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2017-08-06 32:28

2017/08/06:ヨハネの福音書講解説教(8)信じる者はみな永遠のいのちを持つ

 2017/08/06 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 3:8~21

00:00
皆さん、おはようございます。
熱い仲良くいらっしゃいました。感謝いたします。
それでは、メッセージに入る前に、隣の方と挨拶しましょうか。
感謝します。一言お祈りいたします。
神は実に、その一人がお綿になったほどに、よう愛された。
それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
私たち一人一人、全ての人を救おうとしておられ、名を呼んで救ってくださり、またこれからも救ってくださる神の救いの恵みをここから感謝いたします。
どうぞ、今、神の御声に耳を傾けます。
心の耳を大きくお主が開いてくださって、あなたのお声を聞くことができますように、受け止めさせていただいて、
そしてその御言葉に従って生きる力も上から与えてくださいますように、
神の光に満たしてくださいますように、御言葉の命に力に満たしてくださいますように、お願いいたします。
見ていられて、信じて、期待して、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
皆さん、今朝、教会にお入りになる時に、掲示板の写真を見られたでしょうか。
気づいていなかったんでしょうか。
先週の水曜日、木曜日、2日間、CSのキャンプが行われました。
幼稚園生から中学生まで11名と教師を招いて大人が13名、24名参加されました。
今回は神の愛というテーマの下で賛美したり、またメッセージを聞いたり、
勉強したり、あるいはゲームをしたり、また水泳もしたり、恵まれた楽しいキャンプでした。
皆様の背後のお祈りと、いろいろ支えてくださった皆さんに、本当にここから感謝いたします。
全く初めて、教会のキャンプに参加した子どもが、小学生は2人、中学生は1人なんです。
何より子どもたちが、イエス様を小さい時から信じて救われますように、
03:00
またその子どもとして親の方々が救われますように、引き続いて皆さんお祈りいただけたらと思います。
帰りの際に、よかったら掲示板もご覧ください。
続きまして、このイオハネの福音書、公開説教が続いている中で、今日は8回目です。
信じる者は皆永遠の命を持つ、信じる者は皆永遠の命を持つ、というタイトルでございます。
先週に続いて、イエス様とニコデモとの対話が続いています。
今日の聖書の中で、キリスト教にあって一番有名な聖書・歌唱を一つ選ぶならば、
先ほどのイオハネの福音書3章16説ではないでしょうか。
覚えていらっしゃる方もおられるかと思いますけれども、あるいは聖書をご覧になって、もう一度一緒にお読みしたいと思います。
イオハネの福音書3章16説、
神は実にその一人号をお与えになったほどに、要愛された。
それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。アーメン。
今日は特にこの16説を中心にして、神のメッセージをお聞きしたいと思いますけれども、
イエス様の十字架の出来事は、既に遥か昔、旧約の時代に、
あのアラノで予告されていました。
それをイエス様が、どうしてもわからないこのニコデモに、イエス様が説明してくださいました。
それが十四説なんですね。十四説を私からお読みします。
猛瀬がアラノで蛇をあげたように、人の子もまたあげられなければなりません。
この猛瀬がアラノで蛇をあげたようにと、このところですね。
旧約聖書の中に民俗記があります。民俗記ありますよね。
第21章を見ますと、
かつてイスラエルの民が奴隷持ちエジプトから猛瀬に引き入られて脱出をします。
その後ですね、彼らはあのアラノをさまよっていたんです。
その時に、そのイスラエルの民が神様と猛瀬にある逆らった事件が起きてしまいました。
06:02
その時に神様は彼らを懲らしめるために毒蛇を送って、その蛇に噛まれた多くの民が死にました。
そこで猛瀬は神様の命令に従って聖堂の蛇を作るんですね。
そしてその聖堂の蛇を高い旗竿の先に掲げて、もし蛇が人を噛まれた人が、その旗竿先の聖堂の蛇を見上げると命を得るようにしました。
この猛瀬による聖堂の蛇、この事件はですね、十字架の出来事を予告しているんです。
これを今日の私たちに当てはめて考えるならば、この世の歩みにおいて、神と神の与えた立法に逆らって罪を犯す人々には永遠の死というものが待ち受けているんです。
しかし、たとえ人が罪を犯しても、罪を悔い改めて十字架に挙げられたイエスを見上げるならば、そして戒心をするならば、許しを受けて永遠の命が与えられるということであります。
まことの神から離れてしまった人、神を否認する人、罪を罪と知らない人、悔い改めない人、あるいはまことの神を信じない人には、永遠の死が待ち受けているんです。
しかし、今日の聖祖にもイエス様がニコデモに語られたように、また同じく私たちに語られるイエス様のハート思いがあるんです。
神の思いは一人として滅びることなく、皆が永遠の命を持つことなんです。これが神様の思いであり、神様の愛なんです。
ですから皆さん、神の思いは審判というより愛による救いなんです。実はこのヨガネイの福井書第3章には、その神の愛が溢れて溢れて流れているんです。
神様は審判より愛が好きなんです。神様は人を滅ぼすことより救うことが大好きなんです。これが神様の本質の愛なのではないでしょうか。
09:09
その神様の思いを今日、ぜひ読み取っていただきたい、受け取っていただきたいと願っております。
ここでこの第3章だけではありませんが、二つの言葉について整理しておいていきたいと思います。
最も大事な言葉、キーワードだと思いますけれども、一つは信じる、一つは永遠の命、信じる、それから永遠の命。最も大事な言葉なんですけれども。
皆さん、信じるという言葉の意味を他の言葉で表現するならば何と言えるのでしょうか。信じる、その意味は信頼する、あるいは寄りすがる、あるいは頼りにする、あるいは期待をかけるという意味です。
ですから皆さん、私たちが神様を信じる、イエスを救い主として信じるという意味は、神様だけを、イエス様だけを信頼するということです。
神様だけを、イエス・キリストだけを寄りすがる、頼りにする、神様だけに期待をかけるという意味になるんです。
どうですか、皆さん。我々みんなイエス様を信じていますね。神様を信じています。実際の生活の中で、神様だけを信頼しているでしょうか。
神様だけを寄りすがっているんでしょうか。神様だけを頼りにしていらっしゃるんでしょうか。神様だけに期待をかけているんでしょうか。
それが信じるということです。それからもう一つ、永遠の命、これももっと大事な言葉なんですね。永遠の命、どういう意味なんでしょうか。
結構前だと思いますけれども、水曜日都会においては、この永遠の命について、今日としてお話をしたことがありますけれども、
永遠の命とは、単に時間的に、永遠に長く生きる、そういう生命のことを指すのではないんですよね。
この永遠の命は、この世の生命とは全く違った、神の与える命なんです。もっとわかりやすく話をしましょう。
永遠の命とは、神様から来る豊かさなんです。乏しいことなく、神様のあふれる命、あふれる恵み、あふれる愛の中に生きることです。それが永遠の命なんです。
12:14
しかし、たとえ乏しくても、失望することがあっても、神様に期待をかけつつ生きる人生が、永遠の命を持つ人生なんです。
何かうまくいくから、成功するから、金持ちになるから、秘曲するから、だから私は永遠の命を持っている。しかし失敗する、うまくいかない、そしたらやっぱりダメだと思うのではなく、
たとえそうでなくても、失望することなく、神様に最後の最後まで期待をかけつつ喜んで生きること、それが永遠の命を持つ人の人生なんです。そしてこのような信者は、やがてイエス様と共によみがえり、永遠に生きるのです。
ですから皆さん、信じることと永遠の命とはかけ離れられないものなんですね。神の思いは、私たちがイエス様を唯一の救い主として信じて、その永遠の命を持つことです。持つことです。それが神様のはじめの思いであって、終わりの思いであります。
ですから皆さん、神様のこの思いを知って信じる人は、本当に祝福された人なんです。だから、ヨハネノクイーション第十七章三節に、永遠の命とは何なのか、語られているんですよ、皆さん。そこをちょっと開きましょうか。ヨハネノクイーション第十七章三節です。
聖書の215ページです。よろしいですか。一緒に読みましょうかね。
その永遠の命とは、彼らが唯一の誠の神であるあなたと、あなたの使わされたイエスキリストを知ることです。アーメン。
これはイエス様が神様に祈られた祈祷文なんですね。だから、永遠の命とはここから言いますと何でしょうか。
簡単に言って、唯一の神とその使わされたイエスキリストを知ること、信じること、それが永遠の命である。だから信じることと永遠の命はもうイコールなんですね。
15:02
ところが皆さん、戻りまして、この三の十六節を考えるときに、もうちょっと掘り下げて深く考えていただきたいんです。
ところが皆さん、神様が私たち一人一人を救うために、神様が与えてくださったイエスは、神様にとってあってもいい、なくてもいいから与えたわけではありません。
わかりますか。イエスは神の独り子なんです。これはつまり比類のない存在。父親にとってはかけがえのない存在なんです。
最も大切な方が神様にとってイエス様なんです。その方を私たちに与えてくださったんですよ。与えて。
貸したわけではありませんよ。貸してあげたわけではない。ちょっとだけ貸すからね。借りて使ってね。そういうわけではない。
つまりイエスを私のものとして、あなたのものとして、もう全く与えられたわけなんです。
だからイエスを信じる者は、イエスを持つ者でありますし、イエスの命、つまり永遠の命を持つ者なんです。持っているんです、皆さん。
この与えられたという言葉が、その意味があるんですよ、皆さん。取り上げられるものではないんです。与えられて私たちのものなんです。所有しているんです、皆さん。自分のものなんです。
母親は結婚して、私は20年間一度も自分の家を持ったことがないんです。平均的に2年に1回引っ越しをしてきました。
牧師をやる前もそうだったんですね。今も家も借り屋だから、ひょっとしたら来年契約更新年になるので、また引っ越しするかもしれないんです。
借りたい家は持ち主に返さなければならないでしょう。借りる期間が決まっているわけなんです。
でも神様はイエス様を私たちにレンタルしてくださったわけではありません。もう全く与えてくださった。
だから私たちはこの宝を私たちは持っているんです。そのイエスのうちにある全ても同じく持っているんです。
神様はイエスを信じる者にイエスとそのうちにある全てのものを永遠に与えてくださりました。
18:04
だから信じる人のものなのです。だからこのイエスを奪うものはないのです。
この真理をこの事実を最もよく説明している聖書・箇所があるならば、ローマ人への手紙8章32節だと思います。
そこをちょっと開いていただけますでしょうか。ローマ人への手紙8章32節です。
私の聖書では302ページです。よろしいですか。
32節を、さっきのヨハネの3の16節を考えながらこれを読んでいただきたいですね。
一緒に声を合わせて一緒に読みたいと思います。
私たち全てのために、ご自分の御子さえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御子と一緒に全てのものを私たちに恵んでくださらないことがありましょう。アーメン。
アーメンですか皆さん。本当にそうなんです。
ご自分の御子、一番大切な御子、かけがえないの存在なるそのイエスさえ惜しまずに死に渡された方が、全く与えてくださった方が、どうして御子イエス様と一緒に全てのものを私たちに恵んでくださらないことがありません。
皆さん、これこそ永遠の命であって、神の愛なんです。
さて、今日のヨハネ3の16節は前半と後半に分けることができるんですけれども、こう分けることができるかなと思います。
前半は、神はこのようにこの世を愛したので、その一人子を与えた。神はこのようにこの世を愛したので、この一人子を与えたと訳すこともできます。
さあ、これは皆さん、この世を愛した。どれほど愛したんだろうか。それは一人子を与えるほど愛したという訳ですから、神様が最も愛する一人子と同じく、全く同じくこの世を愛したという意味であります。
それが神の愛なんです。
さあ、イエスを与えるにはちょっとね、もったいないねって、まあしょうがないねって与えられた訳ではないんです。
21:02
神様にとってはイエスを愛するほどこの世を愛した。全くイコール同じなんです。同等なんですね、皆さん。
一人子を与えるほどに世を愛したという意味なんです。
その世に私もあなたも私もみんな、全世界の全ての人、今まであった人、これから生まれてくる全ての人がこの世の中に入っている。
そして神はイエス様を愛するほど全ての人々を同じく等しく愛しておられるということであります。
その愛を皆さん、理解しているんでしょうか。分かってきているんでしょうか。
だからその愛を受けてもいい、受けなくてもいい、そんなものではないんです。
こうして神の一人ごとを同等に愛されるこの世のあらゆる人は、父なる神のことされる特権・権威が与えられるんですね。
それがヨハネイの福音書1章12節なんです。そこちょっと開きましょう、皆さん。
ヨハネイの福音書第1章12節。
一緒に見ましょうか。
しかしこの方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。アーメン。
だから皆さん、イエスを信じた者、イエスと同等に等しく神のことされたんです。
そしてその特権が与えられているんです。
ですから皆さん、我々には特権が与えられる。
イエス様と同じく神の子供なのに、だからある意味ですね、イエス様と兄弟なんです。
それがヘヴルビカの手紙のメッセージなんですね。
ですからイエスを救い主として信じる人は、この世においてつまらない存在でもなく、弱々しい存在でもないのです。
私たちには天皇父なる神様、言葉ですべてのすべてをお作りになった神様、全能全知の神様、不可能を可能にされる神様、マイナスをプラスにされる神様、その神の子供なんです。
その権威が特権が与えられているんです。
それを忘れないでください。信じていただきたいです。
ところが皆さん、ここでまた見逃してはいけないことがあります。
神様が愛されたこの世とは一体どんなものでしょうか。
ここに実はですね、神の無限の愛、憐れみの愛、許しの愛がこもっているんです。
24:03
この世とは、この世はですね、みんな改新してみんな清められた世ではないのです。
まだ罪にまみれている世です。
罪深い世です。逆らう世です。神の愛を拒む世です。
つまり神様が最も愛する一人子を惜しみなく喜んでお当たりになったその相手のこの世は、とっても素晴らしくてとっても清い世ではないのです。
罪深い私、罪深いあなた、この世を一人子イエス様ほど愛された。
神の愛は、罪深いこの世が、我々全ての人がその愛を受け取ってほしい、知ってほしいと願われる愛なんです。
そうして私たち全てのために、ご自分の御子さえ惜しまずに死に渡された神様、
御子と一緒に全てのものを私たちに恵んでくださる神様のうちに留まり、イエス様と共に歩んでほしいと願われるのです。
これが神様の愛、その思いなんです。
最後にもう一点だけ申し上げたいと思います。
こうして救われ永遠の命を持った私たち、死に従って歩んでまいります。
ところが時には弱くなる時もあります。
落ち込む時も失敗する時もあります。
うまくいかない時もあります。
しかし覚えてください。
私たちの状態がどうであっても、神の愛、一人を惜しまずにお渡りになったその愛は決して変わることはありません。
私たちが弱くても強くても、いつまでも続く愛なんです。
一人の昔の先生のお話をしたいと思います。
皆さんイギリスのチャールズ・スポルジョンという先生のお名前を聞いたことありますか?スポルジョンという有名な先生。
時代は1834年から1892年生きていらっしゃったイギリスのビットリア・ジョーの時代のとても素晴らしい先生でした。
今からだいたい120年前の先生ですけれども、今もその先生の本がたくさん残されて愛読されていますが、
27:00
今もスポルジョン先生は、いわゆる大衆説教家として、また仏会者としてとても優れた仏先生でした。
その120年がたった今も、スポルジョン先生の本や説句などは、世界の多くのクリスチャンや仏会者たちに感銘を与えているんですね。
ところが皆さん、あの素晴らしいスポルジョン先生、一生の愛を用いられたスポルジョン先生は、実は一生の愛だと言われるほど長い間、うつ病を患っていたんです。
皆さん、それは知らないでしょう。うつ病を患っていました。
スポルジョン先生の主位の名前もちゃんと記録も残っているんですね。
ジョジフ・ピット、またもう一人の主治医、R.M.ミナーという主治医先生がいらっしゃいましたけれども、
そのスポルジョン先生のうつ病は、いわゆる過度な仕事のストレスのゆえだとそうです。
スポルジョン先生はですね、個人的に精神健康に関する本もたくさん持っていらっしゃって、
そのうつ病に関して本もたくさん読んだり、また実際にそのうつ病に対しての本も何冊か書いたそうなんですね。
ところが、そのスポルジョン先生は、うつ病を忘れていても、とっても素晴らしく最後まで用いられました。
治ったから用いられたわけではありませんよ。うつ病のままでしたけれども、とっても素晴らしく用いられた。
今が120年前のイギリスにですね、毎週の日曜日になると、スポルジョン先生のメッセージを聞くために1万人、2万人の人が集まってきた。
その先生がですね、イギリスの広い広場でメッセージをすると、何万人も集まってきた。
そしてその先生によって、数多くの人々が救われて、欠診して、検診して、
イギリスの牧海舎選挙史が、ビクトリア縄文時代に、イギリスはですね、もう太陽が沈まない国として、世界各地にですね、選挙史を派遣した。
そのもとは、そこにこのスポルジョン先生が大いに用いられた。しかしその先生は、うつ病を患っていたわけです。
ところが、その先生の周りのですね、友人とか家族とかですね、先生がうつ病だから、あなたはダメな牧師だね、もう牧師を辞めた方がいいんじゃないかとか。
祈りが足りないかでしょうとか。あるいはですね、もっともひどい場合はですね、自分のうつ病も治せないくせに牧師をするのか。
そう言われたことがなかったそうなんですよ。
30:03
スポルジョン先生は、自分はうつ病を患っていたんですけれども、その先生の図書にこう書いていました。
ひとりごさえ惜しまず、巫女を与えてくださった神様が、巫女と一緒にすべてのものを私に恵んでくださらないはずがない。
だから私のように、死んだようなもの、うつのものも愛され持ち入れられるのだと。
そしてその先生はですね、一生がいい。キリストの復帰のために持ち入れられました。
スポルジョン先生は、今日のユハネノ君子を3の16節と、さきのローマ語に伺うのは8の32節をとても堅く信じていたんですね。
つまり、神様を信頼しきっていたんです。
だから一緒の間、たとえうつ病を患っていたんですけれども、
先生は数万回の大衆集会で説教をなされました。数万人を救いに導きました。
私は考えます。イエスをキリストとして信じるものに与えられる永遠の命とは、まさにそのスポルジョン先生が持っていたものだと信じます。
うつ病が一生治らなかったスポルジョン先生、しかし一生神様に誰よりも尊く用いられ、
かつ多くの人々をキリストに導いて研修するように導いたあのスポルジョン先生。
その弱さの中にあっても、周りの人々は、家族はその先生を責めるのではなく、
温かく支えてくれた家族、周りの人々、まさにスポルジョン先生は心の弱さの中にあったんですけれども、
永遠の命を持って歩んだ人物ではないでしょう。メッセージを入れたいと思います。
信じるものには永遠の命が与えられます。この永遠の命を皆さん、のんぶんに味わいつつ歩んでいこうではありませんか。お祈りしましょう。
32:28

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