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2026-02-08 32:37

2026/02/08:人を思う神

2026/02/08 聖日礼拝

加藤満牧師

ヨハネの福音書 5:1-18


サマリー

このエピソードでは、安息日の重要性とイエス・キリストによる癒しの奇跡が語られています。社会から除外された人々の悲しみや、イエス様がどのように彼らを再生させるかについても考察されています。また、イエス様が病人に「良くなりたいか」と問いかけ、彼の固定観念を打破する様子が描かれています。安息日の意味や神の働きについても触れられ、救いの恵みがどのように与えられるかが考えられています。このエピソードでは、安息日についての神の意図とその重要性が探求され、神が今もこの世界で働いていること、特にイエス・キリストを通して人々を癒し回復させる働きについて語られています。

祈りと感謝の時間
それでは一言、お祈りをいたします。
恵み深い、天の父なる神様、死の御前へと私たちをまた集わせてくださり、
あなたを奥義礼拝ができます幸いを心から感謝をいたします。
寒い朝を迎えております。そしてまた、大雪に阻まれて、
今日、礼拝が大変な教会もあるかもしれませんが、
私が、大雪国の教会一つ一つ哀れんでくださって、
お一人一人を支えてくださいますように、お願いをいたします。
主よ、あなたは限りない愛をもって私たちを愛し抜いてくださいました。
イエス・キリストの十字架の父よ、
イエス様、御自身のその命によって私たちは贖い取ってくださり、
神のことをしてくださり、それだけではなく、
三日目に甦えられた復活の命、永遠の命を私たちに与え、
永遠なる人結ばれて、永遠なる神と共に生きる、
その新たな命を与えてくださっていることをありがとうございます。
私たちが離れてしまう時も、あなたは私たちを手放さずに、
あなたがいつもそこにいてくださることを覚えて感謝をいたします。
道化主よ、今日も御言葉を通して、あなた御自身を知りたいと願っております。
私たちに聖霊様が御言葉を開き、理解力を与えてくださいますように、
お願いをいたします。
特に今日は、日本においては選挙の日となっております。
本当に主よ、お一人一人があなたの見舞いに立って、
責任ある投票をすることができるようにと願っておりますが、
全てを治めておられるのは主御自身です。
日本という国をあなたが憐れんでくださり、
進むべき方向をまた開いてくださいますようにと願っております。
どうかこの日を祝し、導いてくださいますようお願いをいたします。
あなたへと期待して、そしてまたここに来れないお一人一人も覚えています。
寒さの中におられる方、施設の中におられる方、
自宅で礼拝を守らざるを得ない方もいらっしゃいます。
お一人一人をどうか憐れんでくださり、
あなたがまたお一人一人を慰めてくださいますようにお願いをいたします。
これからの時を見てにゆだねます。
御言葉を開き、私たちを導いてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
安息日の意義
冬季休暇のひとときを先週三日間いただきましてありがとうございました。
リラックスをするときもいただきましたし、
また昨日と一昨日は田島福音教会に雪かき支援に行ってまいりました。
昨日一昨日は降ってなかったので固まった氷をザクザク割りながら
このまま溶けるんちゃうかなと言ってたんですけれども、
今日は向こうも大雪だと思います。
一応子供たち用に鎌倉は作ってきたので、
それを楽しんでくれたらなと思っていますけれども、
田島の教会の実情もいろいろ知ることができて幸いでした。
また今朝は祈りましたが選挙でもあります。
いろいろなことが起きますね。
そしてまたそのことに私たちは心を揺さぶられるお互いであるかもしれません。
先はどうなるのかということであったり、
もしくは寒さの中で心も体も霊も言われやすい中にある私たちかもしれません。
しかし一つ覚えたいことはこの時に焦らないということです。
焦らずにむしろ聖書はこういう時に止まりなさいと私たちを招きます。
静まって私が神であることを知りなさいと主は語られますし、
そして同時に今朝の中心聖句にもさせていただきましたが、
5章の17節、今日ご一緒に受け止めたい言葉ですが、
聖書が語ることは、私の父は今に至るまで働いておられます。
それで私も働いているのです。
私の父は今に至るまで働いているという言葉は、
今この時にも力強い私たちに対する慰めです。
寒さの中であらゆることが心の中に渦巻く中で動けなくなるときは私たちあります。
しかし私たちがそうであろうとも、主は今に至るまで働いておられる。
この最中にも働いておられる。
そのことを真摯に覚えながら、少し安心感を持って
ご一緒に日々を過ごしていきたいと願っているのです。
さて、今朝の歌詞に少し目を向けてまいりますが、
今朝のテーマは一言で言うと、安息日についてであります。
安息日です。
実戒の安息日規定のことを私たちは知っています。
神様は休まれたように、人間にも休息が必要だとあの歌詞では語っています。
そうですね。私たちは神様が休んだんだから遠慮なく休んでいいわけですね。
しかし、少し一歩踏み込んでこの歌詞が語るのは、
では、安息日は休むだけで良い日なのかということです。
そもそも、安息日とは一体何を目的としている日なのでしょうか。
それをイエス様が導かれる場面が今朝のこの歌詞になっています。
少しこの歌詞に入る前に、
ヨハネの福音書の文脈を確認をお待たせしておきますが、
これまで1章から4章を見てまいりました。
その中でイエス様は、神がイエス・キリストを通してもたらされた新しさというのを順に語ってきました。
立法が新しくなりました。神殿は新しくなりました。
新しい生まれ方、契約・共同体の入り方ですけれども、新しい生まれ方がそうだし、
そしてまた、前回の4章では、礼拝が新しくなったということをご一緒に見てきました。
そしてそのような流れで、ガリリアのカナから始まった旅行は、
ユダヤのエルサレムに至り、サマリアを通って、またガリリアのカナに帰ってきたというのが4章の後半に書いてあります。
そのような1サイクルが終わった後なんです。
5章からは、実は少しトーンが変わってきます。
ここからイエス様は、さらに私はこういうものだという自己啓示を明確にされていかれるんですね。
それは2つの筋で明確にされていきます。
1つは、イエス様はここから、私は何々であるという言葉を繰り返し言われるようになります。
私は命のパンである。私は良い牧者である。さまざま言われますが、
いわばこれは、エゴーエイミー。ギリシャ語でエゴーエイミーと言います。
そして、この言葉が語る背後にあるのは、
シュツエシプトキ3章の14節にある神様が、私はあると言われるというのです。
モーセがあなたの名前は何ですかと聞いたときに、私はあるというものであるということを神様は答えられましたが、
あれと同じ言葉です。エゴーエイミーというのは。
いわば、私は何々だとイエス様は言われるごとに、
私はシュツエシプトの神と同じだということを主張し始めるのです。
明確にされていきます。そしてその明確にされるのはどこかというと、
実は安息日と祭りの中でされていきます。
今朝は安息日ですが、6章から10章でそれが使われる場所は、
杉越の祭り、カリーオの祭り、宮清の祭りです。
そしてそれぞれの中でご自身を開示されていきながら、
まさにこの祭りが崇めている、祭りが差し示しているのは私なんだということをイエス様は主張されていくのです。
実に過激です。ですから5章から始まるのはユダヤ人とのバトルです。
ユダヤ人は明確にイエス様と対決をしていくのが5章から始まっていきます。
6章からは自習から見ていきますが、今朝はこの5章に目をとめながら、
安息日のことをご一緒に見ていきたいと思っています。
ベテスダの池の奇跡
2つのポイントで今朝の箇所を見ていきますが、1つ目のポイントに
安息日に主は人を癒されたということです。
安息日に人は癒されたということですね。
ちょっとこの5章の箇所を見ていきますが、どういう場面であるかというと、
イエス様ご一行がまたユダヤのエルサレムの町に行かれるわけですね。
そして羊の門の近くのベテスダと呼ばれる池、そのところへと向かわれました。
ベテスダというのは今も考古学的に発見されている場所ですが、大きなタメ池が2つある場所です。
そして当時このところには3節を見ますと、その中には病人、目の見えない人、足の不自由な人、
体に麻痺のある人たちが大勢横になっていたというのですね。
タメ池、上から下に流れるタメ池があって、下のタメ池の周りに5つの回廊があり、
その周りには体の不自由なハンディーを持っている人々が横たわっていた。
当時身体的にハンディーがある人は清浄に入ることができません。回廊にも入れません。
ですから宗教的社会的なコミュニティから排除されていくんですね。
でもその人々が癒しを求められる場所がこのベテスダの池でした。
しかしここの癒しというのは別にお医者さんがいるわけではありません。
一つの、いわば信仰がここにあったわけですね。
それは何かというと、ここに集っている人たちは
水がかき回されたときに池に入れば癒されるという信仰を持っていました。
先ほども言いましたけれども、大きなタメ池が上と下にあるんですね。
上から何かで水があふれて、下に水が流れ込むと水面が揺れるんですよ。
水面が揺れるのを当時の人々は、
ああ、神の見つかいがこの池に降りてきたと理解したんです。
神の見つかいが池に降りてくると、神様の祝福がパワーチャージされるわけですね。
ですからその池に最初に飛び込んだ人間は癒されるということを当時信じられていました。
しかしベテスダという施設はものすごく大きかったようで、
おそらくそこにヒシメコほど人がたくさんいた。
そして水面が揺れるのはそんなに頻繁ではなくて、癒されるのは最初の一人だけです。
ものすごい、完全に早い物が癒しの場所だったわけですね。
池の周りの5つの回廊はおそらく少しでも早く池に飛び込もうとする人々がひしめき合っていたことでしょう。
そこにはベテスダというのは本来これは恵みの池という意味があります。
恵みの池です。
それはおそらく社会から除外された人がここには救いがあると言って名付けた名前でしょう。
恵みの池です。
しかし現実は恵みは何もありません。
癒しを求めて互いに蹴落とし合う競争の世界がそこには広がっていたと言えるでしょう。
そしてその競争に敗れ続けて38年間横たわる男性がいたわけです。
その男性はおそらくスカブだったのではないかなとも思います。
誰にも目も向けられなくなった男性がそこにいました。
イエス様は彼に目を止めて言われるのです。
読説を読みしますとこのように書いてあります。
イエスは彼が横になっているのを見て既に長い間そうしていることを知ると彼に言われた
良くなりたいかと聞かれるのです。
良くなりたいか?
突然の問いかけですね。
しかしこの言葉は単に健康になりたいかということを聞いているものではありません。
これはニュアンスとしては全く状態になりたいかという言葉です。
全く状態になりたいか。
いわばおそらく創世紀のアブラハムに対して神様が
あなたは私の御前で全く者でありなさいと言われたように
この言葉は単に病が癒されることにとどまらないのですね。
根本からですよ。あなたの人間としての根本から
神を愛し隣人を愛するそのような姿に回復したいか。
癒しの問いかけ
そのような全てを包括するような良くなりたいかという言葉です。
言葉だけで言うならば良くなりたいかですね。
しかしこの男性はそのイエス様の問いかけにどう答えたか。
七節を読みしますと病人は答えた。
主よ、水がかき回されたとき池の中に入れてくれる人がいません。
行きかけると他の人が先に降りていきますというのです。
イエス様はここで病が癒されることだけではなくて
根本的な前回の四章の言葉を借りるならば
永遠の命へと至る命の水、行ける水を差し出しているのです。
しかし彼の心はイエス様、あの池に私を誰も入れてくれませんなんですね。
どういう思いでしょうか。
それはもしかしたら、彼の中で38年間横たわる中で
私が癒されるのはあの池に入るしかない。
そのような私が救われる方法が私の中で固定化しているのです。
私はこうじゃないと救われるわけではない。
だから池に誰も入れてくれないのが問題だということを彼は言いますね。
もしくは池の中に誰も入れてくれる人がいないというのは
周囲の人が本当に責めたいんですという環境のせいにしているのかもしれません。
もしくはもっと根本的に言えば
自分がなんでこんな病にかかったのかという運命に対する不満
そういう言い方もできるのかもしれません。
確かに病はつらいです。
38年間日々その日々を過ごしてきた彼には
慰めが必要であることも思います。
しかし誰かの何かのせいにするだけでは前には進みません。
イエス様がここで聞かれた言葉は
あなたは良くなりたいかです。
あなたは良くなりたいか。
断然は言いました。
いや私の環境が私の運命がこういうことになったんですが
あの使い得方法に私が行かれないからダメなんです。
しかしイエス様が言われたことは
あなたは私に何を願っているかです。
あなたは私に何を願っているのか
あなたの運命の話とか聞いてない。
あなたは私に今何を願っているのか。
それはアラフタのようにかつてに言われること
イエスに彼は言われた
起きて床を取り上げ歩きなさいです。
起きて床を取り上げ歩きなさい。
これ命令形で宣言なんです。歩きなさい。
彼の言葉を遮るかのように
イエス様は即座に彼に
神の持っておられる権威を持って宣言をなさいます。歩きなさい。
するとどうなったでしょうか。
彼の神様の言葉の通り
イエス様の言葉の通り彼は癒されたんですね。
それは言い換えるならば
彼が握っていた
こうでなければ救われないという救いの方法ではありませんでした。
池に投げ込まれたわけではありませんでした。
また彼が見つめていた環境や運命というものも
ここでは関係がありませんでした。
良くなりたいかと問われたイエス様に対して
その主イエス様は
全てを貫いて力あるそのような権威を持っておられる主である。
その方により頼むかどうかだったんですね。
私は今もそうであると信じています。
主が私たちに良くなりたいかと問われる言葉は
いつもそのレベルで聞いているんですよ。
今のあなたのその病気が良くなりたいか
それも大事ですけれども
でもそれだけではなくて
どのような状態になりたいか
あなたが抱えている様々な歪みや痛みがあることは知っている。
でもそれを何かのせいにするだけでは私たちは前に進めない。
イエス様は手を開いている。
あなたは良くなりたいのか。
私にあなたは何を望むのか。
それに答えていくときに
主が私たちに与えられることは
大概私たちが願ったような癒しではないですね。
私たちが願わずとも
しかしこれで良かったんだと思えるような
主の導きと癒しの技はなされていきますよね。
今一度私たちは互いに
主が良くなりたいかと
私たちに手を開いていることを
今朝ご一緒に覚えたい、受け止めたいと願っております。
安息日の重要性
さて二つ目のポイントを見ていきますが
そのように安息日に人を癒された主は
安息日に人が生きるため
今も働いておられるということです。
安息日に人が生きるため
今も働く神であられるということです。
このような神の御業が起きて
人が癒されていくということ
実はこの出来事こそが
安息日にふさわしいことでありました。
どういうことでしょうか。
実はイエス様の周りにいた人々は
そうは思いませんでした。
5章の9節にありますように
5章の9節の後半ですが
ところがその日は安息日であったというのです。
ところがその日は安息日であった。
この歌詞をよく見ますと
イエス様はこの男性を癒した後に
すぐにどこかに行ってしまいます。
そして男性が床を取り上げて歩いている姿を見て
ユダヤ人がこの男性に言うのです。
10節に言いますが
今日は安息日だ。
床を取り上げることは許されていない
ということを言うのですね。
これはご存知のように
10回の第4回です。
7日目はあなたはいかなる仕事もしてはならない
と主定塾時の20章に書いてあります。
当時のユダヤ人たちからするならば
この男性が癒されて
床を取り上げて歩いているというのは
労働にあたると彼らは解釈するわけですね。
ですから働いている。
でも7日目は歩いたらあかんやん。
働いたらあかんやんということを言うわけです。
ただこの男性は最終的に
自分を癒してくれたのは
イエス様である。
イエス様がそうしてくれたんだと
差し示します。
ユダヤ人はそれから
イエス様を問い詰めるわけですね。
その中でイエス様が
ユダヤ人の質問に答えた
言葉が今日の中心セイクです。
17節の言葉です。
イエスは彼らに答えられた。
私の父は今に至るまで働いておられます。
それで私も働いて
いるのです。
私の父は今に至るまで働いている。
これは一体何を言っているのでしょうか。
この背後にありますのは
まさに実会の安息日規定のことがあるのです。
改めて安息日とは
何を目的に定められたのかということを
さらっと確認しますが
大前提として何か
それは神様が休まれたように
人間も休むためです。
あらの旅し続ける旅路は
休まなければ人間を持たない。
だから休んでよいのです。
去年ですかね
増澤元一先生が来られましたね。
やり取りする中で
メールを送ってきてくださったときに
一言こういう言葉がありました。
疲れを侮ってはいけません。
すごく疲れていたんだろうなと思うんですけど
でもそうだなと思います。
疲れを侮ってはいけません。
疲れたら休まなければ
何かがおかしくなりますね。
ただ同時に
安息日の箇所が私たちに語るのは
じゃあ休むだけでよいのかということです。
休むだけでよいのか。
安息日の規定については
聖書は二箇所書いています。
出世し時の二十章と
新明記の五章
どっちも実会ですけれども
その中でそれぞれの実会に
記されているところを見ますけれども
開くと長いかもしれません。
でもちょっとだけ確認しますね。
新明記の五章の十二節から
新明記の五章の十二節から
なんかパラパラ開いて申し訳ないんですけど
新明記の五章の十二節に
安息日について書いてあります。
お読みしますと
新明記の五章の十二節旧約成書の
324ページの下の上の段にありますが
こういう言葉が定められています。
安息日の規定については
安息日の規定については
安息日の規定については
安息日の規定については
安息日を守ってこれを Teacher
安息日を守ってこれを
聖なるものとせよ
あなたの神主が命じられ
命じた通りに
無以下官働いて
あなたの全ての仕事をせよ
なのためはあなたの神主の安息である
あなたはいかなる仕事もしてはならない
あなたもあなたの息子や娘も
それにあなたの夫子奴隷や女奴隷
牛廃ばいかなる家畜も
またあなたの町囲みの中にいる寄留者も
そうすればあなたは
あなたが作った
あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。
あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そしてあなたの神主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。
それゆえ、あなたの神主は安息日を守るよう、あなたに命したのである。
安息日は主の安息であり、あなたがたも休みなさい。あなたがたが休んだら、男奴隷も女奴隷も休めるからしっかり休みなさい。大事な教えです。
しかし、それに加えて、安息日を神明記は、エジプトからの脱出と結びつけて理解をいたします。
いわば、エジプトの奴隷から神様が一方的な恵みをもって、解放してくださったという神様の恵み深さ、それを覚えるための大切な日でした。
これは今もそうです。安息日に私たちが覚えるのは、罪の奴隷であった私たちを、私の勇しなしに一方的に主が救いの恵みを表して作ってくださったことを感謝する日ですね。
恵みの理解
主に仕えるというのは、いつでも恵みが先行をいたします。
ですから、私たちはそのようなところで、主に仕える行事、感謝と喜びをもって仕えることで十分なんですね。
あんまりこういうことを言い過ぎてもいいかもしれませんが、疲れたら休んでくださいね。疲れたら休んでください。
そして法師というのは、いつでも私たちの恵み、主の恵みに対する応答である、その感謝であるということを覚えていただけたら幸いですし、またその中で私たちは慰められながら、自分たちが許されていることを本当に喜んで生きれたらいいなと思っております。
そしてただですね、今日はこの新明記よりもどちらかというと、出エジプト記の箇所が関係するわけです。
出エジプト記の箇所もちょっとだけ読みますけれども、20章の8節から11節です。
出エジプト記の20章の8節から11節、ここも実会のアンスク日記でお読みしますと、出エジプト記、旧約聖書の134ページの下の段の後ろの方にありますが、
お読みしますと、こういう言葉です。
8節から、
安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
6日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。
7日目はあなたの上、主の安息である。
あなたはいかなる仕事もしてはならない。
安息日の意味
あなたもあなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄隆者も。
それは、主が6日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを作り、7日目に休んだからである。
それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。
新明記と並べて読むと、違いが明確でしょう。
新明記の安息日というのは、出エジプトと結びつけられているんです。
しかし、出エジプト記のこの20章の安息日規定というのは、これは天地創造と結びつけられています。
なぜ私たちは休むのか、それは神様の創造の御業、創造の7日目は天地創造の完成、その休息とともに神が王座に出された日であるということを私たちは2章を読んだときに見ました。
神の安息というのは、支配の開始です。
安息日はそのような、神様がそれは非常に良かったと言われるこの世界、そして神様がこの世界の王であり支配を収めておられるというその事実を喜び、またその方こそ唯一の全能の神であるとして礼拝をする日ですね。
ただですね、この非常に良かったという世界は崩れているわけです。
歪みが生まれました、罪によって。
世界とその中に生きる人間は徐々に歪んでいきます。
今朝のこのベテツダの池はその象徴みたいなところです。
まさに恵みと名がつきながら恵みのない世界。
蹴落し合いながら競争と自分さえ都合が良ければ他人はどうなってもいい。
選挙戦のいろいろ見ながら、まあよくこんな言葉が出てくるなという接戦ですけれども、なんかすごくしんどくなりましたね。
ただそれは当然のように繰り広げられる闘争ですよ。
人間の歴史ですね。
そしてその舞台が教会であることは珍しくありません。
私たちも気をつけなければならないことは多々あります。
しかし聖書が一貫して語ることは、その世界に心を痛められた神ご自身がその世界と人を愛し、癒すために今も働いておられるということです。
今も働いておられる。
そのためにイエス・キリストが天から使わされたということが3章の16節に書いてありました。
神は実にその独り言を綿になるほどに世を愛された。
今も愛しておられる。
だから巫女を使わされた。
そして今朝の箇所につながりますが、この文脈で5章の17節は語られている。
私の父は今に至るまで働いておられます。
それで私も働いているのです。
今に至るまで働いているというのは一体何の働きをしているのか。
それはこの世界とこの世界に生きる一人一人が、それは傷つき痛む私たち一人一人もそうですが、
非常に良かったと言われる神の形へと私たちを癒し、回復させるために主は今も働いておられる。
主は今も働いておられる。
それは安息日である今も働いておられる。
私たちはどこか時々、どこに神がおられるのか、その御業は止まってしまっているのではないかという風に見えるかもしれません。
特段この38年間癒されなかった男性にとってはそうかもしれません。
神はどこにおられるのか、そのような経験を私たちはするでしょう。
しかしイエス・キリストが来られたのです。
神の業は動き始めたのですね。
神は今この世界で働いている。
あの想像の非常に良かったと言われる世界に至るまで、人は止まるし、人はいなくなります。
けれども神は今もこの世界で働いておられる。
この今に至るまでという言葉は、2026年に至る今に至るまでと私たちは信仰を持って受け止めるようにと招かれているのです。
今も主は生きて働いておられる。
それ上、安息日はどういう日でしょうか。
休む日です。休んでください。
しかし安息日は神の想像の御業を喜ぶ日です。
それはかつて非常に良かっただけではない。
この世界を救い癒やそうと働く神様の新たな想像の御業は今も進み続けている。
それはこの教会の中に、そして私たちの中に、私たちの世界の中にですね。
教会はその主の御業を喜び、覚えながら礼拝をしつつ、私の父は今に至るまで働いておられます。
それで私も働いているのです。
教会は主が働くから働くんです。
神の働きと私たちの役割
教会の業にでも先んじておられるのは、主ご自身が今も働いておられるのです。
ですから私たちは休みましょう。しかし休むだけではない。
今朝の招きは休みながら、それで私も働いている。
私の帰っていくその場所で主は今働いている。
私の中に今主は働いている。
じゃあ主の働きは何だろう。
その主の働きに生身の私の手足がそこに手を入れるというのはどういうことなんだろう。
そのことをご一緒に覚えながら、そこに仕えていくのが安息日の在り方です。
私たちは改めて休みながら、しかし教会の頭であるお方は今も働いておられることも覚えて、
期待をし信頼をしながら、私たちのできる手足の動かし方をさせていただきたいと思うのです。
一言お祈りをいたします。
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