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2025-03-30 34:09

「信仰によって生きる為に」2025年3月30日のメッセージ

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東京ぶどうの木教会 2025年30日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書)ルカ22:39-44イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。40. いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。41.そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。42.「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。43.すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。44. イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。

メッセージ題 :信仰によって生きる為に (ルカ22:39-44)
*世の中に人たちは?自分の力と熱心によって、また自分に委ね、人脈に委ね、世の手段に委ねます。しかしキリスト者は?信仰によって、神様に委ねていきます=信仰によって生きます。
*新年に入って、霊的な分別力と信仰に生活を分かち合っていますが・・・そこに加えて!

1.この世に対する神様のご計画は?創世記1,2章で・・・
*天地創造の中で、人間に豊かで幸せなエデンの園を・・・神様の祝福されたご計画が!しかし創世記3章で人間が神様の禁じられた善悪の知識の木の実を?Ⅰヨハネ3:8そのときから聖書は、神様の救いと回復の計画を!神様は愛する人間を救おうと思われました。そして、創世記3:15を!時が満ちたとき、女の子孫としてメシアを。マタイ4:23そして十字架と復活によって!ヨハネ3:16―>誰でも主の御名を呼び求める人は、救われる!この為に一番大事なのは信仰です

2.神様は救いと回復のご計画をどのように成し遂げられますか

1)先ず、神様はひとりの個人を救われますが・・・信仰が大事です。
*自分の善い行いによって救われる人は誰も!神様は信仰によって救われるように。信仰とは、神様がイエス・キリストを通して与えて下さる贖いの御業を謙遜に受け入れること。そのとき十字架の御業が。ヨハネ1:12<-人間が救われる道はこれしかありません。ただ信仰によって!!

2)救われた後の信仰生活の為にも・・・信仰が大事です。
*救われたというのは「義とされた」の意味。実際は罪人。神様はイエス様の贖いの御業を通して見られるので。従って油断してはいけない。聖化の努力を・・・いつも「イエス様ならどうされるか」

3)この世を救うことは神の民、キリスト者の使命・・・ここに信仰が大事です。
*出エジフト19:5,6 マタイ28:19,10 この為には、世の人々に神様を示さなければ!申命記7:7一番少ない民族が神のサイズの御業を?彼らの内に神様がおられる!信じて出て救われる
*その為に神の御声を聞く民、神様に従う民をとおして・・モセとヨシュアのように。先週の出来事

3.信仰によって生きる為に・・・
1)先ず、自分の考え、自分の観点、自己中心性を下ろさなければ。マタイ16:24,ガラテア2:20
2)神を信じますが、神の御声を正しく聞いて従わなければなりません。 神の御声を聞くと言いながら自分の声を聞く?自分を下ろさなかったから!神の御声を聞かないなら?祈りはどうなる
#ジョージ・ムウラの事例。19世紀イギリスの牧師。孤児院を4か所運営、1万人の孤児を養った。生涯5万回の応答を?使役の特徴、必要な資金はすべて神にのみ委ね・・・どのように祈ったのか?
1)先ず、自分を下ろした。2)聖霊の導きで聖書から御声を。3)環境を。4)聖書黙想、祈り、平安があるなら実践<-自分を下ろし忍耐しながら神様の導きを真剣に。ゲッセマネの祈りのように@信仰によって生きる=神中心的に生きる。一番邪魔は自分の考え、世の価値観。今もムウラの

サマリー

このエピソードでは、信仰による生き方の重要性や神の救いの計画について考察されています。また、エデンの園やイエス・キリストの贖いを通じて、人間の救いと回復について説明されています。信仰を通じてキリスト教の恵みや祝福を他者に示すことの重要性も語られており、ジョージ・ミュールの奇跡的な祈りの体験を通じて、神の声を聞き、従うことの意味が探求されています。さらに、信仰が神中心の生活を意味し、神の絶対善の計画を実現する重要性についても語られています。特に、自分の考えや願いを捨て、神の身分を理解し祈ることで、神の御業を実現することが強調されています。

信仰の重要性
今日は、信仰によって生きる為にという答えを持って、メッセージを分かち合いたいと思います。
新年に入って、私たちは礼儀的な分別力と信仰についてずっと分かち合いました。
終わりの時に一番大事なのは分別力ですね。なぜなら、騙す、いろいろな誘惑があるから、人々が騙されて
間違えた道に行って自分の人生が難しくなるということはたくさんあるからです。 私、信仰です。
最後の時には、いろいろ難しさがいろいろあります。 その中で私たちは何を持っていくべきなのか、私たちは信仰を持っていかなければなりません。
世の中の人は自分の知恵と力と自分の努力で生きています。 しかし信者たちは信仰によって生きます。
世の中の人々は自分に委ね、沈脈に委ね、世の中の様々な手段に委ねるんですけど、
キリスト者は神様を信じて神様に委ねます。 今までずっと信仰によって生きることをいろいろ調べたんですけど、今日はもう一つ加えて、
信仰によって生きるためにまた一つの必要なことが何なのか、これを一緒に考えていきたいと思います。
この世に向けられた神様の警告は何でしょう。 創世紀1章2章では神様が天地を作られた、その中で
エデンの園を作られ、そのエデンの園を人間に与えてくださいました。
このエデンの園は幸せ豊か、本当に祝福の園でした。
人間に対する神のもともとの計画はエデンのようなところで、これから祝福の中で幸せに過ごしなさいという神の計画は祝福の計画だったんです。
そこで私たちは永遠に、そのまま神様との親しい関係の中で、永遠に行けたらよかったんですけど、
創世紀3章で人間は神様が禁じられた、チェンアクの知識の木の実を食べて罪を犯してしまいます。
罪を犯す者は悪魔に直します。 人間が悪魔に直してから神様の計画は
祝福の計画が変わって、救いの計画と回復の計画として変わります。
イエス・キリストの贖い
それからずっと聖書は人間をどう救うか、人間のすべてをどのように回復するか、救いと回復の計画になります。
大事なのは、ここが非常に大事なんですけど、人間が神様から離れた理由は、
人間が神様が嫌いで嫌いで嫌いで、自分の意思で神様から離れたことではありません。
人間が神様から離れたのは、自分も分からないうちに誘惑によって惑わされて、罪を犯してから、
もう仕方がなく罪によって神様から別れてしまいました。 自分の本音ではなかったので、
そこに神様は人間を取り戻そうとされるんです。
そうするために神様はどのように取り戻されますか?
創世紀3章15節、女の子孫としてメシアを送ってくださって、このメシアによって人間を救おうと思われます。
時が満ちた時に、自分の一人子イエス・キリストを少女を通して、この世に送ってくださるんですね。
このイエス・キリストはこの世に来られて、人々を教え、述べ、伝え、癒して、そして最後に人々のために十字架で地を流してくださるんです。
この地によって救いの道、罪の許しの道、贖いの道が開かれました。
これから大事なのは信仰なんです。
ヨワネ3章16節、神はその一人子をお与えになったほどに、両愛された。
一人子を信じる者は、一人で滅びないで、永遠の命を得るためである。
一人子を信じる者は、一人でも滅びないで、永遠の命を得るためである。
ですから、神様の救いの計画と、回復の計画を受け入れるところには、信仰が必要なんです。
ですから、神様は私たちに、信仰あるのか、信仰あるのか、信仰を要求されます。
神様の救いと回復の計画をどのように成し遂げるのか、この三つと分けて考えていきましょう。
まず、個人の救いです。
個人の救い、自分自身の良い行いによって救われる人は、世の中に誰もいません。
立法を守る、自分の良い行いによって救おうと、救われようとしたら、
全ての立法をいつも守らなければいけません。
全ての立法をうまく守りながら、最後に一つ犯したら、一つ犯したことによって罪人になります。
だったら、救いは与えられません。
だから、自分の努力によって、良い行いによって救われる人は、世の中に誰もいません。
ですから、神様は、行いによることではなく、信仰によって人を救うことを決められたんです。
そして、イエス様の十字架の地、贖いの地を通して、死を通して、それを謙遜に受け入れる人、
神様が、「これが救いの道だよ。それを受け入れるか?」と言った時に、
分かります。私は罪人です。謙遜にそれを受け入れます。
この謙遜な人に恵みを与えようと思ったんですね。
そこに信仰が必要です。
イワネイ一書中二節、
しかし、イエス・キリストは、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の異なる資格を与えた。
人間が救われる道は、イエス・キリストの功労を、私のためだということで、受け入れること。
それしかありません。
神様は、この以外の方法を与えたことはありません。
ですから、人間が救われるところには、イエス・キリスト、ただイエス・キリスト、私のために死んで下さった、
このイエス・キリストを信じること、悔い改めることによって、救われることができます。
じゃあ、救われて終わりですか?
そうではありません。
救われた後の信仰生活にも、信仰が必要です。
私たちが救われたと言ったときに、この救われたって意味が何なのか。
神様によって、正しきっとされたということです。
この言葉は、人間が罪人だとしても、神様は、人間、罪人をそのまま見るんじゃなくて、
イエス・キリストを通して人間を見るから、イエス・キリストの恵み、イエス・キリストの厚労を通して人間を見るから、
イエス・キリストが正しいから、この裏にある私たちも正しいです。
だから、人間は、イエス・キリストの内にいなければ、これはもう罪人につきません。
イエス・キリストが内にいたら、イエス・キリストが私たちの保護膜になって、あなたは正しいと言ってくださることです。
だから、神様が私たちを正しいと、罪人だと言ったときに、本当に罪人だから、罪人と言うんじゃなくて、
イエス・キリストによって、イエス・キリストの厚労をいつも神様が考えるから、罪人ということです。
でも、実際は罪人なんです。
だから人間は、この罪人のことを私たちが、この成果の過程、
この自分の罪を神様に悔い改め、そして神様から許される、許される、イエス・キリストに見習っていく、見習っていく、
これを通して、罪人、罪ばかりの人間が、だんだんイエス様に見習っていく、
この成果の過程を通して、神様によって、あなたは本当にうまくやっているんだということを認められなければなりません。
だから信仰を持っている私たち、神様から救われたと、嫉妬された私たちには、
何より大事なのは、イエス様の家に留まり、イエス様に見習っていくこの生活が大事なんです。
イエス様に見習っているこの生活のために、私たちは信仰が必要です。
どうして見習っていくんですか。私の自分のわがままでやっていれば、これは罪しかないから、
イエス様だったらどうされるかなと思いながら、イエス様はこうされたと信じて、そのようにやっていく、そのようにやっていく、
そのうちに、だんだんだんだん私たちが変わっていきます。
それで、イエス様の知識と好品性と能力の、この調和ある私たちの姿に変わっていく。
その時、神様が私たちを喜ばれ、私たちを使ってくださいます。
罪人ばかりで、神様がイエス様から離れていって、自分勝手に過ごしていく。
この人を神様が使うことはできません。その人を倒して何にもできません。
だから、イエス様に救われたという人は、イエス様のうちに留まる。また、イエス様に見習っていく。
その中で、イエス様だったらどうされるかなと思いながら、イエス様に真似していく。
学んでいく。見習っていく。この生活を絶えず行わなければなりません。
個人の救いに信仰が必要。信仰生活の成果のためにも信仰が必要です。
もう一つがあります。神様が私たちに、この世を救うように私たちに使命が与えられました。
神のためにイスラエル。私たちキリスト者には使命があります。ここに信仰が必要です。
神様が旧約聖書をイスラエルために、何と言われたのか。主チェイジップと中級書、後説と六説。
全世界が私のものだ。全世界が私に職している。
あなたはこの全世界に対して最始の王国になれ。最始は何をするんですか。
全世界を罪を取り除くために、全世界のために祈っていく。これが最始たちがやることでしょう。
イスラエルは最始の王国だと言われるほど、王のパワーを持って全世界を救っていく。この働きをしなさい。
新約時代、イエス様はキリスト者たちに、だからあなたたちを言って、全ての民を私の弟子にしなさい。
全ての人々を救い、弟子にする。大選挙命令を与えてください。
この働きをどうすればできますか。今、皆さん、日本でこの人を救うのはどれほど難しいことでしょうか。
実際、その働きをするためには、世の人々に神を信じなさい。神はどこにいる。神は本当にいるのかと思うでしょう。
だから、この世の中の人々に神様が生きておられるんだ、神様の存在を示してあげなければいけない。
示してあげながら、この方を信じなさいと言うべきでしょう。
世の中の人々に神様をどのように示してあげることができますか。
ここで、旧約聖書で神様が行った方法があります。神明記7章7節。
神様があなたたちを選ばれた理由は、あなたたちは世の中で一番数が少ない、一番貧弱な民だ。
だから私はわざわざあなたたちを選んだ。どんな意味ですか。
世の中で一番弱い、一番数も少ない民族が神様のような働きをします。神の祭典のような働きをします。
だったら、全世界がびっくりするでしょう。
そして、うわぁ、彼らがどうしてこんなことができるのか。神様が共におられるよ、と。
その方たちの中で神様がおられるんだ、と思って、この神を私は信じたい、と。
その人がエリコ城のラハブではありませんか。
だから、私たちも世界の人々に神様が生きておられる、神様はこんな素晴らしいお方ということを、
見せてあげなければいけない、示してあげなければいけません。
神は霊です。霊である神様を全世界の人にどう示すことができるか。
ここが私たちの役目であり、私たちをこれから役るべきことなんです。
先週、息子が家にいるときに、私がちょうどそのときいなかったですね。
私の家に姉妹が二人、家に入ってきたそうです。
ペールを流して、息子が出て行ってみたら、私たちは何々ですと言いながら、
宗教がありますか、と言って。
そこから息子が、私たちはクリスチャンですけど、キリスト教なんですけど、と言ったら、
姉妹たちは何というのか、キリスト教は幸せがないよ、と言って行っちゃったそうです。
私がいないうちに、びっくりして、キリスト教は幸せがありませんね、
と言って帰っちゃった。
息子は私に言ったんです。
ああ、私、なんとか、これは神の見こえのように聞こえました。
キリスト教は幸せがない、と。
私がパッと思われるのは、ああ、そうだ。
キリスト教の何を見て、この人たちが幸せがないと断言できるか。
また、お前たちはなんで、お前たちには幸せがあるのか。
信仰の重要性
いろいろ、何か腹が立ち、ここで考えました。
キリスト教で永遠の命がある。
キリスト教で祝福がある。
キリスト教で幸せがあるなら、日本の方々にそれを示してあげなきゃいけないのに、
私たちはこのことを示してあげることはできなかった。
だから世の中の人々が、キリスト教は幸せがないよ、と言っちゃって、それで帰っちゃった。
私は牧師でしょ。
幸せがあるということを示してあげるべきになったのに、私はできなかった。
これがパーッと私の心に来て、恥ずかしかったんです。
皆さん、どうすれば、キリスト教に幸せがあるよ、キリストに祝福があるよ、
キリスト教に永遠の命、天国が当たり前として与えられるよ、と、
それを示すことができるか。
皆さん、ここに信仰が必要です。
またここに、キリスト教を信じる私たちは、神の御声を聞いて従うことが必要なんです。
もともと旧約聖書で、モーセの時に、シチュエジプトをする時に、モーセに航海の海があります。
これを後ろから追いかけてくるエジプトの兵士たち。
この前でどうしようかと思った時に、神様がモーセに、あなたは何を持っているのか、杖です。
杖を海に向かって手を伸ばしなさい。
そうしたら海がフワーッと分けられました。
また、ヨウショアニはヨルダン川に入りなさいと言う。
入って膝まで水に浸した時に、川がフワーッと分けられました。
またヨウショアニはエリコ城を毎日一回りずつ回って、7回回りなさい。
皆さん、神の御声を聞いて信じて従ったのに。
そうしたら海が分けられ、川が分けられ、そして南高不落の城が崩れ落ちたんです。
それを見てエリコ城のラハムが、お前たちの神は本当の神だと思って、
自分は神様のところに来たでしょう。
私たちは今何をやっていますか。
むしろ世の中の価値観、理性、知性によって、
こんなことはありえない、奇跡ということは今の時代はありません、
そのことを疑って論争していることではありませんか。
私たちは信じないし、神の御声を聞かないし、従わないから、
キリスト教は何にもないようになってしまったから、
世の中の人々が見るときに、キリスト教は幸せがないよと言っちゃって、
私たちは恥をかけているんです。
ここで私たちはモーセのように、ヨーシュアのように、
本当にパウルのように、今の時代、私たちに言われてくださる神の御声を聞くことも大事だし、
それを信じて従うことも、私たちがやっていかなければならない。
これはもう、世の中に神様が生きておられるを示すこと、
これ以上私たちには、伝道はどうするんですか、どのように伝道ができますか。
ただ信じましょう。
ご利益があるから信じましょうとか、
こんな話が私たちが伝えるべきことではないでしょう。
ですから私たちには信仰が必要です。
ジョージ・ミュールの祈り
信仰のために、私たちに一番大事なのは、
まず自分の考えを下ろさなきゃいけない。
自分の観点、自己中心的な考えを下ろさなきゃいけない。
イエス様がマッタイ6章16章24節に、
私についていきたいと思う人は、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。
また、パウロが信仰によって生きる自分自身に対して何と言うんですか。
私はキリストと共に十字架にかけられています。
生きているのはもはや私ではありません。
キリストが私のうちに生きておられます。
私は今肉において生きているのは、
私を愛し私のために身を捧げられた神の子に対する信仰によることです。
パウロは自分は死んだ。
私が生きている理由は、私のうちにおられるイエス・キリストを信じる信仰によって生きるのだ。
これを大胆に言われたことと同じなんです。
私たちも信仰によって生きるためには、イエス様のようにパウロのように、
まず自分自身を下ろさなきゃいけない。
また信仰によって生きるためには、私たちは神の御声を聞いて従わなきゃいけない。
信仰によって生きる、何を信じるのか。
神様が何か言われたことを信じるでしょう。
神様が何も言っていないのに、自分は信じます、信じますと。
話にならないんじゃありませんか。
じゃあ、大抵の人は神の御声を信じるんだと言いながら、
自分の考えを信じて行っています。
私たちは自分を捨てなければ、神様が何を言われるのか、これは分かりません。
大抵の人は、今神の御声を聞くんだという、
喜怒詩益を当てる人たちをいろいろ見ていますと、
私はいろいろなことがあります。
これは自分の話を言うんだということも、いろいろ考えられます。
本当に神の御声を聞いて言うのか、
自分の思われることをパパは言っているのか。
だけど自分のことを言うなら、これはもう神の御声じゃないから、
できるかできないか、もうできないでしょう。
本当に神の御声を聞いたなら、
それを信じたら奇跡が起こるようになるでしょう。
だから私たちには神の御声を聞かなければいけない。
まず自分を下ろし、神の御声を聞いて従うことさえできれば、
私たちも世の中の人々が、キリスト教は幸せがないよという、
このような取り扱いをされることはないんじゃありませんか。
だからそのために私たちは神の御声を聞くことは大事なんですけど、
そのために今日は私たちに大きな教訓を与えてくださる方がいます。
それはジョージ・ミュールという人です。
皆さんいろいろ聞かれたと思いますけど、
神を体験する本の中で、
ジョージ・ミュールに対するいろいろな記事が紹介されています。
私はこれを簡単に紹介しましょう。
ジョージ・ミュールは19世紀、イギリスで活動した牧師先生です。
その方は当時戦争の中でみなし子になっていた、
この大勢の子供たちがいました。
その子供たちを助けるために、4つの後人を立てた。
そこで戦争によってみなし子になった子供たちを、
ここに預かっているんですけど、
その方はこの子供たちを面倒見るために、
一度も人々にお金が足りません、
元気にしてくださいという話を一切していない。
ただ神様だけに委ねて、
他人には何にも話をしていなかった。
神様だけに委ねた。
その方は93歳まで働いたんですけど、
約1万人以上の子供たちを助け、
またその方の有名なのは、
5万回の祈りの答えが与えられたということです。
私は数えてみました。
私が40歳から大抵このような働きをしたとしたら、
40歳から90歳まで約50年間、
5万件の祈りの答えがあったとしたら、
みなさん1年間約何回ですか、
1千回以上。
だったら1日何回ですか、
1日3回くらいの神様の答えがあった、
祈りの答えが。
みなさん、1ヶ月1回だとしても、
私たちは1回の祈りの答えをいつも明かしするでしょう。
1日3回の答えが与えられたとしたら、
これはただの簡単な答えじゃなくて、
後人を運営するところで現れたこの答えですから、
すごい答えになると思います。
1日3回素晴らしい答えがいつも与えられたとしたら、
この方は祈りの答えの中で過ごしていた、
奇跡の中で過ごしていたと言えるでしょう。
どうしてこの方はこんな素晴らしい働きができたのか、
これを神を体験する本で教えてください。
この方の祈りの特徴、
祈るときにまず、
自分が願っていることに対して、
祈ろうとすることに対して、
自分の考えが全くないように、
下ろされるように、心を空っぽにしたと言います。
大抵私たちが祈るとき、
神様、これはこうしてください、
このようにしてください、
願うじゃありませんか。
今、みなさん、いろいろ期待されることあるでしょう。
神様、これは必ずこのようにしてください、
自分の願いを込めて神様に求めるんです。
大抵そうじゃありませんか。
常時見るのは、
自分の考えがなくなるように、
まず空っぽにしたと。
そして、神様の身群を知りたいということです。
これができれば、祈りの90%はできたということです。
だから、自分の考えを下ろすことじゃなければ、
祈りはなかなか、神様に対する正しい祈りはできていない。
自分の考えを下ろすことが前提です。
これができたら、
90%の答えをいただく祈りができると。
2番目は、精霊様に、
見事場の中で、
神の身群が悟られるように、
助けてください、示してくださいと、
ずっと祈るそうです。
そして、ある日は、
ずっと聖書ばっかり見て、
神の身群が何なのか、
これを解決する神様の身群を教えてくださいと、
チュッと祈る。
皆さん、私たちが祈るときに、
神様が何か約束したことがなければ、
私たちの祈りは必ずしもできるということはあり得ないでしょう。
だから、祈りに精霊様を通して、
神の約束をいただきたい。
3番目、彼は環境の中で、
神様がどこか働いていらっしゃるのではないかと、
いつも敏感に環境を見ていた。
見つめていた。
4番目、
聖書を読み、
牧草をし、
祈り、
その中で、神様が平安をくださるところだったら、
また、神様が祈るとき、
聖書を読むとき、
続けて平安を与えてくださったら、
これが神の計画だと、
これを信じて、実践に行ったそうです。
ここで、この本で、
ジョージュ・ミルが神の身もれを知るように役に立ったことは、
神の導きを真剣に求めた。
神様が語ってくださるときまで、
ずっと忍耐して待てた。
また、精霊様に徹底的に委ねた。
そうするときに、神の身もれをよく知ることができるし、
そのとき、神様の祈りの答えがいつも当たる。
しかし、ジョージュ・ミルに対して失敗させたことは、
神の声を聞くこと
神様と正しい関係の中にいなかった。
正直な心がなかった。
神様の働きを待つことなくて焦った。
また、神様より人の話をもっと聞いた。
そのときはいつも失敗した。
失敗すること、神様と正しい関係の中にいなかった。
正直な心がなかった。
忍耐して待つことはなかった。
神様より人の声にもっと耳を傾けた。
そのときはいつも失敗した。
皆さん、自分の考えを下ろし、
神様の身もれを切実に求めるときに、
神様は神の身もれを示してくださいます。
そうするなら、神様が示したその計画を
成し遂げることができるようにずっと祈った。
そのとき、驚くことの奇跡があった。
いつも皆さん聞くことでしょう。
朝の食事の時間になったのに、
信仰と祈りの重要性
子どもたちに食べさせるパンがない。
どうしよう。
人に頼るんじゃなくて、神様にちょっと祈る。
そのときいきなり、パン屋の車が5時に入ってくる。
パンを作るのに少し焦げてしまったから、
これは商品にはならないけど、
それを子どもが食べるのは問題ありません。
でも、この大量のパンをどこで預かることができるかと考えたら、
たぶんここだと思って持ってきました。
そのようなやり方で、
神様は子どもたちの日常の糧を満たしてくださった。
超人ビルドリー祈りの中で一番大事なのは、
自分の考えを下ろす。
自分の希望を下ろす。
神様、こう言うとやってください。
神様はしもべではありません。
神様は主ですから、
神様の身分通りに成し遂げる。
自分が願うことを神様に預けるんじゃなくて、
神の身分、自分の考えを下ろすこと。
神の身分を聞くこと。
それを持って祈るときに、
神様は自ら、みな子どもたちを食べさせてくださった。
みなさん、今は子孫節の時期です。
イエス様は結成マネーで祈ったことを、
みなさん覚えていらっしゃるでしょう。
ルッカの22章42節。
父よ、御心ならこの杯を私から取り除けてください。
しかし、私の願いではなく、
御心のままに出し遂げてください。
みなさん、これが私たちが学ぶべき信仰の祈りです。
みなさん、私たちにどれほど深刻な問題がたくさんあるでしょうか。
神様、これをやってくださらなければ、
今私は大変です。大変です。
もう経済的な問題、いろいろな問題、たくさん問題あるじゃないか。
この問題を解決してくださいと祈ることはありますけど、
この問題に対する神の身分は何ですか。
神の身分が成し遂げられますようにと祈る。
この祈りは私たちにはあまりなかった。
私はあまりなかったんじゃないかと思います。
みなさん、神様は私たちに対して絶対善の計画を持っています。
神様の働きは一番正しいです。
私の願いが叶えられるより、神様の計画、
神様が私に対して持っておられる絶対善の計画が成し遂げられることが、
私に対しても、みなさんに対しても、教会に対しても一番良いことです。
だから一番良い、一番良い絶対善のあなたの計画が、
今私たちに成し遂げられますようにと祈る。
これがイエス様の結成までの祈りの大事なポイントです。
神の計画を成し遂げる
今日のメッセージのテーマは、
信仰によって生きるためにということです。
信仰によって生きることは、神中心的に生きること。
神の道、神の方法、神の恵み、神の資源で生きることです。
信仰によって生きることの一番の邪魔は、
自分の考え、世の中の価値観によって生きることです。
私たちは私たちの願いを成し遂げてくださいと、神様に祈っている場合があるのではありませんか。
自分の考えを下ろしておいて、
神様の計画、絶対善の計画を聞き、
この絶対善の計画を成し遂げることができるように、
大主よ、働いてください、働いてくださいと祈ること。
これがイエス様の結成までの祈りではありませんか。
もし今、今の時代、長寿未老のように、
神の身旨、自分の考えをシャッと下ろし、
神の身旨を聞き、そして神の計画を成し遂げることができるようにと、
信仰によって生きる人がいるなら、
今も神様が大勢の人々を食べさせ、大勢の人々を癒され、
大勢の神様の御業が行われるでしょう。
これを考える時に、
ああ、私は私の願いを切に祈ることはあったんだけど、
絶対善の神様の計画が成し遂げられるように、
これが一番正しい、一番良いことになる、
これからすべての人に有益を与えてくださるはずなのに、
そのために祈ったことがどれほどあったのか、
恥ずかしく思います。
そして私たちはこれから自分の考えを下ろし、
あなたの計画が、あなたの絶対善の計画が成し遂げられますように、
という祈る賢い私たちになりましょう。
信仰によって救われたら、これから私たちは信仰によって生きるんです。
アメン、お祈りいたします。
主よ、世の中の人々と異なり、私たちは信仰によって救われ、
信仰によって生きるように神様から召された者たちです。
私たちが信仰によって生かないことによって、
キリスト教は幸せがないよと、
こんな話まで私たちは聞いています。
神様の皆が栄光を受けられない状態ではありませんか。
主は私たちに信仰を増し加えてください。
主の皆があがめられ、御国が来ますように、
御心が天で行われる日でも行われますようにと、
この祈りを私たちができるように、
私たちに信仰と恵みを増し加えてください。
イエス様の皆を通してお祈りいたします。
アメン、アメン、ありがとうございます。
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