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2023-09-24 36:26

2023/09/24:ただ一つ必要なこと

2023/09/24 聖日礼拝

加藤満牧師

申命記 8:1-10


サマリー

彼らはイエス様の言葉に触れ、ただ一つの大切なことに注意を向ける必要があることを共有しました。人々はパンだけで生きるのではなく、死者の口から出る言葉で生きることを学ぶ必要があります。また、神は常に私たちに恵みを与え続け、私たちは神とのつながりを保ち続けることが幸せだと説かれています。彼らは主が与えてくれたものと心から信じており、神が望むならばそれを手放すこともできます。人々は主の言葉で生きることを望んでいます。

00:02
それでは一言、お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
主がまた私たちをこの礼拝へと招いてくださって、
あなたご自身の御前に神戸をされるこのひと時をいただいていることを感謝をいたします。
どうか主が今日もこの礼拝のうちにご臨在くださり、
あなたの限りない愛を私たちに示してくださったことを深く、私たちが知ることができるよう、かえりみてください。
あなたの十字架がこの教会に立てられています。
巫女イエス様が十字架で血を流されたその血潮によって私たちの罪が許され、
そして三日目に甦えられた復活の命、永遠の命を私たちにも与えてくださり、
死をもこえて死と共に生きる永遠の命を私たちに与えてくださったこと、心からありがとうございます。
あなたの御恵みを日々与えてくださり、私の足ではなく、あなたご自身の恵みによって歩むという、
その幸いな歩みを私たちに与えてくださっていることを感謝します。
どうか主が御言葉を語ってくださいますように、
あなたの言葉は命の言葉で、私たちに潤いを与え、私たちを力づけ、
あなたご自身へと歩ませてくださる言葉であることを覚えますから、
あなたへと聞くことができるよう、私たちの心を整えてください。
今、施設におられる方、またご自宅で礼拝を守っておられる方がいらっしゃいます。
お一人一人を主がどうか覚えてくださいますように、
そのうちにあなたが共にいてくださいますように、お願いいたします。
また気候が落ち着いてきましたが、暑い日も繰り返しています。
体の疲れを覚える私たちです。
どうかお一人一人の体調を主が支えてくださり、
あなたの恵みによって立たせてください。お願いいたします。
語る者の唇を清め、どうかあなたのために用いてくださいますように、
これからの時を期待をして、イエス・キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン
お祈りくださってありがとうございました。
岐阜の日本伝道会議
実は私たち夫婦は、先週の火曜日から金曜日の間、
岐阜県の岐阜市の、まさに長良川の隣にありましたけれども、
長良川国際会議場という場所を会場にした、
日本伝道会議という会議に参加をしてきました。
全国のプロテスタントの福音派の教会の大会なんですね。
7年に一度もたれるもので、前回は神戸でもたれましたが、
今回は岐阜でもたれました。
本当に内容が豊かな時でして、日本全体の宣教の現状、
様々な教団で行われている宣教の現状と、
またそれに対してどのような取り組みがなされているのかということが分かち合われましたし、
また更なる協力に向けた、ご一緒に祈る祈りの時を持ちました。
協力していかないとまずいよねということが本当に確認されました。
私自身は本当に7年後が楽しみになるぐらい充実した一時をいただいたわけなんですけれども、
そしてまたある意味、今後7年間のうちに、
長良川での議論
私自身は、そしてこの教会は何ができるのだろうか、
何をすべきかなということが問われた時でした。
恵みのお裾分けではないですけれども、後ろに向こうでもらった資料とか買ったものを置いていますので、
ご自由に読んでいただければと思います。
いろんな人がいろんな話をしました。
それこそ教会の置かれている課題に何ができるのかということが話し合われましたけれども、
けれども多くの人が語る中で一つ共通すること、何ができるかは大事なんだけれども、
しかしやはりこの一点を私たちは外してはダメだよねということが、
共通して語られたように思います。
それは教会は多くの課題を抱えているけれども、
イエス様の言われたただ一つの大切なこと、
そのことを心を傾けなければならないんでしょうねと。
マリアとマルタの物語
それは何かというと、皆さんよくご存知かと思います。
マルタが忙しく走り回るその横で、イエス様のマルタの妹であるマリアが、
イエス様の足元にずっとひざまずいて動かなかった。
マルタは怒りましたよね。先生どうにか言ってくださいと。
でもイエス様はそのご自身の前にひざまずくマリアに向けて、
マルタに向かってこう言いました。
しかし必要なことは一つだけです。
今マリアはそのいい方を選びましたと。
必要なことは一つだけ、マリアはそれを選んだ。
私たちがご一緒に確認をさせられたのは、
いや、あれをしよう、これをしようって大事なんだけど、
その前に私たちは死の前にひざまずくということ、
それを外しては駄目だよねということでした。
思えば聖書の中にはそういう言葉があふれていると思います。
これは一箇所別の箇所も開いて申し訳ないんですが、
ヨハネの福音書の15章の4節から5節というところに、
有名な言葉ですけれども、こういうことが語られています。
ヨハネの福音書15章の4節5節をお読みしますけれども、
こういうことが言われています。
ヨハネの福音書15章の4節5節、
新海約2017だと新約聖書の215ページにありますが、
お読みします。
私にとどまりなさい。
私もあなた方の中にとどまります。
枝がぶどうの木にとどまっていなければ、
自分では身を結ぶことができないのと同じように、
あなた方も私にとどまっていなければ、
身を結ぶことはできません。
私はぶどうの木、あなた方は枝です。
人が私にとどまり、私もその人にとどまっているなら、
その人は多くの身を結びます。
私を離れては、あなた方は何もすることができないのですという、
イエス様のお言葉があります。
私たちはぶどうの枝である。主御自身が木である。
主につなぎ合わされなければ身を結ぶことはできない。
だからあなた方はとどまりなさいと勧められます。
これは誰よりもイエス様御自身が多分自覚なさっていたのです。
この羽根の福音書もそうですが、福音書には、
イエス様は朝ごとに一人寂しいところに行かれた。
毎朝イエス様は父なる神様に祈っていたのです。
この方から離れては、
御子ですら私は何もできないと自覚をなさっていたからですね。
私たちある種、私たち自分自身のうちに何が起きるとしても、
もしくは私たちが外に向けて何かをなすにしても、
この方につながっていなければ、その意識を持っていた。
この言葉を読むときに私たちはある意味、
大切な優先順位というものを確認させられるわけです。
何が第一のものであるのか。
今朝は新約聖書から少し話してしまいましたが、
先ほど読んでいただいた神明記の8章のこの箇所の中にも、
実は同じことが書かれているなと思うんです。
3節を特に今日は注目して読みたいと思うんですけれども、
3節の言葉、特に真ん中から読みますが、
それは、人はパンだけで生きるのではなく、
人は種の身口から出る全ての言葉で生きるということを、
あなたに分からせるためであったと。
神明記の8章の3節の御言葉です。
この言葉もまた私たちにある意味、
人生の優先順位と言いましょうか。
それを問うように思います。
あなたはパンのためだけに生きていないだろうか。
しかしあなたは本当は、
種からのもので生きているということを忘れてはいないだろうか。
少しこの神明記の御言葉に集中させていただきたいと思います。
さて、3節の御言葉を読ませていただきましたけれども、
もう少しこの8章の周り全体を見たいと思いますけれども、
この8章に書かれていることはどういうことかと言いますと、
2節をお読みしますと、8章の2節にこう言われます。
あなたの神主がこの40年の間、
あらのであなたを歩ませられた全ての道を覚えていなければならない。
とまず言われます。
あらのの40年の歩みを覚えていなさい。
言い方を変えるならば、忘れるなと言われるわけです。
この歩みを忘れるな、なぜでしょうか。
このあれのの40年というのは、単なる旅路ではなかったんです。
ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんけれども、
このあれのの旅路というのは、どこからどこの旅を目的としていたかというと、
始まりは出、エジプトですよね。
エジプトなんです。
エジプトから出ていった民は、神様に導かれてカナンの地に向かうわけですよね。
でも、エジプトとカナンの地って、距離にすれば何キロメートルぐらいあるでしょうか。
直線距離で測ったならば、おおよそ300キロぐらいと言われるんです。
300キロ。
大きな集団であったかもしれませんが、
例えば1日10キロ、人の足で歩いたならば、
エジプトからカナンの地というのは、
大体おおよそ1ヶ月ぐらいで普通歩いていたら着くんです。
1ヶ月ぐらいの旅路なんです。
でも、彼らはこの1ヶ月の道を40年かけて歩いたんです。
いろいろな遠回りもありましたし、
そしてまた、民の罪ゆえに彼らは直線で引き返さなければならなかったということもありますけれども。
なぜこんな時間がかかったのでしょうか。
逆らったことも原因の一つですけれども、しかし原因はそれだけではないわけです。
この旅の目的というのは、神様は約束の地に連れて行くことだけを目的にしていたのではないんです。
この旅の目的は何かというと、約束の地で神の民が約束の民として生きていくための
ある種その民を整えるための旅路であったわけです。
そしてそれがまさに40年かかったということです。
それだけの期間が必要であったとも言えるのかもしれません。
40年の荒れ野の旅路というのは、私の身近な例で何かなと考えたときに
おそらく神学校という場所に似ているかなとちょっと思わされるんですね。
神学校というのは神学を学ぶだけの場所ではないんです。
口すっぱく神学校に入ったら言われますけれども、神学校というのは神学を学ぶ場所だけではない。
神学校というのは生ける神に学ぶ学校ですね。
神は生きておられ、そして生ける神がどのようなお方であるかということを学ぶための学校です。
そしてそのようにこの民もまた40年間かけて
私たちを目の前で導かれる神はどういうお方なのかということを
彼らは学び続けなければならなかった。
そしてそのある種彼らが学ぶための教材となったのは何でしょうか。
おそらくそれは彼らの上階級なんです。
彼らの遭遇した危機でした。
ある意味危機を通して民の心は探られたわけです。
危機を通して民の心の内が明らかにされていくということが問われたわけです。
それは言い方を変えるならば、人生の危機において究極的に
あなたは何を信頼しているのかということが問われたわけです。
そしてそれが明らかとなり問われ続ける。
そこに神の授業がある。
そう言ってもいいのかもしれません。
あれのでの歩みというのは上階級と常に隣り合わせでした。
実はよくよく見ますと、この8章の前後というのは
テーマとしては上階級ということが並べられているんですね。
またにこの上階級という危機に対して民がどのように対応するかを語っているような箇所なんです。
簡単に見ますけれども。
例えば7章の17節から何が書いてあるかというと
約束の地で戦う違法の民を恐れるなという
孟子の励ましが17節から書いています。
ただ孟子はこの戦いにおいて民を励ますだけではなくて
最後の方で注意喚起するんです。
あなたたちは死に従っているならばこの戦いは勝てる。勝てるんだけれども
主が誠実をしなさいと言われたものを
あなたたちは奪ってはいけないよと注意をされるんです。
主がそれを誠実しなさい。
偶像と富への欲望
すべて焼き払いなさいと指示されるその誠実にもかかわらず
一部のものを懐に忍ばせてはならない。
今25節26節にそのことが書いていますけれども
あなた方は彼らの神々の鳥像を火で焼かなければならない。
それにかぶせた銀や金を欲しがってはならない。
また自分のものとしてはならない。
あなたが罠に陥らないようにするためである。
あなたの神主がいみきわらわれるものである。
なぜ民は神様にこれは誠実のものだと注意をされるのに
懐に忍ばせるんでしょうか。
おそらく大雑把に言うならば
彼らが忍ばせたのはそれは何かの銀や金の財産であったり
その地の偶像を忍ばせたという記述もありますけれども
なぜそれが欲しいのか。
それはおそらく神様以外に頼れるものが欲しいんです。
神様以外に頼れるものが欲しいのです。
それは富そして偶像というものが
彼らの身近にはあったのかもしれません。
そしてもう一つ例を挙げるならば
この8章の4データで10節の以降ですね
11節からのところにも
いきなり気をつけなさいと注意をされます。
気をつけなさい、何を注意をされるのか
それは約束の地に入り
神様の祝福によって豊かになり
立派な家を持ったとき
自分の力がそうしたと言わないように
気をつけなさいと言われるんです。
8章の17節、18節もお読みしますと
こういうことが言われます。
8章の17節から
あなたは心の内で私の力
私の手の力がこの富を築き上げたのだと
言わないように気をつけなさい。
あなたの神、主に心を据えなさい。
主があなたに富を築き上げる力を与えるのは
あなたの人たちに誓った契約を
今日のように果たされるためである。
あなたが築き上げた富
これは新明家も何度も言われますけれども
あなたがまかなかったものを
あなたは食べているということが何度か言われますけれども
主の恵みによってあなたは豊かになっている。
あなたの富を築き上げる力も
主が与えてくださっているにもかかわらず
自分の力がそうしたと言わないように気をつけなさい。
でも言いたくなるわけですね。
なぜそう言いたいのか
神様以外に頼りたいものがあるんです。
自分の能力や誇り
それが自分を立たせるために欲しいのです。
それは言い方を変えるならば
神様、恵みの神様に減り下るよりも
自分が立っていると思う方が安心ができるんです。
でもそれもまた築き上げる力は
私のものであって主のものではないという姿勢なのかもしれない。
そしてそれは言い方を変えるならば
偶像崇拝と何も変わらないと言えるのかもしれません。
このイスラエルの民への忠告というのは
私は読みながら私事として受け止めなければならないと思わされるわけです。
何を隠そう私自身もこう考えることが多分あるなと思わされるんです。
確かに人生の危機というものは避けられないのではないでしょうか。
これは注意深く見なければならないと思いますが
神が苦しみを与えと先ほどの言葉の中であるので
この歌詞を見ると
私に降りかかる苦しみは全部神様からのものなんだということを思うがちなんですけれども
私はそうは言えないと思っています。
苦しみの原因というのはわからないんです。
なぜこれが降りかかるかということは究極的には私たちにはわからない。
人はパンだけで生きるのではない
100%神様が与えるものではない苦しみとはそういうものだと思います。
神様はご自身の民が苦しむことを喜ぶ残虐な神様ではありません。
苦しまない方がいいでしょうし
神様も私たちが苦しむことを望まれるお方ではない。
しかし同時にこうは言えるのです。
あれのに限らず危機のない人生などありえないんです。
私たちの人生って不思議とでもそういう世界に生きている。
そういう時に結局本音のところで解決になると思っているのは
お金であると言っているのかもしれません。
何か揺りかかれる存在、偶像である。
もしくはこの人生を自分自身の力だけで乗り切ろうとする思い
自分以外を信じないとする思い
それがもしかしたら私たちの軸になっているのかもしれません。
これは私自身も陥りやすい罪であると告白します。
私自身もそういう時があるわけです。
しかしながら、神様がアレノの40年で
イスラエルの民に教えたのはまさにここなんです。
軸はそこではまずいよということなんです。
そうじゃない、本当はそうではないということです。
上かわきがある、しかしそれを
よろべのないものが生み出す偶像や富、
自分の力だけで乗り切る、そういうことではない。
あなたの力でパンを求め、パンの補償を得るのではない。
それで主はあなたを苦しめ、植えさせて
あなたも知らず、あなたの人たちも知らなかったものを食べさせてくださった。
それは人はパンだけで生きるのではなく
人は主の身口から出る全ての言葉で生きるということを
あなたにわからせるためであったと言われるのです。
神様は危機の中で学びなさいと言われます。
その教材はある種私たちに減りかかる危機なのですけれども
もう一つ神様が教材として与えられたものがありました。
それは何かというとマナです。
日々降り注いでくるマナです。
彼らが手に入れているパンではないんです。
マナというのは毎朝彼らが何もせずともそこに注がれるパンなんですね。
彼らがどこからそれがくるかも知らないパン、
彼らの外からくるパン、しかし神様がくださるパンです。
それによって民は40年間生き続けたという事実があるのです。
だから忘れるなと言われるのです。
あなたたちは40年間一体何を食べてきたのか。
神様はイスラエルの民が飢え苦しんだとき
彼らの上にはマナを与えました。
彼らが渇いたときには神様は水を沸かせられました。
それは40年間絶えずそうされたという事が聖書は語っているのです。
40年間絶えずそうされ続けた。
そしてその結果四節にもありますけれども
八章の四節には
この40年の間あなたの衣服は擦り切れず
あなたの足は腫れなかったと言われます。
モーセは40年間を振り返るわけです。長い期間でした。
それは民の敗神の歴史でもありました。
しかしそうであるにもかかわらず
神様はあなたの食事を絶やしたことがあっただろうかと言われるのです。
乾き続けさせたことがあるだろうか。
あなたの衣服は擦り切れただろうか。
あなたの足は傷んだだろうか。
そんなことなかっただろうと言われるのです。
そうではない。そうではなかったはずだ。
神様は40年もの間
あなた方にただ恵みを
日ごとの恵みを惜しまれたことはなかっただろうと言われるのです。
その神をあなたたちは学び続けてきたはずだと言うのです。
そしてこのマナーを通し
民は本当にだからこそ学ばなければならない大事なことがある。
人はパンだけで生きるのではない。
人は死の見口から出る全ての言葉によって生きる。
そのことを言っているわけです。
パン。パンと言いますと
それにはいろいろなものが象徴されるような気がいたします。
パンだけではありません。
良い衣服、良い家、良い働き。
誤解がないように言いますが
それが悪いなんて全然思いません。いいんですよ。
それはそれで神様が与えてくださった祝福なので大事なのです。
しかしそれだけこそが追い求めるものであり
それだけを追い求める人生というものは
何かが違うのではないか。
人はそれによって幸いが得られるようには
デザインはされていないのです。
幸いはどこにあるのか。
死の見口から出る全ての言葉で生きるという
その事実を知ること。
そして神様は絶えず私たちを握り語り続けてくださっているわけですけれども
そのお方の前にひざまずき、目を上げ
主御自身につながり続けることです。
幸いというのはそのところにあるのだと聖書は語るのです。
神からの恵みと学び
マリアのようにです。
イエス様は言われました。
しかし必要なことは一つだけです。
一つだけです。
私はちょっとだけ明かしをしても終わりますけれども
日本伝道会議に4日間参加して
一つとても嬉しかったのはですね
新学校の同級生に再会したんですよ。
10年ぶりに再会をしました。
その方は聞いたら今年で70歳になられるということで
卒業後はインマヌエル総合伝道団の教会で御奉仕をなさって
この方は新学校で同級生だったわけです。
いろいろなことを分かち合いました。
卒業後ニュースレターをずっと送ってきてくれてたんですけれども
私筆部書で全然返せてなくて
だからこそいろいろな近況が分かち合えたことを
すごく感謝をしました。
当時のことがいろいろ蘇りました。
この方、この先生はですね
新学校に入学される前は実は社長さんされてたんですね。
一代で土木会社を築き上げた方です。
ご自身で会社を始めて公共事業も受注しているような
ある程度の規模まで会社が大きくなった方なんですよね。
同時にとても熱心な信徒でした。
インマヌエルの有名な先生のかばん持ちをしながら
いろいろ彼はやっていたわけですけれども
ある時ご夫婦で神様からの献身の召しをいただいたわけです。
ご夫婦は共にその時60歳前後でした。
献身の召しをもらった時にいろいろなことがよぎったそうです。
会社はどうするのか。
そして何よりも60歳から新しい人生の舵を切る
それだけでの負担を考えられないということを
そのことは思ったそうです。
あと数年仕事を続ければ引退して
会社を誰かに引き継いで
悠々時的に自分のペースで神様に従うということが
おそらくできる、そのような状況にあった。
けれどもこのご夫妻は会社を閉じて
夫婦共に静岡から神戸まで来て
父親の新学校で3年間学んでいかれました。
新学校は神に学ぶ学校と言いましたが
ただ新学の勉強もたくさんあるんです。
この方60歳で学校に入ってから
大卒の人間と一緒に勉強するって大変だったんですよ。
勉強がわからないということもあったし
ずっと現場の人間だったのでパソコンの使い方がわからない
でもレポートは全部パソコンで打たなきゃいけないから
パソコンの使い方も新学校で一から学ばなきゃいけない。
でもこの方は一生懸命それに取り組んで
レポートもパソコンで自分で書いて
説教も自分で書いて
できるようにまでなっていかれた。
そして勉強がわからないときには
あるし自分の子供よりも年の若い私みたいな新学生に対して
頭を下げて
加藤さん勉強を教えてくれやと言ってくる。
私はあるときこの方にこう言いました。
山本和夫さんという山本和夫先生の
和夫さんと
本当に和夫さんの姿に頭が下がりますと
よくそこまでされますねと
するとこう言われました。
加藤さん
全部白紙だよって言われた。
加藤さん全部白紙だよって言った。
私はこの一言は忘れられないですね。
この方自身が築いてきたキャリアというものがある。
主の与えてくれたもの
この方自身が築き上げてきたものというのはたくさんある。
経験もある。
やはり
それは主が与えてくれたものであると本当に思っているんです。
主が与えてくれた。
そしてだからこそ主が私を必要だとされるならば
やはりそれをどこかで手放すことをなさることができる。
一貫しているんです。
軸が神様にあるんですよ。
私を支えているもの、私を生かしているもの
主が与えられたものであり
主が必要とされるならば
これは手放してもいいんだ。
先生、ご自身が人はパンだけで生きるのではなく
人は主の身口から出る全ての言葉で生きる。
ある意味その事実を地で生きている
そのような姿
新学校に行くとそういうことが
本当に大切な宝として残ります。
私はこういう言い方はすごく失礼かもしれませんけど
クリスチャンを見たなと思いました。
ああ、クリスチャンってこういう人だな。
そのようなお方を見せていただけたことは
本当に私にとっての財産でした。
今も心から尊敬しています。
人はパンだけで生きるのではなく
人は主の身口から出る全ての言葉で生きると
今日はこの言葉を覚えておきたいと思うのです。
パン、いいえパンだけではなく
着るもの、住む場所、ご自身の働き
何度も言いますがそれはどれも大事なんです。
主が置かれた場所で、その仕事で
皆さんが果たされる使命というものがあるでしょう。
しかしそれと同時に覚えるべきことは
しかしそれらもまた根本的には
主の賜物であるということです。
主の賜物なんですね。
私たちは聞きのときに人生の歩みの中で
人は主の言葉で生きる
究極的に何によって生きているのかと問われます。
人は主の身口から出る全ての言葉で生きる。
そのためにこの優先順位を忘れてはいけないのだと思うのです。
パンを追い求める日々に幸いがあるのではない。
主につながり、主の前にひざまずき
主の言葉に聞き、主の祝福によって幸いを得る。
六節十節というのはまさにそういうことが書いてますね。
ちょっと読むだけにしますが六節十節。
八章の六節から
あなたの神主の命令を守って主の道に歩み主を恐れなさい。
あなたの神主があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。
そこには谷間と山に湧き出る水の流れや
泉と深い淵のある地
小麦、大麦、ぶどう一軸、桜のある地
オリーブと蜜のある地である。
そこであなたは不自由なくパンを食べ
何一つ足りないものがない地であり
そこの石は鉄で
その山々からは銅を掘り出すことのできる地である。
あなたが食べて満ち足りた時
主がお与えくださった良い地について
あなたの神主を褒め称えなければ
優先順位を忘れないように。
あなたは危機の中において
あなた自身がどうこう
それは大事じゃないとは言いません。
でも究極的にはその中で知らなければならないのは
神は恵み深いお方であるということです。
神の恵みがあなたを生かすのだということです。
神が苦しめる。
しかしそれは神様は残酷なお方ではないと言いました。
語説にもそういうことが書かれています。
あなたは人がその子を訓練するように
あなたの神主があなたを訓練されることをしなければならない。
訓練というのは残酷に行われるんじゃないんです。
親が子を育てるように
それは愛が一貫してそこに流れているということですね。
苦しめることが目的ではない。
苦難の原因、その理由は正直分かりません。
何度も言います。
苦難の原因の特定なんか
簡単にするべきではないと私は思います。
でも何かを得させるために
大きな喪失を計画される神様ではないと私は思っています。
むしろ避け得ない人生の危機があるんです。
私たちも神様も望まず起きてほしくない
痛みというものがあるわけです。
しかし起きてしまったとするならば
私たちはそのマイナスをもとして
神様は神様ご自身の恵みの豊かさを知り続ける機会と
神様ご自身が成してくださる
そのことを信じてよいのです。
ある意味
私たちの人生というものもまた
神学校のようなものです。
神を学び続ける。
神に学び続ける。
本当に神はどういうお方であるのか
残酷で恐ろしいお方なのか
無関心で何もされない方なのか
私たちはもう一度学ばなければなりません。
イスラエルの民は40年間マナが途絶えなかった
彼らの衣服はふころびず足も腫れなかった
神はとことん恵み深いお方である。
危機の中にあっても
だから私たちは大丈夫と互いに言い合える。
40年間一日絶やさずマナをお与えになられたお方は
今朝も確かに私たちを知っている一人に対して
恵みを絶やされない主である。
恵みの主は絶えずともにおられるのです。
それで主はあなたを苦しめ
飢えさせてあなたも知らず
あなたの人たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。
それは人はパンだけで生きるのではなく
人は主の身口から出る全ての言葉で生きるということを
あなたに分からせるためであった。
良いことであったり正しいこと
やらなければならないことはいろいろあるでしょう。
しかし必要なことは一つだけです。
必要なことは一つだけです。
私たちは共にこのことに集中することを
させていただきたいと願っています。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
36:26

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