それからずっと聖書は人間をどう救うか、人間のすべてをどのように回復するか、救いと回復の計画になります。
大事なのは、ここが非常に大事なんですけど、人間が神様から離れた理由は、
人間が神様が嫌いで嫌いで嫌いで、自分の意思で神様から離れたことではありません。
人間が神様から離れたのは、自分も分からないうちに誘惑によって惑わされて、罪を犯してから、
もう仕方がなく罪によって神様から別れてしまいました。 自分の本音ではなかったので、
そこに神様は人間を取り戻そうとされるんです。
そうするために神様はどのように取り戻されますか?
創世紀3章15節、女の子孫としてメシアを送ってくださって、このメシアによって人間を救おうと思われます。
時が満ちた時に、自分の一人子イエス・キリストを少女を通して、この世に送ってくださるんですね。
このイエス・キリストはこの世に来られて、人々を教え、述べ、伝え、癒して、そして最後に人々のために十字架で地を流してくださるんです。
この地によって救いの道、罪の許しの道、贖いの道が開かれました。
これから大事なのは信仰なんです。
ヨワネ3章16節、神はその一人子をお与えになったほどに、両愛された。
一人子を信じる者は、一人で滅びないで、永遠の命を得るためである。
一人子を信じる者は、一人でも滅びないで、永遠の命を得るためである。
ですから、神様の救いの計画と、回復の計画を受け入れるところには、信仰が必要なんです。
ですから、神様は私たちに、信仰あるのか、信仰あるのか、信仰を要求されます。
神様の救いと回復の計画をどのように成し遂げるのか、この三つと分けて考えていきましょう。
まず、個人の救いです。
個人の救い、自分自身の良い行いによって救われる人は、世の中に誰もいません。
立法を守る、自分の良い行いによって救おうと、救われようとしたら、
全ての立法をいつも守らなければいけません。
全ての立法をうまく守りながら、最後に一つ犯したら、一つ犯したことによって罪人になります。
だったら、救いは与えられません。
だから、自分の努力によって、良い行いによって救われる人は、世の中に誰もいません。
ですから、神様は、行いによることではなく、信仰によって人を救うことを決められたんです。
そして、イエス様の十字架の地、贖いの地を通して、死を通して、それを謙遜に受け入れる人、
神様が、「これが救いの道だよ。それを受け入れるか?」と言った時に、
分かります。私は罪人です。謙遜にそれを受け入れます。
この謙遜な人に恵みを与えようと思ったんですね。
そこに信仰が必要です。
イワネイ一書中二節、
しかし、イエス・キリストは、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の異なる資格を与えた。
人間が救われる道は、イエス・キリストの功労を、私のためだということで、受け入れること。
それしかありません。
神様は、この以外の方法を与えたことはありません。
ですから、人間が救われるところには、イエス・キリスト、ただイエス・キリスト、私のために死んで下さった、
このイエス・キリストを信じること、悔い改めることによって、救われることができます。
じゃあ、救われて終わりですか?
そうではありません。
救われた後の信仰生活にも、信仰が必要です。
私たちが救われたと言ったときに、この救われたって意味が何なのか。
神様によって、正しきっとされたということです。
この言葉は、人間が罪人だとしても、神様は、人間、罪人をそのまま見るんじゃなくて、
イエス・キリストを通して人間を見るから、イエス・キリストの恵み、イエス・キリストの厚労を通して人間を見るから、
イエス・キリストが正しいから、この裏にある私たちも正しいです。
だから、人間は、イエス・キリストの内にいなければ、これはもう罪人につきません。
イエス・キリストが内にいたら、イエス・キリストが私たちの保護膜になって、あなたは正しいと言ってくださることです。
だから、神様が私たちを正しいと、罪人だと言ったときに、本当に罪人だから、罪人と言うんじゃなくて、
イエス・キリストによって、イエス・キリストの厚労をいつも神様が考えるから、罪人ということです。
でも、実際は罪人なんです。
だから人間は、この罪人のことを私たちが、この成果の過程、
この自分の罪を神様に悔い改め、そして神様から許される、許される、イエス・キリストに見習っていく、見習っていく、
これを通して、罪人、罪ばかりの人間が、だんだんイエス様に見習っていく、
この成果の過程を通して、神様によって、あなたは本当にうまくやっているんだということを認められなければなりません。
だから信仰を持っている私たち、神様から救われたと、嫉妬された私たちには、
何より大事なのは、イエス様の家に留まり、イエス様に見習っていくこの生活が大事なんです。
イエス様に見習っているこの生活のために、私たちは信仰が必要です。
どうして見習っていくんですか。私の自分のわがままでやっていれば、これは罪しかないから、
イエス様だったらどうされるかなと思いながら、イエス様はこうされたと信じて、そのようにやっていく、そのようにやっていく、
そのうちに、だんだんだんだん私たちが変わっていきます。
それで、イエス様の知識と好品性と能力の、この調和ある私たちの姿に変わっていく。
その時、神様が私たちを喜ばれ、私たちを使ってくださいます。
罪人ばかりで、神様がイエス様から離れていって、自分勝手に過ごしていく。
この人を神様が使うことはできません。その人を倒して何にもできません。
だから、イエス様に救われたという人は、イエス様のうちに留まる。また、イエス様に見習っていく。
その中で、イエス様だったらどうされるかなと思いながら、イエス様に真似していく。
学んでいく。見習っていく。この生活を絶えず行わなければなりません。
個人の救いに信仰が必要。信仰生活の成果のためにも信仰が必要です。
もう一つがあります。神様が私たちに、この世を救うように私たちに使命が与えられました。
神のためにイスラエル。私たちキリスト者には使命があります。ここに信仰が必要です。
神様が旧約聖書をイスラエルために、何と言われたのか。主チェイジップと中級書、後説と六説。
全世界が私のものだ。全世界が私に職している。
あなたはこの全世界に対して最始の王国になれ。最始は何をするんですか。
全世界を罪を取り除くために、全世界のために祈っていく。これが最始たちがやることでしょう。
イスラエルは最始の王国だと言われるほど、王のパワーを持って全世界を救っていく。この働きをしなさい。
新約時代、イエス様はキリスト者たちに、だからあなたたちを言って、全ての民を私の弟子にしなさい。
全ての人々を救い、弟子にする。大選挙命令を与えてください。
この働きをどうすればできますか。今、皆さん、日本でこの人を救うのはどれほど難しいことでしょうか。
実際、その働きをするためには、世の人々に神を信じなさい。神はどこにいる。神は本当にいるのかと思うでしょう。
だから、この世の中の人々に神様が生きておられるんだ、神様の存在を示してあげなければいけない。
示してあげながら、この方を信じなさいと言うべきでしょう。
世の中の人々に神様をどのように示してあげることができますか。
ここで、旧約聖書で神様が行った方法があります。神明記7章7節。
神様があなたたちを選ばれた理由は、あなたたちは世の中で一番数が少ない、一番貧弱な民だ。
だから私はわざわざあなたたちを選んだ。どんな意味ですか。
世の中で一番弱い、一番数も少ない民族が神様のような働きをします。神の祭典のような働きをします。
だったら、全世界がびっくりするでしょう。
そして、うわぁ、彼らがどうしてこんなことができるのか。神様が共におられるよ、と。
その方たちの中で神様がおられるんだ、と思って、この神を私は信じたい、と。
その人がエリコ城のラハブではありませんか。
だから、私たちも世界の人々に神様が生きておられる、神様はこんな素晴らしいお方ということを、
見せてあげなければいけない、示してあげなければいけません。
神は霊です。霊である神様を全世界の人にどう示すことができるか。
ここが私たちの役目であり、私たちをこれから役るべきことなんです。
先週、息子が家にいるときに、私がちょうどそのときいなかったですね。
私の家に姉妹が二人、家に入ってきたそうです。
ペールを流して、息子が出て行ってみたら、私たちは何々ですと言いながら、
宗教がありますか、と言って。
そこから息子が、私たちはクリスチャンですけど、キリスト教なんですけど、と言ったら、
姉妹たちは何というのか、キリスト教は幸せがないよ、と言って行っちゃったそうです。
私がいないうちに、びっくりして、キリスト教は幸せがありませんね、
と言って帰っちゃった。
息子は私に言ったんです。
ああ、私、なんとか、これは神の見こえのように聞こえました。
キリスト教は幸せがない、と。
私がパッと思われるのは、ああ、そうだ。
キリスト教の何を見て、この人たちが幸せがないと断言できるか。
また、お前たちはなんで、お前たちには幸せがあるのか。
いろいろ、何か腹が立ち、ここで考えました。
キリスト教で永遠の命がある。
キリスト教で祝福がある。
キリスト教で幸せがあるなら、日本の方々にそれを示してあげなきゃいけないのに、
私たちはこのことを示してあげることはできなかった。
だから世の中の人々が、キリスト教は幸せがないよ、と言っちゃって、それで帰っちゃった。
私は牧師でしょ。
幸せがあるということを示してあげるべきになったのに、私はできなかった。
これがパーッと私の心に来て、恥ずかしかったんです。
皆さん、どうすれば、キリスト教に幸せがあるよ、キリストに祝福があるよ、
キリスト教に永遠の命、天国が当たり前として与えられるよ、と、
それを示すことができるか。
皆さん、ここに信仰が必要です。
またここに、キリスト教を信じる私たちは、神の御声を聞いて従うことが必要なんです。
もともと旧約聖書で、モーセの時に、シチュエジプトをする時に、モーセに航海の海があります。
これを後ろから追いかけてくるエジプトの兵士たち。
この前でどうしようかと思った時に、神様がモーセに、あなたは何を持っているのか、杖です。
杖を海に向かって手を伸ばしなさい。
そうしたら海がフワーッと分けられました。
また、ヨウショアニはヨルダン川に入りなさいと言う。
入って膝まで水に浸した時に、川がフワーッと分けられました。
またヨウショアニはエリコ城を毎日一回りずつ回って、7回回りなさい。
皆さん、神の御声を聞いて信じて従ったのに。
そうしたら海が分けられ、川が分けられ、そして南高不落の城が崩れ落ちたんです。
それを見てエリコ城のラハムが、お前たちの神は本当の神だと思って、
自分は神様のところに来たでしょう。
私たちは今何をやっていますか。
むしろ世の中の価値観、理性、知性によって、
こんなことはありえない、奇跡ということは今の時代はありません、
そのことを疑って論争していることではありませんか。
私たちは信じないし、神の御声を聞かないし、従わないから、
キリスト教は何にもないようになってしまったから、
世の中の人々が見るときに、キリスト教は幸せがないよと言っちゃって、
私たちは恥をかけているんです。
ここで私たちはモーセのように、ヨーシュアのように、
本当にパウルのように、今の時代、私たちに言われてくださる神の御声を聞くことも大事だし、
それを信じて従うことも、私たちがやっていかなければならない。
これはもう、世の中に神様が生きておられるを示すこと、
これ以上私たちには、伝道はどうするんですか、どのように伝道ができますか。
ただ信じましょう。
ご利益があるから信じましょうとか、
こんな話が私たちが伝えるべきことではないでしょう。
ですから私たちには信仰が必要です。
信仰のために、私たちに一番大事なのは、
まず自分の考えを下ろさなきゃいけない。
自分の観点、自己中心的な考えを下ろさなきゃいけない。
イエス様がマッタイ6章16章24節に、
私についていきたいと思う人は、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。
また、パウロが信仰によって生きる自分自身に対して何と言うんですか。
私はキリストと共に十字架にかけられています。
生きているのはもはや私ではありません。
キリストが私のうちに生きておられます。
私は今肉において生きているのは、
私を愛し私のために身を捧げられた神の子に対する信仰によることです。
パウロは自分は死んだ。
私が生きている理由は、私のうちにおられるイエス・キリストを信じる信仰によって生きるのだ。
これを大胆に言われたことと同じなんです。
私たちも信仰によって生きるためには、イエス様のようにパウロのように、
まず自分自身を下ろさなきゃいけない。
また信仰によって生きるためには、私たちは神の御声を聞いて従わなきゃいけない。
信仰によって生きる、何を信じるのか。
神様が何か言われたことを信じるでしょう。
神様が何も言っていないのに、自分は信じます、信じますと。
話にならないんじゃありませんか。
じゃあ、大抵の人は神の御声を信じるんだと言いながら、
自分の考えを信じて行っています。
私たちは自分を捨てなければ、神様が何を言われるのか、これは分かりません。
大抵の人は、今神の御声を聞くんだという、
喜怒詩益を当てる人たちをいろいろ見ていますと、
私はいろいろなことがあります。
これは自分の話を言うんだということも、いろいろ考えられます。
本当に神の御声を聞いて言うのか、
自分の思われることをパパは言っているのか。
だけど自分のことを言うなら、これはもう神の御声じゃないから、
できるかできないか、もうできないでしょう。
本当に神の御声を聞いたなら、
それを信じたら奇跡が起こるようになるでしょう。
だから私たちには神の御声を聞かなければいけない。
まず自分を下ろし、神の御声を聞いて従うことさえできれば、
私たちも世の中の人々が、キリスト教は幸せがないよという、
このような取り扱いをされることはないんじゃありませんか。
だからそのために私たちは神の御声を聞くことは大事なんですけど、
そのために今日は私たちに大きな教訓を与えてくださる方がいます。
それはジョージ・ミュールという人です。
皆さんいろいろ聞かれたと思いますけど、
神を体験する本の中で、
ジョージ・ミュールに対するいろいろな記事が紹介されています。
私はこれを簡単に紹介しましょう。
ジョージ・ミュールは19世紀、イギリスで活動した牧師先生です。
その方は当時戦争の中でみなし子になっていた、
この大勢の子供たちがいました。
その子供たちを助けるために、4つの後人を立てた。
そこで戦争によってみなし子になった子供たちを、
ここに預かっているんですけど、
その方はこの子供たちを面倒見るために、
一度も人々にお金が足りません、
元気にしてくださいという話を一切していない。
ただ神様だけに委ねて、
他人には何にも話をしていなかった。
神様だけに委ねた。
その方は93歳まで働いたんですけど、
約1万人以上の子供たちを助け、
またその方の有名なのは、
5万回の祈りの答えが与えられたということです。
私は数えてみました。
私が40歳から大抵このような働きをしたとしたら、
40歳から90歳まで約50年間、
5万件の祈りの答えがあったとしたら、
みなさん1年間約何回ですか、
1千回以上。
だったら1日何回ですか、
1日3回くらいの神様の答えがあった、
祈りの答えが。
みなさん、1ヶ月1回だとしても、
私たちは1回の祈りの答えをいつも明かしするでしょう。
1日3回の答えが与えられたとしたら、
これはただの簡単な答えじゃなくて、
後人を運営するところで現れたこの答えですから、
すごい答えになると思います。
1日3回素晴らしい答えがいつも与えられたとしたら、
この方は祈りの答えの中で過ごしていた、
奇跡の中で過ごしていたと言えるでしょう。
どうしてこの方はこんな素晴らしい働きができたのか、
これを神を体験する本で教えてください。
この方の祈りの特徴、
祈るときにまず、
自分が願っていることに対して、
祈ろうとすることに対して、
自分の考えが全くないように、
下ろされるように、心を空っぽにしたと言います。
大抵私たちが祈るとき、
神様、これはこうしてください、
このようにしてください、
願うじゃありませんか。
今、みなさん、いろいろ期待されることあるでしょう。
神様、これは必ずこのようにしてください、
自分の願いを込めて神様に求めるんです。
大抵そうじゃありませんか。
常時見るのは、
自分の考えがなくなるように、
まず空っぽにしたと。
そして、神様の身群を知りたいということです。
これができれば、祈りの90%はできたということです。
だから、自分の考えを下ろすことじゃなければ、
祈りはなかなか、神様に対する正しい祈りはできていない。
自分の考えを下ろすことが前提です。
これができたら、
90%の答えをいただく祈りができると。
2番目は、精霊様に、
見事場の中で、
神の身群が悟られるように、
助けてください、示してくださいと、
ずっと祈るそうです。
そして、ある日は、
ずっと聖書ばっかり見て、
神の身群が何なのか、
これを解決する神様の身群を教えてくださいと、
チュッと祈る。
皆さん、私たちが祈るときに、
神様が何か約束したことがなければ、
私たちの祈りは必ずしもできるということはあり得ないでしょう。
だから、祈りに精霊様を通して、
神の約束をいただきたい。
3番目、彼は環境の中で、
神様がどこか働いていらっしゃるのではないかと、
いつも敏感に環境を見ていた。
見つめていた。
4番目、
聖書を読み、
牧草をし、
祈り、
その中で、神様が平安をくださるところだったら、
また、神様が祈るとき、
聖書を読むとき、
続けて平安を与えてくださったら、
これが神の計画だと、
これを信じて、実践に行ったそうです。
ここで、この本で、
ジョージュ・ミルが神の身もれを知るように役に立ったことは、
神の導きを真剣に求めた。
神様が語ってくださるときまで、
ずっと忍耐して待てた。
また、精霊様に徹底的に委ねた。
そうするときに、神の身もれをよく知ることができるし、
そのとき、神様の祈りの答えがいつも当たる。
しかし、ジョージュ・ミルに対して失敗させたことは、