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2017-11-05 46:37

2017/11/05:信仰、希望、愛の実を結ぶ教会

2017/11/05 聖日礼拝

斎藤亘師

コロサイ人への手紙 1:1-8


00:00
このフレーズから、学んだ通りのものです。
彼は、私たちに代わって使えている忠実なキリストの使い人であって、
私たちに、御霊によるあなた方の愛を知らせて下さいました。
以上です。
本庁は、斉藤先生より、信仰、希望、愛の実を結ぶ教会と題しまして、メッセージをしていただきます。
おはようございます。
ユン先生が、先週は、六甲緑教会でしたか、三田福音でしたかね、そちらの特別伝道、礼拝の御用で、中川先生が御用をなさる。
今週は、さらに、富山の末路教会、そちらの方で通訳とか、いろんな報酬をなさるということで、今、そちらに行っておられます。
奥さんも一緒なんでしょうかね。
一人でした。
そういうセミナーは、ご夫婦がいつも行っておりますから、そうかなと思っておりましたけれども、
そういうことで、私にその後の礼拝、説教と、それから、清算式をするようにということを依頼を受けました。
どうぞお祈りください。
それでは、一言お祈りをいたしまして、そして二言を開いてまいりましょう。
恵み深い御財天皇地なる神様、こうして穏やかなこの聖日の朝を私たちにお渡しくださり、
私たちは共に、それぞれのところからここに集い、あなたを礼拝する恵みをいただいておりますから、ありがとうございます。
二週間にわたって、思いもしない台風で、礼拝に来ることもままならないような状況にありましたが、
あなたはこの地を守り、またお一人びとりの生活を守って、今朝このようにして穏やかな聖なる日をお与えくださいました。
どうぞ今朝、私たちに新たな御事をお渡しくださり、また私たちはこの御言葉によって迎える一週間を、
またこれからの愛みを進めていくことができるように、一生どうぞ導いてください。
草においてのその御推しにあたっておられるユン先生の上に、またはその他の参加者の上に、あなたの人からの恵みをあらわしてください。
03:11
我らの衆の皆を通して、御前にこの祈りを捧げたします。
私も、第一回の末路教会においての、当時はまだG&Gという教会成長という名称を使わずに、
地元の、地元というよりも、韓国国内で開拓伝道や、そういう地方で伝道をなさっている、そういった先生方と、
そして日本から10名ほどでしょうかね、参加しまして、私もそこに加えられて、第一回の末路に出てまいりました。
以来何回か、世の教会での通称、G&Gと言われておりますが、教会成長セミナーに加えられて、大変新たな目を開かれて感謝して、今もそのめぐみの中におります。
私は、そういうセミナーや、あるいは、今はこうして直接の博会から離れておりますけれども、教会で使われておりましたときに、
いつも心にあるのは、どういう教会が素晴らしいんだろうかという、そういう思いをいつも持っておりました。
そういう中で、改めてこの殺され人への手紙を読んでまいりますと、これが一つの目指す私たちの教会の姿だな、ということを改めて教えられるわけですね。
パオロと殺されの教会というのは、ペソとか、あるいはその他のピリピ、あるいはピレムもそうですが、それぞれ深いつながりがあって、
そういう中からパオロはそれぞれの手紙を書いて、そして今日に残っているわけであります。
ですから、どの箇所にもパオロとのそういうつながりが、こういう形でもって教会は作られ、そして今日に浸っているんだなということが伺いし得ることができるわけです。
この際の教会というのも、そういう点で読んでまいりますと、同じようにこのパオロが手紙を書いて、そして海、砂崎敷だ、そういう教会かなという、そういうつながりを感じるんですけどね。
06:00
ところが、そういう直接的にパオロが殺されに行って、そして伝道して、そしてそこからクリシアンが生まれ、殺されの教会ができたという、そうではないみたいなんですね。
ご存知のようにこの殺されに行ったような手紙、その前のピリピ、あるいはエペソ、また後に出てくるこのピレモンというのは、これはパオロが囚われの人となって、そしてローマの極中でそれぞれの教会に書き送った手紙。
極中書館。私が教会に行った頃、優秀書館、優秀書館というものですから、優秀なんだなと思って、ただ聞いた、そういう理解でしかなかったんですけれども、優秀書館ではありますよね。
けれども、遊兵された囚われ人として、その中で書いた手紙というのが、優秀書館と呼ばれる一冊です。最近はそういう優秀という言葉があまり使われませんから、極中書館。
僕に囚われとった時に、それぞれのこの教会の様子を聞き、時には感謝しながら、時にはそういう問題どうしてるんだろうかなということを思いながら、彼は行くことはできませんけれども、こういう素晴らしい手紙を書き送って、そして文書によってその教会の形成に携わってきた。
それがエペソの教会であり、その前のフィリピンの教会でもあったわけですね。この際の教会は申し上げたように、そういう直接的なつながりはなかった。
しかし、つながりはなかったんですけれども、他の書館と、やっぱりそういう関係でしかなかったかというと、そうではない、もっとより濃密な関係の中でもって生まれた教会と言ってもいいし。
それからパウロは伝え聞く、この頃際に生まれたこの若い教会が、本当にどうしてこんな風に育っているんだろうかというぐらいに、彼は聞くにあたって大変感謝している。
それがこの出だしの三節ですね。私たちはいつもあなた方のために祈り、私たちの死を癒やすキリストの父なる神に感謝しています。それは、と言って始まるわけです。
09:01
あなた方の教会、あなた方一人一人のことを思うと、本当に感謝なんだ。なぜかならば、イエス・キリストに対するあなた方の信仰と、そしてこの教会同士の、そういうあなた方の惜しみない愛と、そしてあなた方のそういう中から培ってきたこの希望というものを、
あなた方はよくもそういうものをしっかりと握って、そしてそういう中でこの頃際においてのこの教会形成の中にあなた方が用いられているということを聞くと、本当に感謝だ。できたら一度行って会って直接そういう話を、言葉を交わしたいというのは、そういう中にあると思うんですよ。
で、私は、パウロも、このようにこの頃際教会、また今後も見る機会が与えられるかどうかわからないけれども、今は現実に自分は捉えられている。
行ってみたいという思いはあるけれども、しかしそういう物理的にはもうそちらまで行くことはできないけれども、しかしそうではなくても、あなた方のその教会の様子、あなた方一人一人のことを聞くと、本当に感謝だ。よくぞそこまで成長してくれたというのがこの出だしなんですね。
そんなにまでパウロにとっての喜びの教会、あるいは誇りにしたいようなそういう教会、パウロはそういうことは使っておりませんけれども、しかしそういう思いでもってそこに書いています。
この私たちの日本もそうですが、こういう信仰、愛、希望という、パウロはこういう言葉をそれぞれの教会に書き送っておりますよ。
中でもコリン島第一の手紙の13章の最後の言葉はそういう言葉ですよね。彼は教会が生まれ成長していくそういう中で、このことは、あなた方がしっかり立っているそのことは、教会がこれから成長していくにあたってはもうこれは欠かせないベースなんだという、そういう意味合いを込めて言っている。
この際もアジア州の中にある、そういう地方の教会です。そしてまたペストと同様にそういう偶像が多くある、そういう環境ですね。
そういう中でもって、いろんな教えが混乱するようにして、あるいは混ざわすようにしてある中でもって、この信仰と愛と希望をしっかり持っているということは、このことがあなた方のこれからのためにどんなに大切なことか。
12:24
私は自分自身に当てはめて、ここを読みながら考えたんですが、私も家に神棚があり、それから仏壇があるという、それだけじゃない、いろんなところにですね、やはり日本古来のいろんな神々とされているものが、
仏壇になって、そして父親なんかされて、こうやっているわけですね。だからいろんなところに神様が住んでいる。こんなにまでたくさんの神様が家におるんだなという、八百万の神々というんですから、そうなんですけどね。
台所には火の神っていってですね、なんかこっちの方にどっかそういう神社がありますけども、そういうこの仏壇がありますしね。二階の、なんでしょうかね、そういうところに行きますと、七福神の祭ってありますしね。
トイレに行っても、なんか歌になりましたかね、あのトイレの神様っていう。歌詞はわかりませんけれども、聞いただけの話ですが、そういうのだったらうちにもあったなというようなことでもって、歌の内容とはちょっと違うんでしょうけどもね、そういう神。
そういう神々とかいろんな祀られている、そういうところから、私の経験ですけどね、こういう信仰とかね、愛とか希望なんていう、そういう言葉は一度も聞いたことがない。
火の神様を大切にして守ってたらば火事にならないんだっていう、そういうことでしょうかね。あるいは七福神は確かにそれなりの私たちに無病息災、いろんなそういったものを与えてくれるっていうことはなんとなく教えてもらっておりましたし、また裏庭にお稲荷さんが祀ってある、そういうありますよね。
お祭りとか何かあると、お稲荷さんのところへ渡り持ってけって言われてですね、こういう大福だとか、大福かなかったかな、おはぎとか、石矢とかなんかそういったものを届けておりましたよ。
15:00
まあ届けるというか、お捧げにしてこいと言われて、それで持って行ったりする。だけどそういう中でもってこういう言葉はやはり一度も聞いたことがない。
おそらくこの際の人々もね、いろんな宗教神々がそこにあったでしょうけれども、しかし、彼らをまたこういうことを耳にする。
あるいはそういうことでもって自分が本当、いやそういうものなのかということで経験するというのは、おそらくこの福音に接して、そこからこの言葉が、あるいはそういうこの恵みというものを経験したと言ってもいい。
というのは、この六説、この福音は、この四説でもって、キリスト、イエスに対してのあなた方の信仰と、すべての聖徒に対してのあなた方が抱いている愛のことを聞いたからです。
それらはあなた方のために、天に蓄えられているある望みに基づくものです。このようにパオロは、コロサイ教会の健全なそういう信仰、あるいはお互いの関係の愛に満ちた、そういう中でもって、少数ではあってもしかししっかりとそれに根付いてやっている。
これはね、あなた方が神の恵みを聞き、というこの六説と書いてあります。それを本当に理解したとき以来、あなた方の間でも見られる通りの勢いをもって、世界中で身を結び、広がり続けています福音はそのようにして、あなた方に届いた。
この福音があなたが届いたときに、あなた方はその福音という、このキリストの救いというところから本当の信仰に目覚めた。
イエス様を知ったときに、ただ自分とイエス様という関係じゃなくて、そういう自分の周囲の人々に対する愛というものをそこに持って持つようになり、しかも私たちはそういうものを基にとしながら、天に望みを持つ地上のことばかりじゃない。それも大切かもわからない責任があるから。
けれどもしかし、天に望みを持つことを通して私たちは、地上においての責任というものを果たすようになっていく。これらは皆、ここのイエスキリストを信じる福音というそのものから私たちを受けたんだ。
18:00
皆さん方はどうでしょうか。そういう意味でお互いまたね、本当に聖書に接してみて、あるいは教会であるいはイエスキリストを信じてみて、そういうところから人工希望愛という言葉も知り、またその中身の豊かさを私たちはそれぞれに経験してきている。
この教会はね、そういう教会として今生まれ育ってきている。そのことを聞くと、なんと素晴らしい教会かと言って、パウロはこの教会のことをまずそこに素晴らしい評価をずっと与えているわけですね。
私は人の働きの、こう読んでいきますと、ペトロたちによってこの福音があのエルサルビに来ているところのすべての人たちに伝えられた。
彼らの中にはそれぞれのですね、いろんな宗教あるいは宗観にとらわれて、そしてそういう中で、とにかくエルサに行こうと言って、このエルサ連盟でしてきたそういった人々ですよね。何年ぶりかで来たとか、初めて来たとか、そういった人たちがエルサ連盟でも出会ってきた。
その人たちにペトロたちは、ついこの間このエルサ連盟で起きたこの出来事を伝えた。そのことを聞いた人々の中から、そんなことがあったのか、しかしそのことを通して私たちにそういう救いが与えられたのかということを聞いたときに、
彼らがそこで持って、3000人とか2000人とか続いてですね、そういった大勢の人々のイエスキストを信じ始めて、そしてその中に加えられてきた。前にも話したことがありますけれどもね、120名ばかりの人々の中にですね、3000人の人が加わったらどうなりますかね。
それまでの教会に一体どこに行っちゃったんだろうか。探すのに人を殺す、そういう苦労してみたいなと思うんですけれども、そういうことになったんじゃないかなと。一度にそういった人々がペトロたちの説教を通して、私も信じたい、私も自由をお詫びして、そしてバプテストも受けたいと言って、もう次々とやってきたんでしょう。
私は今、ユン先生が行かれておりますスウェーデン教会で、私たちの教会での感覚から言うとですね、初めて来られたとか、あるいは前から来られた方でも、ほとんどそこで持って知り合いになりますよね。
21:13
ですから、あの人の顔が見えてないなって言ったら、どうしたんだろうかっていう、そういう気配りと言いましょうか、それが当然のように生まれてまいります。
ところがスウェーデン教会のことを思うと、実はユン先生として30人ほどでしたかね、平方を中心にということで来ましたけれども、そんな収容量がありませんから、北大阪教会とか西宮とか、いくつかの教会に分けて、そしてそういう彼らの奉仕を得て、夏の暑い時期ですけれども、ありまして。
それから赤橋人丸教会に行った時には、極人のサンビチームがありますね、あそこには。あんた知らん?
あのね、30人ぐらいかな、とにかく見えたんですよ。クリスマスの直前の忙しい時にね。
で、これもまた、いくつかの教会と一緒に迎えて、クリスマスのそういう時期を持ちましたけれども。
当然、私の日本における教会の感覚から言うと、じゃあ夏に来た人たちのこと知ってんだろう、あの人たち今元気ですかって聞いたら、みんなどうでしょうかね、話が通じないんですね。
2万人、3万人という、しかも一日に何回も礼拝する中でもって、自分が出席している礼拝の同じ時間だったら、あれは少し名詞が生まれるか分かりませんけれども、
私はいつも第二礼拝に行っておりますとか、第四礼拝に行ってますとか言ったら、もう横のつながりが全くないんでしょうね。
日本人の牧師の私には、それは考えられないですね。
なんでそんな教会の交わりが浅いのかな、と。しかしそれは言ってみて分かりましたよね。
確かにこれじゃ人の顔を見たって覚えられないだろうなと、そんな思いもしますよね。
そういう様子がね、私はこの当時の最初の教会の場合には、当然のようにあったんじゃないかなと。
周りを見たら誰も、これまで自分たちと一緒にこの新地でやってきた人たちより顔がどこ行っちゃったんだろうか、
今日来てないんだろうか、どうなってんだろうかと思うぐらいに、そういう人々の顔は見えないです。
けれども、この当時のこの教会の人たちの素晴らしいのはね、わずか120人ばかりの人たちですよ。
この人たちが、大勢やってきたっていう、それでもって喜んだだけじゃないんですよ。
24:05
中には、はるばる遠いところからやってきて、そして泊まるところもないとかね、
今日食べるものもない、そういう人もどうもおられたようですよ。
そういう人たちのことを知ったとき、彼らは自分たちの持っているものを、そういった人々に与えていったんですね。
その様子が、あの一行伝の2章の終わりの方に出てまいりますね。
教会は、それこそイエス様を信じて本当に感謝だっていう、それと同時に、教会っていうのはこういう愛の交わりっていうですね、そういう中で教会は作られていくんですね。
信仰っていう、確かにこれはベースですよ。
しかしそういう健全な信仰っていうのはね、こういう風に愛という子を生み出していくわけですよ。
そしてそれは、さらにそれは拡散していって、本当に大勢の方々と一緒にシウエスケイ人にあって互いに愛し合う。
そういうこの教会、そういう単なる人間同士の結びつき関係っていうんじゃなくて、
キリストイエスにあって自分もイエス様を信じてますっていうところから生まれてくる愛が、
みんなを一緒にして、そしてこのお供にするっていう。それだけじゃないですね。
これは当時の教会の直面している問題ですけれども。
自分がクリシャになるっていうことは、自分の身に、あるいは自分の周辺にどういう大きな悲劇がそこに次にやってくるか。
それこそ命を断たれる。
パウロは人形で呼んできますとね、本当に死ぬほどのそういう悪害にあってますでしょう。
ただその折、奇跡的に助かってきている。
現パウロはこの手紙を書いている時でも、自分は囚われの身として、そして遠いローマですよ。
自分の命はいつ断たれるかわからない。
そういう状況です。
パウロだからそうじゃないんですよ。他の人たちも一緒なんです。
ですからイエス・キリストが死にするということは、同時に自分の命がそれによっていつ損なわれるかわからないという危険というものがそこにあったわけでしょう。
今の私たちのこの日本においては、このクリシャになるって。
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そして歩んでいく中でもって、そういう悪害でもって、もう自分の命がどうのこうのという、そんな危険はないですよね。
しかし、今私たちのすぐ近くの北朝鮮であるとか、いや北朝鮮まで行かなくても、
いやあそこは自由じゃないのっていうような、そういうところでも宗教問題になると命が危ない。
教会が躍打される。
一方ですね、同じこのアジアの県内のそういう国々の様子を見てまいりますと、教会は今もそのような迫害の中に、
イエス・キリストを信じるがいいえに迫害を受ける。
そういう中に当時の人々は、それこそもうごくごく少数の人たち、
けれども彼らは、イエス・キリストを信じることによって、確かな希望というものもそこに持った。
この信仰、希望、愛というのは、この福音によって私たちがそれをしっかりとシリエーター、
それこそが教会がこれから立っていくにあたっての大切なベースだということをパウロは思っておりますから、
それをよくあなた方はね、そういう確かなものを持って素晴らしいと言って、この小さな群れに対しての評価をしているわけですよ。
申し上げましたように、そういう評価の基いっていうのは、今読み上げました六説。
この福音によって、あるいはこの福音は、あなた方がこれを聞き、そして理解し、
そしてそれは、あなた方の間でも、本当にその信仰による交わりを得てきている、そういう中から、
あなた方はしっかりとそれを得ることができるようになって、今日に至っているという、そういうことですね。
福音に触れることがなかったならば、こういう豊かな信仰、希望、愛に満ちた、それを得ることがなかったでしょうし、
それこそ何の希望もない世の中でもって、自分の人生を寂しく終わっていくという人たちも多くあった。
ですから先週はね、9人の人たちが殺された。
だんだんとニュースを聞いてきますと、どうも死にたいという人たちを集めて、
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高校生か、500円取って殺したとかね、そういう新聞の噂だけですから、詳しいことは分かりませんけれども、
その中にあるのは、どういうふうに生きていったらいいんだろうか。
生きるとはどういうことなんだろうか。
そういうところからだんだん悲観的な人生観を持つようになって、
そして自分の命を他人に任せてしまうというようなことになっていったのか。
とにかくそういう悲劇はそこに、1人2人ではない9人もの人たちが同じようにして殺された。
今の時代の象徴的な事件かなと思ったりもしますよ。
希望が立たれたときに、私たちはその次に何がそこでやってくるのか。
かつて私たちもそうでしたけれども、しかし本当にイエスキリストを知ることによってね、
今まで聞いたことのないような、そういう信仰の豊かさを。
またその信仰によって、お互い教会においての豊かな愛の交わりの中に、こうして生かされてきているし、
希望はその点に結びつく、そういう確かな希望を持って歩む。
来週私はだいぶ古い話ですけれども、コーチヨシ太郎というこの方のこの証を改めて思います。
来週私は浅草の雷門の近くですけれども、浅草橋教会というその教会に行くんですがね、
その教会とのつながりというのは、直接聞いたことがありませんから分かりませんが、
実はこのコーチヨシ太郎という人は、その浅草の問屋さんでデッチボークをしていた。
ところがね、田舎から都会に出てきて、明治の初めのうちでもやっぱり江戸ですから、
それなりのこの若い心を揺さぶるようなものがあったんでしょう。
ことを彼はそういう仲間を作り、そうしてですね、自分がデッチボークをしているそこの女の主を殺して、
火を放って、そうして逃げる、未成年ですから。
当時も未成年に対してのそういう配慮があったようで、本当ならば死刑なんですけれども、
無期懲、懲役ということでもって、刑務所に送られた。
彼はその中から何度も何度も脱獄を食われている。
確かに1回は成功して、そしてやっている時に捕まってまた入るという。
33:00
ですから無期懲役の上に何年という刑が加算されている。
しかもその刑務所内では若いんですけれども、とんでもないそういう罪を犯しておりますから、
いつの間にかみんなから注目されて、老男主みたいなそういうのになった。
そうすると今度はそういう立場を利用しては、この囚人たちを痛めるということをやっても、
それこそ彼はね、最初は東京の鍛冶屋町ですか、そこの刑務所におったんですけれども、
とうとう最後にはこの北海道に送られて。
それでも彼はそこで脱獄を食われているということをしていたんですね。
ところが彼は家庭的にはいろいろ問題があったようですけれども、
その御祭に来たそのお母さんが彼に一冊のこの本を渡して、
そしてお前そこにおるんだったら時間があるだろうから読みなさいと言われた。
読めと言われてもですね、文字の読み書きもできない。
ですから何を書いたんだか興味がないし、見たらもう字位ばかりですから彼はほっといた。
そういう非常に厳しい環境の中で、けれどもそれが聖書であるということが後日わかり、
そして監修に頼んで、それこそイロハから習ってですね、
聖書の一字一字を彼は読むようになっていった。
けど聖書を読むなんてことは当時ですから、ような考えを受けるわけですよ。
まして刑務所でもってね、どうしようのそういった人たちを痛めつけてきた、
それがこの聖書を読み出してから急に彼がですね、
このコーチヨシタロウさんが柔らかくなってきたんで、みんなからこんな仕返しを受けるようになっていった。
けれども彼は別にクリスチャンになったんじゃないんですけれども、
それでも何かね、このを読んでいくと何か心に安らぎが来る。
そういう中で彼が捉えられたのは、あの十字架上のイエス様がみんなのためにお祈りをした、
どうぞ彼らの全ての罪を許してくださいという、あの一文を読んだ時に、
イエス・キリストはどういうことをやってそんな次第になったんだろうか、
また繰り返して読んでも、どうもそれがない。
自分はもう繰り返し繰り返しやってますから、死刑ではなかったけれども、
しかし重罪犯としてなお謝罪に出られるようなそんなことはない。
諦めきっておった。
それぐらいのことをやってきたんだから仕方がない、当然だ。
けれども、このイエス・キリストは何が悪くてこうなったんだろうかということを読んでいった時に、
そのイエス・キリストが十字架上で取り出した、あの一文一文のその言葉が彼の心を開いていった。
36:06
そしてイエス様を信じたんですね。
彼はそれから本当に変わっていってね、モンハン主になり、そして得者を得て、そして一般社会に戻ることができた。
彼は教会に戻ってきてから教会に行くようになり、またとんでもない罪を犯して、そして大きな被害を与えた、
その昔の雇ってくれたそこに行って、心からお詫びしたという、そういったことも出ております。
この方はね、加賀都収容会にも行って、私は加賀都教会の歴史を見てたら、高知義太郎公園って書いてあって、
ああ、ただそういう昔の話じゃないんだなと、加賀都収容会まで行って、そして神様の恵みを求めたという、そういったことも書いてありますし、
そして彼は生涯、自分がそういう環境の中でおって、きましたからやる刑務所伝導というものに重みを持ってそうしてやっていく。
そこにいろんな、そういう素晴らしい富賀光介とかそういう人たちとの出会いもあって、彼はどんどんどんどん変えられていくわけですけれども、
彼の世界の中にはね、信仰、希望、愛、全くそういうものがなかった。
けれども、この福音が、そういう文字書きができないような彼にまでも、やがては届いたときに、彼は変えられていった。
まさにこのコルサイ教会の、それはそうなんですね。水知らずのパウルってそういう教会ですけどね。
けれども伝え聞くと、本当に彼らはイエスキストを信じ、愛に結ばれ、そして同じように神の手に希望を持つものとして、そうして変えられていった。
この福音というのは、この6節にもう一度繰り返し見てみたいと思うんですが、この福音は、少し飛ばしまして、世界中で実を結び、広がり続けています。
福音はそのようにして、あなた方に届いたのです。とあります。
冷たい刑務所の中にまで、この福音が届きました。
遠くの片田舎で高校生活をしておりました、こんなそういうことには全く無縁の私にまで、この福音が届きました。
39:02
皆それぞれそういう経験の中で、初めてイエスキストを信じ、そして歩み、そして今日に至っているお互いの信仰のスタートと、そして現在を考えますと、同じように言えるんじゃないだろうか。
福音はね、そのように素晴らしい内容を持つものとして人々に伝えられたときに、それは本当に末広がり的にどんどん広がって、そして今日に至っているわけですね。
一つのことが、このような豊かな実を結んでいく。
5月になりますと、教会で毎週、この毎年行っておりますカーネーションをお母さんに贈るという母の日のそういった行事が行われておりますが、私はそれを考えてみても、
そうですね、この子は別にこれを教会で、そしてまたこの地方で、もう世界中にこんなことをやってほしいなんて、そんな思いを持ってやったんじゃない。
亡くなったお母さんのことを思いながら、そのお母さんに対しての感謝のことを自分の気持ちを表したいという、それが一本のカーネーションになって、そしてそれが表されたときに、
僕はそれを受け止めて、これから教会のそういった人たちに対しての感謝を表そうと言って、スライッチ教会の中でこの女の子がやりましたその行為というものが受け止められた。
それをこの近隣の教会が、そんなことなんだったらうちの教会もやりましょうということで、やがてそれはその町全体の教会が、あるいはその州全体が、
やがてはアメリカ合衆国がそういう国の日として母の日を設けて、そして今やそれは全ての国々に及んでいる。
私も母の日というのは、教会に行ってから知ったんじゃなくて、意味は分かりませんが、学校で紙で作った赤いカーネーションをもらって、そしてそれを母親に送る。
ですから今度の日曜日はそういう日だから、いくらかしたかは覚えておりませんが、お風呂にこのカーネーションを買ってくれるから金をくれと言って、余分にもらって、
それで持って自分の懐と、そして母親へのこの赤いカーネーション。それでそれを送って、なんだこれ渡れなんて言われたんですけども、なんか学校で売ってくれたから買ってきたあえて。
お釣りは、お釣りはどこへ行っちゃったんだろうと言って、そんな程度の理解でしかなかったんですけども、しかしだんだん分かっていったら、実は教会から。
しかもそれが教会からじゃなくて、一人の女の子が、イエス様に対する感謝、お母さんに対する感謝をそういう形で表したという、それがね、どんどん広がっていったんでしょう。
42:02
まさにこの福音の広がりというのもそうだな、全世界を呼んでいったという、そして今日、だから今の私たちがあるわけですよ。こんなに素晴らしい信仰と希望と愛と、
こういうものを私たちがいただいて、そして今を生かされている。それだけではない、そういう教会の中にお互い今こうしてあるということは、どんなに素晴らしい感謝なことか。
私たちはふと会えた、あるいはふと伝えた、この福音が。それがいろんな形で実を結んでいくんですね。
先週私は旧だったんですけれども、人丸教会に参りました。で、その時に一人のご夫人が寄って来られましてね、先生ね、と言って来られた方は、
あの人丸教会の方じゃないんですけれどもね、新田教会の方なんですけれども、ご夫人が亡くなった時に私がその葬儀の式をしたというところから、そういうお互いの関係もありましてね。
で、そういうこの方が寄って来られて、実は同じマンションの二階に住んでいる方から声をかけられて、この教会に行きたいと言われた。今一緒に来てるんです、という挨拶を受けたんですね。
あのタイプ、タイプっておかしいんですけどね、そんなタイプじゃないんですね。自分が教会に行ってますとかね、いやそれ信じたり、素晴らしいですよっていうのは、そんな方じゃないんですね。自分だけ行って礼拝に出て、それで帰るっていう。
で、そのご親、お医者さんなんですけれども、都市行かれて、そして一緒にご夫婦で来られた時に知った。ただ奥さんは、そのご親がひともり教会に行きたいからって言うんで、自分の妻の教会に行くのをその日はやめて、そしてご親を連れてくる。
そのぐらいの程度のつながりだった。ところがその方がね、本当にご喜びを持ってね、こんな顔見たことないなと思うぐらいの笑顔を持って、バンションの人が声をかけてきてね、あなたが行っている教会に一緒に行きたいわって言って、今一緒に来てます。
おそらく彼女にとってはね、イエス様のことを直接伝えてそうしていきましょうって言ったんじゃないんですけれどもね、そういうふうに自分が教会に行っているということを、どこで知ったのか、どこで聞いたのかわからないけれども、言ってきて、そうして来ているっていうことに非常な喜びをそこに持って得ていらっしゃる。
だから先生、またその方がね、また洗礼を受けてクリスチャーになるように祈ってくださいという、そういうご挨拶を受けて、私も本当そうですか。よかったですね。その方はね、そのマンション全体のオーナーなんですよ。
45:13
で、行ったらもう一番上は全部それをね、自分の住まいにしている広いところなんですよ。ですから今でもあそこに住んでいるんですかと言ったら、あそこに住んでいるんですけれども、実はちょっと今の話をしてくれたんですけどね。まあそうですか、じゃあそういった方がマンションの中にもまだおられると思いますよと言ったら、そうですかねと言ってね、その時はちょっとこう不安げなね、そんな表情をされておりましたけれども、
本当に私は一人の人が、自分が信じたそれを直接伝えたわけじゃないけれども、そういう信じていくその姿を見て一緒にいきたいとこう言ってくれたことに、彼女は非常に感謝して声をかけてきてくれた。福音というのは、もう本質そのものがね、その人にとどまらないで、やがてそこからまた広がっていくという、そういうものだということをファルコで言うわけですよね。
だから今の私がある。私たちはそういう中で今日を、イエス様を信じる者として迎えられている、あるいは私がその救いの中に加えられていると感謝したいと。長々りましたけれども、それでは今ご一緒にお祈りをして、そして後の清算式に入っていきたいと思います。
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