1. 名谷教会 podcast
  2. 2015/03/01:聖日礼拝(旧音源)
2015-03-01 36:45

2015/03/01:聖日礼拝(旧音源)

2015/03/01 聖日礼拝(旧音源)




00:01
みなさん、おはようございます。
それでは、今日もメッセージをあげる前に、隣の方々、挨拶をしませんか。
ようこそ、いらっしゃいますか。
それでは、一言お祈りします。
神様、死の御前に賛美を注げ、祈りを注げ、また、神様からお言葉をいただきたいと、
しっかり求めてまいりました。
神様、御自身が、私達一人一人にお語りくださいますように。
取り憑く者も、聞く者も、みな、死の御前に心を低くして、へり下って、
素直な心をもって、信仰をもって、あなたの御言葉を心にとめ、
そして従える力も、上から、しをどうぞ、お与えください。
イエス様の皆によって、お祈りいたします。
アーメン。
はい、三条推訓、三回目のメッセージでございます。
心の貧しい者は幸いです。天の御国は、その人達のものだから。
悲しむ者は幸いです。その人達は、慰められるから。
それで、今日は、五節。
入話な者は幸いです。その人達は、血を受け継ぐから。
という御言葉です。
それでは皆さん、八福の御言葉ですね。
旧約聖書、新約聖書をよく見てみますと、
これは神様に対する、私達の信仰態度を指し示すものなんですね。
神様に対して、私達がどんな態度を持っているのか、
それを教えている御言葉だと思います。
普通の一般の辞典には、この入話という言葉、日本語の辞典には、
従順すぎる、簡単に押し付けられる、育児のない、元気のない、などと定義しているんですね、日本の辞典には。
しかし、聖書が語っている入話の意味、
イエス様が天国の市民として持つべきと教えられている、この入話の意味は違うと思うんですね。
普通は、入話と言ったら、弱々しくて、元気のなくて、乳弱なイメージがありますけれども、
03:07
聖書が教えている、聖書が語っている入話の意味は、言語の意味もそうですし、その方向が違うんですね。
ここに聖書を見ますと、この入話という言葉は、
いつも、愛と入話、あるいは、入話と謙遜、あるいは、入話と関与。
このように、関与、謙遜、愛、あるいは慈悲ということが、この入話といつもセットになって、聖書に出てくるんですね。
何より、私たちが注目してほしい言葉は、ガラテア人への手紙、5章、22節、23節だと思います。
そこを一緒にお開きしたいと思います。
新約聖書、ガラテア人への手紙、5章、22、23節です。
371ページです。
22、23節ですね。一緒に読みたいと思います。
しかし、三魂の義は、愛、喜び、平和、関与、親切、善意、誠実、入話、慈悲です。
このようなものを禁ずる律法はありません。
ですから皆さん、入話というものはですね、三魂の義なんですね。
精霊に満ちた人に現れる義、それが、ここに座って、その中の一つが入話ということなんです。
このように、聖書に記されている入話というものは、神様に対する私たちの態度なんです。
態度、姿勢、その人の態度、その人の姿勢なんです。
皆さん、その人の姿勢や態度、体の姿勢じゃないですよ。
その人の心の、人格の態度、姿勢を言うんですね。
それはですね、その人と分離する、切り離すことはできないんですね。
ですから、その態度が、その人を表してくれるわけなんですね。
例えば、谷中さんは、そういう姿勢、そういう入話、入話とか何とか、そういう態度がある。
それが、その人の人格なんです。
ですから、入話というものは、その人の人格であって、信仰の証であって、信仰の現れなんです。
06:02
では、もっとですね、詳しくお話したいと思います。
入話とは、神様に対するどんな態度なんでしょうか。
それは、神様が自分自身を、私たちをどのように取り扱われても、それを良しと認めて、文句を言ったり抵抗したりしない姿勢、それが入話なんです。
もう一度、もう一度読みますね。
神様が自分自身をどのように取り扱われても、それを良しと認めて、文句を言ったり抵抗したりしない態度、それが入話なんです。
自分の人生に起きる全てのことは、それがですね、良いことであれ、良くないことであれ、全てのことは、神様の主権の下にあるのだと。
神様は全てのことを知っておられ、納めておられるのだと。
だから、自己主権をせず、固くなな心ではなく、柔らかい心を持って、神様のお取り扱いを信頼する態度、それが入話なんです。
皆さん、聖書の中でですね、このような入話な人物を挙げてみますと、箱舟を作ったノアの信仰が入話なんですね。
あるいは、石先を知らず旅立ったアブラムの信仰が入話なんです。
あるいは、カナンの主を偵察して、彼らは私たちの餌食だと、主が私の手に渡したと信じたヨシワとカレボの信仰が入話なんです。
ですから皆さん、入話とは、単なる弱弱し、弱さを意味するのではなく、
むしろですね、神様の支配の中で、神様の力を実行していく信仰、それが入話なんです。
ノアがそうでしたよね、皆さん。単なる弱さではない。神様の力を実行していく力、それが入話なんです。
アブラム、ヨシワ、あるいはダニエルがそうでした。
イエス様は、そのような入話な人は幸いでした。その人たちは主を受け継ぐからと宣言し、また約束しておられました。
09:14
この入話な者は幸いです。その人たちは主を受け継ぐから、この御言葉をですね、メッセージ読みしながら、研究しながら、
四辺の三十七辺に導かれました。そこをですね、本当に、この御説を四辺三十七辺をもってですね、
ここに既に解き明かしをされているわけですから、そこを確認しながらですね、
共にですね、入話とは何なのか、それを教えていただきたい。そして身につけていただきたい。
そう願っております。旧約聖書四辺三十七辺を一説から見ていきたいと思います。
この四辺三十七辺はダビデによる詩なんですけれども、この表題には何も書いてないですから、
どのような事件があって、こういう詩が書かれたのかわかりませんけれども、この三十七辺をですね、
最初から最後まで何度も読みますと、推測は十分できるかと思います。
ダビデはおそらくですね、無実の悔しい目に遭いましたが、神様の支配を信頼し通す理由は何でしたでしょうか。
そしてその自分の心を主に申し上げて祈って歌っているわけなんですね。
一説、二説をご覧ください。私が読みますね。
悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対して寝たみを起こすな。
彼らは草のようにたちまちしおれ、浅草のように枯れるのだ。とあります。
このように皆さん、私たちはダビデだけではなく、私たちは生きていく中で、
悪を行う者あるいは不正を行う者に合わされることがしばしばあるかと思います。
遠くにあるいは近くにいるかもしれません。周りにいるかもしれません。
しかしそんな時に、腹を立てるな、寝たみを起こすなと聖書は私たちに教えている。
なぜでしょうか。
悪を行う者、不正を行う者は、彼らは草のようにたちまちすぐにしおれてしまうから、
浅草のように枯れてしまうから、腹を立てる、寝たみを起こす必要がないということです。
12:09
つまり、心配することはないという御言葉ではないでしょうか。
私たちの周りに、あるいは皆さんの周りに、悪を行う者たちがいるでしょうか。
不正を行う者たちがいるでしょうか。心配することはありません。
腹を立てたり、寝たみを起こすのではなく、むしろ私たちは三説、四説のように、
主に信頼して善を行い、地に住み、誠実を養い、主を己の喜びとしよう。主はあなたの心の願いを叶えて下さる。
これを信頼し通す信仰の態度、それが入話なんです。
このように、主に信頼すれば良いのです。
善を行い続けていけば良いのです。そして誠実を養えば良いのです。
何より、主のみを自分の喜びとする人が入話なんです。
ダビレは、自分の息子アプサロムにも、またサウル王にもひどい目に遭わされました。
彼の周りにはいつも逮捕する敵が多くありました。
激しく責めてくる悪者が彼の周りにはたくさんいたんですね。
しかしダビレは、その時に腹を立てるな、妬みを起こすな。
彼らは主が裁かれるから、ただ主に信頼するだけを喜びとしなさい。
そうすると、主はあなたの心の願いを叶えて下さる。
それが神様の御言葉であれば、御心であれば、主は叶えて下さるから心配することはない。
ただ主に信頼し通しなさい。それが入話ということなんです。
そして続けてみます。
入話な人は御説、道を主に委ねます。主に信頼します。
そして自分がその道を成し遂げたり作ったりするのではなく、ただ委ねるわけなんですね。
15:01
そうするとその道を主が成し遂げて下さるんですね。
また六説を見ますと、主はあなたの義を光のように、あなたの裁きを真昼のように輝かされる。
ダビレはサウル王に、アブサロムに、多くの敵に囲まれてですね、息苦しくて死にそうな時が多くありました。
しかしダビレは主に信頼をしてですね、必ず主は入話な人の義を光のように、光輝かせて下さる時が来る。
真昼のように輝かされる時が必ず訪れると、それを待ち望んでいました。
それが入話な人なんです。
そして七説をですね、続けてみますと、七説を一緒に読みましょうか。
主の前に静まり、絶え忍んで主を待て、己の道の栄える者に対して悪意を遂げようとする人に対して腹を立てるな、とあります。
入話な人は、後ほど申し上げますが、家様のように主の御前に静まります。
そして絶え忍んで主を待ちます。
だからそれが力なんです。失る人の力があるんですね、入話な人は。
そして悪意を遂げようとする人たちが周りにもしもあったとしても、腹を立てない、心配をしない、することなんですね。
続けて八説を見ますと、
主を受け継ぐ、ここにですね、今日の五説の主を受け継ぐ、それがこの三十七章の編のここにですね、同じく書かれています。
入話な人は、主の御前に静まって、主の道を待ち望みつつ、主御自身のみを喜びとしてですね、待ち望む、失るこの力があるから、
18:02
怒ることをしません。
意気通りをしません。
腹を立てることをしません。
それは悪意の道だから、それに歩まないのです。
なぜでしょうか。
自分の手で妨かなくても、もしその悪を行う者の道が神様を妨げる道であれば、それは主御自身が断ち切られることでしょう。
しかし、主を待ち望む者、彼らは主を受け継ぐということです。
ですから、入話な人は皆さん、さっきのガラティア人への手紙前後を見ますと、コリント人への第一手紙十三章前後を見ますと、
入話な人は、怒り、意気通り、あるいは素寝に、妬み、あるいはからかい、あるいは自己主張をしていた人です。
なぜなら、いずれにしても、その悪の道が確かに神様の道を妨げる道であれば、主が裁かれるから、
そしてその者たちは断ち切られるから、自分の手で裁くことをしない。
手を出すことをしない。
怒る必要も、意気通る必要もないわけです。
主を待ち望む人が入話な人です。
そして主は、自分が持っているこの願いが主の御心であるならば、主が必ず叶えてくださると信頼する人が入話な人です。
続けて、10節を見ますと、ただしばらくの間だけで悪者はいなくなる。
あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。
その次の11節が大事なんですけれども、
この新開薬聖書は、11節を、しかし貧しい人はとありますが、皇後薬聖書はこれを入話な人と訳しています。
ですから、イエス様がこの大夫の福音書の御書で語られたその御言葉は、実はこのダビデのこの御言葉を引用なさったわけなんですね。
貧しい人、入話な人は、血を受けつく、また豊かな繁栄を己の喜びとするとあります。
今は悪者に逮捕する者たちによって責められ、見下げられ、苦しめられることがありますけれども、
21:07
やがては、血を受けつかせてくださる、豊かな繁栄を喜びとさせてくださる、それを待ち望みつつ、祈りつつ、たえきのびつつ、歩む人の態度、それが入話なんです。
このしね7、37章ですね、是非皆さん、今日は最後まで長いですから、全部は見ませんけれども、
十二節を見ますと、「悪者は正しい者に敵対してことをはかり、はびきりして彼に向かう。
主は彼を笑われる。彼の日が迫っているのをご覧になるから。」とあります。
これは、人間は罪人であるから、昔も今も変わらないと思うんですね。
悪者は正しい者に対抗して、人々を募ったり、扇動したり、正しい者に対抗したりするんですね。
しかも、はびきりして、正しい者に向かうわけです。
しかし、柔和な人は心配することはあります。
自分たちが自分の手で裁かなくても、神様が彼らを笑われるからです。
確かに、柔和な人、正しい者は、あのイエス様が、あのステパノが、あのパオロがそうされたようにですね、
悪者に笑われたり、見下げられたり、苦しめられたりすることが多くあるです。
しかし、正しいお方、主なる神様が、彼らを笑われて、彼の日が迫っているのをご覧になって、主ご自身が裁いてくださるから、
主の御前に沈まって、主のおときを待ち望む者が幸いな者です。
34節だけですね、一緒にですね、お読みしたいと思いますね。この支援の34節、一緒に読みましょう。
3、主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高くあげて、地を受けつかせてくださる。
あなたは悪者が断ち切られるのを身をあげる。皆さん、入和な人は、主を待ち望めます。
そして、この入和で信仰の道を守ります。しかし、その道には時々、仏があったり、怒りがあったり、見下げられたり、苦しめられたりすることがあるでしょう。
24:24
聖書に書かれているすべての神の人物はみんな、そのようなひどい目にあわされました。
しかし、彼らはこの信仰の道を一筋、守り通しました。歩み通しました。
そうすると、しばらくは見下げられて、凡俗に落ちてしまうかのような有様であるかもしれませんが、
しかし、やがては、主はその人を高くあげてくださる。そして、地を受けつかせてくださる。これが入和な人の道です。
皆さん、私たちは、聖書の中から最も入和な人物を選ぶならば、それは家様のことでしょう。
聖書をちょっと開きたいと思うんですね。
マサイノクイーション11章29節です。マサイノクイーション11章28節29節を一緒に見ましょうか。新約聖書21ページです。
一緒に見ますね。3回。
すべて疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。
私は心優しく減り下っているから、あなた方も私の首を負って、私から学びなさい。そうすれば、魂に痩せたりがします。
はい、ここまでです。
ここにですね、29節で、イエス様は、自分自身を指して、私は心優しくとありますが、この心優しくと訳される言葉が、先の口調の5節の入和と同じ言葉です。
だから、入和とは、減り下りとセットなんですね。イエス様は、入和そのものでした。
なぜなら、神様の大いなる力を、イエス様は自由に使うことができるんですね。
ですから、イエス様がおっしゃいました、十字架系を逃れるためにですね、天からお司会を呼ぶこともできるわけなんです。
口で罰することもできるわけなんです。しかし、そうはなさいませんでした。
27:05
死の密を守り通すことです。
イエス様は今日、この話題の訓示と大口説を持って、入和なものは幸いです。その人たちは、死を受け継ぐからと教えています。
このイエス様のお声に、共にですね、耳を傾けていこうではありませんか。
このようは、入和な人は幸いですと言ったらですね、それは違うでしょうと言われるかもしれません。
自己主張しなさい。自分が言いたいものを言いなりなさい。
自分を表わせないと誰も認めてくれないよと教えるのが、この世の価値観なんですね。
しかし、神様を信じる人々は、そのような世の価値観に習わされるのではなく、イエス様の価値観、イエス様の神聖を習うのではないでしょうか。
イエス様が今日の御所の語説の、入和なものは、という時のこの入和なものはは、古代ではですね、この入和という言葉の意味は、こういう意味だそうです。
馬の中で野生の馬があるわけなんですね。それは一度、人が乗ったことがない。
しかし、その暴れるですね、この乱暴なですね、野生の馬が乗り手の立つなどおりに動くように訓練されて、訓練されて、そして従順な馬になること、それがこの入和という古代の意味なんです。
つまり、イエス様は自己主張が強くて、自分をコントロールできない人ではなく、そのような自分を素直に認め、自分がですね、馬としたら乗り手、つまりそれは神様なんですね。
神様にすべてを明け渡った人、自己主張せず、妨げず、その神様のご支配に、お取り扱いに、全くですね、身も心も委ねた人のこと、それが入和な仕方です。
そして、このような人は幸いなんですね。
30:13
入和な人、神の御言葉通りにですね、生きようとする人は、必ずかのようにももちられます。迫害されます。悪行を浴びされることが多くある。
しかしその時にですね、イエス様がですね、このような人々をさせてですね、かわいそうだな、悪かったな、と言われていないんですね。
そのような人は幸いだ。なぜなら、正しい信仰の道を歩んでいるから。むしろ、落ち込んだり腹を立てたりするのではなく、喜びなさい、喜び踊りなさいと言われるんですね、皆さん。
県では、あなたのむくぎは大きいからとおっしゃるんです。政府には数々の入和な人々が登場しているんです。
アブラウムを見てみましょう。老いのロトが先にポツキを選ぶのを許しました。
自分に権利と言いましょうか、権限があります。王子だからですね、先に選ぶことができるわけなんです。しかし、選ばなかった。譲りました。
なぜでしょうか。神様の自分へのご支配を信じて信頼するから。先のことを心配しないわけなんですね。
孟子はどうだったんでしょうか。
水月十二章三章に至る孟子を指して、地上の誰にも勝って非常に謙遜であったとあります。この謙遜という言葉が、今日の入和という言葉と同じ言葉です。
孟子はどうでしたか。
あらのでですね、四十年間、最も信頼されるべきそのイスラヤの民からですね、何度も何度も避難されて、避難されて、殺されそうな敵もたくさんありましたけれども、一切弁解しなかった。
今日のですね、主編の三十七編のようにですね、死の見舞いに沈まっていました。そしてむしろ、その死の道を知らないその民のために取り成す人が孟子です。
33:07
誰ではそうでしたか。どうでしたか。自分の命を狙うサウル王に対してですね、二回もですね、害をするチャンスがありましたけれども、自分で復讐しなかった。手を出さなかったんですね。神様のご支配を信頼しているからでした。
皆さん、これらの人々は優柔不断な人でもなければ骨なしの人物でも、ただ自分の未熟さに気づかないものの弱さを勧誘できる心の寛大さを持っている人なんです。
だから、柔和な人には謙虚さと愛と寛容と自制に富んでいるんです。それから神様の御心が必ずその通りになるのだと、それを信じて決して妨げることはしないからです。
このような信仰の態度を持っている柔和な者こそが、来るべき神の国において、キリストともに地を治める働きに加わるその約束とは今日のこの御説であります。
なぜそう言えるのでしょうか。それはですね、この神の国は自我に支配されて自己主張する人によって治められる国ではなく、神の御支配に服従して、
常に神様の御胸が何なのかそれを訪ねて、祈って、出会えて、そしてその御心であるならば、自分を捨て、自我を捨て、それに従う人が柔和な人なんです。柔和な人は幸いです。
世的な考えから見ますと、むずんじゃないかと思われるかもしれません。しかし柔和な人は、見たまに満ちた人だから、その人には、神様のように愛と謙遜と歓意を備えている。
そして、主のなさる御業を待ち望みつつ、失望せず、進行の道を歩む人なんです。そして、主はそのような柔和な人たちを用いて、主の計画を成し遂げてくださることを信頼する人が柔和な人なんです。
36:12
メッセージを述べたいと思います。柔和な者は幸いです。その人たちは死を受け取るから。この御言葉を心に込めて、私たちもイエス様に見習って、
また、ノアやアブラームやその進行の先輩たちを習って、本当に柔和なこの進行の態度を持って、その道を共に歩んでまいりましょう。お祈りいたします。
36:45

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