1. 名谷教会
  2. 2022/02/13:湖上を歩くイエス
2022-02-13 38:08

2022/02/13:湖上を歩くイエス

2022/02/13 聖日礼拝

斎藤亘師

マタイの福音書 -33

00:03
おはようございます。
言われておりますように、ゆう先生は、今朝は名谷教会の礼拝で御用される。
ただオンラインでなさるということで、ご自宅からそういう方法で、今、名谷教会の礼拝の御押しをなさっておられます。
コロナというのが起きなければ、そういうやり方を教会が採用して、そして礼拝を同時に行うということは、私の年代ですと特にそうですが、考えられないそういうことです。
しかし、コロナという名をついております、こういう中で、今、集まれる人は教会に集まり、また、そうできない方はテレビなどを通し、あるいはスマを通して、そしてそれぞれのところで礼拝を行うという、
この2年の中で教会が得た知恵だなと、そう思いながら、改めてその一元においては良さをも味わっております。
ただ、やはり礼拝、あるいは集会は、顔と顔を合わせて、そしてするというところにも、交わりの意味がありますから、必要なんですけれども、しかし今、公の基礎教関係の集会というのは、ほとんどがオンラインで行われております。
今月、まもなく大阪経済コンベンションがあります。これも、大阪クリスチャンセンターを会場にしてはいますけれども、やはりそれをオンラインでもって、全ての人に届くようにという、そういうようなことが行われてきておりますし、また、今年もそうです。
それだけに、私たちは、一回一回のこういう礼拝にしろ、正解にしろ、何にしろ、大変な、また大切なことだなと、改めて思わせられております。
それでは一言、短くお祈りをしたいとします。
03:08
オンラインで礼拝をもっております、兄弟姉妹方の上に、どうぞあなたの御言葉が等しく与えられて、あなたの皆が崇められるそれぞれのところにおいての礼拝とならしめてください。
ユン先生の皆、奈良教会においての礼拝の御用にあたっております。どうぞ奈良教会の上に、また先生の御法師の上に、御精霊が等しく渡り下さるように。
シュウエスキリストの皆によって、いまにこの祈りをお伝えいたします。
アーメン。
そういう言葉だということを。そしてまた、この方は私たちのためにどれほどのことをなさっておられるか、この方が共におられることによって、私たちはどんなに大きなこの祝福をいただいているか、そういうことを御一緒に見てまいりました。
で、今朝も同じ箇所でありますけどね。同じ箇所からテーマが違いますけども、今朝はこの古城を歩くイエスという、そこに焦点を当ててこの言葉を共にお受けしてみたい。
私が30年くらい前でしょうかね、日本教会政調研修会というのがありましてね。
で、ある朝の御用を決められたその箇所から、同じ箇所なんですよ。そこに10人、12人でしょうか、いろんな教派団体の僕たちが集まって、そして共に研修をする中で、そういう御用する機会が与えられた。
同じ箇所ですからね、祝福するんじゃないかなと思いましたら、やはりそれぞれの理解や経験や、そしてまた学んでこられたことや、そういうようなことから、それぞれ与えられた光がありましてね。
12人が、12人とも本当に素晴らしいメッセージをそこで、わずか10分から15分のメッセージだったと思うんですけれども、そういう機会が与えられて、一つの二言葉から、あるいは一箇所から、それぞれのこのメッセージが与えられて御用するという、こういう機会を後にも先にもその時だけでしたけれども、しかし、非常に教えられました。
06:22
私はそういうこともありますので、この同じ箇所から、今私たちは、イエス様というこのお方に、もちろん聖書ですから、このお方に焦点を当てて、そして御言葉をいただくという、そのことを求めていきたい。
この重要章に入りますと、大変物騒な事件からこの出来事が始まるわけです。
ヨハネが、そのヘロデの祝い事のために、とうとうですね、首をはねられて、そして、その遠跡のそこに運ばれるというような悲惨な出来事。
ところが、一変しまして、イエス様の元においては、大勢の人々がイエス様から、それぞれ新たなパンと、そして御言葉をいただくという、しかも男の数も五千人以上あったというんですから、女性や子供たちを含めるならば、いうように一万が超えていたと思うんですけどね。
そこに、イエス様は御自分の手から、そしてまた弟子たちの手を通して、そして全ての人々に満足するほどの恵みを、このパンと御言葉をお与えなさったという、そういう大きな禍がそこではなされている。
ヘロデの王宮では、一人の人の死が、そこで持っていけないとなる。しかし、このパンの奇跡においては、横浜にある福井市の方では、一人の少年が捧げられたそのパンと御言葉ですよ。
それで持って、その大勢の人々が養われるという、この祝福の豊かさをそこで教えられました。
ところがですね、パンを味わい、魚をいただいて、今私たちにこのことを引きかかっている方は、これはただの人ではない。
きっと私たちの救いのためにおいでなさった方にしがいないということで、彼らの中にですね、それぞれイエス様に対する思いがこのまえてまいりました。
何としてでもこのイラノを王として、やがてはこのローマを覆して、そして私たちの国がもう一度盛んになるようにという、そういう思いが人々の心の中に広がっていった。
09:11
お読みいたしましたこの箇所は、そういう背景の下でもってイエス様は、御自分の意図とするそれと、人々が期待するそれとの隔たりというのを感じたんでしょう。
この同じ出来事が、ヨガネニュー福音書のこの6章の十五節に、イエスは人々がやってきて、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人山にしずかれたと書いてある。
私たちは今、2017年版の福神会訳を使っていますが、その前の神会訳では、そのところは無理やりと言葉が用いられているわけですね。
人々は無理やりイエス様を連れて、そうしてということでしょうか。
そこにイエス様は、御自分が使わされてきたものとしての御使命と、人々が自分に寄せるそういう期待との大きなズレを感じなさって。
イエス様はただ一人山にしずかれて、そしてそこで御祈りされる。それがこの箇所ですね。
私たちはここにいるべきイエス様の姿として、私たちのために祈ってくださっているイエス様の姿をまず見ることができます。
同時にイエス様は弟子たちに対しても、この群衆から離れて、そして向こうにしに行きなさいという。
この2017年版の神会訳ではあまりそれが使われておりませんけれども、前の神会訳や、あるいは共同訳や、そういった見てがありますと、
この強制的にという、強いてイエス様は弟子たちを船に乗り込ませて、そして向こう岸へ向かわせたという、そう書いてあるんですね。
私はある一つの問題で、真横に登場られた大島伊介先生をお尋ねして、そして自分の在り方や自分の生き方や、
12:10
そういったことについてお祈りいただきながら相談させていただいたことをここを開きますと、一つ思いがそこに入ってまいります。
その時に先生がこの箇所から、イエス様は時に強いて弟子たちを向こう岸に追いやった、私たちも自分の思いや自分の考えや、
そういうところから私たちを時に強いて引き剥がして、独りにして、そしてそこで新たな血の身心を教えなさる、そういうことがある。
電動車の手間もない私には、分かったような、分からんような、そんな思いでもって先生の忠告と、そしてまた勧めとを心に留めました。
その時にここに残ったそれが、この強いてという、当時は公語訳清書でしたけれども、その言葉が今も残っております。
自分の意図するところとは違う。
と言うのもしかしながらイエス様は、強いてそこからさらにこの道へ行きなさいと言って、その新たなまた私にとって必要な道をそこに備えて下さる方だと。
同時にイエス様は、そういう風にして弟子たちを船に乗り込ませて行きなさいと言って、そしてそのまま放置なさる、そういう方ではない。
申し上げたように、イエス様は弟子たちを向こう岸に向かわせるという、そういう中でもって、イエス様はその弟子たちのために、そこで祈られる。
私たちのために、どんな時でもどんなことがあっても、取り成して下さるイエス様の姿を私たちはしっかりと捉えていきたい。
このヘブル・ヴィトリーの手紙の7章を見ますと、お聞き下さっただけでよろしいですが、ここに、この7章の25節のほかに、キリストはいつも生きていて彼らのために取り成しておられるというお言葉があります。
常に勇気づけられる、そういう言葉の一つであります。
15:05
イエス様は、心の中にある、あるいはそういう中に直面していく中で、けれどもイエス様はその一人一人のために、今も生きていて、
あなたが一人じゃない、私はあなたのために祈っているからという、そういう力強い、このイエス様のお言葉であり、またお姿をそこに見ます。
参上で祈られるイエス様のお姿ですが、しかしイエス様は、あの十字架に報われる直前の弟子たちとのやり取りの中で、特にヴィトリーに対してはね、大変こう潔いイエス様に対してのこの誓いをしているわけですよ。
他の弟子たちはいざ知らず、私に限ってはイエス様、あなたを裏切るなんてことは決してありません、という、非常に大胆な、そういう言葉でもっとイエス様に答えているわけですが、しかしイエス様は、この後に起ころうとしているペテロンのために、私はあなたのために信仰がなくならないように祈った。
だから、立ち直った時には、他の弟子たちを励ましてあげなさい、というその場面ですね。
今はまさに奮いにかけられて、そして弟子たちはもうそれぞれチリリバラバラになる、そういうことが目前に迫ってきている、そのことをイエス様はよく覚えながら、けれども私はあなたの信仰がなくならないように祈った、という非常に大きな慰めの言葉であり励ましの言葉です。
いつでも私たちのために取り成してくださるイエス様のお姿をそこに見ます。
イエス様が祈られるこの姿というのは、教会のために今も取り成してくださっているイエス様御自身の姿です。
第2番目には、テーマにしておりますけれども、この26節、ここでは御城を歩くイエス様の姿を見ます。
弟子たちは、一体どうして私たちだけをこんなふうにして船に乗り込ませて、そして向こうに行きなさい、向こう岸に向かいなさい、なぜそんなことをなさるんだろうか、という半信半疑のままに彼らは船を出しました。
18:10
ところが、この深海薬接種によりますと、この時刻というのは3時から6時ぐらいの間のようですね、夜明けの頃。
あの静かな薬が一転して、波風に荒れるペトローたちも経験もしないような事柄で、彼らは慌てふためく、彼の慌てようがそこに記されております。
実際私たちも思いもしないような試練や何かそういうことに出会いますとね、そういう試練というのは大変私たちを孤独にするんですね。
こんな苦しい目にあっているのは私だけだ、私のこんな心情は誰も知ってくれないだろうという、だから余計苦しむんですね。
支援の46編の1節には有名な言葉があります。
苦しむ時そこにある助けと支援の記者はそこに謳っております。
苦しむ時そこにある助けをお与えなさる神。
まさにイエス様は弟子たちにとっては思いもしないような大試練の中で、あるいは自分たちの生涯もここのガリヤ子でもってあるいは終わりなのかもしれない。
けれどもイエス様はその試練のただの中でもって、自分自身のことすらも見失ってしまいそうなこの弟子たち。
そういう中でイエス様は決してその一人一人を、それこそ試練のただの中でもって一人ぼっちにされるような方ではない。
私たちはもうイエス様から見放されたみたいに思った瞬間もあったと思うんですけれども。
ところがそこにそれまでの彼らの経験においてはありえないこと柄があるいは技術として目の前に展開し始めた。
21:11
あれくるる中を誰かが自分たちの船に近づいてくるではないか。
彼らはそこではああというのそれがわかります。あれは幽霊だというですね。
私たちはあんまり恐ろしいことがあったりしますよね。
何かそういうことにこう逃げばっているんでしょうか。
自分の気持ちのやりどころをそういうことに求めていってしまうところがあずかに思うんですね。
あずかに思うんですね。
彼らはねこういう失敗を復活されたイエス様が自分たちのところにおいでになっても関わらず彼らは同じようにああ幽霊だと思った。
よかによる福音書のあの絵文にそぐ弟子たちの前にイエス様がご自分を表しとして彼らと一緒にパンと武道書を分け与えたときに
彼らはですねそれでもなおイエス様がよみがえられたという事柄については信じきれないで
それを受けながら彼らが思ったのはこんなことはあり得るはずがない。
あの方は自分たちの見ている前であの処刑場でもって亡くなられたではないか。
そこには言わせなかったけれども何人かの人があの婦人たちと一緒にイエス様を定城に葬ったではないか。
その方が自分たちのところにおいでなさるなんてことはこれはもう絶対あり得ることではない。
しかしそういう自分の常識や経験や何かでもってそんなことはないと私たちは常に決めつけてしまうところがあるんですけれども
そういうことでないことも起きますと私たちは同様のゆえにですねこの幽霊だみたいなことに
その気持ちを怒らせてしまう。
コリーズ第一の手紙の十教の十三節に神は真実な方です。
あなた方を耐えられない秘伝に合わせることはなさいません。
むしろ耐えられるように自然とともに脱出の道も済まないでくださいます。
24:00
今オリンピックの真中ですけれども何とかね
パニュー選手が四回転半をやり遂げてそしてもう一度その優勝の道を飾ってほしいという
そういう期待を込めておりましたけれども
しかしそれはできずにですねむしろ自分の後についてきた宇野選手とか
今回初めてながら知るようになりましたけど上本選手ですかね
彼らがですね2位3位というメダリストになってそして自分は4位という立場になりました。
彼が2回のオリンピックでもってゴールドメダリストになった。
そして3回目を狙うのは自分だけしかない。
だから何とかそれを目指したいという気持ちでもって向かっていったんでしょうけれども
しかしショートでもって大きく後退してしまった
アニュー選手はその次のフリーでもってですね4回転半成功はしませんでしたけれども
それに挑戦するということでもってそういう彼の姿勢が評価されたようですね
そういう道を歩んできました彼は
いろんなこの試練と思えるようなところを通ったと思いますよ
技術的にもそうでしょうし体力的にもですねもう自分はダメじゃないかっていう
でもそういうところを乗り越えながら2回にわたってオリンピックでもってですね金を勝ち取るという
国中を分かちたアニュー選手でしたけれども
その彼がですね今回のことではなくそれまでに彼がそういうメダリストを目指してやっていく中でもって
もう挫折してしまうというようないろんな試練に出会ったと思う
彼がある時のインタビューでもってこう答えてるんですね
試練は乗り越えられるものにしか与えられないという感覚
それは自分の中にあるんですってすごいこと言うな
確かにそういう3回目を狙うっていうことはね
彼にしか与えられてないところの一つの試練でありますよ
今回はそれはなぜできませんでしたけれども
しかし彼は非常にどんな中でもそういうことに対して
27:06
試練に乗り越えられるものしか与えられないという
そういう感覚を自分は持ってるんですって言って
望んだんですね
私はそれを読んだ時にですね
やはりそういう道において一つのことを成し遂げる
そういう器には私どもが経験しないような
そういうことを経験しながら
だから試練というものが与えられるとするならば
それを乗り越えられるそういうものもそこにきっと与えられる
そう自分は信じてそして来たんだっていうことを述べて
同じスケーターとして
このスポーツ部門で
池部かなこ出ましたかね
白血病でもって
もう到底自分はスポーツには戻れないという
初の病名がはっきりした時にそう思ったかもわからない
しかし今ね見事にそういうところから回復してそして
一位を争うようなそういうスイマンになっておりますが
彼女もねこういう聖書の言葉を読んでたのかどうなのか
その同じインタビューでもって彼女は
私は神様は乗り越えられない試練は与えない
自分に乗り越えられない壁はないと信じてそして来たんです
なんかこう聖書のことを彷彿させるような
そういうインタビューでの彼女の言葉にも
そういう思いが厳しい厳しいそういう病魔に襲われて
そしてあるいは血病ということでもって倒れてしまうかもわからない
スポーツは望めないとそういう大きく挫折感を味わうような
そういう中でもってね彼女は自分に乗り越えられない壁はない
必ず神様は乗り越えられる試練というものを
与えてくださってそして乗り越えさせてくださると
30:00
そう思ってやってきたと言うんですね
私は改めて聖書の言葉のその素晴らしさというのを
二人は自分の経験やあるいは自分の身を置かれている
そういう状況の中でそれこそ希望も何もかも全部立たれてしまいそうな
そういう中で聖書の言葉にあるようなそういう思いを持って
そして立ち上がってきた
最後にもう一点はこの27節を見てまいりますと
イエスはすぐに体に話しかけしっかりしなさい
私が恐れることはないと言われたと書いてあります
昨年このお言葉を中心にご一緒にお言葉を開きました
その時にもちょっと触れましたが
先ほどお話ししました小島一介先生が戦後間もない昭和27年
私たちのこの日本イエスキリスト教団というのがそこに立ち上がった時に
最初の院長として選ばれたのが小島先生でした
その先生が教団総会においてそういう皆さんからの辛抱でもって
そして院長になられた時に
先生は生まれもっての心臓に弱さを持ちなさったのでしょうか
ですから生涯結婚もなされなかった
そういう事情があったのか分かります
私の家内の学科の時に先生がこんなに長生きさせてもらうんだったら
結婚をしてもよかったかなと思って
そうとおっしゃっていたのですが
自分の健康上のことを考えて
生涯独身として生涯を全う99歳まで先生が生きられました
この先生がそういう背景の中でもって教団を背負うという
立たされた時に何回も申し上げてきておりますが
33:05
我なり恐るの
先生のライフメッセージ
生涯かけてこの言葉でもって立ち上がってきなさいという
このイエス様の声を聞いてそして
イエス様は院長としてその実績を担われた
何回か私はメッセージとしてこの言葉を聞きました
試練の最中
そういう中でもって
しかししっかりしなさい
私が恐れることはない
今も私たちのうちに
イエス様がこのお言葉のように一人一人のために
取り成してくださっている方であり
そんなことも私に限ってはあり得ることではない
あり得ないことですというような言葉でも
イエス様はですね
それこそあり得ない
故郷を歩いてそして弟子たちのところに近づいてきて
しっかりすんだ私だ
恐れることはないと言っておられる
昔聞いた話ですが
二人の弟子に平安という定番のことでもって
それぞれ自分のこの描く平安という
その定番にふさわしい絵を描くようにということで
その二人の弟子がそれぞれ描きなさった
一人は本当に平和な田園風景というのでしょうか
ああこれがまさに平和かもしれないと思えるような
そういう絵を描きなさった
ところがもう一人は
この滝がですね
水しぶきを周囲にもたらすような
非常に激しい動きのそういう滝の絵を描いた
やがてその平安という定番にふさわしい絵はどちらかといって
その先生が持ちなさったそれは
激しくこの滝しぶきに落ちるこの滝の絵だったそうです
非常に激しい動的なそういう中で
なんでこれが平安なんだろうか
ところがこの画家は激しく落ちるその水の向こう側にですね
36:08
親鳥の翼の中で囲まれて
そしてこのおります通話の小鳥たちの姿
それが水の向こうに見えた
そしてその親子は確かにそれは音量とスペリオと激しい中でもって
それはそういう中の姿ですけれども
しかしあの雛田氏はどんな周囲がそうであっても
自分たちは自分たちを囲まれてくれる
その親鳥のですね母親鳥でしょうか
翼のゆえに自分たちは何一つ心配ない
それが平安なんだということのそちらの絵をですね
採用されたということを聞いたことがあります
まさに私たちはそういう激しい自然の中に身を置くことがあっても
しっかりすんだ私であるとおっしゃるこのお方の
翼の下において私たちは守られる
決して私たちは一人でその自然に立ち向かうんではない
到底これは自分にしか追えない自然で
誰もわかってくれないというような孤独の最中においてでも
けれどもこの方はそこにまでも及んでくださる
イエス様として私たちにあり得ないことがあり得ることとして
イエス様が私と一緒に生涯を共にしてくださる
そしてどんなことがあってもしっかりすんだ私である
恐れることはない
皆さんもう一度このお言葉を心に留めていきたい
そう願っておりますお祈りをいたします
38:08

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