2024-02-25 26:22

#苦難と謙遜の道へ 24/2/25

マルコ-34からの礼拝説教。2024年2月25日録音。最初に専門的で学術的な話をします。皆さんに聖書を深く学ぶ楽しさや、キリスト教信仰が学問や歴史と伝統の観点からも確かなものであることを知って欲しいと思うからです。それらの検証から始めて、苦難と謙遜の道へ向かうイエス様の姿から学びましょう。1.三つの福音書の比較、2.受難のメシヤ(マルコ内での比較)、3.先頭に立つイエス様、の3つの点を取り上げます。


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マルコ10章32節から34節をお読みします。
さて、一行はエルサレムに昇る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。
すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。
ご覧なさい、私たちはエルサレムに昇って行きます。 そして人の子は、最小たちや立法学者たちに引き渡されます。
彼らは人の子を死刑に定め、違法人に引き渡します。 違法人は人の子をあざけり、唾をかけ、鞭で打ち、殺します。
しかし、人の子は3日後に蘇ります。 以上です。今日はこのところから、苦難と謙遜の道へと題して、聖書からお話しします。
皆様、改めておはようございます。 今日は雨降りで寒い朝になりました。
先週、火曜日ですが、とても暖かい日になりました。 動いてて汗かくぐらい。その後からどんどん寒くなって、
金曜とか、今朝も、埼玉県に小雪が舞うような感じですね。
レミオロメンのコナー雪なんて知らないですよね。知ってます? コナー雪ということを歌いたくなるような日でしたけども。
そんな中、今まで通り、マルコの福音書から学んでいきます。 今日は少し専門的で学術的な話を最初に2つします。
なぜかというと、皆さんには、こういうことを知っていただきたいのです。 私たちが信じているキリスト教信仰というのは、
学問とか、歴史や伝統の観点からも確かなものであると知っていただきたい。 また、それをもとに
聖書を深く学ぶということが面白いなということに気がついてもらいたいと思っています。 そういうことをもとに、私たちの生活にも考えることができる
苦難と謙遜の道へ向かうイエス様について学んでいきましょう。 まず最初はですね
3つの福音書の比較というところを見ていきます。 十章32節の抜粋、今日のところでこう書いてあります。
さて一行はエルサレムに昇る途上であった。 ここから読めるか読んでみましょうか。
イエスは弟子たちの先に立って行かれた。 弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。
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最初のポイントも2番目のポイントも私もそうなんですけど キリスト教の大学とかですね学校に行った人のキリスト教の授業で
テストで必ず出る、出てもいいと思えるようなことなんです。 福音書、福音書って4つあるの分かります?
4つとも言えますか? マルコルか、あとは
マタイと、もう一つ、ヨハネ。
マタイ、マルコルカ、ヨハネ、新約聖書の最初の4つをまず福音書と言います。 これ皆さん知っている。その中で2種類に分かれます。
これ大事なんですね。 ここに書いてあります。
順番ちょっと入れ替わってますけど、マタイマルコルカの福音書は
共感福音書と言うんです。共に見る福音書。 これ大事な言葉なので
テストで出ます。出ると思います。この3つを何て言いますか? 共感福音書と書いたら100点。
でもう一つヨハネの福音書は色合いが違うということを知っておくといいです。
マタイマルコ、これマルコです。マルコマタイルカ。 ヨハネだけ色合いが違って残りのマタイマルコルカは共感福音書と覚えておきましょう。
それで、なぜ共感福音書というか、共に見ると書くんですけども、3つの福音書には共通点があるんです。
そしてその共通する箇所を平行箇所。平行って平行四辺形の平行。 平行箇所と言ってそれぞれの3つの福音書には
同じようなことが書いてあります。 でそれを比べて学ぶという方法があるんですね。
で今日のこの マルコの10の32以下の場所も
他の2つにあります。どこか、マタイの20章の17節以下、ここに書いてあります。
さてイエスはエルサレムに昇る途中、十二弟子だけを呼んでみちみち彼らに話された。
同じようにルカの18章31節にも書いてあります。さてイエスは十二人をそばに呼んで彼らに話された。
このそして今日の箇所が
ほぼ共通しているという学術的な根拠があるようなんです。
それで もう一つ言うとですね、実は
マタイ、マルコ、ルカのうちどれが一番最初に書かれたかわかります?
実はね、これヒント。マルコが一番最初に書かれたと言われています。 そしてマルコをもとにマタイとルカが
いろんな伝統とか自分の考えとかを加えて書いたと言われているんです。 これマルコ優先説といって1835年に提唱されて今に続いている。
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これを覚えておくと100点です。 マルコ優先説ということだ。
これでですね なんか副印書について何か書きなさいって言われたらこれが書いたら多分ほぼ100点ですね。
まあそれはともかくとして その中でですねマルコの副印書は一番最初に書かれたと言われていますがもう一つはマルコは
短いんです。簡潔なんですけど一個一個の描写が詳しく書いてあるんです。 つまりマタイとルカはマルコから引用するときに省いて書いた可能性もあるんですね。
まあそういうことも覚えておきましょう。
教の箇所にそれがよく現れていて どこが詳しく書いてあるかというと赤い字で書いてあるところです。
先に立って行かれた。イエスが先に立って行かれた。
弟子たち驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。 ここが他の2つにはない詳しい箇所の一つ。
まあそれぞれ知識とか教養として覚えておきましょう。
繰り返しますがマルコ優先説は1835年にドイツの学者によって提唱されて、今はですね
数々のオクスフォード大学と世界で一番の大学を含めて有名な大学のキリスト教の学者がいろいろ研鑽を重ねて定説になっています。
何が言いたいかというと、キリスト教信仰、イエス様を信じてバプテスマを受けてクリスチャンになります。
心の問題と言われているでしょう。私たちの心の拠り所なんです。でももう一つ覚えておくことは
キリスト教信仰というのはしっかりとした学問的な根拠にも支えられているということを知ることは大事です。
自分のそれは拠り所の一部にもなりますし、例えば今でいうキリスト教的なカルトとか信仰宗教に騙されない
防御策にもなるんですね。そのようなことをまず一つ覚えておいてください。
後でこれね、詳しく見ますけど2番目のポイント。その中でも今日のところ受難のメシアということです。
イエス様はその後の3334説で、自分の受難と復活を予告しました。
マルコ10の3334。そしてイエス様が言ったんですね。
人の子は最主張たちや立法学者たちに引き渡されます。 彼らは人の子を死刑に定め、違法人に引き渡します。
ここから読んでみましょうか。難しいかもしれませんが。
違法人は人の子を罵り、唾をかけ、鞭で打ち、殺します。しかし人の子は三日後によみがえります。
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これはよく言うイエス様の受難と復活の予告の箇所です。マルコの福祉書にはこれが3回出てきて、これが3番目の最後の予告です。
しかも一番詳しい予告なんですね。 どうされるかということが詳しく書いてあります。
さっきは共感福祉書を並べて学ぶということを言ったんですけど、ここでは同じ福祉書の中の同じような出来事、
ここでは受難と復活の予告を並べて学ぶということを見ていきますね。これも面白いです。
これマルコの箇所。マルコは省いてありますけど、これが10の33から34が今読んだ今日の箇所。
一番最初の受難の予告、マルコでは8章31節に出てきます。
人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、妻子長たち、立法学者たちに捨てられ、殺され三日後によみがえらければならないと弟子たちに教え始められた。
ここでも長老や妻子長とか共通の言葉があります。そして2番目の予告は一番簡単な言葉です。
ちょっと何回も読ませて申し訳ないですが、読めるか読んでみましょうか。
人の子は人々の手に引き渡され殺される。しかし殺されて三日後によみがえる。
この人の子というイエス様が自分を受難のメシアとして呼ぶときの言葉は3つの箇所に共通していますね。
そして10章と8章では長老、妻子長たち、イエス様を殺す人たち、裁判にかける人たちのことが共通しています。
殺されてよみがえるということはこの3つの箇所に共通しています。
ここからが本番なんですけれども、実はこの10章の33から34の詳しい描写、そこには旧約聖書の背景が隠れています。
イエス様はおそらく旧約聖書のメシア予言を引用して、それを知ってご自分の死を受難のメシアである、
神に約束されたメシアであるということを訴える意味でも旧約聖書の言葉から引用したんじゃないか。
その2つあるというですね。それは旧約聖書、イザヤン書の50章の6節の言葉です。
こんな言葉です。 打つ者に背中をまかせ、ひげを抜く者に頬をまかせ、侮辱されても唾をかけられても皮を隠さなかった。
これ受難のメシアの予言と言われています。 そしてもう1個は詩編の22編の6節から8節、これも受難のメシアの言葉の予言として有名な詩編の22編ですね。
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6節から8節、こういう言葉です。 しかし私は虫けらです。
人間ではありません。 人のそしりの的、民の詐欺みの的です。
私を見る者は皆私をあざけります。 口を尖らせ頭を振ります。主に身を任せよ、助け出してもらえばよい。
主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。 この最後のですね。
太い鍵カッコの部分は十字架のイエス様に対して道行く人やローマ兵が罵った言葉としても引用されています。
詩編の22編はこの間のお祈り書いてもたまたま学びましたよね。 そういうことが背景にあるんですが、ここから興味深いことはですね、赤い字で書きました。
詩編は紀元前、1000年から500年の間に書かれて、紀元前3世紀頃に編集されて今の形になったんです。
イエス様が生まれたらとされる約1000年から500年前の間に詩編は書かれました。 そしてこのイザヤ書を書いた預言者イザヤは紀元前700年代、ちょっと代が間違ってますけど変わるというですね。
紀元前700年代に活躍した預言者です。 これ何が言えるかと言いますと
このイエス様の言葉はですね、今から引用したこの2つの聖書の言葉は今から約3000年前に書かれた、そしてイスラエルの人たちに知られた
信仰の言葉なんです。 その言葉に根差した3000年前の今から言葉に根差して
聖書に今書かれているわけです。 さあそれで何を私たちは学ぶことができるでしょうか。
先ほども言いましたけれども 私たちは
クリスチャンの方はなおさらですけど、聖書を通して神様の言葉を聞くような、あるいは神様の救いの言葉を聞いて慰められますよね。
あるいは祈りの中でイエス様が救い主だということを実感して、祈りによって救われるというようなこと、東大の先生も言ってるんですけど、そんなことを体験します。
自分の個人的な体験として信仰を
体験、信仰の入りどころになりますけれども、だからこうやって私は救われたから
キリスト教は素晴らしいと言うかもしれませんけれども、ここで言えることは私たちのキリスト教信仰はこの3000年という
旧約聖書やキリスト教の歴史と伝統にも基づいているということなんです。 自分の個人的な経験だけではなくて
3000年の歴史と伝統に基づいている。さっきは学術的なところにも基づいていると言っているんですけれども、
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根拠があるとも言えるわけですね。
そのような私たちのキリスト教信仰は3000年の歴史や伝統の中で検証されて今に至っている、引き付かれている
それをね知るということが必要なのはなぜか。それはですね 歴史と伝統を根拠にした揺るがないものだ
とキリスト教をそういうふうに知ることによって 私たちの信仰が揺さぶられそうになった時
個人的な支援にあったり、人からですね疑いをかけられるようなことがあったとしても いや私たちのキリスト教信仰はまあ少なくともここで言えば
3000年の歴史と伝統の中で培われたり 守られてきたものだ
ところからもですね 自分の信仰を揺るがないものとして持つことができる
そういうふうに覚えておいていただければ そして最後それではもうちょっと今日の部分から
学んでいきましょう 今日の部分からわかることそれは先頭に立つイエス様
先立つイエス様ということがわかります 繰り返しますが10章の32節にこういう言葉がありました
さて一行はエレサレムに昇る途上にあった イエスは弟子たちの先に立って行かれた
弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた するとイエスは再び12人をそばに呼んでご自分に起ころうとしていることを話し始められ
繰り返しになりますが今日のこの箇所は 他の福音書と比べても
詳しくそして 同じマルコンの中にある受難と復活の予告から見ても詳しく書かれています
特にまあ今目をつけたいのは赤い部分ですね イエスは弟子たちの先に立って行かれたという言葉が大事だ
ある学者もそんなこと言っているんです それはなぜかというとですねこの
先に立って行かれたという言葉 ちょっと余談になるからあまり詳しく言いませんけど
あのギリシャ語の言葉も元にあるんですけどもそれが 他にイエス様が復活した時に
天使がですね 弟子たちにイエスはガリデアに先立って待っているという希望を表すよ
イエス様が先に立っているということが力になるような意味がこの先に立って行かれる っていう言葉に含まれ込められているんです
大事なことで
この言葉は イエス様と弟子との関係においてとっても大事なことを教えていますし私たちが
まあイエス様に 弟子として歩んでいくでも行く上でも大切なことを教えていますそれは
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キリストの弟子とは何だどんな人かというとそれはイエス様についていく人 従っていくと思うんです
さらに大事なことはじゃあイエス様はどんな救い主ですかという時に イエス様というのは私たちに先立って導いてくださる神様なんだっていうこと
救い主だっていうことが大事なんですね その上でさらに大事なことがあるんですねイエス様は
苦しみと謙遜への道を自ら進んでいくお方なんだ 今日の箇所で実はエルサレムに登るってエルサレムって言葉が初めて出てくるんです
登るっていうのはね新幹線も登りと下りがありますよね 東京に向かうのが登りですでこのエルサレムに登るっていうのもエルサレムは人
だったから登るって言うもあるんですけども 十字架の上に上がるっていう意味もあるんです
十字架の上に上がりに行くっていう意味もあるのでイエス様がもう自分の身に起こる 苦難十字架の上に挙げられることも知りながらその道を
弟子に先立っていくというそういう意味がここに込められているんですね イエス様は
自分が先にこれから先待っている苦しみそれだけじゃなくて イエス様どんな方かというと救い主であって
大なるお方だ それも神の巫女だご自分で知っていたんですでもそれにもかかわらず
下げすまれますよね それはつまり
自らを低くして 謙遜の極みですね
謙遜にならなければそういう 等という方が苦しみを甘んじて受けることができない
そういう意味で 苦しみと謙遜の道をこれから先立っていこうというイエス様の様子がわかるわけです
でもう一つ詳しく書いたのは弟子たちが驚き 続いていく人たちは恐れを覚えた
なぜかいろいろ説があるんですけれどもおそらくイエス様はこれから体験するであろう また弟子がこれから体験するであろう
柔軟ということを知って弟子たちや周りの人が 驚き恐れたとも言われているんですね
さらにはイエス様がそれを知っても 逃げずに進んでいこうというそういう姿や迫力に周りの人たちが
恐れや驚きを覚えたとも言われている 繰り返し話しましたように弟子たちはですね
約束の救い主大なるイエス様についていけば特権や旨味に預かれると思っていた わけですよね
パーティーを開いて裏金をガッポガッポ儲けてですね先生先生って呼ばれる そういう地位を期待していたかもしれませんどっかの誰かさんみたいに
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でもそうじゃなくて ある学者が言うには弟子の道というのはイエス様についていく道っていうのは
高貴な立場になるんじゃないんだよ 謙遜と苦しみの道を行くことにもなるんだよと
ある学者を解説して言っているんですね ペトロや
弟子たちもそれを知ってイエス様についていくことを 尻込みするかもしれませんイエス様についていったら私たちも苦しみまた
謙遜を学ばなきゃいけない 尻込みするかもしれませんそれでもイエス様は
彼らの先立っていこうとした そこにですね
彼らが恐れを抱いたイエス様その勢い その姿をですね
伊沢所では このように表現してるんですね
イエス様まあ救い主が苦難に向かっていく 勇敢の姿をこう表現しています
さっきの伊沢所の続きです50章7節 しかし神である主は私救い主である私を助けてくださる
ですねそれゆえ私は侮辱されることがない ここから読んでみましょうかそれゆえから3
はいそれ私は顔を火打ち医師のようにして自分が恥を見ないことを知っている 難しいちょっと発音ですけど火打ち医師
もう鉄面ピって言葉だからですね面の皮が厚いって言葉もあるかもしれませんが イエス様はこのこれから立ち
あの受けるであろう苦難を前にして怯むどころか 火打ち医師ですね
叩いてもなお光を放つ 力強く光輝くそのような決意に満ちた表情で
進んでいくそのまさに新規迫るイエス様の表情や様子に弟子たちは 経験な恐れや驚きを覚えたのかもしれませんね
ちなみに新規迫るという言葉 身の毛もよだつほどの凄まじい気迫が現れている様だ
よくで漫画でうわーってコーヒーが出ている漫画があるかもわかりません そのような
イエス様の決意先立っていくお姿に弟子たちは 経験な恐れや驚きを覚えたのかもしれません
さあそこから私たちは何を 受け取りましょうか
私たち弟子の行く先が たとえ苦しみや謙遜の道であっても
このような勇敢なイエス様が先立ってくださる ですからそのイエス様を見上げて
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信頼してその後をついていくつもりで私たちは もし苦しいということがあったとしてもそのイエス様が先に歩んでくださった
その新規迫の勢いで先立ったイエス様を思い出してですね 私たちも弟子の道を進んでいくことができるのではないかということですね
イエス様は
教官文書ではないヨハネの福音書を最後見ますが この
ような中で弟子たちにこういう言葉をいわゆる最後の晩餐の時ですね残しました 11巻を前にしたと
読んでみましょうかちょっと先最初読んでみますね これらのことをあなた方に話したのはあなた方が私にあって平安を得るためです
ここで読んでみましょうか3はい世にあっては普段があります しかし勇気を出しなさい
私はすでに世に勝ちました お祈りしましょう
私たちの救い主なるイエス様あなたはまさに勇敢な救い主なられ 弟子たち
また人々に先立って 十字架や苦難の道また謙遜の道を先立って行かれた
救い主であることを覚えてあなたをおめでたいます 私たちは
苦しみにあったり自ら低くすることそういうことになるべく会いたくないと思うものです しかしそれを
になるになわなければならない時にどうかこのイエス様を思い出すことができますよ 弱い私たちをどうかあなたが
先立って導き支えてください 言い尽くせない思いがありますけれどもこれらの思いを私たちの救い主
主イエス様のお名前によってお祈りします ああ
それでは1分ほどその場で 黙祷する時間を持ちましょう
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