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2022-02-06 26:07

2022/02/06:創世記(42)ヨセフとイエス・キリスト

2022/02/06 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 -28


00:03
一言お祈りします。神様、感謝します。
この朝も、ここに集まっている一人一人、また、自宅でベッドで礼拝している方々、
その一人一人の上に、神様が共にいて下さって、
あなたの栄光をあらわし、あなたの恵みを施して下さいますよ。
主簿自身が、私たち一人一人に語り分けて下さいますように。
また、悟りの霊が私たちに与えられて、主の御頃を悟り、御言葉を悟り、
そして御言葉に生きるものとさせて下さい。
イエス様の皆によってお祈り致します。アーメン。
今日もまた、おうちで自宅、ネットでですね、礼拝を捧げていらっしゃる方々もおられるかなと思っております。
また皆さんも集まっていただいて感謝いたします。
このコロナというものが長く続いていますけれども、
昨日どうなるか誰も見込みできないんですが、
今、皆さんもニュースでですね、ご存じかと思いますが、
ヨーロッパでは、デンマークとかイギリスとかはですね、
このワクチンの規制とか、マスクの規制とか、そういったものを全部解除して、
今、コロナはパンデミックじゃなくてエンデミックだ、風動病、インフルエンザのようなものだというふうに、
これ以上また新しい株が発生しない限りは、
これで普通の生活に、もう既に戻っているしですね、
私の知り合いのドイツで牧書している人もいますが、
ドイツも3月からは全面その規制を解除してですね、
普通の暮らしに戻る予定だそうなんです。
だから日本もどうなるか分かりませんけど、
4月からあるいは5月からそういうふうになるのではないかなと、
なってほしいなというね、少しそういった希望の兆しというかですね、
そういうところが見えているところもありますし、
本当にいろんな意味でいろんなところで、いろんな故で苦しんでいる方々が世界中にですね、大勢いますから、
神様が本当に憐れんでくださるようにですね、祈っていきたいと思いますし、
また何より私たちクリスチャン、また教会、また選挙の働きのためにですね、
03:07
本当に神様が本当にどうか憐れんでくださるように説に心を合わせてですね、
希望を持って祈っていきたいと、そういうふうに願っております。
さて今日は創世記42回目、ヨシフとイエス・キリストという題であります。
ヨシフのストーリーは長いですけれども、
今日はその中で、このヨシフの生涯から、特にその中でこの裏切りという背信というテーマでですね、旧約新約を貫いて見ていきたいと思います。
今日のメッセージは短いですけれども、ともに主の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。
ヨシフの生涯の中には、イエス・キリストをあらかじめ表すものがあります。
その中の一つが、彼が兄弟によって銀貨20シケルとも言いますが、それで売られたこの出来事。
何を皆さん大体ご存知だかと思いますけれども、ヨシフの兄弟たちが弟ヨシフを売ってしまったんですね。
その理由は何でしょうか。
彼らがお金が欲しかったからではないんですよね。
彼らの恨み、妬みがその理由だったんですね。
お父さんのヤコブは、もうヨシフだけ愛している。
そんな父親の偏愛の原因になってですね、ルーベンとかユダとか他の兄弟がヨシフを恨んで恨んで、
恨んだけく、ヨシフを取り除こうとして、最初は殺そうとしたんですね。
でもその中のユダの提案で、それは急転して、ちょうどその時にエジプトに下っていくミリアンの商人たちに銀貨20万円もらって売ってしまったんです。
それでヨシフはエジプトに奴隷として連れられていったわけです。
これがヨシフが売られて、エジプトに連れられていく、そこまでのストーリーになりました。
これはまずですね、実際に起きたことです。
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それからこれは単なる兄弟間の争いを表しただけではなくですね、イエス・キリストへの予表であります。
あらかじめ表す予表といいますが、この予表の出来事なんですね。
イエス・キリストを指し示している、表している。
それは、この物語はイエス様がイエス様の当時、あのユダヤ人たち、パリサイ人とかレッポガコシャ人とかサドガユ人とか、
そういった当時のユダヤ社会のことに宗教指導者たちから恨まれて妬まれた挙句、
実はその理由でイエス様は十字架にかけられて、死なれた、処刑された、そのことの予表でもあります。
さあ、イエス様の当時のことについて少しね、触れたいと思います。
もちろんイエス様は私たちの救いのために、人類の救いのために、ご自身自ら十字架にかけられて、死なれて、よみがえられた。
それで神様の摂理の中に救済の、救いの歴史のためにあったものですが、実際の彼らのこの状況を見て、覗いてみたいと思います。
イエス様が登場する前まではですね、ユダヤ社会においては、もう先生と言ったらパリサイ人たちですね。
また立法学者たちとか、悟会人たち、もう彼らが先生、イスラエル社会の宗教指導者は、もう指導者のトップにいる、そういう人々。
みんなから尊敬されて、先生と言えば彼ら。
いつも彼らは人々から尊敬され、相談され、そういった社会の中核の中心人物という彼らだったんです。
しかし、ある日なざれからイエスというものが現れてですね、ある意味で一気にそのパリサイ人とか宗教指導者たちに向かっていた尊敬や賞賛や、そういったものがですね、イエス様に向けられてしまったんです。
先生と言えばパリサイ人とかじゃなくてですね、イエス様に変わってしまったんですね。
だからそのパリサイ人たちとか彼らの目からイエス様というものはですね、もう厄介なものであり、自分たちの今まで浴びていた賞賛や尊敬を奪い取ったよそから来たものだった。
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だからね、パリサイ人の観点から言うなら、もうイエス様はユダヤ人指導者たちの権力争いによって取り除かれたということになります。
いわゆるですね、パリサイ人彼らはイエス様を恨んで、妬んでですね、この厄介なものを取り除こうとしたわけなんです。
それも神様が用いられたわけですけれどもね。
そして彼らはイエス様が神でありながら人であることを信じなかった。信仰の目でイエス様を見ることができなかった彼らでした。
彼らも一般の群衆のように、あの旧約聖書に預言されていたメシアをね、ユダヤの人々みんな待ち望んでいたわけなんです。
パリサイ人たちも立派な人たちもですね、みんな待ち望んでいた。
しかし待ち望んでいた本当のメシアが来られたにも変わらず、彼らは自分たちのこの権力欲とか、この地位とかプライドとか、もうそこにですね、囚われてしまって、本当のメシアが来られたにも変わらず、気づかなかった。
知ることができなかった、見ることができなかった、認めなかったわけです。
なぜなら彼らの目には恨みや怒り、妬みといったこの眼鏡がかけられていたから、イエス様をですね、素直な心で、強い心で見ることも知ることも信じることもできなかった。
だからイエス様を殺すことにしたわけです。
今日も同様だと思います。
もしも私たちの心の目に何かの少しでも怒りとか、妬みとか、あるいは恨みとか、そういったもの、それが何かの心の目の眼鏡になって、それがかけられていたらですね、
真理を見ることも知ることも信じることも難しくなる、できなくなるということなんですね。
真理の言葉が語られても、真理として受け入れることができないわけです。
12:06
それは語られる言葉が真理ではないからではなくですね、聞く私たちの心にそれを邪魔する何かがかけられているからということなんですね。
さてヨセウはミリアン商人たちに銀貨二十四ケルで売られました。
ヨセウの巨大たちは当初ヨセウを殺そうとしたんですね。
しかしお兄さんの一人ユダの提案で、ちょうどそこを通りかかっていたミリアンの商人たちに彼を売って渡しました。
愛すべき兄弟たちが弟を売ってしまったわけです。
愛されるべき弟が奴隷として売られた話、お話になります。
ここに裏切りという人間の罪がここに図は描かれているわけです。
裏切り、背信という罪ですね。
だから皆さん、このヨセウの物語は単なる兄弟争いの物語ではなく、実際にはそうなんだけれども、
それはこの聖書の重要なテーマの中の一つ、裏切り、背信というこの罪を扱って物語っているわけなんです。
イエス様の話につなげて話をしていきましょう。
イエス様が売られたわけです。
イエス様も売られたわけですね。
彼の弟子ユダが登場します。
あのユダはイエス様の弟子なんです。
弟子だった彼の手に、しもイエス様が売られてしまいました。
人価三十四ケルでした。
そしてイエス様は群衆に裏切られて、群衆になって十字架に賭けろ賭けろと言われて、賭けられてしまった。
愛していた彼ら、愛していた弟子たちからイエス様は裏切られて、売られてしまったわけです。
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ここにイエス様がされた裏切り、背信が物語られているわけです。
ちょっとお話は飛びますが、聖書を理解するときに、いろんなテーマ、キーワードで理解することができますが、
その中の一つの言葉がこの裏切り、背信という人間の罪です。
実はですね、聖書の旧約聖書から始まって新約聖書、今の時代も人類の罪のそれを一つのキーワードで言えるならば、
それは背信、裏切りというものだと思います。
さあ、少しですね、触れて話していきましょう。
まず最初にアダムとエバはどうでしょうか。
彼らは神様を裏切りました。
善と悪を知る木の実を食べてはならないと、神様から禁止命令がありましたけれども、どうですか。
彼らは自分たちを本当に信頼してくださる神様を裏切って、その木の実を食べてしまったわけです。
ここに背信の罪があります。
また、全部ね、触れることは難しいですけど、ヤコブの話を見ていきましょう。
彼の話を聞かせて言うならば、ヤコブはお父さんと兄を裏切って、長子の権威を奪い取ったわけです。
そしてまた、叔父ラバンを裏切ったわけなんです。
そして自分もラバンに裏切られたわけなんです。
もう背信の循環みたいに連続しているわけです。
それから、一つエジプト記を見てみてください。
この背信という眼鏡で見るならば、神様はあのエジプトから奴隷だった彼らを、
神の祝福と安息の地、カナンに連れて行くために猛瀬を建てて、奇跡的に救ってくださったでしょう。
でも彼らのアラノの40年間という期間は、一言で言うならば、背信の期間なんです。
何度も神様を裏切って、何度も猛瀬を裏切って、偶像をがんだり、神様を恨んだりしたわけなんです。
ここに人間の背信の罪が吹かれているわけです。
その後々のイスラエルの歴史、特にサウル王から始まるイスラエルの王政時代の王たち、また神たちを見るならば、
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彼らも何度も神様を裏切りました。
神様は猛瀬の時代から、ヨシオの時代から、カナンの地に入ったら、そこの神々を信じても拝んでもならないと、何度も厳重に語りました。
しかし彼らは何百年にも渡って、神様を捨てて、裏切って、バールの神を、偶像を、神殿を作って、拝んだわけなんです。
何百年もそれが続いた背信の罪が書かれているわけなんです。
またイエス様がこの地に来られたわけです。
彼らの首都、王として来られたわけです。
しかし彼らはイエス様を受け入れようとしなかったんですね。
イワネの福音書一章に書かれているわけです。
それどころか、受け入れないだけではなく、イエス様を処刑に、死刑に渡してしまったわけです。
福音書を皆さん読まれてわかるでしょう。
イエス様は何度も彼らを許してくださいました。
何度もたばさせてくださいました。
しかし愚かな群衆は、イエス様を恨んでいたユダヤ人の人たちにも促されて、愚かにイエス様を処刑に渡しました。
十字架にかけろとですね、バラバを許して、イエス様を殺せと叫んだわけです。
ここに人間の灰心の罪が書かれているわけです。
では、アダムとエヴァ、あるいはヤコブ、あるいはヨセオの兄弟たち、
主中エジプト、あの時のアラノでのイスラエの人々、あるいはアハボのような王たちだけが灰心の罪人なんでしょう。
実は、神様の前に私たちも同じの裏切り者ですし、恨みの者にすぎません。
何の偉さも、資格も、称賛もないものなんです、私たちは。
灰心の罪は私たちの罪であり、イスラエルの灰心の歴史は、実は私たちの人生の歴史でもありましょう。
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しかし、イエスキリストの福音は、この我ら人間の灰心の罪をひっくり返して、全く新しいものに変えてくださる恵みなんですね。
どのようにしてでしょうか。
それは、罪人であった私たち、不経験だった私たち、神を敵対していた私たち、神様を知ろうとしなかった私たちのために、イエスキリストは十字架に架かられ、死なれ、蘇られ、天に昇られ、やがてこの地に再び来られるのです。
それだけではありません。
スウェジプトキに書かれているイスラエルの人たちのように、せっかく救われたのに、自分たちを救われた神様を裏切り続けていた彼らのように、しばしば私たちは信仰を持っていながらも、信じていながらも、しばしば神様を裏切ったことがあるのではないでしょうか。
時には傲慢さ、あるいは不経験さ、あるいは神を利用する悪さも、不信仰も持ったりする私たちなんですね。
だからこの裏切り、敗信というこのテーマは他人のものではないのです。
実は私のものであり、あなたのものなんですね。
しかし、そんな私たちを、イエス様は裏切られても、捨てられても、利用されても、何度も何度もそうされても、何千年もそうされても、これからイエス様が来られる再臨の時までそうされても、イエス様は耐えしのんでくださり、抱きしめてくださっておられますよ。
このイエス・キリストの裏切られてものお許し、ご忍耐、ご愛を知り味わっている信者なら、必ず変えられますね。
彼、変えられないはずがないんです。
なぜなら、イエス様の霊が、神の清い聖霊、その霊が、その人の家に宿っているから、清い霊が、御霊様が宿っているならば、どんな人も必ず変えられるはずなんです。
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この恵みを知って、味わっている子なんです。
もちろん、完璧に、完全なイエス様のような人にはなれません。この地上においてですね。私たちは、この肉において罪の性質を持っているものですからね。
しかし、変えられていくんですよ。変えられていく。
それが聖火であり、そしてイエス様の再臨の時には、本当に全く罪を犯さないものに変えられる。
聖火が、そこで成就されるわけですが。
しかし、この地上において、この恵みを、この許しを、この忍耐を知って、味わっている者は、御霊によって必ず変えられ、成熟され、成長するわけなんです。
メッセージをあげたいと思います。
ヨシオの物語は、灰心の物語でもありました。そしてそれは、神様に対する私たち人間の灰心の罪を表すものでありました。
同時に、灰心の罪があるにもかかわらず、ずっと抱きしめ続けてくださる。
私たち自分自身の灰心の罪を自分で自ら悟って、悔い改めるように働きかけてくださる、お方の物語でもあります。
このイエス・キリストを、いつまでも賛美しつつ従ってまいりましょう。お祈りします。
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