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2025-10-19 20:43

2025/10/19:竪琴の音を備えてくださる神

2025/10/19 聖日礼拝

加藤満牧師

サムエル記第一 -23


サマリー

このエピソードでは、神がサムエルに新しい王を選ぶよう指示し、サウルの悲しみを手放す重要性について語っています。神は小さな者を選び、心を見ることで新しい計画を進める姿勢を示しています。また、神はサウルを慰めるためにダビデのたてごとの音を用いたことに焦点を当てています。神は様々な方法で私たちを慰めてくださり、特に音楽や賛美の力について考察しています。

神の計画とサウルの悲しみ
お祈りをいたします。
恵み深い天の父なる神様、今日も主の御前に共に集うことができ、
あなたが備えてくださった浜岡先生のまた賛美を通しても、私たちに慰めを与えてくださっていることを、心からありがとうございます。
主はあなたが生きておられます。
それぞれの中にある痛み苦しみ、それを全てご存知でいてくださいます。
しかし、私はあなたを救うために、あなたの罪のために十字架に御子を捧げたと、
イエス様の流された血潮により、私たちの罪は完全に許され、神のことされ、
それだけではなく三日目に甦えられた復活の命、永遠の命を今私たちに与え、
死をも超えて永遠なる日と共に生き続ける、決して切り離されることのない、
その豊かな命に今生かしてくださっていることを覚えて、心からありがとうございます。
私たちは倒れても倒れきることはありません。
いつも主の支えがあり、そしてまたあなた御自身が、私たちが二本足で立てない時も、
あなたが私たちを担ってくださっていることを覚えてありがとうございます。
道化師よ、今日もこの御言葉の時、また午後からのコンサートの時を通しても、
あなたの豊かさを知る時となりますようにお導きください。
お願いいたします。あなたが生きておられること、
私たち一人一人の人生に関わっておられることを知ることができますように、帰りみてください。
ここに来たくても来れないお一人一人、ご自宅で礼拝を守らざるを得ない方、
施設におられる方、また思い痛んでここに来れない方を知っています。
そして、今日は予定で別のところで礼拝を守っておられる兄弟がいることも聞いています。
どうかお一人一人を主が覚えてくださり、あなたを知ることができますように導いてください。
お願いいたします。これからの時をみてに委ねます。御言葉を主がお開きください。
神様のお名前によってお祈りをいたします。
浜岡先生をお迎えしてお証をお聞きできて感謝いたします。
私も聞きながら印象的なのは、先生がもしかしたら歌が歌えなくなる、ギターが弾けなくなる、
そういうものを失うかもしれない。でも、そういうものがなかったとしてもあなたは私を愛するか。
私が欲しいのはあなたの賛美ではない、あなたの歌声ではない、あなたの愛なんだということを震えながら聞きました。
そうだなとつくづく、本当に思います。
私たちもまたもしかしたら人生の中で、これがない、これが今私に失われてしまうかもしれないという不安を覚えることはあるかもしれません。
暗闇というのはいつでも私たちに訪れるものです。
ただ、今朝読んでいただきましたこの16章は、実はここに出てきますサウルも一寸先の闇に囚われているそのような時でした。
これからどうなるかがわからないという中に置かれている彼らでした。
私たちはこれまでサムエル記を見てきましたが、神様はサウルを通して神様を真っ事の王とする素晴らしいそのような王国を建てるご計画を持っていましたが、
サウルの不従順によってそれが頓挫してしまった。サウルは王から退けられ、国は分かたれてしまうということが決まった。
サムエルもサウルもこれからどうなるんだろうという不安の中に置かれているのが今朝の箇所です。
しかしそのような中で私たちは挫折をすると立ち止まって歩けなくなるわけですが、立ち止まらないお方、それでも前を向いて進んでいかれるお方がこの中にたった一人おられる。
それは神様ご自身です。神様ご自身がここで道を開かれるというところをご一緒に今朝見たいと願っております。
まず二つのポイントで見ていきますけれども、一つ目のポイントは、いつまで悲しむのかと神様はサムエルに語られました。いつまで悲しむのか。
今日の十六章の一節、今日は十四節から読んでいただきました。一節にこういう種の言葉があります。
種はサムエルに言われた、いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。
私は彼をイスラエルの王位から知り解けている角に油を満たせ、さあ私はあなたをベテレヘム人エッサイのところに使わす。
彼の息子たちの中に私のために王を見出したからとサムエルに種が語られるのです。
この時サムエルはおそらくとても落ち込んでいました。この後二節でも種を私がサウルのところに行ったら殺されるかもしれません。そういうことを言います。
彼は種の言葉に従ってサウルに油を注ぎました。
当然サウルを王にした任命責任は神様ご自身にありますが、しかし彼に油を注ぎ彼を王に立てたのはサムエル自身でした。
彼からしたらサウルが王として歩めなかったことは深い痛みであり、この十五章の最後に書いてますが種はサウルを王にしたことを悔やんだと書いてますけれども、
サムエルもおそらく悔やむような思いがあったことでしょう。ああ私は何かを間違えたのではないかと。
しかしそういうサウルに対して種が呼ばれるのは、いつまで悲しんでいるのかという言葉です。いつまで悲しんでいるのか。
神様はサウルのことはもう終わった。そのことはもう終わった。そして私は前へと進んでいるとここで語られるのです。
ダビデの選び
ここで実はこの十六章の一節でもそして三節でも繰り返し語られることは、神様はサムエルに対して私のために王を立てなさいということです。
私のためにという言葉が一節でも三節でも繰り返されます。
実はこれは神様がサウルを王様として選ぶときはこの言葉ないんです。
むしろサウルを王様に選ぶとき神様が言われたのは、イスラエルの民のために王を立てようと言われるんです。
イスラエルの民のために王様を立てた。
けれども民のために王を立てた王様は民のことばかりを見て神様のことを見ない王様になってしまいました。
けれどもここで神様が改めて言われるのは、いや今度は私のための王を立てなさい。私のためにです。
神様はここでもうすでに新しいことを始めておられるんですよ。
あなたはそこで止まっているかもしれない。しかし私はもうすでに新しいことへと足を踏み出している。
あなたは私のために王を立てなさい。
サムエルは腰が重い立ち止まろうとします。しかし神様はここでは止まられないのです。
むしろ次だよ、次に行くよみたいな感じでやっていくんです。
でもそうでしょう。手は止まっている暇などないのです。
なぜなら神様の目的というのは、いつでもこの世界を癒やしたい。
私たちを回復させたい。罪人を救い、本当に人間としての素晴らしいアイメントを生かしたい。
神様はこの世界が堕落に陥ってからずっと一つの熱情を持って動いています。
それはこの世界を癒やしたい。そしてこの世界に生きる一人一人を癒やし回復させたい。
そのために立ち止まっている暇はない。
次はダビデを立ててこの王国を通してこの世界を癒やすんだと主は進もうとしておられるのです。
そしてそのためにサムエルは神様に示されたエッサイという人物の家にこの後行きます。
エッサイの子供の中に神様は次の王様を見つけていると言います。
しかしエッサイの家に探しに行ったときに皆さんよくご存知でしょう。
エッサイが呼んだ子供たちの中にはダビデはいません。
もう一人いますかと聞いたら末の羊飼いをしている息子がいます。
でもそれは言い方を変えればあまりにも小さくあまりにも無力で頭数にも入らない子供ダビデです。
しかし神様はそのダビデを王として見つけると語ります。
ダビデの特徴は16章の12節というところに書いてあります。
こういう言葉ですね。
エッサイは人を使わして彼を連れて来させた。
彼は血色よく目が美しく姿も立派だった。
アッシュは言われた。さあ彼に油を注げこのようなものがこのものがその人だと。
彼の特徴は血色もよく目もそして姿も立派である。
ただあえて申し上げるならば背丈のことは書かれていません。
サウルはその背丈が他の人よりも頭一つ大きかった。
ダビデの兄弟たちも立派な姿をしていた。
しかしそのことは書かれない。
これ言い方を変えるならば明らかに他の兄たちよりも頼りがないということです。
頼りない。しかし頼りがなくていいんですよ。
神様はいつでも小さいものを選ばれます。
それはサウルがそうであったように。
シュは小さいものを選ばれます。
弱さを持っているものを選ばれます。
なぜなら弱さというのは神様につながるための大切なものだからです。
私たちは弱くなければシュにつながることはないですよ。
シュは16章の7節でこういうことを言われましたね。
彼の要望や背の高さを見てはならない。
私は彼をしずけている人が見るように見てはいないからだ。
人は上辺を見るが、シュは心を見る。
と有名な言葉です。
人は上辺を見るが、シュは心を見る。
しかしシュが見られる心とは一体何なのか、弱さですよ。
第一コリントの1章がそう語ります。
しかし弱いからこそ素直に自分の弱さを恥じず
だからこそ私にはあなたが必要なんですと
素直につながる砕かれた弱い心ですね。
ダビデにそのような素質をシュは見られたのではないでしょうか。
悲しみを越えて進む
このように神様は新しい子と新しい人を選んで前へと進んでいかれます。
私たちは今朝、もしかしたら語られるかもしれません。
いつまで悲しんでいるのか。いつまで悲しんでいるのか。
けじめがついているなら、もうシュは次のところへと進んでいるのではないでしょうか。
シュが開いている道がもうあるのではないか。
いつまで悲しんでいるのかと、今朝シュが背中を押しておられることがあるのではないでしょうか。
そしてもう一つ講演ポイントを見るならば、
たてごとの音によってシュはサウルを慰められたということです。
重要説から今朝読んでいただきました。
ここにはまさに怯えているサウルの姿があります。
サウルを神様は王から退けました。
けれども、彼を滅ぼそうとしているわけではないんですね。
神様から災いの霊が使わされたと、この重要説1項に書かれてあります。
しかしこれはおそらく、サウルを王の位から退けるためのものであったでしょう。
王から降りなさいというための災いの霊であったと思います。
サウル自身もまた、頼りにしていたサムエルと田本を分かち、
王ではあるものの、自分の身体というものに悩んでいたかもしれません。
心身孔雀というんでしょうかね。
見かねて、ケライは16節でこのような提案をします。
我が君、どうか見舞いにおりますこのケライどもに命じて、
上手にたてごとを弾くものを探させてください。
災いをもたらす神の霊が王に臨むとき、
そのものがたてごとを手にしていくと、王はよくなられるでしょうと。
そしてそのようにしなさいと命令したサウルのもとに、
ダビデがやってきます。
でもこれは私は、主がサウルのもとにダビデを使わせてくださったんだろうと思います。
そしてダビデの奏でるたてごとの音色に、
彼は深い慰めを得たということが23節にあります。
神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデはたてごとを手に取って弾いた。
するとサウルは元気を回復してよくなり、
災いの霊は彼を離れ去ったといいます。
音楽による心の癒し
心身交絡、意気消沈。
私たちは互いにそういうことがあります。
そのとき皆さんはどうやって乗り越えられるでしょうか。
祈るということ、そしてまた御言葉に聞くということ、
主はそのときに御言葉を与えてくださるということを私たちは信じます。
ただ、何度かお話をしましたが、
私自身が心身交絡になった経験は、
塩屋の新学校に入って最初の1ヶ月目でした。
とにかくあのときのことを思い返すならば、
聖書の言葉の意味なんか頭に入らないですね。
激しく聖書の言葉が慰めを語っていたとしても、
むしろ自分が責められているようにしかその言葉を受け取れなくなるというような
心理状況があるなあと思います。
そのような中で、実は私を慰めてくれたのは音楽でした。
賛美の歌、ゴスペルの歌もいくつか聞きましたけれども、
ただ同時に私自身の心を軽くしてくれたのは、
あまり証にならないかもしれませんけれども、
好きだったアニメの歌でした。
たまたま聞いていたんです。
その歌詞がこういう歌だったんですね。
いい加減に生きていこう、人生なんとかなるさ、みたいな歌詞だったんですね。
いい加減に生きていこう、人生なんとかなるさ、みたいな歌だったんです。
私は驚くほどその言葉に慰められました。
だけども、当時の私はいい加減であってはならない、
こういう風な生き方をしなければならないという風に
自分自身を強くがんじがらめに縛っていたからです。
こうならなかったら全部がダメになる、みたいなね。
でもそういう私にとっては、いい加減にいこうという言葉は福音でした。
人生どうにかなるさ、福音でした。
私の心をどれほど軽くしてくれたかわかりません。
徐々に自分のバランスを取り戻す上で、その歌を聴きまくりながら、
でも徐々に自分のバランスを取り戻していきました。
実習協会の行き帰りで何度もその歌を聴きながら涙を流しました。
そして私はその時に主に感謝していました。
主よ、ありがとうございます。
この歌との出会いはあなたですね、と私は心から感謝をしていました。
神様というお方は、実は様々なものを用いて私たちを慰めてくださいます。
神様はその時その時に様々なことを通して、様々な人を通して、
私たちにその慰めを使わせてくださいます。
そうではないでしょうか。
ダビデはこの時奏でたたてごとは賛美歌だったでしょうかね。
でも彼は主が彼と共におられると語っていますので、
主を仰いで賛美した歌であったかもしれませんが、
神様は私たちを様々な形で慰められるのです。
様々なものがダビデのたてごととして私たちのもとに届きます。
覚えていただきたいことは、私たちは様々なもの、人、
それはクリスチャンであれクリスチャンでなかれ、
賛美歌であれゴスペルであれゴスペルでなかれ、
でもそのようなことを通して主は私たちに
良き音、福音を語ってくださることがある、
慰めを使わせてくださることがあるということです。
私たちは何かそういうのを二言論化しますね。
賛美歌と聖書はいいもので、そうじゃないものはダメなもので、
当然ゴスペルはいいものですよ。
でも主は広いお方です。
私は願うことは、今朝午後はゴスペルコンサートであります。
私たちそれぞれ重荷を抱えておられることでしょう。
けれども主は苦しみの最中にあるときに
慰め主を使わせてくださいます。
ぜひ午後のコンサートを期待をいたしましょう。
浜岡先生のお明かしもまた浜岡先生の歌も
私たちにとっては今はなくてはならない
ダビデのたてごととして響くことを私は信じています。
主に期待をしております。
今朝の御言葉23節を受け止めさせていただきたいのです。
神の霊がサウルに臨む度に
ダビデはたてごとを手にとって弾いた
するとサウルは元気を回復してよくなり
災いの霊は彼を離れ去った。
主はいかなるときもたてごとの音を皆さんに備えておられます。
どうかそのような気持ちを持って
午後貴重な時を過ごしていただきたいと願っております。
一言お祈りをいたします。
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