだけで言っているから、
ただと言って、みんな天のように入るのか、信じているならば、その信じているとおりに行いなさい。
神の御所を行うものが入るのですよ、と、行いのない信者たちをイエス様は責められたということであります。
だから、神様の御心を行うことが大事です。
後からお話ししますけれども、ヤコボロヘガエルにおいては、行いのない信仰は死んだものであると言っています。
この御言葉は、例えばある人が、実は神様を信じていないんだけれども、
例えば、祈りをする、振りをする、賛美して祈りをする。
そうしたとしても、その人には本当の信仰がなかった。
そして、その信仰には素晴らしい身の行いがなければ、その信仰は、その振りは、その人を救いに導くことはできない。
だから、その人は本当の信仰を持たなければならないということであります。
繰り返して申しますと、確かめますが、私たちは行いによって救われるのではありません。
信仰によって救われます。
しかし、神様を信じて、そしてこの方の御言葉を信じる者には、その信仰にふさわしい行いが結ばれるということであります。
12:03
イエス様を信じる前の人が信じた後、どんどんどんどん、神の品性に、イエス様の品性に、その行いが変えられることです。
イエス様に似るものに、人格や品性や行いが変えられて、そこから信仰の実が豊かに結ばれる、そういう本人になるんだよ、というイエス様の御言葉です。
この御言葉に対しては、信約聖書がとてもバランスを取れたメッセージを私たちに教えています。
二つの観点をもって私たちに教えています。
大体概略的に申しますと、パウルの手紙、書簡のですね、その中の例えばローマみたいな手紙を読みますと、
この手紙は、あのローマという日本人たちがどうしたらイエス様を信じるか、どうしたら人は救われるのか、そのことを教えるために書かれた手紙なんです。
簡単に言って、今本になるような日本の中で、また神様を信じるかどうか迷っている人々、
どのようにしたら救われるのか、救いがわからない人、信仰がなかなかわからない人、そういう人々に対して、皆さん信仰によって救われますよ、というそのことを教えているんです。
ただ、信仰によって救われる、これが一つ目の観点です。
ところが、もう一つの観点がありますね。
先ほど言いました、ヤコブを手紙です。
ヤコブは、使徒であり教会の長老を越して、常にイエス様を信じて救われた人々、信仰を持っていて教会に頼っている人々、
ところが、なかなかこの信仰通りの行いがない人々に対して書かれた手紙です。
つまり、今、教会の信者向けの手紙なんです。
だから、ある意味、ある先生は、今日の教会の福井さんたちは、ローマ章を見て、読んで、外で、
ああ、信仰によって救われるんだ、それも大事なんだけれども、それよりも既に救われたならば、教会の中にあるならば、
ヤコブの手紙を読んで、そこで、ああ、そうだ、行われなければならないな、と、そこに目を向けて、あるが、なければならないな、
15:05
という設定を私は聞いて、本当にその通りだなと思ったことがありました。
それで、この手紙は、簡単に読みます。
行いを対し、信仰は宣伝のものであると言いながら、行いについて強調をします。
みなさん、これは結論的に、別々のものではないんです。
信仰は必ず行いを思う。
そして、行いはその信仰を証明するということであります。
例えば、みなさん、葡萄の木、これは何の木なのかわからない。
しかし、葡萄の実があってみたら、これは葡萄の木なんだ、わかるんですよね。
同じく、ある人の言葉や行い、人格、品性、その方の、その人の生き方を見て、
この人は本当にイエス様の人なんだ、とわかるということであります。
振り返ってみますと、今まで私たちの神道生活の中で聞いてきたメッセージは、
それは間違ったわけではありませんが、こういうメッセージが多かったかもしれません。
神様の一方的な恵みによって救われた、信仰によって救われたというメッセージ。
また、それにですね、弱くても罪を犯しても、悔いが得られれば許されますよ。
だから、みんな天国に行くには何の問題もありませんよ。
すぐからそれがね、もう派生されていっていって、思い込みになって、
ある人は、私は昔、戦力であったから、今は教会に行っていないだけれども、
それでも戦力であったから、後で死んだら天国にも行けるだろう、と。
そういった漠然とした思いを持っているクリスチャンが少なくないかもしれない。
このような行いが伴われていない信仰の姿、
それによってですね、このキリスト教の歴史の中で、本当に多くの弊害や堕落や罪が生まれてしまったわけです。
神様の御事を信じていると言って、祈っている。
しかし、その人からは、神の御言葉の身がなかなか見えていない。
数十年が経っていても、見えていない、変えられていないとするならば、どうなっているんでしょうか。
本当の信仰を持っているんでしょうか。
あるいは、神様は愛の神様なんだから、私はどうでも、
18:04
やがては必ず天国にはいけるだろう、と。
そんな漠然とした思いを持って、この世の中で弱いから弱いからと言って、
適当に歩んでいる人がいるかもしれない。
キリストの光を放つところから、世の中の人々とあまり変わらない。
教会の長老であり、あるいは役員であり、あるいは古い神僧でありながらも、
お家では暴君のような人がいたり、酒やタバコやギャングリングを楽しんでいる人がいたり、
あるいは、弊害して、賛美して、応祀をしているんだけれども、
本当に十五の一元気の神様に、本当の全く元気の捧げたことが一度もない人がいるか。
信仰だ、信仰だと言いながらも、自分のためには贅沢に、もう許しのように使って、
選挙しなさい、神のためにはケチな人がいるかもしれない。どうでしょうか。
それでも神様は愛の神様だから、みんな許してくださるんでしょう。
もちろん悔いはダメだが、あたし達が本当に悔いはダメならば、主は許してくださるんでしょう。
でも、いつまでも悔いはダメばかりで、成熟があったのか。
だから、本当に我々は自分自身の信仰を深く感じなければならない。
ヤコブの手紙を読みたいと思います。
ヤコブの手紙2章14節です。ちょっと長いですけれども、
ヤコブの手紙2章14節です。あたしがお読みをします。
あたしの兄弟達、誰かが自分には信徒があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。
そのような信仰が、その人を救うことができるんでしょうか。
15節、もし兄弟また姉妹の誰かが、昼物がなく、また毎日の食べ物にもことを書いているような時に、
16節、あなた方のお力がその人たちに、安心していなさい。暖かになり、十分に食べなさいと言っても、
もし身体に必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょう。
17節です。それと同じように、信仰ももし行いがなかったなら、それだけでは死んだもない。
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18節、さらにこういう人もあるでしょう。あなたは信仰を持っているが、あたしは行いを持っています。
行いのないあなたの信仰をあたしに見せてください。あたしは行いによって、あたしの信仰をあなたに見せてあげます。
19節、あなたは神はお一人だと信じています。一般のことです。
ですが、悪霊どももそう信じて身振りをしています。
ああ、愚かな人よ。あなたは行いのない信仰が虚しいことを知りたいと思いますか。
本で見る2節です。あなたの見ている通り、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされるとある。本当にそうです。
最後に見る2節の結論が大事です。信仰は行いによって完成されるのです。
あたしたちは、聖霊からのプロセスとして、その中でどんどん美しい信仰の実を結ぶ聖徒に変えられていくことを信じます。
あたしたちの家にある聖霊様がそれを働かせてくださることを信じます。
あたしたちの家に良い働きを集められた人がそれを完成してくださることを信じて待ち望みます。
そこにあたしたちの主の御言葉への従順と献身による決心による行いの実が豊かに結ばれることを説明お祈り致します。
メッセージを終えたいと思います。
神様はあたしたちに、神を信じなさいと語ってあげます。同時にあたしの御言葉を行いなさいとも語ってあげます。
行いは信仰によって行われます。信仰は行いによって全うされ明かしされます。
願わくはあたしたちに皆が聖霊の力と祈りによってあたしたちのこの蒙古の目が開かれて美しくて素晴らしい信仰による身を豊かに結ばせていただいて、
そしてあたしたちの信仰を通してこの信仰の行いを通して神様に栄光をお返しできるものでありたいと願います。
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