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2020-03-22 28:19

2020/03/22:わたしたちが信じて、告白すること(6)天に昇られて、とりなしておられるイエス

2020/03/22 聖日礼拝

尹善鎬牧師

使徒の働き 1:9-10, ヘブル人への手紙


00:01
みなさん、ありがとうございます。今日も守られて、この世に一緒に礼拝できますことを感謝いたします。
今、わたしたちが信じて、告白することについてのシリーズメッセージ6回目です。
今日は、天に昇られて、とりなしておられるイエス様、天に昇られて、とりなしておられるイエス様、この部分について一緒に学んで、
私たちが何を信じて、告白しているのか、確かめたいと思います。
まず、この部分の告白部分を見ていきましょう。
天に昇られた主は、シリストの日に至るまで、わたしたちのために、とりなしておられます。
短い告白部分ですが、ここには実は3つのことが書かれていて、私たちはそれを告白しているわけです。
天に昇られた主、これが1つ目です。イエス様は、天に昇られたことを、私たちは信じて、告白しています。
もう1つは、シリストの日に至るまでとあります。
シリストの日は、祭りの日です。
ですから、イエス様が再び、この地上においでになること、その日が来ることを、私たちは信じて、告白しています。
3つ目は、その天に昇られたイエス様は、神の右の座についておられて、
そしてそこで、私たちのために、とりなしておられることを、私たちは信じて、告白しています。
この3つがここにありますが、祭りのことは、来世にしまして、
今日は天に昇られて、イエス様がそこで、私たちのために、とりなしておられるということに、その部分を学んでいきたいと思います。
この信仰告白文、人信条もそうですし、
どれも、聖徒、ヒリスト教、特にプロテスタントの告白文の中には、
イエス様に対する信仰告白は、イエス様の生涯と深い関係があります。
イエス様の誕生、それからイエス様の死、それからイエス様の復活、
それからイエス様の昇天、それからイエス様の祭り、
この5つが、イエス様に対する私たちの信仰告白において、大事なポイントなんですね。
誕生、復活、昇天、祭り。
03:02
そこで、今私たちが、この教団の信仰告白文の中で、
イエス様に対する私たちが何を信じて告白しているのか、
これをとても簡単にまとめさせていただきましたので、ちょっと見ていきましょう。
1番、イエス様は神様であることを私たちは信じて告白しています。
2番、イエス様が人となられたこと、人間としてこの地上でお生まれになったことを信じて告白します。
3番、イエス様がこの地上に生まれた時、その時はイエス様は完全な神であり、
完全な人であったことを私たちは信じて告白します。
4番、イエス様は十字架で死なれたこと、
5番、イエス様はその十字架の死というものは救い主として私たちのために死なれたこと、
6番、イエス様は三日後によみがえられたこと、
7番、イエス様は天に登られたこと、
8番、イエス様は私たちのために取り成しておられること、
9番、イエス様は再びこの地に来られること、
これを私たちは信じて告白するわけです。
さあ、その中で今日はイエス様が天に登られたこと、そしてそこで取り成しておられること、
これについて特にイエス様が天に登られたことが、
私たちの信仰生活や我々の人生にどういう意味があるのかを見ていきたいと思います。
イエス様は十字架で死なれて、三日目によみがえられて、そして四十日後、天に登られました。
それを今日読んでいただきましたように、
ルカの訓示を書いたルカは人の働きも書き続いて、
そこでイエス様が天に登られたあの光景を誰よりも詳しく書いているわけです。
それが今日、人の働きの一挙、九節と十節なんです。
九節だけ私がお読みしますね。
こう言ってからイエスは彼らが見ている間、彼らはイエス様の弟子ですね、他の訓示士、
間に上げられ雲に包まれて見えなくなられたと。
06:04
もうそのだけではなくですね、ユハニノ訓示書14章2節を見ると、
イエス様は修行におられるときに弟子たちにおじいちゃんが天に登られることを既に前もって予告しておられたんですね。
まことにまことにあなた方につけます。
私を信じる者は私の行う業を行い、またそれよりもさらに大きな業を行い、私が父のもとに行くからです。
天に登られることをイエス様は弟子たちに語られました。
さあ、ではこのイエス様の教典を信じるということはどういう意味があるんでしょうか。
まず第一、それはイエス様が天に登られたことはですね、
それはイエス様は神様であり、そしてそのイエス様は神として全宇宙的な御支配を持っておられることということなんです。
イエス様が天に登られたということは、イエス様はただの人間でもなく、ただの仏像でもなく、まことの全能の神であること。
それを私たちは信じて告白しているわけです。
そしてイエス様が天に登られたということは、イエス様は万佑の主として、王の王として、まことの支配者として、その座に戻られたということなんです。
人の働きにも告白しているように、イエス様は今どこにおられますか。
全能の父なる神の右に座っておられます。
神の右の座に出しておられて、そしてそこで全ての権威と権制を持って、まことの支配者として全てを治めておられることを、私たちはそれを信じて告白するわけです。
同時にイエス様は王の王、主の主として、全ての国を、全ての教会を術を治めておられること、その民を守っておられることを、それを私たちは信じて告白しているわけです。
それがエペソービスへの手紙、1章20節を見ていきたいと思います。
ここを見ると、神はその全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中から蘇らせ、その次、天上において御自分の右の座につかせて、その次、
09:19
全ての支配、権威、権力、主権の上に、また今の世ばかりでなく、次に来る世においても、全ての名の上に高く置かれました。
それから22節、神は一切のものをキリストの足の下に従わせ、一切のものの上に、かつ頭であるキリスト教会にお当たりになりました。
ここに21節に、全ての支配、権威、権力、主権を持っておられるということである。
それから、第1ペテロ、22節にはこうあります。
キリストは天に上り、身使いたし、および諸々の権威と権力を従えて、神の右の座におられます。
ペペロ使徒も、それから使徒パウロも、イエス様は天に上られた。
それは、支配の権威者として、王の王として、主の主として、そこに戻られて、そしてその全ての権威、権力、支配を持って、この宇宙を、世界を、国々を、王たちを治めておられる主が、私たちの主、イエス様であるということです。
だから皆さん、イエス様が天に上られて、虜しておられることを含めて、全てを治めておられる、誠の唯一の支配者であられることを信じるということ、そこには、渡先への大きな力、励まし、恵みがそこにあるのではないでしょうか。
だから渡先は実は、心配することも、恐れることも、動揺することも、実はないです。
イエス様が、王たちを、国たちを、世界を、治めておられるからなんです。
目には見えませんが、その救い主である王の王、主の主が、天におられて、全てを治めておられるという権威を持つ者には、恐れることはない。
12:05
主が私たちを守ってくださる、教会を守ってくださるということなんです。
そして、その方は、悪を裁かれ、義のものを、正しいものを守って救われることを信じるわけです。
イエス様の裁きと支配は、完全なものであります。
だから、揺り起こされる必要はない。
荒地の中にあっても、平穏にいられるということであります。
確かに今、新型コロナウイルスの影響で、全世界がパニック状態であります。
確か日本だけは、普通におとんぼりに、東京にも、人々はマスクもなしで、普通に歩いても、普通に暮らしているのがいいかどうかは別として、
多くの死亡者が出ている中、海外に出ることが禁止されている中、他の国では集会ができなくなっている、
アメリカでも10人以上の集会はするなみたいに、強い勧告が発布されている状況の中に、
私たちは神のところを全部知ることはできませんが、究極的に確実なことはあります。
これは、全能の神、マコトの支配者であるイエス・キリストを信じる者には、救われた者には、
たとえこの地上で患難にあっても苦しみにあっても、やがては苦しむことも痛むことも苦しむこともない魂と身体をもって主がよみがえらせてくださること、
そして、永遠に主のもとで、主を礼拝して、新つけんと新しで、主と共に、兄弟姉妹で共に生きることを、私たちは信じてまずに保存しているということであります。
そして、全ては神の御手にあるわけなんです。
災いも、地区も、善も悪も、全て全能なるこの宇宙万物を救われた神様の主権の中にあるということを、イエス様の頂点を信じるということは、こういうことを信じるということであります。
二番目、イエス様の頂点を信じるということは、イエス様が天におられますけれども、でもイエス様は、おられないことがないということ、偏在性と言いますけれども、どこにもおられるということであります。
15:19
確かにね、あの二千年前のヘテラ達のようにイエス様の体を経験できませんが、でも天に登られてイエス様がね、この地ではもううんざりで大変だから天に逃げられたわけではないんです。
どこにもおられる。そして世の終わりまで一緒にいてくださるということなんです。そして神の右の座についておられて、そこで王の王として治めておられるということであります。
そのイエス様は、優しく神の霊である聖霊様を我々のために使い出してくださったんです。それがね、ヨハネノクイーション14章16節です。イエス様はね、こう言われました。
私は父にお願いします。そうすれば父はもう一人の助け主を、このもう一人の助け主が聖霊様。まあイエス様がそもそも助け主なんです。
そしてもう一人の助け主を私が天に行ったら神様にお願いして神様が助け主をあなた方に使わせてくださるようにするんですね。その助け主がいつまでもあなた方と共におられるためにです。
今はどうですか。イエス様は聖霊様としてもう天に行ったように、最初に学びましたように、聖霊様として神の霊として助け主として一緒に行ってくださるんです。いつまでも一緒に行ってくださるんです。
その聖霊様が助け主だから助けてくださるんです。この日本語の訳の助け主という言葉は修法者という意味もありましたし、弁護者という意味もありましたし、またカウンセラーという意味もあるんです。
とても豊富な意味を持つ言葉だから助け主だけでは実は足らないんです。とても足らない意味なんですけれども。助け主、慰め主、弁護者、カウンセラーという意味がある言葉なんです。不思議な言葉なんです。
その方として一緒に行ってくださるんです。だからイエス様の体はこの地上にないんだけれども、御霊として私たちを助けてくださるんです。どんな嵐があっても、どんな災いがあっても御霊様が助けてくださるんです。
18:14
二つ目、その御霊様は私たちを慰めてくださるんです。人より、どんな本より、どんな番組より、どんなにものより本当の偉大な慰めは聖霊様から来るんです。だから皆さん私たちが慰めを聖霊様に求めてイエス様にいただくことだけが真の本当の慰めなんです。人よりなんです。
三つ目は弁護様です。後でも話しますけれども、弁護してくださるんです。本当の真の弁護というのは聖霊様なんです。特に悪魔サタンの訴えに対する弁護を全部かばしてくださるんです。
六つ目は、カウンセラーで相談してください。悩みを、涙を、心配を、聖霊様が相談に乗ってくださるんです。
実はこの聖霊様とこのイエス様と深い交わりの中に入っていけば、人に相談する必要は実は無いんです。人に慰めを求める必要は実は無くなるんですよ。
そんなことができるんですか?いや、それは、なぜそういうふうに思うのか。その本当のお慰め、本当の癒し、本当のカウンセラーを聖霊様、イエス様に受けたならば、ある意味で人のカウンセラーや相談は二の次、三の次、後々になるんです。
その経験が無いから、聖霊様よりイエス様より人を求めるんです。この人に私の話を聞いてもらう、あの人に私の話を聞いてもらう、聞いてもらったら嬉しい、聞いてもらわなかったらうかつく、みたいになるんです。
まずは聖霊様、まずはイエス様に、そこで照合しなければならないんです。だからあの人は、実は寂しくないんです、実はつらくないんです。
聖霊様が、まことの唯一の助け主、弁護師、カウンセラー、慰め主なんです。神様が送ってくれるんです。神の霊なんだから。
誰よりも私たちのことをよく知っていてくださるんです。先のことも知っていてくださるんです。人はね、ああそうなんだ、大変だね、つらかったね、でもその人はね、相談をしてくれても、私の五分先のことはその人は知っている。
21:04
命はくれるんですけど、ありがたい存在なんだけれども、五分先のこと、一年前のこと、後のことは誰も知らない。私も知らない。聖霊様をご存じない。
その聖霊様を通して一緒にどこまでも、いつまでもいてくださることが、我々が、イエス様が、剣に登られたことを信じる告白の中に、私たちは信じて告白しているわけなんです。
だから、そんな方はいらっしゃらないですけれどもね、ポリノオウムのように、使徒心霊告白の部分をね、そらそらそらそら覚えていても、その恵みを、その経験を、慰めを、本当に経験する信者であると。
三つ目、イエス様の聖剣を信じるということは、イエス様がいつも剣において、私たちのために取り成しておられるということなんです。
さあ、それがね、ヘブルビテの説に、7章25節、今日の課題ですが、そこにはっきりと書かれています。
したがって、ご自分によって、神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。
キリストはいつも生きていて、彼らのために、彼らは私たちですね、皆さんなんです。
私たちのために何をしておられますか?取り成しをしておられるんです。
天において、イエス様が完全な救い主、王の主の主、すべてを知っておられ、すべてを納められる、そのイエス様が私たちのために取り成しをしておられる。
これほど心強い保証がどこにあるのでしょう。
この取り成しという意味を、ヨハネはね、第一ヨハネの手紙2章1節には、こういうふうに教えています。
さあ、そこも見ていきましょう。
もし誰かが罪を犯すことがあれば、私たちには、道地の前で弁護する方がいます。
偽なるイエス・キリストです。
ここにね、弁護をするという言葉がありますよね。
この弁護をする、これが取り成しをする、あるいは先の助け主の助けの言語のね、この意味と同じ意味なんです。
イエス様は、天において、皆さんのために弁護してください。
24:04
この弁護は確実な弁護であって、完璧な弁護です。
特に、この弁護をする方の、この第一ヨハネの2章の1節の意味は、
もし誰かが罪を犯すことがあれば、私たちが何かを罪を犯します。
それで、信者だから、神の前に当然、食いあがりをするわけなんですね。
神様、こんな罪を犯して、お許しください。
十字架の実用によって、私の罪を許してくださいとね、神様に祈るんですよね。
その時にイエス様の大事な役割がある。弁護ってください。
イエス様が神様に、こう言うんです。
お父さん、神様、この者の罪を許してください。
私が十字架で、この者のために、その罪の代価を払って、私が死にましたから。
私の十字架の実用によって、この者の罪を許してくださいと、イエス様が弁護してくださる。
悪魔はどうですか?私は訴えるんです。神様に訴えるんです。
神様、この者は賢者なのに、こんな罪を犯して、よくも犯しているんです。
それでも、あなたの子供でした。訴えるんです。
しかし、イエス様は弁護しているんです。
私が罪を犯したから、私が罪を流したから、神様、この者の罪を許してください。
表現してくださいとね、弁護してください。
それがイエス様なんです。
私は、この地上においては、罪を犯し得る、そういうものなんです。
罪を犯すことがあるんです。誘惑に負けてしまう時があるんです。
その時に、私たちがとるべき姿勢は、罪を犯して、食い荒らされたにも関わらず、
ずっと、ずっと、罪につけというか、罪悪に捕らえられて、苦しんで、自分を責めて、責めて、責めて、責めて、生きたらいいんですよ。
そうではないんです。
サタンはそういうふうに訴えるんですよ。もう信仰やめろ、みたいな。
しかしイエス様は、私が罪を犯したから、神様を許してください、表現してください、憐れんでくださいと、弁護してくださるんですよ。
だから私たちは、あそこの悔いを聞くんじゃなくてね、イエス様の弁護を信じるわけなんです。
27:03
だから、そのイエス様の弁護、神の許しによって、イエス様の従来の父親の許しによって、
私たちは誠に食い荒らされたならば、その罪から解放されるんです。自由にされるんですよ。
それが福音なんです。
我々はそれを信じて、告白するわけなんです。
なぜでしょうか。イエス様が天において、鳥なじをしておられました。
何という大きな恵みなんでしょうか。
メッセージを終わりにしたいと思います。
イエス様は神様であられました。十字架で死なれて、二日目に蘇られました。
天に登られて、神の右に出しておられました。
全宇宙を、国々を、人々を、歴史を収めておられました。
そしてそこで、私たちのために鳥なじをしておられました。
これを私たちは信じて告白します。
この信仰をもって、道道の信仰をもって、イエス様に従ってまいりましょう。
お祈り致します。
28:19

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