1. 名谷教会
  2. 2024/06/02:神の宝である命
2024-06-02 31:48

2024/06/02:神の宝である命

2024/06/02 聖日礼拝

加藤満牧師

出エジプト記 20:2-13


00:01
では一言お祈りをさせていただきます。
愛せる天の父なる神様、今日もまた私たちを死の御前へと招いてくださり、お一人一人をあなたが立たせようと、ここで待ち構えていてくださることを感謝を致します。
主よ、あなたは私たちを限りなく愛し抜いてくださり、
御子イエスキリストの十字架の父様によって、神の子として私たちは贖い取ってくださり、復活の命、永遠の命をもって私たちに、死と共に生きる新たな命を開き、
御国を築くようにと、私たちにその使命を、命の使い方を教えてくださっていることを覚えて感謝を致します。
神様、なおも私たちの中には数え切れないほどのうめきがあり、またあなたの御前に言葉にできないものも抱えています。
あなたはすべてを御存じでいてくださいます。
そしてなおも私を仰ぎなさい。
そのように私たちをあなたが招き、御礼拝へと導いてくださっていることを感謝を致します。
ただ、しもべはここにおります。
主をお語りくださいと、心を開き、神戸をたれて、あなたによって目と耳が開かれて、見るべきお方を見ることができますように、聞くべき声を聞くことができますように、主が私たちをあおれんでください。
お願いいたします。
祈られたように、世界で戦争が続いております。
特に激化をしております。
本当に平和を主がかたしづくってくださり、そのために祈る群れであり、またそのために心を痛める一人一人であらせてください。
現実を見ることができますよう、私たちに力を与えてください。
特にここに来たくても来れないお一人一人がいることをも覚えます。
施設におられる方、ご自宅で礼拝を守っておられる方、心が痛んでおられる方、思いがあっても来れない方。
どうかお一人一人を主が覚えていてください。
あおれんでください。
そしてまた道を開き、共に生きることができるよう帰りに来てください。
お願いいたします。
これからの時を御手に委ねます。
御言葉を開き、聖霊様が私たちに悟りを与えてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
二週明けて続けて実会を今朝は見てまいります。
今朝の実会は第6回です。
殺してはならないということ、殺してはならないということです。
二週ぶりですので少し実会の復習を短くさせていただくならば、
実会というのは私たちを縛り付け、戒める言葉ではなくて、
03:05
むしろ私たちを神の形、本来の私たちの姿へと回復させるための道しるべである言葉。
神様が私たちを神の形として回復させ、私たちをこの世界の祝福とするための言葉。
いわばこの十九章、今日読んでいただいた箇所の前のページに書いてますが、
まさに祭祀の国、王国、聖なる国民にするため、そのために語られているのが実会です。
加えて実会というのは神様との関係、隣人との関係において、
これを超えたら著しくその関係を痛めますよというための境界線でもあります。
そういう意味で言うならば、前半が第1回から4回であり、第5回、父と母を敬えは、
これは神様との関係、人間との関係のブリッジだとお話をしましたが、
今日第6回というのはまさに隣人との関係の最初に当たるかなと思います。
殺してはならない。
わかりますね。殺す、殺人が起きるということは隣人との関係の境界線を遥かに超えます。
取り返しのつかないことです。
どうでしょうか。殺してはならないという言葉は、皆さんからは遠い教えでしょうか。
私たちの身近にはない教え、ない現実でしょうか。
おそらくここにいらっしゃる方々は、誰も殺人をしたことはないでしょうし、
おそらく今後もそのようなことはないと思います。
けれども、現在社会に生きる私たちにとっては、あんまりそういう単純なものではないことも思われます。
この宮谷という地域に立つ教会として、例えば無視ができないのは、
1997年の神戸連続児童殺傷事件です。
もう皆さんに詳しく言うまでもないと思います。
ネットで調べましても、そして警視庁のいろんな資料をたくし上げても、
おそらく犯人の殺害の動機は快楽目的であったと、例えば言われます。
なぜそうなったのか原因はわかりません。
ただ、世の中には相手への共感能力が欠如してしまうであったり、
そこがどういうことになるか、想像力が持てないという、
ある種そういう人格障害と言ったらいいのか、もしくはその性格的な何なのか、
でもそういう方々は一定数いらっしゃるとします。
であるならば、その人たちに殺してはならないという言葉は、説得力を持つのでしょうか。
06:01
そしてまたそのような犯罪をした人に対して、国家は時に命を奪うということをいたします。
死刑ですね。死刑は容認されるのでしょうか。
おそらく私たちが殺してはならないということを道徳的に教えるならば、
自分がされて嫌なことはしないでおきましょうということを言いますね。
でも、じゃあ自分が嫌なことをされる覚悟があるならば、
言い方を変えるならば、罰則を受ける覚悟があるならば、
私たちが人の命を殺めていいんでしょうか。
死刑になりたいから人の命を奪ったということが事件としてありました。
もしくは、いや私は自分の命を奪われたくないから、
相手の命を奪うのですということが、今起きている戦争ということです。
それらの正当性は認められるのでしょうか。
そして、あってはならないことですけれども、
自分の命を奪うということが、年間何万人というところで起きています。
それぞれに事情がおありですね。
ただ、もしもこの命は私の命であって、
それをどうするかは私の自由でしょという論理がもしもあるならば、
筋は通っています。
でもそれは認められるべきなんでしょうか。
実にあってはならないことです。
あってはならないことです。
けれども、周りを見渡せば、見えるところに実は殺してはならないが、
犯されていく現実があることを私たちは気づく。
そういうことがあるかもしれません。
家人様ご自身は、殺してはならないという言葉を、
自分たちと遠い言葉として見てはおられませんでした。
マタイの福音書の5章の21節、22節というところ、
ご存知の話だと思うので聞いていただいたと思いますが、
3条の説教の中でイエス様は、
殺してはならないという言葉があるけれども、
それはあなたが心の中で兄弟に対して怒ったり、
恨み、つらみを持っていたとしても、
それも同じように殺してはならないという戒めを破っているんだよという話を、
イエス様されますね。
それもわかるような気がするのです。
心の中にある思いが行動にして現れるとするならば、
私たちの中にもまた誰かに対する怒り、許せない憎しみというものがあり続けるならば、
何かの気をしてポンと殺してはならないという忌みを超えてしまうことが、
100%ないとは言えないですね。
殺人をしてしまう犯人は異常者ではなくて、
09:05
ほぼほぼ多くは傷つき、追い込まれた私たちと同じ感性の普通の人。
そう言えるのかもしれません。
あってはならないことです。
何度も言います。あってはならないこと。
けれども、現実では今も起き続けていて、
そして私たちとは遠くないものである。
これを一体どう考えればよいのでしょうか。
扱い切れません、これも。
ただ、今朝は焦点を一つに絞りたいと思います。
このことを考える上で大事な視点は、
命とは一体誰のものなのかということです。
命とは一体誰のものなのか。
実戒というのは、罪の歪みを指摘し、
人間本来の神の形へと私たちを導く言葉です。
私たちは、命とは本来何なのか、そのことをどう理解すべきなのか、
今朝はご一緒に御言葉から聞いていきたいと願っております。
さて、今日読んでいただいた実戒の流れも確認をさせていただきながら、
この13節ですね。
殺してはならないという教えです。
この教え自体、この言葉自体には説明文がありません。
殺してはならないということだけ書いてあります。
ですから、この意図は他の聖書箇所を参考に探らなければならないわけですけれども、
なぜ命を奪ってはならないのか、直接的に言っているのは、
創世紀の9章の6節というところです。
ちょっとお開きいただけるでしょうか。
創世紀の9章の6節。
創世紀の9章の6節というところに、こういう言葉があります。
これは、ノアの箱舟の後のことですけれども、
神様が言われたその言葉の中の一つにこういう言葉があります。6節。
人の血を流す者は、人によって血を流される。
神は人を神の形として作ったからであると書かれています。
神の形として作った。
人の血を流す者というのは、
血というのは、当時の世界では命というのは血に宿るんです。
ですから、血が流れるというのは命が流れていくということで、
死を意味しますけれども、
そのように血を流したならば、流した人の血は流される。
出エジプト紀の21章の12節というところでも同様のことが書いてあります。
いわば、殺人をした者は必ず殺されなければならない。
聖書は、故意的な殺人か、過失の殺人かという区別はしますけれども、
12:03
しかし、故意的な殺人だと判明した場合は、必ず命が奪われます。
これが、すなわち死刑を容認しているんだという話にはすなわちなりません。
これはちょっと議論が必要です。
ただ、ここに通る一つの価値観は、
命を代替できるものは存在しないということです。
何かを払えば、何かを渡せば、命の代わりがきくということはない。
ということが言えるのだと思います。
命は命という重さしか釣り合うことができません。
ただ、この創世紀の9章6節には、その人の命が尊がれる理由が書かれてあります。
それはこの後半ですね。
神は人を神の形として作ったからである。
人の命を奪ってはならない。
それは神がそれぞれの人を神の形として創造されたからであるということを言われます。
これは創世紀の1章に書いてあることですけれども、
1章の流れを見ていただいたらわかりますが、
人間は聖書の中では特別な存在です。
神の形にかたどって作られた、唯一神の形にかたどって作られた特別な存在が人間です。
神の形に創造されたというのは、おそらく二つほど意味があるのです。
一つは、神の形である人間というのは、神と類似する存在だということです。
神様と類似する存在です。
神様は世界を創造し治めるお方ですね。
それと同じように人間にも創造性があります。
余談かもしれませんが、このスマートフォンを作ったのは人間ですね。
自然にスマートフォンがスマートフォンの木になっているわけではない。
人間が作るんです。
でもこんなことができるのは人間だけです。
なぜかというと人間には創造性があるからです。
これは人間が神の形であるゆえんですね。
そして同様に人間はこの世界を神様とともに治めるという責任がかけられています。
戦争や環境問題というのはクリスチャンと無関係ではありません。
神の形として作られた人間が管理責任を果たせていないということです。
環境問題も戦争もクリスチャンとは無関係ではない。
神の形は神と類似すると言いましたけれども、
もう一つ意味するのは何かというと、
それは人間は神と関係を築いていく存在だということです。
15:01
神様と顔と顔を合わせて語られて、
共に何かをしていくというのは人間だけです。
顔と顔を合わせて交わりを持つ人間、
それは神様に愛され、神様を愛し、この世界を生きていく、
一人一人を愛していくという貴重な役割を与えられているのが人間です。
これは貴重なんですね。
神様はこの神の形を持っている命というものを神様は尊いと思っておられる。
バークレーという人がこういうことを言いましたけれども、
人は神の形に作られたから人の命を奪うことは、
この世で最も貴重な最も聖なるものの崩壊を意味するのであると言いました。
言うまでもありませんね。
人間の存在というものの中にただただその命が奪われるということではなくて、
神の形が破壊されるというそのようなものがある。
神が特別だと思っているものを破壊するという罪がある。
今日読んでいただいた実会の直前のところに、先ほども少し言いましたが、
十九章の誤説というところに、こういう言葉があります。
出演時の十九章の誤説、よくご存知かと思います。
今もしあなた方が確かに私の声に聞き従い、私の契約を守るなら、
あなた方はあらゆる民族の中にあって私の宝となる。
私の宝となる。全世界は私のものであるから。
これはよく読み方としては、こうなったら宝になりますということの理解がされますけれども、
全体の文脈で言うとおそらくそうじゃないですね。
神の宝であるあなた方。神の宝であるあなた方が、
神の言葉に聞き従って戻っていく中で、本来の神の宝の輝きを取り戻していくということです。
神の宝なんです。
ただ私たちは罪によって歪みながら、いろいろな輝きがたぶんぼやぼやとしてしまっている。
神の言葉を守ることによってその輝きが取り戻されて、神の宝となる。
あなたは私の宝という言葉は、これは神様の愛の眼差しの言葉ですね。
神様はそれぞれの命を、あなたは私の宝物だと言われるお方です。
神の形である人間は、神様の目には、ご自身の手の内にある宝石のように見えている。
大切な存在である。
それはひいては、私たち一人一人の命もそうですね。
18:00
私たち一人一人の命の存在も、これは宝なんです。神様の目にとっては。
ここにいる一人一人だけではありません。
目も向けられない、貧しくて、もう相手にもされない。
いや、それは神の宝なんだ。
イエス様は宝探しが得意でした。
だからいろいろなところに、相手にもされない、目にも止められない。
そこに神の宝という輝きを見出して、イエス様は関わっていかれましたね。
さて、少し話をいたしましたが、最初の問いに戻りますと、
命は誰のものなのかということを考えるときに、
私たちは、いや、この私の命は私のものだと理解しがちですね。
私のものだと。
それは私たち一人一人がそう思うかもしれません。
でも、おそらくそれが、罪が私たちにもたらしている誤解であると、
そう言えるのではないかなと思うのです。
命は私自身のものではありません。
命は、私たち一人一人の命は、神のものです。
神がその命を創造し、神様が私たちの命を保ち、
私たちの命を喜び、
そして現実問題は、私たちはいつまで生きるかということを自分でコントロールできません。
でも、その最後まで命に責任を持たれるのは、神様ですね。
聖書の中にそういう話はいくつもあります。
イエス様がお金持ちが財産を蔵に納めよう、これから何十年も楽しもうと言ったときに、
その人の命がその日の晩に奪われたということがありました。
ヤコブの手紙の中では、
明日これをし、あれをしようと言ったとしても、
主が許されなければ、それはできないでしょう、という言葉がありますね。
命は主のものである。
私たちの命を握っているのは主である。
その事実、ある種重たい事実、
それはやはり知らなければならないことであろうと思います。
さて、命は神のものであるとお聞きになって、どう思われるでしょうか。
嬉しいでしょうか。
もしくは、もしかしたら不安に思っておられるかもしれません。
私の命も、私が愛するあの人のこの人の命も、私の手の内にはない、
ということを知るときに、私たちは不安になると思うんです。
不安かもしれませんが、私には5つ腕の兄がいるんです。
背丈が私よりも10センチくらい高い大柄の兄なんですけれども、
小さい頃病弱だったんですね。
21:00
ある日、高熱にうなされてですね、すごい苦しみようだった。
母が兄を連れて病院に走ったんですよ。
その母はクリスチャンなので、一生懸命お祈りしました。
神様どうかこの子の命を取らないでください。
でも、そのときに神様が与えられた御言葉が、
主は与え、主は取られる、主の皆は保むべきかな。
呼吸の一生の21節でした。
母はそれを聞いて本当に怖くなったと言いました。
怖かった。
幸いなことに病院に行って、お医者さんが適切な治療をしてくださって、
その兄の命は取り留められるわけですけれども、今でも母は話します。
怖かった。あのとき本当に怖かった。
それは理解ができるわけです。
命はいつ尽きるのか、私たちの手の内に、私たちが把握できるうちにないという怖さ。
ただ、私は、命は神の御手の中にあることを受け入れるということは必要なことであると思うんです。
必要である。
それは究極的に、いつまで生きるかわからない私たちの人生、私たちの命、
そうであるからこそ、今私が生きているということは当たり前ではないということです。
今私に命が与えられているというのは、誇張するならば奇跡のようなものです。
そのような中で、私たちの一日一日が支えられ、あるということをむしろ覚える。
そのことが大切なのではないかなと、私は思うんです。
そのことを、実は聖書の中でも実感して語られている書簡があります。
呼吸です。
最後、呼吸のストーリーだけさらっとさらってお話を終わりにしたいと思います。
呼吸の聖書公開はしません。
さらっと全体のストーリーだけさらって終わりたいと思いますが。
呼ぶという人物、旧約聖書の紙片の前に書かれてあります。
呼ぶという人物が宇津という家にいました。
彼はその地方の有力者でした。
呼吸の一章というところを見るならば、
彼が家族や家畜ともに恵まれた人物であるということが書かれています。
それだけではなくて、彼は神様に忠実な下部でした。
自分自身が罪を犯したかもしれないと思って犠牲を払ったり、
自分の家族も罪を犯したかもしれないと思って犠牲を払ったり、
とにかく何一つ落ちそうのないほど完璧に忠実な男、
それが呼ぶでした。
そして神様も呼ぶのことを喜ばれていたわけです。
けれども不思議なことに、
神様はサタンが呼ぶを打つことを許可されます。
24:04
そして呼ぶは家族と家畜を一瞬で失いますし、
自分自身も重い病に打たれます。
呼ぶの真通は呼ぶ機を見ていただいたらと思いますけれども、
彼がショックだったのは、
自分の家族や家畜が奪われたということもショックです。
でもそれ以上にショックなのは、
神に落ち度なく忠実であるにもかかわらず、
なぜ私が苦しむのかということです。
呼ぶの中には世界観がある。
神様に忠実であれば祝されて、
神様に逆らったならば罰を受けるのはわかる。
でも忠実なのに罰を受けるのは何なのか、
まさに混沌としている。
三人の友人が呼ぶのもとにやってきます。
三人の呼ぶんも言いました。
神は忠実な者を祝し、逆らう者には罰を与える。
呼ぶよ、だから罰を受けたのは、
あなたに隠れた罪があるからだろうと、
はいてまいなじゃないですけれども、訴えるわけです。
けれどもこれは的外れでした。
呼ぶは完全な疑心です。
なのに苦しみにあったのはなぜかというのが、
この書簡の大切なテーマです。
そして割愛しますけれども、
この書簡の最後に呼ぶの前に神様が現れるんです。
神様が呼ぶの前に現れて言われたことは、
二つでした。
一つは呼ぶよ、
あなたは全てのことを知ることはできないということです。
この世界の成り立ちも自分の運命も、
神様のみが知る世界が存在し、
人は全てを探り極めることはできない、
それを許されてはいないということです。
しかしもう一つ呼ぶが語られたのは、
そのような世界にあって、
神様は呼ぶをはじめとした、
この世界の秘蔵物、
この世界に作られた命を、
とことん自慢し喜ぶ神であるということです。
ダチョウの話が私は好きですね。
ダチョウは自分の卵を産んだ後に、
自分の卵を足して踏んじゃうほど、
彼らは頭が悪い。
でもダチョウは走った姿を見たことがあるか、
彼らは馬も置いてくほど速い。
あいつらめっちゃ頭悪いけど足が速い。
神様は喜んでるんですよ。
でもそのような、
全てを知り切れない世界、
でもただ一つわかることは、
神はこの世界の命と秘蔵物を愛しておられる。
じゃあなぜ呼ぶが苦しまなければならなかったのか、
理由は最後まで説明されません。
わからない。
27:02
ただ、この神に出会ってから、
呼ぶが変わります。
彼は以前よりも簡単に言うならば、
気前のいい父親に変わるんですね。
一つ例えとしてあるのは、
彼は呼ぶ機の最後ですけれども、
自分の財産を娘たちに相続するようになるんです。
これは異常なんです。
当時男性社会です。
息子にしか財産なんか相続しません。
でも娘にまで財産を相続したと書く。
それは何か、財産を惜しまないんです。
主は与え、主は取られるという経験を通し、
彼は自分の命がいつまでかは握れないということを受け入れた。
そしてそうであるならば、
今日、生きている今日という日は、
当たり前のようにあるのではない。
今日という一日は純粋な神様からの賜物です。
今与えられている家族も財産も、
これは神様からの賜物です。
そうであるならば、
それを何のために使うのか、
自分を喜ばせるために抱え込むのか、
いや違う、
隣人とそことん喜び合うために使おうです。
惜しまずに、自分の手元に残さず、
みんなで喜んで生きようじゃないか。
呼ぶは、いつ命が尽きるかを恐れるよりも、
今生きていることの奇跡を知りました。
自分が生きている、
今自分があの人と生きることができている、
それは奇跡のように幸いのことであり、
幸せのことである。
そしてそのような奇跡のような日々を、
神様が与える一日一日を、
そことん感謝して精一杯生きよう。
それが呼ぶ気です。
私が生きている一日、皆さんが生きている一日は、
神様が与えてくださった最も貴重な賜物です。
それを誰かが奪っていいわけがないんです。
命は神のものです。
神のものだから重いんです。
神から誰も取ってはいけない。
取ることなんてできない。
私が奪っても良いものではないし、
誰かが奪って良いものではない。
そして私たちはイエス様を通して、
命の重さを私たちに教えられたと思います。
命は命という重さしか釣り合うことができないとするならば、
だからこそ私たちの命を救うために、
イエス様は不従順な私たちの命を奪うのではなく、
30:03
私たちを救うために命を捧げてくださいました。
それは十字架。
十字架というのは、
あなたの命は神の目からするならば、
御子イエスキリスト同等、いや、それ以上に重いと言っているんです。
それほどあなたは貴重なんだ。
そしてこの愛を受けた者は、
この世界でイエスキリストのように生きるわけでしょう。
命を奪うのではなく、命を与えて誰かを生かすために生きていくものになる。
殺してはならないの、真逆の世界に私たちは生きるようになっていく。
もう終わります。
あなたの命は、私たちの命は神様のもの、神様の宝です。
そうであれば、私たちが生きている一日一日は奇跡のように輝いています。
命を、生きていることを感謝しましょう。
時にそう思えない時が、どうしても私たちにはありますね。
生きるのがつらいということが私たちはあります。
そうであるならば、命があることを感謝できるように慰め合い支え合って生きていきましょう。
それが殺してはならないという今しめではないでしょうか。
誰の命も、あなたの命も殺してはならない。
神は巫女の血を流すほどに私たちにそれを訴えています。
あなたの命はするほどに重い。
あなたは生かすために召されたのだと。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
31:48

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