祈り
それでは一言お祈りを致します。
恵み深い、愛する天の父なる神様、死の御前へと私たちをまた伝わして下さり、あなた仰ぎ礼拝ができます幸いを感謝致します。
暖かな日差しの中で、今日この時を迎えています。
お一人一人の命を育み、生かし、支えておられる主の恵みを改めて覚えています。
あなたは私たちを限りなく愛し抜いて下さり、御子イエスキリストを十字架へと捧げて下さいました。
その流された潮により、私たちの罪は許され、神のことされ、三日目に甦えられた主の命、永遠の命を私たちに与えて下さり、
永遠なる神と結びつけられて、もはや切り離されることのない、永遠に死と共に生きる命が与えられていることを心からありがとうございます。
私たちがどれほど弱り、その足元が抜けようとも、あなたはその弱さのうちに恵みを現して下さり、やその弱さのうちにも、あなたの良き業を進めて下さることを信じ、ありがとうございます。
どうか主よ、今日も御言葉を開いて下さいますように、あなたのその絶大な恵みを開いて下さいますように、そしてあなたを見舞いに憩いながら、完全にあなたの懐に憩い切ることのできるように、私たちを導いて下さい。
お願いいたします。あなたは私たちを最後まで握り続けていて下さいますから、感謝をいたします。
ここに来たっても来れないお一人一人がいることも覚えています。体調を崩している方がいることも聞いています。
どうか主が一人一人の痛みを知っていて下さいますから、癒して下さいますように、共にあなたの見舞いに集うことができるよう、導いて下さい。
施設におられる方、御自宅で礼拝を守らざるを得ない方、あなたがまた覚えて下さって、共に仕合うことができるよう、帰りに来て下さい。
全世界で持たれている礼拝を祝し、また全世界において、今、礼拝を守ることもできないような、その痛みにある兄弟姉妹を、あなたが慰め、この時にあなたの臨在と慰めを注いで下さいますように、お願いいたします。
これからの時を見て、乳種をして、イエス様の御名前によってお祈りをいたします。アーメン。
「一粒の麦」の言葉とその背景
本日は、礼拝後に教会総会が予定されております。
主の恵みを御一緒に覚えながら、次年度のことを一緒にまた考えていきたいと、そう願っていますけれども。
そのような中で今朝、御一緒に注目したい言葉が、この十二章の二十四節の言葉、とても有名な言葉です。
「誠に誠にあなた方に言います。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままです。しかし死ぬなら豊かな実を結びます。」と言われたイエス様の言葉です。
聖書の中でも比較的有名と言えるこの言葉は、これからイエス様が迎えられる十字架の受難と死ということを予兆している言葉です。
御存じの通り、ヨハネの福音書というのは、実は十三章から十七章が長いイエス様の国別説教と祈りです。
そしてこの十二章というのは、早くもこれはエルサレムに入場されてイエス様が十字架に架かられる直前の場面です。
そのような時にイエス様はこの言葉を言われている。いわば、もう御自身の死が、御自身の終わりが近いことを意識していらっしゃる、そのような時です。
私たちもそうでしょう。死という事柄を予兆する時には明るい気持ちにはなれません。
終わりが近づいていることが自分の身近なところで起きると、気が気ではない。
体の衰えであったり、時に病を得る時に、かつてと同じように自分はあれができなくなったということを感じる時に、
私たちは死の間近さを感じることがあります。
まさにその時に心は揺さぶられるような思いをするお互いでありましょう。
今朝のイエス様を見ても、そのような心の揺さぶるがないとは言っていないんです。
十二章の27節を見ますと、今私の心は騒いでいるとイエス様は言われます。
十字架を前にして、死を前にして、様々な自分の周りにいろいろなことが起きることに対して、私の心は騒いでいるのです。
しかし同時に、このヨハネの福音書を見ていく時に、死であったり終わりというものは、決してそれは悲しみだけをもたらすものではないということを語ります。
むしろイエス様は明確に死の先にあるものを見据えておられるのです。
それはまさに、ちょっと文脈で読みますと、十一章にはラダロのよみがえりの出来事が書いてあります。
その最中でもイエス様は言われました、十一章の四節に、この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。
このちょっと前には、九章にもありましたね。
この人が目が見えないのは、親が悪いからですか、あの人が悪いからですか。
違う。この病気は、これを通して神の栄光が表されるためである。続いているのです。
病気も、病も、そしてイエス様のこの死という出来事ですから、イエス様は、このことを通して神の栄光が表される。
そのこととして見据えておられるのです。
そして今朝読んでいただいたこの二十三節にありますことは、人の子が栄光を受ける時が来ましたと語るのです。
私たちの周りに心揺さぶられる事柄は多々あるでしょう。
しかし、私たちがキリスト者であるということは、その時、その悲しみの時は、決して悲しみだけでは終わらない。
その事柄を通して、その不安や恐れを通しても、神は栄光を表してくださるという、そのことを覚えるわけです。
改めて今朝は栄光の時と相しましたが、この時がどのような時であるのか。
二十四節を軸にしながら、少しご一緒に御言葉に聞いていきたいと願っています。
栄光の時とは空に籠る時ではない
さて、三つのポイントでお話をいたしますが、第一のポイント、栄光の時それは、空に籠る時ではないということです。
空に籠る時ではないということです。
改めて二十三節にイエス様は、人の子が栄光を受ける時が来ましたと語り始められました。
これまで何度かイエス様は福音書を通して、私の時はまだ来ていません。イエスの時はまだ来ていないということが順序語られるわけですけれども、
ここで、いわばイエス様が栄光を受けられる出来事に入る準備が整ったと言っていいんでしょう。条件が整ったということをここで言っているのです。
どういう条件でしょうか。
おそらくそれは、十二章の最初に書いてある通り、イエス様の十字架が明かしされるべき時である杉越の祭りが始まったということも言えることでしょう。
そしてまた私たちは他の福音書でも見ましたが、イエス様が王としてエルサレムに入場なさった、十二章の前半に書いてあります。
そのことも一つの大きなタイミングでしょう。杉越祭が始まり、王として帰ってこられた。
しかしもう一つ大事なポイントは二十節です。
さて祭りで礼拝のために登ってきた人々の中に、ギリシア人が何人かいた。
この人たちはガリライのベツタイダ出身のピルポのところに来て、「お願いします、イエスにお目にかかりたいのですと頼んだ。」と言うのです。
ギリシア人の方がやってきて、「イエス様と話したい。」と言ってきた。
これは何を意味するかというと、いわばイエス様の福音というものが、
ユダヤ人だけではなくて、ギリシア人をはじめとする異邦人にまで広がったということを意味するのです。
私たちは何度か見てきましたが、当時ユダヤの地方においては、異邦人とユダヤ人の関係というのは水と油でありました。
ユダヤ人はどちらかというと、イスラエルの神を知りながら、マコトの神様を知りながら、
そのネズミを異邦人に分かち合おうとはしなかったということが至る所に書いてあります。
むしろ彼らは高い壁を築いて、イスラエルサリム神殿の壁がまさにそうですが、
私たちは救われた、選ばれた民であって、異邦人はそうではないという壁を築いている時でした。
それだけではありません。
この当時のユダヤ人の姿を表しているのが、11章の47節から50節というところです。
ちょっとだけ読み見せますと、当時のユダヤ人たちの姿が書かれています。
ユダヤ人というか、最高法院の姿ですね。47節から。
最首相たちとパレサエ人たちは最高法院を招集して行った。
我々は何をしているのか、あの者が多くの印を行っているというのに、
あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。
そうなると、ローマ人がやってきて、我々の土地も国民も取り上げてしまうだろう。
しかし彼らのうちの一人でその土地の代替してあるカヤパが言った。
彼らに言った。あなた方は何も分かっていない。
一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないで済む方が、
自分たちにとって得たかということを考えてもいない。
何を言っているのか。
最高法院というのは当時のユダヤ地方の最高権力者たちの通りですけれども、
彼らというのは実はローマと手を結びながら、
実は彼ら自身の中に富が集まってくるようなシステムの中で生きていたんですね。
実はユダヤの民衆から搾取をし、その祝福を肥やしていたわけです。
ですからイエス様に民衆がなびいて言ってですね、
イエスこそ誠のユダヤ人の王だと言ってくると、ローマに目をつけられる。
ローマに目をつけられると、ローマをバックにしている自分たちのこのシステムが壊されるわけですね。
ですから、それが壊されるぐらいならば、イエス一人殺した方がいいじゃないかということを言っているわけです。
ただこれは皮肉にも、この後イエス様がなされる十字架の贖いを
言い表していることであるということは、この後に書いてあることです。
いわば当時のユダヤ人全員とは言いません。
しかしそれを指導していた人たちの中には、神様の祝福も富も、自らを肥やすために閉じ込めているという実情があったということです。
祝福も富も、私が豊かになるためにそれを閉じ込めようという思いがあったというのです。
実はこの12章の24節のイエス様のお言葉というのは、この当時のユダヤ人指導者たちの批判が混じっていると言われます。
いわば誠に誠にあなた方に言います。
一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままです。
本来神様は神の祝福をイスラエルの民を通してですよ。
イスラエルの民を通してユダヤ人だけではなく違法人も含めた全世界に神様の祝福を広げていくためにイスラエルの民を選びました。
教会もそうです。
そのように選ばれている身もかかわらず、一部の人々の祝福を肥やすためにそれが閉じ込められている。
でもそういうものではないんです。
神様の祝福というのはアブラハムとその子孫を通して全世界に流れるはずである。
ユダヤ人たちというのはある種その当時においての使命というのはまさに彼らを通して流されなければならないものがあった。
しかし彼らの現実はそうなっていない。壁を築くもの。
そして私だけが豊かであればこれでいいということを彼らは知ってしまっていた。
無儀がまさに殻にこもり、祝福を内に蓄え続け、自分のことだけを考える。
そこだけ見れば、実に中だけ見るならば実に豊かになっているように見えるわけですけれども、
しかしそれでは一粒のままで祝福は流れることがないのですね。
いわば豊かに見えながら神様の栄光に満ちた使命を果たしているとは言えないのです。
イエス様はここで言われます。
一粒のその無儀は地に落ちて死ななければ豊かに身を結ぶことができない。
死ななければという言葉は当然これはこの後イエス様が通られる柔軟、そして十字架の死のことを指していますけれども、
同時にこれは単純に命が尽きる死ということだけを言っているのではありません。
いわば殻が破られなければということです。
殻が破られなければ。
自分だけが祝福を内に蓄えて、富を自分の内に蓄えて、それだけでなればいいというような殻を脱ぎ捨てなければならない。
むしろユデイ人やイホウ人というあらゆる壁を越え祝福を流し、相手を自分の思い通りに支配しようとするのではなくて、むしろ重荷を担い合いながら使えて生きていくということ。
その歩みこそが実は神様にとっては栄光に満ちた歩みなんだ。
それこそが殻を破られて豊かな身を結ぶものなんだ。
そういうことを語るのです。
なぜなら、神の栄光、神の栄光、それはこの後のイエス様の十字架に表される生き様そのものだからですよ。
神様が栄光、神様がそれを名誉だと思われる生き方は一体何なのか。
それは私たちの罪を引き受けるために神であるお方がご自身を十字架にまで捧げられたそのイエスキリストの歩みこそが神様の栄光なんです。
神様の栄光の歩みなんですね。
そしてそのような死、そのような殻を破られた生き方は身を結ぶものになっていく。
そのように語るのです。
なので二つ目のポイント、改めてこの24節の歌詞を見るときに私たちは見なきゃいけないのは
身を結ぶための死
身を結ぶために私たちは、ちょっと極端な表現になるかもしれませんが、死ななければならないということです。
身を結ぶために私たちは死ぬときである。
イエス様はここで言われます。
24節に、しかし死ぬなら豊かな身を結びますと言われるのですね。
固い殻に守られている麦が、まさに土という暗闇に落ちながら頑固な殻が割られて、
それは言葉を変えるならば、自分というものが崩されていくときにこそ実は身というのは新しい命を表されていく。
最初に少し申し上げましたが、私たちは今日一死なテロさんと話していたんですが、
みんな互いに毎年年を取りますよねって話をしながら思います。
私たちは年を重ねていきます。
時にその中で衰えを感じます。
そして以前の自分ではなくなっていくということへの恐れを覚えるときがあります。
終わりというものへの衰退の悲しみ。
イエス様が私の心は騒いでいるという心境になられた。
私たちもそういうことはあるでしょう。
しかしそうであっても、終わりへと向かう歩みは悲しみだけでは終わらないと言われるのは、
むしろそれが神様がその私たちが終わりへ向かっていくその衰えの中に、
その自分が崩されていくその時の中に、
むしろ神様が私自身という固い殻を優しく割りながら、
内に秘められた本当の私、神の形としての私の輝きを外に出そうとしておられるときにも、
私たちは捉えることができるのではないでしょうか。
恵みの時であるとも言えると思うのです。
私たちが実は様々な弱さであったり、できたことができなくなっていくというその最中もまた、
恵みの時であるとも言えると思う。
弱さを得ていく中で、自分の殻が私たちは裂けていく。
その殻の裂け目にこそ、私たちはあらゆるものを、殻が割られなければ気づけないものに気づいていく。
命は自分のものではない。
神様からの賜物であるのだなという事実であったり、
だからこそ生かされている今、この命は蓄えるためだけにあるものではなくて、
むしろ分かち合われるために神様に与えられている命である、保たれている命であるという事を、
私たちは開かれていくのではないでしょうか。
そして神様の栄光がこの人に輝いていくという事があると思うのです。
最近その事を強く思わされたのが一つ、ご存知の方もいらっしゃるでしょうか。
甲の進む先生、川の進む先生ですかね、という先生、牧師先生がいらっしゃいまして、
その先生の詩集を最近一つ手に取ってたまたま読んだんですね。
雑巾という詩集なんですけれども。
実はこの川の先生というのはもう召された牧師先生、日記の牧師先生ですけれども、
この先生自身が実は人生で様々な病を得ました。
20代で当時不治の病と言われた血核に侵されて長い療養生活を送られます。
そして死の恐怖の中で先生はすごく怄悶しながら悩みながら、
病気は神様からの招待状であると受け止めるに至るようになってきました。
そしてそこから実は健康な時には聞こえなかった神様のひそやかな声、
人の心の痛み、そういうものが病の苦しみを通して初めて聞こえたというのです。
そのような思いを綴った詩が有名な詩なのでご存知かもしれませんが、
やまなければという詩があります。ちょっと上見しますがこういう詩です。
やまなければ捧げ得ない悔い改めの祈りがあり
やまなければ聞き得ない救いの御言葉があり
やまなければ追い得ない恵みの十字架があり
やまなければ信じ得ない癒しの奇跡があり
やまなければ受け得ないいたわりの愛があり
やまなければ近づき得ない清い聖談があり
やまなければ仰ぎ得ない輝く御顔がある
おお、やまなければ人間でさえあり得なかった
そういう詩があります。
やまなければ、やまなければと、私は最後の一節にすごく心を揺さぶられます。
おお、やまなければ人間でさえあり得なかった
病や衰えや弱さというものを得るときに私たちは本当に嫌になります。
しかし、それを通してもたらされるものが格も豊かにあるということを明かしされる。
いわばそのような中で、弱さを通して、病を通してもたらされる
自分に死ぬというその殻を割る日々。
その中で、ああ、こんなものがあったんだということにあらためて目が開かれていく。
病や弱さというのは受け入れがたいものであることは変わりません。
しかし同時に、神というお方はそれをも賜物として、神様は本来の人間の姿へ私たちを回復させてくださる。
その時に私たちは確かに嫌な思いもするけれども、知っていくこともあるんです。
ああ、やまなければです。
神に近づき、隣人の心の痛みを知るものとしてくださる。
この24節の言葉を受けた私たちは、イエス様の十字架の死もそうなのですが、
しかし同時に私たちに当てはめたい。
私たちもまた、今この時が神様によって備えられた、いわば殻が割られていく恵みのひとときなのではないだろうか。
その中で知ることは実に豊かである。
最高の栄光の時は主が引き寄せてくださる
そして最後に、最高の栄光の時には主が引き寄せてくださるということです。
三つ目のポイント、最高の栄光の時には主が引き寄せてくださるということです。
イエス様はここから十字架の死へと向かって行かれます。
十字架というものは最もイエス様が下られた場所です。
神であるお方が最も下まで下られた場所です。
最も屈辱的で呪いのるつぼのようなそのような場所です。
しかしそれが全ての人を救えと引き寄せる誠の王の大冠式になったということは以前どこかでお話をいたしました。
イエス様は復活し天に昇られ、イエス様は神の右に挫されて世界の王としての支配を始められます。
そのことが十二章の31節から32節に変えてある。
ちょっとお読みしますがこういう言葉です。
今この世に対する裁きが行われ、今この世を支配する者が追い出されます。
私が地上から挙げられる時、私は全ての人を自分のもとに引き寄せますとイエス様は語られます。
引き寄せますと。
主が挙げられる時、いままイエス様が天の王座に着打される時にこの世の支配者は追い出されます。
ですから十三章以降は悪魔とサタンがすごく活躍するんです。活躍するんですよ。
しかしイエスは天に昇られ王となれます。
そして全ての人を引き寄せると言われるのです。
引き寄せるというこの言葉は猟師が重い網を力いっぱい手繰り寄せる動作を表す動詞と一緒です。
全ての人を引き寄せる。
それほどの力強い神の身力によって力強い愛によってイエス様をご自身のもとへ一人一人を引き寄せて下さる。
私たちの人生の終わりの時、自分の足で立てなくなるその時に復活の主が私たちを担い力強い身手をもって私たちを神の光の中へご自身のところへと力強く引き寄せて下さい。
そう語られているのです。
私たちが今朝招かれていることはこの約束を信じながら生き抜くことです。
生き抜くことです。
一粒の麦となってご自身を与え抜かれて下り抜かれて生き抜いたイエス様そのように、
あらゆる弱さや痛みのその最中にあってしかし殻を剥かれながら命の意味、私が生きている意味を見つめながら、そしてご自身を十字架にまで与え抜かれたイエス様の生き様を仰ぎながら、
私たちはこの今生かされている命を最後まで生き抜くようにと招かれている。
しかしそのイエス様の生き様に倣う歩みこそが神の栄光が表されるのです。
主は素晴らしいということが表されていく。
もう終わりますがイエス様は言われました。
今私の心は騒いでいる。
私たちの心は当然騒いで良いので騒ぎます。
しかしイエス様があの十字架において栄光を表して、そして全くその栄光は何かというと死が敗北では終わらなかった。
神の御力によってイエスキリストは死に勝利されて復活へと至った。
主は世界の王となられた。
そのような主が初歩としてその死を突き抜けてくださったから、私たちの終わりはもはや冷たい墓ではないのです。
私たちの終わりは温かな神の懐の中に変わったと聖書は約束するのです。
だからこそ私たちは最後まで生き抜きましょう。
終わりじゃないのです。続いていくのです。
そして本当の栄光は私たちが主の御手に完全に引き寄せられる瞬間にあります。
主が私たちを引き寄せてくださる。
一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままです。
しかし死ぬなら豊かな実を結びます。
私たち自身も、私自身が一番そうですけれども固いなと自分で思います。
でも破られつつ破られつつ、本当に主が生きておられる主の素晴らしさってこういうことなんだということを味わいながら、
最後の時まで私たちの人生の強さも、私たちの人生の弱さや痛みをも用いて、
主は身を結ばせてくださるという事実に目をとめながらご一緒に進んでいきたいと願っております。
一言お祈りをいたします。