1. 名谷教会
  2. 2023/10/01:輝く宝の民
2023-10-01 41:41

2023/10/01:輝く宝の民

2023/10/01 聖日礼拝

加藤満牧師

申命記 14:1-8


サマリー

主は私の愛されていることを声をかけてくださり、招き入れてくださっているため、私たちはここにいて、あなたを尊敬することができることを感謝しています。イスラエルの民は神様にとっての財産であり、主の聖なる民であると聖書は教えています。 門祭は話しています。聖なる民と言われる時に、私たちがすぐに思い浮かぶのは、これは有名な言葉なので、聞いていただければいいと思いますが、レビキノ19章の2節の言葉でしょう。 私たちは神様にひざまづいて財産として扱われることをやり、神の民として生きることは息苦しくありませんが、本来の人間の姿であることを知るのです。聖書の言葉を通して神を礼拝する民として生き、自分に与えられたものを分かち合う民として本来の人間の姿を回復していく道を歩んでいます。 私たちは財産として神様の愛を受け入れ、聖なる民として喜びを分かち合い、世界生産日を祝っています。

主に感謝をいたします
一言お祈りをいたします。
ご一緒にお祈りをしましょう。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
死の見舞いへと私たちを招き入れてくださって、
本当に私たちは様々な思いを抱えて、このところにいますが、
しかし主が私の愛することを声をかけてくださり、
あなたが招き入れてくださったがゆえに、
今私たちがここにいて、
あなたを仰ぐことができる幸いを心から感謝をいたします。
神様、多くの抱えきれないものを、
私たちは抱えながら生きているお互いであるかもしれませんが、
しかし、そのような私たちが抱えきれないものをも、
あなたが抱えてくださり、
私たちの目には見えずとも、
あなたご自身は確かに永遠の快楽によって、
私たちの下にその腕を持って支えを与えてくださっていることを覚えて感謝をいたします。
死を仰ぎます。
何よりもあなたご自身が、
私たちへの限りない愛を持って望んでくださったその事実を覚えます。
十字架の流された地臭によって、私たちの罪が完全に許され、
三日目に甦えられた復活の命によって、
永遠なる主と共に生きる永遠の命を私たちに与えてくださり、
それは死を持っても切り離すことのできない愛であるとローマ書が語りますが、
神様どうか、その恵みのうちに生きている幸いを私たちに教えてください。
耳を開き、目を開き、主ご自身が共におられるうちに、
あなたの平安があることを覚えることができるよう導いてください。
今、施設において礼拝をされておられる方、
家で礼拝をされておられる方々がいらっしゃいます。
どうか一人一人を覚えてください。
その孤独のうちに寄り添い、そこにも主がおられることを教えてください。
今、特に今日は違うところで礼拝を守っておられる兄弟もいらっしゃいますが、
その兄弟のうちにも主がふさわしい恵みを注いでくださいますように。
全世界でもたれている礼拝、戦場において主を仰いでいる方々もいらっしゃいます。
神様どうか、お一人ひとりの心を守り、あなたを仰ぎ、
置かれているところにおいても希望を持つことができるよう主が臨んでください。
お願いいたします。
これからの一時を身手に委ねます。
祈られたように、御言葉を求めています。
主ご自身が立ち、語ってください。
皆様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
私たちは神様にとっての宝である
今朝、皆さんと分かち合いたい聖書の言葉は、
この重要章の2節の言葉です。
もう一度読みしますと、
あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。
主は地の表のあらゆる民の中からあなたを選んで、
ご自分の宝の民とされた。
そのような言葉です。
聖書を読んでいると時々、
行転するような言葉に出会うということがあります。
今朝もその一つではないかなと思うんです。
主なる神様は、
イスラエルの民を地の表のあらゆる民の中から、
ご自分の宝の民とされたと語るわけです。
もう一度返して、
イスラエルの民にこういうわけですね。
あなたたちは私の宝だというわけです。
あなたたちは私の宝なのだというのです。
皆さんはどうでしょうかね。
このようなことを言われたことがあるでしょうか。
お前は俺の宝だよと、
言えたらすごくいいなと思いますけれども。
私は記憶する限り、
実は父親に言われたことがありますね。
父があるとき、何の脈絡もないんですよ。
家でただただ一緒にご飯を食べた後、
お茶をしていたときに父が、
でもなあと、みっくんを含めて、
僕は4人の子供を僕の宝だと思っているよと、
そのことは忘れないでいてくれよということを
あるとき言われたことがありました。
とても私は恥ずかしさとともに、
どう受け止めていいかなと思いながらも、
かなり嬉しかったです。
そう思ってくれている人が、
一人この世界にいるんだなあ。
それだけで何か勇気をもらえたような気がしました。
どうでしょうか。
実に素晴らしい言葉です。
勇気を与えてくれる言葉。
私自身の価値を確認させてくれるような言葉。
そう言えるのかもしれません。
そして、もしかしたらこれを誰かに、
私たちが本当に心から言うことができるなら、
その人の人生を輝かせる言葉。
そう言ってもよいのかもしれません。
実は聖書には、
このあなたは私の宝なんだという表現は、
ここだけじゃなくて、いくつか散見されるんですね。
新明記の中でも少なくとも3回出てきます。
新明記の7章6節とこの箇所等、
そして最後の方ですが、26章の18節というところ出てきますし、
何よりも有名なのは、
この出エジプト記の19章の5節。
聖書の中では一番最初にこういう言葉が言われる内容ですが、
ちょっとこれ大事な箇所なので一緒に読みたいと思います。
出エジプト記の19章の5節という御言葉です。
これはとても場面的にも大切な言葉ですね。
出エジプト記の19章の5節、
4節から6節までお読みしたいと思いますが、
こういう言葉があります。
あなた方は私がエジプトにしたこと、
またあなた方をわしの翼に乗せて、
私のもとに連れてきたことを見た。
今もしあなた方が確かに私の声に聞き従い、
私の契約を守るなら、
あなた方はあらゆる民族の中にあって、
私の宝となる。
全世界は私のものであるから。
あなた方は私にとって最始の王国、
聖なる国民となる。
これがイスラエルの子らに、
あなた方に語るべき言葉であると、
そう言われています。
興味深いですね。
出エジプト記の19章では宝となると書いていますが、
14章の2節ではご自分の宝の民とされたという、
面白い表現の違いがありますが、
この出エジプト記の19章の5節の言葉を
言われた時というのは、場面的に言うと、
この数日前まで、
イスラエルの民はエジプトの奴隷なのです。
彼らは奴隷でしかありませんでした。
私の価値を認めてもらえない、
認められない場所にいました。
しかし神様は、ご自身の身業によって、
民をエジプトの奴隷から解放し、
イスラエルの民を神の民となさいました。
奴隷の民から神の民へとなさいました。
そして言われます。
いや、あなたは神の民なのだけではなくて、
あなたは私の宝なのだと、そう言われる。
これは無理やりではないと思います。
大学時代の私たちに、例えば当てはめるならば、
こうも言えるのではないでしょうか。
罪の奴隷でしかなかった私たち。
いや、今なお、
罪にとらわれて、自分の価値を認められないほど、
傷ついてしまっている私たち。
でも神様はイエス・キリストを通して、
私たちを罪の奴隷から解放してくださいました。
神の民ならる神の子としてくださいました。
そして言われるのです。
あなたは私の宝である。
本当にそう言われているんですね。
本当にそう言われている。
そのことをいろいろと考えながら、
思わされたのは、どうでしょうか皆さん。
神様があなたは私にとっての宝なんだと
言われるときに、
ああ、そうなんだと感謝して
受け止めることができるでしょうか。
ああ、そうか、私宝なんだ、
うれしいなと思えるでしょうか。
今朝皆さんと確認したいのはそこなんです。
聖書は私たちに言います、
あなたは私の愛する子、喜びである。
この箇所では、
あなたは私の宝なんだと言われる。
でも大事なのはきっと、
ああ、そうかとそれを
私たちは素直に受け入れられるだろうか
ということです。
そこにはきっと、もしかしたら大きな
壁というか崖というか
何かそういうものがあるのかもしれないな
と思います。
もうこう思われるかもしれません。
あなたは私の宝だ。
神様本当ですか。
本当にそうなのでしょうか。
あなたは私の何をご存じなのですか。
人と比べては人並みにできない私を、
誰からも評価をされない私を、
そういう自分自身が嫌いな私を
あなたは宝だと言ってくださるのでしょうか。
神様、あなたがどれほど私の価値を認めてくださり
愛していると言われようとも、
私は私が嫌いですと。
そういうことってあるのかもしれません。
これは結構大変なというか
時間がかかることなのです。
自分で自分のことが嫌いな人は
実は神様からの愛を受け止めるのが
できないと思います。
ただ苦手です。
そして私、新学生のときによく言われました。
神様の愛によって
誰かを愛することよりも
神の愛によって
あなたがそのまま愛し受け入れられているという事実を
受け入れることの方が難しい。
でもその方が大事なんだ。
愛するよりも
愛されているという事実に
休んじることの方が難しいのです。
でもその方が大事なんだ。
聖書の御言葉はときに私たちに
大きな声で語ってきます。
しかしそれ以上に大きな声が
自分自身の中でこだまをしているのです。
きっと本当に向き合わなければならないのは
その大きな声を発している私自身。
受け入れ愛さなければならないのはきっと
大きな声を発している私自身。
そう言えるのかもしれません。
その上で今朝は
あなたは神の宝である
その言葉の意味をもう少し深く掘り下げたいと願っています。
イスラエルの民は主の聖なる民である
この言葉のインパクトと申しましょうか。
神様の愛の熱情の言葉ですけど
それはどういうことなのか
ご一緒に聞きたいと願っております。
さてですね、この主がイスラエルの民を選び
宝の民とされたというのは
具体的にどういうことを言っているのでしょうか。
神様が大事になさっているその通りなんですけれども
このことが一体何を意味するのか
説明しているのは二節のもう一つの言葉なんです。
あなたはあなたの神主の聖なる民だからである
という言葉です。
主の聖なる民であるあなた方と
神明家は語っています。
聖なる民の定義
門祭は語ります。
聖なる民と言われるときに
私たちが即座に思い浮かぶのは
これは有名な言葉なので
聞いていただいたらいいと思いますが
レビキノ19章の二節の言葉でしょう。
あなた方は聖なるものでなければならない。
あなた方の神主である私が聖であるからである。
レビキノ19章の二節
これも有名で大切な見言葉です。
聖なる民とは
神様の聖、神様の清さに
習う民であるということが
言われるわけです。
では神様の聖とは何でしょうか。
主の祈りでもちょっとその箇所は
お話をさせていただきましたが
この聖という言葉は
言葉の意味としては
異なっているであったり
区別されるという意味の言葉です。
区別されます。
神が聖であるということは
この世界の神々と
イスラエルの神は横並びではありませんよ
ということです。
比べられるものではなくて
神は神である。
それとは何も並ばないということです。
そのように区別をされる。
そしてその神様と同じように
神の民もまた
この世の国々や民族とは
区別されるということです。
ではどのように区別をつけるのでしょうか。
実は先ほど3節から8節までも
読んでいただいたのは
実はここに食物規定のことが書いてあるからです。
聖書を読まれたときによく
なんでこの食べていいものを食べちゃいけないものが
出てくるのかって思われることもあるかもしれませんが
これは大事なんです。
これは何を言っているのかというと
イスラエルの民は
この世間の国々が食べているものと
食べ方が違いますよということを言っているわけです。
これは区別を意味しているんです。
あの民とは違う。
私たちは聖なる民なんだということを
食卓に置いても表しなさいということの表れなんです。
区別が目的なんですね。
食べていいもの食べていけないものについてのリスト
まさにそういうことなんですね。
この食べ物もそうなんですけど
食べ物だけだとちょっと分かりにくいので
もうちょっと広い範囲を見ますと
実はこの新明記の12章から
例えば16章あたりまでをちょっと範囲として考えるならば
実は12章から書いているのは
モーセが民に語る定めと
掟について書いてあるんですけれども
書いてある内容は大体一つなんです。
それは何かというと
他の国民はこうするけど
私たちはこうしなきゃいけないよということです。
区別なんです。
じゃあ他の国民と
イスラエルの民はどう違うんでしょうか。
例えばガサッとまとめて話してしまいますが
この12章から13章に書いてあるのは
礼拝について書いてあるんです。
12章からの言葉は何を言っているかというと
例えばそうですね
12章の2節から
ちょっと5節まで読みますと
こういうことが書いています。
12章の2節から
あなた方が追い払おうとする違法の民が
その神々に仕えた場所は
高い山の上でも丘の上でも
また青々と茂るどの木の下でも
それをことごとく破壊しなければならない
彼らの祭壇を打ち壊し
石の柱を打ち砕き
あしら像を火で焼き
神々の彫像を切り倒して
それらの名をその場所から消し去りなさい
あなた方の神主に対しては
そのように礼拝してはならない
ただあなた方の神主が
ご自分の住まいとして
皆を置くために
あなた方の全部族のうちから
選ばれる場所を訪ねて
そこへ行かなければならないと
違法の民が
例えば自分たちの村
また町々に祭壇を築くわけですね
そこで礼拝をする
それはそれでいいわけですけれども
あなたたちはそのように礼拝をするな
あなたたちは神が選ばれる場所に
行きなさいということだよな
これは大きな違いなんで
それは何かというと
自分の身近なところで
便利なところで
礼拝を捧げるのではなくて
神のところに便利じゃなくても
赴きなさい
神が定められる場所でなければ
礼拝をしてはならないということになる
イスラエルの民は
自分勝手な場所で礼拝
礼拝における区別
捧げ物を捧げてはならないということを
この箇所では
クドクドと言われます
それは
言い方を変えるならば
自分の都合で
神々を利用しようとする
違法人の文化
偶像崇拝の文化にならってはならない
ということを
言われるわけです
イスラエルの民は
そうであってはならない
なぜなら
イスラエルの民というのは
神様を利用するのではなくて
神様に跪く民だからです
これは大きな違いなんですね
だから神様が選び
定められる場所にまで
赴いて礼拝をしなければならない
それがいかに面倒で
そして
富の扱いについて
それが13章の6節8節に書いてますけれども
親しい家族であったり
そしてそれが
恋人であったり
そういう人たちが
もうそんな面倒くさいことはやめて
他の神々に使いましょうよと
させてきたとしても
私たちはイスラエルの神を
同じ偶像のように扱ってはならない
ということがここで言われます
6節8節を見ますと
だいぶこれは厳しい表現ですね
あなたの親しい人たちに対しても
それを決して許してはならない
だいぶ厳しい表現なんですが
けれども聖書で厳しい表現がされるときは
そこで妥協するならば
危ないという印なんです
そこでもしも妥協してしまうならば
あなた自身が著しい問題へと
巻き込まれてしまうという
神様のある種深い心配から
言われている言葉だと言えます
そのような礼拝
他の国とイスラエルの民は
違うということが言われますし
例えば14章の22節から15章にかけて
言われるもう一つのことは
富の扱いです
富の扱いについても言われます
この14章の例えば22節読みますと
あなたは毎年種を蒔いて畑から得る
全ての収穫の十分の一を
必ず捧げなければならない
とんで23節には
あなたがいつまでもあなたの神
死を恐れることを学ぶためであると
言われる
収穫の十分の一を神に捧げなければならない
これは教会でいうとこの
十一献金の根拠にされる
一つの箇所です
なぜ私たちは
十一献金するのかということも
これはどこかでやっぱりちゃんと
話さなきゃいけないと思いますが
一つはやっぱりここで書かれている通り
神を恐れるためです
くしくも神明記の8章17節というところには
私の力私の手の力が
この富を築き上げたのだと
言ってはならないという言葉があります
それは何を言っているのかというと
私たちに与えられた富であったり
祝福というのは
それは神様からの賜物なんです
という告白なんですよ
十分の一献金というのは
あなたからいただいたから
十一を返します
あなたからのものなのでという
信仰告白なんですね
そしてそれを通して生活の中で
私自身が神になる
まさに私が築いた
私が稼いだではなくて
主なる神様に跪き恐れるため
そしてこれちょっと飛びますけれども
14章の後半から15章にかけては
何かというと
その十一の捧げ物を
14章の28、29節とかでは
その町囲みにいる貧しい人たちと
分け合いなさいということが書かれますし
15章で言われているのは
有名なヨベルの都市に関する言葉です
7年ごとに借金を帳消しにしなさい
ということです
これも富は私が稼いだんだ
と言っていたらできないんです
でもあなたたちはしなさい
なぜならあなたたちの富というのは
神様があなたを祝して与えたものだから
そしてあなたたちがそれを分け合うならば
主の祝福によって
それは満たされていくんですよ
ということが15章に書いてあるわけですね
これは別にお金に限ったことではないでしょう
私たちの賜物あらゆるもの
それは私たちが豊かになればいい
ということではないはずなんです
私たちこれだけの人たちがいます
これが妙大に境界が豊かになったらいい
という話だけではないはずなんですよね
そのことも大事な価値観として
持たなければならないと思います
私たちは分け合いたい
手を開くためにお互いの力があることを
思わされています
さて実に見ていただいてわかる通り
聖なる民というのはどういう民であるか
めんどくさい民なんです
面倒であったとしても
神様の言われたところに礼拝をし
私たちであえて言いましょう
日曜日の午前
このみんなが休んでいるときに
私たちはわざわざこの場所に集い
わざわざ遠くから車に乗って
この妙大に境界に来ている
私友人に言われたことがあります
十一献金って境界であるんです
それ詐欺じゃない
私たちは自分の与えられているものから
十分の一決して少なくない額を
神様に捧げます
それはよそとは違うんですよ
私たちはだいぶ特殊なことをしているかもしれない
でも何でそういうことをするのでしょうか
それは先ほども言いました
神様の宝であり
私たちが聖なる民だからです
そしてそれは言い換えれば
こういう言い方もできるのだと思うのです
神様が私たちのことを宝としてくださっているから
私たちは神様を宝とする民とされたんです
実は神明記の掟と定めっていうのは
神様に跪き宝として扱われる
この視点で読むとよくわかりやすいんです
神を宝としなさいと言われるんです
だから私たちは神様に跪いて
そのある種めんどくさいと思われることをやる
あなた方は聖なる者でなければならない
あなた方の神主である私が聖だからであると
レビキの十九章の二節で言われました
この言葉が意味するところは
そういうところにあると思うんです
宝物、もしも私たち宝物が
それぞれにあるとするならば
宝物というのは特別に扱えますね
それと同じように神様はこの世界で
イスラエルの民を特別なものとして扱いたい
区別をしたい
ご自身と似たものとして区別をしたい
そういうことを聞くと
また私たちは厚苦しい神様の圧を感じますよね
私はお前のことを愛しているんだからそうなれみたいに
でも実はそうではない
神の民として聖なる民として生きることは
息苦しいことではないんです
神に宝とされ
神こそ私の宝だと告白ができることこそ
実は聖書の広い文脈で言うならば
これこそ本来の人間の姿なんです
神に宝とされ
私の宝は神なんですと言えることこそ
実は本来の私たち人間の姿なんです
人間にとって神を神として刻まづくこと
神を愛し神を礼拝するということ
実は私たちの世の中の基準からするならば
なんてそんなしちめんどくさいことをと思われるかもしれない
でも聖書が語るのは
いやそれこそが人間の自然な姿なんだと言うんです
私たちは礼拝を知らないことの方が実は不自然
何かそこに穴が開いていくということがある
神の祝福としていただいた賜物を
自分自身が豊かになるためだけに使うのではなくて
神様に感謝をしながら分かち合うことの方が
実は人間にとって自然なんだ
そして私たちは主の定めと置き手に従っていくとき
何が起きているかというと
息苦しさからの解放
人間の神学的には神の形と言います
歪んでしまった神の形として作られた私たちが
神の置き手と定めに従い礼拝を通していくことによって
本来の人間の姿を回復していっているんです
神を礼拝する民として
自分に与えられているものを分け与える民として
それは本来の人間の姿を回復していっている
そう言えるんですね
ですから礼拝というのは実は人が癒される場所です
癒されていただいているかどうかあれですけれども
でもそうなんですよ
礼拝というのは人が癒される場所なんです
本来の私たちの体の動かし方を学んでいく場所なんです
主は地の表のあらゆる民の中からあなたを選んで
ご自分の民とされたと十四章の二節で言われました
ここには二つほどの意味があるように思います
一つは神様は私たちを宝として見ておられる
だから磨きたいんです
磨くというのは別にお前は足りないよというのではなくて
宝として輝いている私たちの輝きを覆っているものがあるんです
でもそれを磨かれたいんです
あなたを輝かせるために
あなたが本来の体の動かし方を知るために
神の形として作られた主の栄光を取り戻していくために
掟と定めというものがありますが
それは聖なる歩みこの神様に習う歩みです
そしてその歩みに習う中で
罪に陥った民は本来の神の形へと回復をされる
旧約聖書の言葉というのは
私たちを堅苦しく閉じ込めて
修行僧みたいな意味をさせることではない
旧約聖書の神の言葉立法というのは
私たちを回復させ本当に神の民として
神の喜びのうちに生かすための言葉なんですね
それは言い換えるならば
リハビリのような回復の道なんです
コツコツと本当に人間として大事なこと
それはこのような
聖書の言葉一つ一つを通して
礼拝を通して
キリストに表された神の愛の広さ高さ深さ
それを学び続ける道
時間がかかるんです
私たちはこれまでこびりついて
身につけているものがありますから
でもこれは回復の道なんですね
リハビリのようにゆっくり
でも本来の人間の輝き
私の輝きを取り戻す
そのような歩みの中に
私たちはあるということです
そしてもう一つ神の宝として
もう一つここで言われているのは
神の宝としてこの世界で輝きなさい
ということでしょう
もしあなたが確かに私の声に聞き従い
本来の人間の姿を回復していく道
私の契約を守るなら
あなた方はあらゆる民族の中にあって
私の宝となる
全世界は私のものであるからと
出世時の十九書の語説が言います
あらゆる民族の中で
あなた方の輝きを照らしなさい
頑張れということではないはずなんですよ
頑張らなきゃいけないことはないとは言いませんが
でもそういうことではない
私たちが神様の言葉によって
癒やされ回復をさせられ
そのことを通して
主は素晴らしいということを知らなきゃいけない
神様は素晴らしい
主ご自身の愛に感動をして
その感動が現れてくる
喜びがあふれてくる
イエス様はそれをあなた方
地の主を世の光だと言われたんです
私たちはその主の素晴らしさを
表していく
何度も申し上げていますが
私たちは癒やされて輝くという道筋の中にあるんです
癒やされて輝いていく
神様の目から見るならばきっと私たちは
神様には価値のわかっている
しかし覆いがかかっている原石なんですよ
でもそれは宝石なんです
キラキラしている
確かになおも癒やされない痛みがあるでしょう
自分自身はそうとは思えないということもあるでしょう
けれども神様の眼差しには
神ご自身を宝としてこの礼拝に集っている
お一人一人というのは宝に見えているんです
キリストは私の人生を黄金とするという賛美を歌ったことがあります
いいかしらなと思います
キリストは私の人生を黄金とする
私たちは主の眼差しにそのように輝いている
その事実は変わらないんですね
そのことをぜひ受け止めたいと思います
一つお話をしてもう終わりますけれども
ルカの福音書の15章というところに
私たちの大好きな宝塔息子の話があります
私はあの話がとても大好きなんですけれども
宝塔息子の話というのは
その前の段にあります
100匹の中で1匹を探し出す羊飼いの話であったり
暗闇の中で10枚のコインをなくして
1枚を探しあぐねる女性の姿であったり
その例え話が並べられて宝塔息子が書かれている
とても大事な箇所です
実は私はこの前の話も好きなんですね
この前の話両方とも共通して書かれている内容があるんです
ちょっと読んでしまいますと
15章の7節というところにはこういう言葉があります
あなた方に言います
それと同じように
一人の罪人が悔い改めるなら
悔い改める必要のない99人の正しい人のためよりも
大きな喜びが天にあるのです
ということが言われます
同じように8節から10節にある
ドラクマ銀河の例えでも
10節を読むならば
あなた方に言います
それと同じように
一人の罪人が悔い改めるなら
神の見つかりたちの前には喜びがあるのですと言われます
これはどういう話かなということを
あるとき思っていたときに
なんか私の中であまりつながらなかったんですね
暗闇の中で見つからなかったものがあるわけです
それは一人の罪人と表現されますけれども
それは一人の罪人が見つかったときに
天において大きな喜びが起きる
私は何で天で喜びが起きるんだろうということが
よくわからなかったんですね
でも私は今回の説教を準備しながら
ああそういうことかと気づかされたことがありました
何で天においてこんなに
見つかりたちが賛美をするのか
天において喜びがあるのか
私たちが神様の宝だからです
この喜び
天の神様の喜びというのは
天の神様がなくしていた宝物を
ああ見つけたと言っている喜びなんです
ああここにいたのか
ああ見つけたという喜びです
ヨハネは福音書の中で
この世界は暗闇だと言いました
罪があふれ憎悪があふれる暗闇だと言いました
深い闇の中で見つからない羊が
その中に迷い込んでしまいました
見つからない十枚のうちの一枚のコドラントが
そこに迷い込んでしまいました
でも暗闇の中には神様の目から見て
ご自身の宝が落ちているんです
それを拾い上げたいんです
でも拾い上げることはできないんです
なぜなら神様は清いお方であり
この世界は暗闇で罪があふれているから
しかし本来入れないその世界に
神様がご自身がリスクを負って
そこに入り込んだ方法があります
神が人となられた
神様はこの宝をあきらめきれないのです
百匹を置いて探し始めるあの羊飼いのように
くまなく家を這いて探し回るあの女性のように
神様はそれをあきらめきれない
どうされるのか
聖なる神の子であるイエス様ご自身が
その宝を拾い上げるために
暗闇の中に下ってこられた
ズタズタになりながら
引き裂かれながら
あの十字架で体を裂かれながら
下ってこられた
しかしその傷だらけの巫女によって
神の宝である私たちは拾い上げられたわけです
見つけられたわけです
天井では大きな賛美が起こっているわけです
神は私という宝を見つけたということが
天井で喜ばれているわけです
私たちは冷静に考えれば
理解ができない話なんです
なぜか、なぜでしょうか
神様ご自身がそこまで痛まれているのに
巫女があの十字架で死なれたにもかかわらず
なぜ皆さん賛美ができるんですか
けれども神様はこう言われるんです
この息子は死んでいたのに生き返り
いなくなっていたのに見つかったのだから
神の愛と宝の存在
こうして彼らは宿縁を始めた
神様の愛というのはこういうことですね
なんで私なんかを探すんですか
なんで私なんか
私なんか
でも神様が言われるのは
私は私自身が血を流してもなお
あなたを見つけたかったんだという
なぜなら私にとってあなたは宝だからですね
天皇賛美は大きく響き渡ります
神様の愛というのは
そういうふうにわけはわからない
過激なんです
でもそのような神様の愛によって
見つけられた私たちなんです
宝なんですよ
神が私たちを
あなたは私の宝だと言われるとき
それは言葉だけではないんです
血を流し
あの十字架の姿が
そのすべてを物語っているんです
神様あなたがどれほど私のことを
愛していると言われようとも
私は私が嫌いですと
これは私自身にもある思いです
正直言って
そのような声が私の中に渦巻きます
しかし同時に私たちはやはり
何度もリハビリをするかのごとく
そういう私に言い聞かせなければいけない
言葉もある
それは
あなたは
あなた自身の存在が
天において
神の御前で
どれほどの歓声が
湧き起こる存在であるか
知っていますかと
あなたは
あなた自身の存在が
どれほど神が
痛むほどの愛を持って
あなたを愛し
あなたを救い上げた存在であるか
知っていますか
神の御前に
どれほど大切な宝であるかを
あなたは知っていますか
礼拝の日々
死と共に歩む日々というのは
ゆっくりと私たちは
本当にそうなんだということを
受け入れ続ける日々なんです
それに気づき続ける日々
自分の中で
そう思えないということを
葛藤していいんですよ
葛藤してもいいんだけども
リハビリをするかのように
少しずつ
そうなんだ
そうなんだという
十字架の愛
イエスキリストの愛を
受け入れ続けていく日々
それを通してでしか私たちは
宝なんだ
世界生産日の意義
そして宝として
私たちに区別された存在なんだ
聖なる民なんだ
神様の愛を
本当の意味で喜んで
明かししていくということは
大変なんですよ
満たされなきゃならない
受け入れなきゃならない
でもそれが分かったときの
私たちの明かしは強いんです
本当に主は素晴らしいんだ
と言えるんです
今朝はこの後
生産式を取り行います
実は10月の第1週という日は
世界生産日という日だそうです
私たちは神の宝であること
その宝であるがゆえに
巫女は十字架に
命を捧げてくださった
それほどまでに
尊い私であるということを
確認するんです
生産式のときはね
今一度それを受け止めたいと思います
そして世界生産日というのは
これは元々の始まりは
1900年代の前半に
エキュメニズム運動ですね
強派を超えた協力ということが
志されて始まったものです
キリスト教会というのは
実に非常に色々な立場があります
カトリックがあり
プロテスタントがあります
プロテスタントの中にも
ルター派、改革派、福音派があります
福音派の中にも
リベラルと保守があります
そして私たちは
保守よりの清め派ですけれども
でもそのような中で
でも決して忘れていけないのは
立場は違えど
私たち一人一人
立場が違えども
あのキリスト教会のために
主はあの命を捧げてくださったんだ
ということをやっぱり覚えなければならない
そして立場は違えども
同じ巫女を私たちは
飲み食べているお互いである
そのことを覚えたいと思います
そして何よりも
私たちが覚えていきたいのは
私たちの周りの中に
暗闇の中に
今なお拾われていない
主の宝がいるんです
神様はその方を拾うためにも
血を流して
巫女は下ってこられたんです
私たち自身も
神の宝であることを知り
その人もまた
あなたは神様の宝なんだよ
そのことを知ることができるよう
祈るお互いでありたいと願います
一言お祈りをして
今日のメッセージを終わります
41:41

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