00:01
改めておはようございます。
今日も名谷教会の礼拝にようこそいらっしゃいました。
神様豊かな恵みと、また教えを我々にお与え下さいますように、心からお祈り申し上げます。
それではメッセージの前に、隣の方とよかったら挨拶をお返ししますか。
おはようございます。よくいらっしゃいました。
ありがとうございます。一言お祈りいたします。
私は良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。アーメン。
私たちには良い牧者なるイエス様がおられること、何という恵みでしょうか。
本当に心強く感謝しております。
どうかしよう。この朝イエス様が私たちの良い牧者であって、
導いてくださり、満たしてくださり、安全な場所へ、平安の道へ導いてくださる、
そして私たちを養ってくださることを改めて御言葉から学びたいと切に願っております。
主よ、どうぞ上階を持ってあなたの御言葉の恵みを、希望光を求める。
主よ、一人一人の上に主の教えと光を与えて照らしてくださいますように。
そして主よ、闇の道ではなく輝く光のうちに歩めるように主を助けてください。
感謝してイエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
感謝します。
ヨハネの福音書の公開説教が見たらですね、去年の6月から始めたわけなんです。
普通、ちょっと開けたりしましたけれども、このように27回まで
共にヨハネの福音書から神に学べる時、また御言葉が聖霊様によって
時がかさじされて、そして私たちがその恵みをお受けしていることは
本当に全て神様の恵みです。主よ、本当に感謝いたします。
今日も渇きをもってですね、感謝の気持ちをもって
心の耳を大きく開いて、神の声を、メッセージを共にお聞きしたいと思っております。
今日は、私は良い牧者です、というタイトルです。
03:02
新約聖書が27巻あってですね、その中に福音書という聖書が4つありますね。
マタイの福音書、その次は何ですか?
マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書があります。
その4つの福音書の中で、ことにこのヨハネの福音書には
イエス様の、いわゆる自己紹介、自己宣言のような言葉が
大きいものを数えると7つ。
私は何々です、私は何々です、というね、自己紹介の宣言の言葉が語られているんです。
例えば、私は命のパンです、とか、私は世の光です、とかね、あります。
今日はその中で、この10章に2つのことをイエス様が語られました。
1つは、私は羊のもんです、と7節に出てきます。
それからもう1つは、11節、私は良い牧舎です、ということであります。
皆さんはいかがでしょうか。
どなたがですね、あなたは誰ですかと言われたら、皆さんは何と言いますか。
お名前他に、当然お名前はみんな持ってますから、お名前の他に、自分を紹介するに何と言うんでしょうか。
あるいは、第三者の方が皆さんを他の人に紹介するときに、何と紹介していると思いますか。
あるいは、私は直接聞いておりませんが、皆さんが誰かに、例えばですよ、
私のこと、明太陽福岡での雲木氏を紹介するときに何と紹介しているんですか。
聞きたいですね。
知りたいな。
イエス様は、まず、私は羊のもんです、と言われました。
七節を、もう一度ですね、一緒に読みませんか。
七節、一緒に読みたいと思います。
一緒に、三、はい。
そこでイエスはまた言われた。
誠に、誠に、あなた方に告げます。
私は羊のもんです。
はい。
イエス様が、私は羊のもんですよ、と。
ところが、その意味が何なのか、わからなかった。
それで、どういう意味なのか、それを九節に、イエス様が丁寧に教えて下さいました。
九節をもう一度、一緒に読みたいと思います。
三、はい。
私はもんです。
誰でも、私を通って入るなら、救われます。
06:05
また、やせらかに出入りし、福相を見つけます。
アーメン。
皆さん、このとてもシンプルで、しかし深い、この真理の御言葉を、
今日、信頼していただきたいと願います。
イエス様は、唯一の命の門です。
そして、その門に、そのゲートに、誰でも、その門を通って入るなら、救われます。
つまり、イエス様こそ、私たちが救われるべき、唯一の門です。
そして、誰でも入れるのです。
誰でも入れてもらえるのです。
この同じ意味の御言葉を、ユファネノ福音書十四章の六節には、
このようにイエス様が語られました。
私がお読みいたします。
ユファネノ十四の六節。
イエスは彼に言われた、
私が道であり、真理であり、命なのです。
私を通してでなければ、誰一人、父の身元に来ることはありません。
もう一箇所、使徒の働き四の十二節は、
聖書をお持ちの方は、開きたいと思いますけれども、
使徒の働き四章十二節です。
私の聖書では、二百三十三ページです。
使徒の働き四の十二節。
聖書のない方は、隣の方の聖書をご覧ください。
使徒の働き四の十二節。
それで御一緒にお読みましょうか。
三、この方以外には、誰によっても救いはありません。
天の下で、この皆の他に、私たちが救われるべき名は、
人に与えられていないからです。
私がもう一度見ますね。ご覧ください。
この方はイエス・キリストですね。
イエス・サマー以外には、誰によっても救いはありません。
天の下で、この皆の他に、イエス・サマーの皆の他に、
私たちが救われるべき名は、人に与えられていないからです。
という御言葉です。
09:01
さあ、イエス・サマーが私たちの門です。
その門に入れば、私たちは生きます。
しかし、他の門に入ったら、生きられません。
なぜなら、イエス・サマーが命であるから。
そして、今日の九節に書かれているように、
安らかに出入りし、牧草を見つけるからです。
私たちが平安をもらえるゲート、
人生に必要なそのニーズを満たしていただけるゲート、門は何でしょうか。
イエス・キリストです。
人は一度、この門に入って、イエスという門に入って救われます。
それは、一度行われる恵みの大事件です。
しかし、その救われた後の生活も、なお大事です。
今日の九節に、私は門です。
誰でも私を通って入るなら、救われます。
また、安らかに出入りし、牧草を見つけますとあります。
そして、十節。
十節も一緒に見ますね、十節。
ヨハネ十の十節、一緒に。
盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅べたりするだけのためです。
私が来たのは、羊が命を得、またそれを豊かに持つためです。
アーメン。
アーメン様が来られたのは、羊が、私たちが、皆さんお一人お一人が命を得るためです。
しかも、その命は、ちっぽけな、キチな命ではなく、豊かな命であります。
ですから、いつも私たちは、家様というこの門を通って出入りするのです。
そして、主によって霊の必要も、あるいはこの体の必要も、主によって満たしていただけるのです。
そうするためには、私たちは他の門ではなく、イエスというこの門に入ったり出たり、入ったり出たりしなければならない。
イエス様は、今日の十五節にもあるように、私たちのことを知っておられます。
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十四節にも書かれています。
私は、私のものを知っています。
皆さん、私たちは皆、イエス様のものです。
私たちに、今何が必要なのか、主は知っておられます。
心的に必要なのか、あるいは体的に何が必要なのか、迷っているのか、うまく歩んでいるのか、
喜びのうちにいるのか、あるいは悲しみのうちにいるのか、主は全て知っておられます。
だから、その方に入るのです。
そして、その主から豊かに与えていただくのです。
ですから皆さん、願わくは、唯一のものである、命のものであるイエスに行きましょう。
そして、その方に入りましょう。
そして、イエス様が満たしてくださる恵みを、喜びを、我々がこの信仰の歩みにあって、人生の歩みにあって、
主から豊かに与えていただきましょう。
もう一つ、このイエス様が私は執事のもんです、私はもんですといったこの御言葉を、ちょっと違う角度から、こういうふうに解説していきたいと思います。
私たちは生きていく中で、たくさんのゲートを門に入ったり出たりします。
皆さんも今日、教会に来るには、三つの門を通ってここに入っておられるわけです。
ところが、目に見える門を間違うことは多分ないでしょう。
ところが、目に見えない門がたくさんあります。
その中に私たちが入るべき門は、天の門であって、霊の門であるということであります。
これをより深く考えたら、門を開けて、そこにその中に入るということは、そのドアのゲートの向こうの世界に私が入るということであります。
あるいは逆に、ドアを開いたら、向こうの世界が私の世界に浸透して入ってきているということであります。
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例えば、皆さんがお花屋さんのドアを開けたら、花の香りが自分に入ってくるわけです。
あるいは自分はそこに入るか、どっちでもいいです。
あるいは、何かの雑誌を開けました。
そしたら、その雑誌の中にある目には見えない世界観に触れるようになる。
そして、その雑誌が実は語っているその世界観が私の世界に入ってくるのです。
例えば、何かの映画を見たとしましょう。
そしたら、その映画を見たら、その映画を見るというのは、そのドアを開いたわけなんですよね。
紐を解いた。
そしたら、その映画の世界観に触れるようになる。
そして、その世界観が私の世界観に浸透してくるのです。
皆さん、実は私たちは日ごろ、無数のたくさんの世界観というものに触れているのです。
いろんな数多くのメディア、新聞、映画、ドラマ、ショー、あるいは本、あるいは漫画、あるいは何かのコマーシャル、
あるいは何かの若者もやっているSNSとかYouTubeとか、昔と比べたら考えられないほどのたくさんの世界観に、実は私たちは触れているのです。
ラジオを聴いているラジオの世界観に触れているのです。
皆さん、実は何の世界観なしに作られているものには、この世界にはありません。
それがものすごい深い哲学的な世界観であろうが、子供みたいな世界観であろうが、何らかの世界観がどこにもあるわけです。内在しているのです。
だからドアを開いた、ドアを開けた、そしたらその世界観が皆さんの人生の中に、頭の中に、考えの中に浸透していくのです。
ところが進化してすぐに出るのか、なかなかそうではないのです。
入って巣を作ります。そしてそこに、私たちの考えの中に、ここの中に住みついてしまいます。
そうすると、いつの間にか、その私が自分が開けたその世界観が自分のものと同化してしまう。
だからそういった意味と、例えばテレビのコマーシャルがたくさんあるでしょう。
コマーシャルに、最近は上手に大手の会社はイメージのコマーシャルをやっているのです。
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例えばこれを売りますと、物を売るコマーシャルをするんじゃなくて、世界に平和のために貢献しています。
子どもたちの平和のためにやっています。
そういう様々な世界観を持って、コマーシャルを放送を流している。
そしてそれを見ているうちに、見ているうちに、例えば創価学会とかそういうものを見たら、
ブルーのイメージを使って、とても新鮮でいいイメージをみんながわかるようにして、
そういった意味として皆さん、私たちはクリスチャンとして、何を見て、何のドアを開けて、
何を読んで、何を考えているのかは非常に大事なものであります。
本当に注意しなければならないです。
雨にですね、こう、ふれてふれて、いつの間にか頭も服もびしょびしょになって濡れてしまうでしょう。
そういう風に少しずつひとつひとつ、ふれてふれて、ドアを開けて、
その世界観がいつの間にか自分の中にも圧倒されるほど入ってきてしまう。
よく起こるんです。
ですから私たちは、聖書的世界観、福音が教える世界観、神の国の世界観、
その門を開いて、その中に入らなければならない。
正しいものをはっきりとわかっていないと、これが正しいのかどうかわからない、わからない。
今のわかるものはどんな世界なのか、この前ですね、ちょっとこれは言いにくい話ですけれども、
夏に、夏じゃないですね、3月に韓国にいたでしょう。
それで前、3ヶ月ほど近藤さん姉妹の宅にお世話になったスヨンちゃんとね、そのお母さんに会いました。
それでいろいろ話をしてですね、今の韓国の学生さんはどんな風に生活をしているのか、
男女関係は、性の関係はどうなのかちょっと聞いてみたらですね、こういうショッキング的な話を聞きました。
女の子たちがこう言うんですよ。
せっかくでちょっと話しにくい話ですけれども、スヨンちゃんはクリスタルなのが知っているわけですね。
その隣の信じない普通の女の子たちが、実はこの前私の誕生日にですね、
彼氏とモデルに行くことにしたのよ。
それをプレゼントにしてもらったのよ。それを自慢話に言うんですって。
普通ですね、今の学生さんたちは。
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それが、そういう世界観にみんな触れているわけです。
ああ、そうなの、当たり前ね。
結婚の前に子供を持てるのが当たり前のようになっている。
なぜでしょうか。そういう世界観に私たちは触れているんです。
日本のショーやテレビを見たら、すいませんが、不倫をあまりにも笑いのネタにする、
当たり前のようにしても許せるようなものになっている。
そういうテレビを、ドラマを、ショーを見ているうちに、ああ、そうかもなと思ってしまう。
そういう世界観が私の心の中に入ってくるんです。
だから私たちは紙を知らなければいけない。服を正しく知らなければいけない。
正しいものを知っているときに、これが黒なのか白なのかはっきりとわかるようになるんです。
皆さん、私は毎日たくさんの門を開けて出入りしているんです。
皆さんはどんな門を開けて出入りしているのでしょうか。
この一週間、振り返って考えてみてください。
皆さんの心の中に、頭の精神の中に、どんな世界観が皆さんの頭の中に入ってくるのか。
神の御言葉の世界でしょうか。福音の世界でしょうか。
本当に目を覚ましていて、注意していかなければならない。
もう一つ、私たちは毎日たくさんの感情という扉を開けています。
ある人は毎日、イエス様がくださる感謝と喜びの扉を開けて、そしてその中に入っていくんです。
そして、イエス様からくる感謝と喜びに自分が満たされて満ちているんです。
主から与えられていること、食べられていること、切れていること、持てること、
いや、もう主と共に歩める信仰のうちに自分が救われていることを覚えて感謝して、
その喜びと感謝の実で満たされています。
しかしある人は毎日のように怒りのような不安のような扉を自分が開けて、そこに自分が入っているんです。
他人が開けて、開けるんじゃない。自分が開けている。
そして自分の世界の中に怒りとか不安とかそういったものが浸透してくるんです。
そしてそこに捉えられてしまう。
何を聞いても何を見てもすぐに怒りあるいは不安にそれをもう直結してしまう。
皆さん覚えていただきたいです。
私たちが開けるべき門はイエス・キリストです。
聖霊様です。
その扉の向こうには命があります。光があります。
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愛と喜びとニューアがあります。
そうすると命と光が私の世界に入ってくる。
そして喜びと命が私の人生の中に巣を作って住むようになって私がイエスの中に入る。
イエスが私の中に入ってくるのです。
皆さんお願いします。イエス様は執事の門です。
執事の門に入ってください。
イエス様という執事の門だけを開けてください。
そうしますと命を養わせてくださる。
豊かに持つようにしてくださる。
大きい二番目。イエス様は良い牧者です。
もう一度ですね。改めて十一節一緒に読みたいと思います。
十一節一緒にほやわせて読みましょう。
三杯。私は良い牧者です。
良い牧者は執事のために命を捨てます。
イエス様は私たちを罪から救うために、
その罪の代価である死というものを払ってくださいました。
ところがその死ぬことまで私たちのために与えてくださったんだから、
もっと素晴らしいことを与えないはずがないのです。
これがですね、ちょっと精神を開けたいと思いますけれども、
ローマ人への手紙、八章三十二節です。
一緒に開きましょう。聖書をお持ちの方、お開きくださいますか。
ローマ書、八章三十二節。私の聖書では三百二ページです。
すいませんが、読む時にはですね、聖書をお持ちの方は声をあわせて、
大きな声でお読みしましょうか。
三十二節一緒に読みたいと思います。
私たちのすべてのために御自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、
どうして御子と一緒にすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
アーメン。
素晴らしくないでしょうか、皆さん。御自分の御子イエス様をさえ惜しまずに死に渡された神様が、
どうしてその御子イエス様と一緒にすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがありましょうか。
ありません。
これを信頼することが信仰なんです。
その神を信頼することが信仰なんです。
皆さん本当にですね、この御言葉は信仰をもって受け入れるべき御言葉ではないでしょうか。
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そして願わくは、私がこの人生の中で、信仰生活の中でですね、この恵んでくださる神の恵みを、祝福を、平安を、喜びを味わいたいんです。
家庭において、教会において、社会において、あるいは職場において、あるいは学校において。
イエス様は、この御話を聞いているイスラエルの人々は、あの四篇の御言葉、二十三篇の御言葉をみんなね、暗記して知っていることを、
イエス様は知られますから、そのことをイメージして語られてくださいました。
そこをですね、私たちも一緒に開きたいと思います。四篇の二十三篇です。
旧約聖書です。四篇二十三篇。
私の聖書では、九百二十六ページです。私はしばらく読みますので、ご覧くださいますか。
四篇第二十三篇。主は私の羊飼い。私は逃亡しぃことがありません。
主は私を緑の牧場にふさせ、憩いの水のほとりに伴われます。
主は私の魂を生き返らせ、皆のために私を義の道に導かれます。
たとい死の影の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。
あなたが私と共におられますから、あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前であなたは私のために食事を整え、私の頭に油を注いで下さいます。
私の杯はあふれています。まことに私の命の火の限り、慈しみと恵みとが私を追ってくるでしょう。
私はいつまでも主の家に住まいましょう。アーメン。
イエス様は私たちの羊飼い牧舎です。唯一です。
その羊飼いに、牧舎についていく者は逃しないのです。
緑の牧場に、水のほとりに私たちを導いて下さるのです。
そしてどれほどでしょうか、命を捨てるほど守って下さるのです。
世界どこにこういう羊飼いが、主がいるのでしょうか。
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本当にですね、こういう御言葉を読むときに、胸がワクワクするのではないでしょうか。
神様に対する期待があるならば、神様を本当に愛するならば、
ああそうだ、イエス様は私の羊飼いである。私は逃し事がないんだと。
神に期待ができるのではないでしょうか。
神様に本当にお出会いした人は、別の事をしなくても、
一日中、神の御言葉、この聖書の御言葉を読むだけで幸せなんです。
読むたびにワクワクする。そしてその口から、アーメン、ハレルヤがもう連発する。
賛美が自ら溢れてくる。口が開かれて、祈りが自ら出てくる。
皆さん、誠の羊飼いに従っていく人生というものは、こういうものではないでしょうか。
神に期待するから。ところが、この23編を読んでいきますと、ちょっと気になるところがあります。
四節です。たとい死の陰の谷を歩く事があっても、
あら、イエス様に信じてついていても、死の陰の谷を歩く事があるんだな。
いや、と思われるかもしれない。
皆さん、キリスト教が教える人生観と言いましょうか、世界観というものは、
もう何の苦しみもない、涙も痛みも全然ない、100%ハッピーな人生がずっと無くなるまで続きますよ、と聖書は教えていません。
イエス様は確かに私の羊飼いである。乏しくてはない。
しかし、たとい死の陰の谷のようなところを歩く事がありますよ。
でも、私はその災いを、その谷を恐れません。
これがキリスト教信仰です。確かにそうではないでしょうか。
我々は生きていく中で、時には涙があったり、時には病気があったり、時には苦しみがあったり、
考えなかったつらい事が起きたりするんですよね。
しかし、何かが違うんです。神を信じる者、何が違うんでしょうか。
そういう災いを恐れないのです。谷がないわけではありません。
谷がありますけれども、波がありますけれども、それを恐れないのです。
なぜでしょうか。神に期待するから。イエス様は羊飼いだから。
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私が生きていく中で、苦しみとか痛みを味わう理由があります。
一つは、生きている人は、誰もが苦しみとか痛みを味わうようになるのです。
生きている人はみんなそうなんです。
ところが、我々神を信じる人々は、その苦しみとか痛みを通して、
その前よりさらにもっと成熟したクリスチャンに成長するようになる。
そして神を信頼するその信頼感がもっといく倍にも豊かになる、強くなるということであります。
だから皆さん、こういうふうに祈っていただきたいのです。
神様、私の人生から谷を、死を、涙を、苦しみを全部なくしてください。
毎日ずっとハッピーにしてくださいと祈るのではなく、
主よ、もしも死の茎の谷があっても、そこを通り歩いていても、恐れないようにしてください。
あなたに対する信頼が、信号が揺れないようにしてください。びっくともしないようにしてください。
どんなことがあっても、主の杖と主の持ちが私を慰めて守ってくださることを信じられるようにしてくださいと祈ってほしいのです。
でも、どんな人がこのように祈れるのでしょうか?
それは、良き牧者である主を信頼する人がこのように祈れるのです。
いくら自分の周りに良い牧者が百人いたとしても、その牧者を信頼しない、ついていけない、
あるいはちょっとついていても気に入らない、やめる、どうなるでしょうか?
危険に晒されるでしょう。そして、めめめ泣くでしょう。
そしたら、牧者が駆けつけて見つけてくれるでしょう。
皆さん、実はですね、聖書の詩編だけ見てもですね、詩編の大体の3分の1は哀歌なんです。涙の歌なんですよ。
実は3分の1が、もし詩編を私の人生の障害とするなら、人生の3分の1は涙かもしれない。苦しみかもしれない。
ところが、そこで希望があります。
イエス様は、自分を低くするために苦しみを受けるにこの地に来られました。
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そしてイエス様は、飢えること、悲しみ、寒さ、鞭打たれること、拷問されること、
憎しみ、裏切り、死という苦しみを、自分の身をもって、人間として、私たちと同じ人間として、それを受けられました。
だから皆さん、私たちの、もしも苦しみがあるとしましょう。痛みがあるとし、涙があるとしましょう。
それ、イエス様は知らないわけではありません。全てを知っておられる。だから同情できる方である。
皆さん、覚えていてください。
もしも皆さんが何かの痛みの中にいるとするならば、皆さんと私はその理由を完全に知らないかもしれません。
しかし覚えていただくことは、イエス様は私たちのために極度の苦しみを受けられたということであります。
受けられるだけではなく、愛しておられる。知っておられる。
私たちの苦しみを、痛みを、涙を知っておられ、同情してくださり、慰めてくださり、成長に導いてくださり。
だから皆さん、何かの苦しみがあるでしょうか、涙があるでしょうか。
この紙片の涙のように、もう神の前に泣いてください。泣いていいんじゃないでしょうか。
でもそれに関わらず、神様を信頼してください。
死のおかげの他に歩くことがあっても、神様を信頼してください。
そしてその苦しみの中にあっても、神様に祈ってください。
その中で自分自身を変えりみるようになるでしょう。
自分が何を握りしめていたのか、何をもっとも愛していたのか、
その愛の優先順位を再設定してくださって、神様を第一にしてください。
そうしていきますと、神に対する希望が湧いてくるのです。
メッセージを終わりたいと思います。
イエス様は真の唯一の良い読者です。
そしてイエス様は命のゲートです。
そのゲートに入りましょう。
最後まで信頼しましょう。
歩いていて疲れても信頼しましょう。
死の他人にあっても信頼しましょう。
感謝しましょう。
なぜなら、良い読者は私たちから離れられないからです。
その愛を覚えて、希望を持って歩んでいこうではありませんか。
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お祈りしましょう。