00:01
改めて皆さんおはようございます。今日も礼拝にようこそいらっしゃいました。神様の豊かな恵みが皆様の上に豊かにありません。心からお祈り申し上げます。
それではメッセージに入る前に、隣の方と挨拶しましょうか。
ありがとうございます。
それでは一言お祈りさせていただきます。
私たちは皆、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受けたのである。アーメン。
主よ、この朝、ここに座っているこの群れの上に、恵みの上に更に恵みを受けさせて下さいますように。
心からお祈り申し上げます。
あなたを愛して、あなたの恵みを期待して、やって参りました。
一週間の間、様々なことで、体は少々疲れているかもしれません。
しかしあなたの恵みを求めて、上渇いているこの群れの上に、神様御自身が聖霊としてお語り下さいますように。
主よ、この本当に取るに足らないこのもの、枯れた杖のようなこのものを主が、主の御手に捉えて下さって用いて下さいますように。
このものを隠して、あなた御自身だけを表して下さいますように、お願いを致します。
イエス様の皆によってお祈り致します。アーメン。
今日は、ヨハネの福音書公開説教その2で、「誠の光のあるキリスト」という題にして、共に恵みをお受けしたいと思います。
その前にですね、先週の月曜日に、教区の教師会が、尼崎福音教会で持たれました。
ある先生のお話を聞いてですね、最後に大体緊急報告をするんですけれども、
先生のお話を聞いて、そこにおられた先生方はみんなですね、心が温かくなるようなお話がありました。
名前は言いませんが、大体お若いになるかもしれません。
女性の先生で、家族ももちろんいて、子供も多くいる。
03:05
また主下もですね、主幹牧師になられてですね、電話が来てから話をしました。
主幹牧師になられて、教会の働きはもちろん、また他の子供のこともありますし、食事も作らなきゃならないですし、
メッセージの準備も、集合もたくさんですね、他の先生方より2倍3倍のですね、仕事がある。
それで時にはですね、とても忙しくて、メッセージの準備が足りない時もあったり、間違う時もあったり、
それでですね、誰よりもご自身がですね、一番辛いというか、そういうところにある日でですね、
その教会のある若い婦人の方がですね、その先生にこう言ったそうですね。
先生、私が先生の奥さんになりますから、先生の子供も私が面倒を見ます。
掃除もさせていただきます。先生が祈りと見言葉に専念できるように、私が何でもさせていただきますとですね、そう言ってくれたです。
それでですね、その先生が本当にもう目頭がですね、熱くなってですね、その言葉だけではなく、実際にですね、いろんなことをやってくれてですね、
そういう話を聞いてですね、表に現れてはいませんが、裏でですね、教会のために、あるいはその先生のためにですね、
お仕えするそういう信徒さんがいるとお話を聞いてですね、みんなですね、心が熱くというか、温かくなったんですね。
本当に麗しい神の教会の姿ではないかなと思いました。
さて、今日は2回目のヨハネの福音書の見言葉ですけれども、今日もですね、見言葉をお伝えする私も、会集の皆様の上にも、
このヨハネの福音書を通して、イエス・キリストをさらに深く正しく知っていただきたいですし、また何よりイエス・キリストに出会っていただきたいですし、
なおなおその方を愛する私たちになりたいと切に願っております。
今日はですね、主にパプテスマのヨハネの話に行きたいと思っております。
さあ、皆さん、パプテスマのヨハネは誰ですか、どんな人ですか、何をする人なんでしょうか、皆さん。
06:06
さあ、えーとですね、まず6節と7節を一度ですね、もう一度お読みしたいと思います。
6節と7節、ご一緒に。
神から使わされたヨハネという人が現れた。この人は証のために来た。光について証するためであり、全ての人があなたに祈って。
アーメン。
このパプテスマのヨハネについてはですね、福音書に結構多くの箇所でですね、出てきますけれども、
他の箇所よりですね、今日のこの6節と7節がパプテスマのヨハネがどんな人なのかをよく説明してくれる箇所です。
それをですね、まず7節を先に見ていきましょうか。
この人は、この人はパプテスマのヨハネです。このヨハネの福音書を書き記している人とヨハネとは違う人ですね。
このパプテスマのヨハネは、という人は証のために来たとある。何のために来たのでしょうか。証のために来た。
そして何の証なのか、その次に出てきますね。光について証するためであり、とあります。
先週に光は誰のことを指すとか、学びました。それはイエス・キリストです。
だからパプテスマのヨハネはイエス・キリストを証するために来たということです。
そしてその次、すべての人が彼によって、つまりパプテスマのヨハネによってイエス・キリストを信じるためだということなんです。
一言で言うならば、パプテスマのヨハネは我々にイエス様を知らない人、あるいは知っている人々にイエス・キリストを紹介するために来た人であるということです。
言い換えますとですね、パプテスマのヨハネは人々がイエス様をよく見ることができるように、人々がイエス様によくお会いすることができるように手伝う、世話をする、助ける人である、その役割をする人であるということです。
だからですね、このパプテスマのヨハネのメッセージはもう一つですね、イエス・キリスト、いやイエスはキリストである、それ一つなんです。
そしてですね、もう一回ちょっと見ていきたいと思いますけれども、パプテスマヨハネが自分が自分のことを指してこう言いました。
1章の27節を一緒に読みたいと思います。その左のページですね、27節を一緒に読みましょう。
09:09
その方は私の後から来られる方で、私はその方の靴紐を解く値打ちもありません。
自分がですね、パプテスマヨハネはとても素晴らしいメッセンジャーでした。しかしですね、決して彼はですね、イエス様の先に立とうとしないです。
私はその方の下にいるものですよ。私はその方の靴紐を解く値打ちもありません。
このパプテスマヨハネは本当に何と言いましょうか、謙遜の極みのような人でした。謙遜の謙遜の謙遜の人でした。
パプテスマヨハネのこの働き、メッセで通して教えられる大事な教訓があるとするならば、それは私は何者でもありません。
私は重要ではありません。キリストがすべてのすべてです、ということではないでしょうか。
悲しくもこのパプテスマヨハネの生涯は短かったですね。いわゆる殉教されました。
しかしですね、このパプテスマヨハネさんはいつもこの自分は何者でもない、キリストがすべてであるというこの信仰の姿勢をいつも持っていたんですね。
自分は重要ではない。自分を通して人々がイエス様に出会うならば、それで私は十分である。
いや、人に踏まれてその人がイエスキリストに出会って救われるならば、私は踏まれても大丈夫という信仰あるいは使命感を持っていた人でした。
皆さん、我々はどうなんでしょうか。たまにでもですね、自分は自分のことを大事にしている。
その時が我々にあるんじゃないかなと思いますね。
それで自分の意見やあるいは考えや、あるいは自分の言葉が人からちょっとでもですね、無視されたり、受け入れられなかったり、
あるいは自分の思いと違ったらですね、とても危険が悪くなってしまいやすいものが我々なのではないでしょうか。
アプテスマヨハネは、私はイエス様の靴ひもを解く値打ちもありません。
12:07
つまり、イエスがキリストであることを明かしするためなら、何でもさせていただくという信仰なんですね。
ところが皆さん、どうやってですね、ここまで言えるのでしょうか。
そして言えるだけではなく、そのように生涯を歩んでですね、キリストのために命を捨てるほどまで彼は歩むことができたんでしょうか。
その力はどこから来たんでしょうか。
それはこのアプテスマヨハネは、まことにイエスキリストにお会いした人だからでしょう。
このヨハネは、自分を捨ててキリストに生きる人でした。
願わくは皆さん、私たちがそれぞれですね、家庭において、教会において、あるいは職場において、
それぞれ、あるいは皆さんの町において、
そこで私たちがアプテスマヨハネのように謙遜な人になり、自分を捨てキリストに生きる人になるならば、そこに救いが望まれる。
本当の平和、シャロームがそこに来るのではないでしょうか。
ところがですね、このアプテスマヨハネはですね、面白いところがありますよ。
彼はですね、イエス様が大好きでした。
福音書に出てくる人物の中で、イエス様のことを、お母さんの体内から好きだった人は、このヨハネさんしかいないと思います。
ちょっと見ていきましょうか。
ルカム福音書、1章39節から41節です。
ヨハネの福音書、第1章の39節から41節です。
ルカム福音書です。107ページです。よろしいですか。
では私がですね、39から41節をお読みしたいと思います。
その頃マリアは立って、産地にあるユダの町に急いだ。
そしてザカリアの家に行ってエリサベツに挨拶した。
エリサベツがマリアの挨拶を聞いた時、その次ですよ。
15:01
子が体内で踊り、エリサベツは精霊に満たされたとあります。
ちょっと説明しましょう。
マリアさんも妊娠をしていました。
このパプテスマヨハネのお母さんエリサベツも子供を持って、体内に子供がいました。
それである日マリアさんがエリサベツのところに来て、二人が会うんですね。
ところがこの二人が会ったというのは、お腹の子供も会ったわけなんですよね。
いるでしょう。会ったわけですよ。
ところがなぜかエリサベツの体内にもうすぐで生まれてくるパプテスヨハネは踊ったとあるんですよ。
あるお母さんは喜んだと、飛び跳ねたとあるんですね。
だからここから見るには、あまりにもイエス様のことが大好きで、
もう体内からイエス様に出会った瞬間踊ったんじゃないかなと思うんですね。
このパプテスマヨハネは体内からイエス様が大好きでした。
このパプテスマヨハネは大人になっても短い生涯でしたけれども、彼の関心はもう一つ。
イエス・キリストだけでした。
私たちもこのようにイエス様が大好きだと言える、そういうふうに歩む信者でありたい。
それでただイエス様と共にいることが大好きである。
イエス様の御言葉を朝も昼も夜も読むことが大好きである。
その御言葉を恵まれたことを、他の兄弟姉妹たちと分かち合うこと、
あるいは共に祈り合うこと、あるいはそのイエス・キリストを人々に紹介することが大好きであるという信者でありたいなと願っております。
シエスの子供の賛美に、他の歌詞は今思い出せなくて、イエス様が一番という賛美があります。
イエス様が一番。一緒に皆さん言ってみましょうか。イエス様が一番。
あまり声はイエス様が二番十番のような声ですけれども、イエス様が一番ですね。
パプテスマヨハネはイエス様が一番でした。
ヨハネの福音書のテーマはイエス・キリストです。
先週申し上げたように、二十章の三章一節にこれらのことが書かれたのは、
イエス様が神の子をキリストであることを、あなた方が何をするため?信じるため。
またあなた方が信じて、イエスの皆によって命を得るためである。その通りです。
ヨハネの福音書が始まるとですね、最初にイエス様は言葉である、命である、光である方ってですね、
18:05
その後その方を言葉である、命である、光である、イエス・キリストを紹介するために登場する人がこのパプテスマのヨハネなんです。
まるでですね、例えば皆さんがですね、どこかとても景色が素晴らしいフランスとかスイスにいたとしましょう。
ところがですね、大きなガラス張りの窓がある。ところがそこにですね、もうカーテンが閉まっている。
それで素晴らしい景色が見えない。どうしたらいいんですか?カーテンを開けたらいいんです。
まるでですね、パプテスマのヨハネは世の人々がイエス様をよく見ることができるように、よく会うことができるように、
よく知ることができるように、カーテンを、あるいは目の前にあるこの腕、心のベールを外して差し上げる、開けてくれる、その働きをする人がこのパプテスマのヨハネなんです。
ここからですね、このメッセージを目指している中で、伝道とは何だろうか。
私たちはですね、他の例えばですね、あの有名な伝道者、ビリグラム先生のように大伝道者にはなれないかもしれない。もちろんなれるかもしれませんが。
あるいは徳川の町ですね、三宮の駅の前で立ってですね、メッセージを語ることは、もしできないかもしれません。
しかし伝道というものは、まるで世の人々の心の目の前に、例の目の前にあるあのベールを、あのカーテンを開けてくれることが伝道ではないでしょうか。
時には愛が、皆さんの愛が、そのベールを、そのカーテンを開けてくれることもできるでしょう。
あるいは、ある時はイエス様について紹介すること、一言でも二言でも、それがあの人のベールを、カーテンを開けて、イエス様をよく見ることができるように助けることではないでしょうか。
それが伝道ではないでしょうか。
あるいは、人の悩みを聞いて差し上げる。
共に泣く。愛は共に悩む。
それこそですね、ベールを、カーテンを開けて、その人が、その愛によってイエス・キリストを正しくよく見ることができるようにするならば、それこそ伝道ではないでしょうか。
この頃ですね、日本だけではなく、韓国もなかなか伝道ができないとか、そういう話があります。
ところがこのバプテスマ・ヨアネのことを、僕はそうしながら考えさせていただきました。
伝道ができないとか、あるいはできるとか言っていますけれども、それは何なのか。
21:05
チラシを一万枚、十万枚巻いていないからなんでしょうか。
あるいは、どこかで叫んでいないからなんでしょうか。
あるいは、聖書の知識が足りないから、教えられないから、伝道がうまくできないんでしょうか。
ある方の証を聞きながら、教えられたことがあります。
その方はこういう話をしました。
決して皆さんを責めるつもりはあります。
その方の証はそうです。
家族が救われない、周りの人々が救われないのは、実は私のためだった。
人々がイエス様をよく見ることができるように、心込めて、愛して、助けて、使える役割をすべきなのに、
自分が妨害の者のようであって、家族と周りの人々がイエス様をよく見ることができなかったのだと。
子供が親を見たら、イエス様を信じる人と信じていない人とあまり変わっていない。
親がよく喧嘩をする、愛がない、真意がないということと歩むことが違う。
子供が親を見ているんだけれども、毎週日曜日教会には行っているんだけれども、変わっていない。
電路がうまくできない理由は、教会がないからでも、あるいは教会が小さくて古いからでも、
あるいは虎言をたくさん撒いていないからでもないでしょう。
あるいは聖書の知識が足りないからでもないでしょう。
もしかしたら、自分自身が、人々がよくイエス様を見ることができるように、よく知ることができるように、よく会うことができるための、
このバプテストの言われるような役割をすべきなのに、自分の上に曇っているかもしれない。
ですから皆さん、まずは自分自身が変わればいいです。
夫が変われば、妻が変われば、そしたら相手も変わる。
そして親が変われば子供も変わってですね、イエス・キリストをよく見ることができるようになる。
ですから皆さん、電路というものはですね、カーテンをかける人じゃなくて、カーテンを開ける人なんです。
ですから我々みんなですね、カーテンを開けてですね、よく家族が周りの人々がイエス・キリストをよく見ることができるように、
よく会うことができるように助ける人でありたいと願っております。
6節に戻りましょう。6節を見ていきましょうか。
6節を見ますと、私がもう一度お読みします。
24:01
神から使わされたヨハネという人が現れた。
短い数ですけれども、ここにですね、ヨハネさんが誰なのか、バプテストのヨハネさんが誰なのか、よく書かれているんです。
まず、彼はですね、神から使わされたとあります。
神から使わされた、この使わされた言葉から、使徒という言葉が出てくるんですけれども、
今日は使徒パウルのような、使徒ヨハネのような使徒職はありませんが、
しかし、本質的に言うならば、私たちは皆ですね、神様から、今の皆さんの持ち場、立場に使わされたものなんです。
神様から使わされた神の人であって、メッセンジャーであるということなんです。
ですから、実は皆神様から使わされた、神の人なんです。神の大使なんです。
心の中にですね、私は我が家に、私の町に、私の会社に、私の学校に、私の町に、
私は神様から使わされた選挙士だ、あるいは伝道士だというですね、心を持って歩んでいこうではありませんか。
それをですね、よく全うできるためには、何が必要なんでしょうか。聖書の知識が必要なんでしょうか。
あるいはね、何かたくさんのサインのパラントが必要なんでしょうか。そうではありません。
私が使わされた家庭で、教会で、町で、村で、会社で、そこで謙遜にあって、謙遜にあって、神を愛し、隣人を愛し、家族を愛し、
そして今神様が私に出会わせてくださった人々を愛しながらお使いすること。
自分の生活が、イエス様の愛と慈しみを表すことができるように生きること。
それが使わされたものの役割ではないんでしょうか、皆さん。
どうぞこの心の姿勢をぜひお持ちになっていただきたい。
私は使わされたもの。私は使わされたものだ。
昨日はですね、野谷教会で京区の青年部の鍋という交流会を持ちました。
鍋を食べたわけではありませんが、そうめんを食べましたけれどもね。
大阪から先生や青年も見えて、20人くらい集まって賛美もしたり、
共に祈りあったり、そういう時の中である兄弟から話を聞きました。
彼がイエス様を信じるようになった時に、自分を教会に紹介してくれた、
まるでパプテスマのヨハネのような兄弟がですね、
いつも彼は先生をよく知っているのにもかかわらず黙ってよく聞いてあげて、
27:06
そしていつも上の目線からじゃなくて、低い目線でヘルパーさんのように自分を手伝ってくれて、
そこですごく感動して自分は教会に来るようになった。
彼が言うには、私は韓国人だからですね、韓国の青年はどうかわかりませんけれども、
日本の青年はやっぱりヘルパーさんのようによく使えてくれる、手伝ってくれる人に心が開かれて、
教会に来る人が多いんですねと話を聞いて、なるほどそうだなと思いました。
皆さん、パプテスマヨハネは、人々が光なるイエス様、言葉なるイエス様、命なるイエス様に
よく行くことができるようにお手伝いするヘルパーのような人でした。
そうなんです。我々みんなですね、教師に牧師に伝聞者になることは必要はないでしょう。
イエス様もそう、みんななりなさいとおっしゃってもいない。
ところが、私たちは誰かのヘルパーさんになることはできるのではないでしょう。
牧会者もですね、ある意味でヘルパーさんのような役割をしているんじゃないかなと思いましたね。
私のようなミスも多くて、失敗も多くて、しかも聖書の知識もですね、足らなくて、経験も足らなくて、
ある先生方のようにアメリカとかイギリスとかですね、理学したものでもなくて、本当にですね、足りないものである。
本当に足りないものである。自分はですね、そう思いました。
あのイエス様が5000人以上の人々が集まった時に、少年がですね、5つのパンと2匹の魚を持って、お弁当を持ったんですね。
少年のお弁当だからそこにですね、ブリのようなでっかい魚がそこに入っているわけではないでしょう。
たぶん小さい味ぐらいの魚が入っていたかもしれない。
自分はまるで小さいですね、イワシのような小さい魚のような牧師かもしれない。
しかしですね、その2匹の小さな魚がですね、イエス様の手に乗せられた時に、持たれた時に、それが5000人以上の人々を食べさせることができたんですね。
イエス様は私たちに、ちょっと例えばおかしですけど、ブリになりなさいと、マグロになりなさいとおっしゃっていない。
あなたがイワシであってもアジであっても、それをイエス様の手に捕らえられたら、私があなたを用いるなと語っておられるではないでしょうか。
30:05
ですから私たちが小さな愛、小さな御言葉、小さな献身であっても、それがイエス様の手に持たれたら、そこに素晴らしいことが起こることをぜひ信じてください。
一つですね、感謝なお話をしたいと思います。この前5月の4週目に、教区の青年参事集会が今井会館で持たれました。
今年私が教区の青年部長になってですね、1回目でしたから、やむを得ず私が説教をさせていただきましたけれども、その時にこういうメッセージをお伝えしました。
我々にはみんな神様から与えられている使命がある。子供にも少年にも青年にも大人にもみんな使命が与えられている。
その使命をあなたが今いるそこで、持ち場立場居場所そこで、その使命をやってほしいと。
どんな人が祝福された人なのか、神のためにその使命を全うしたくてですね、時には無枠、時には頑張る、そういう当主が祝福する人ですよと。
ただ流される葉っぱのような落ち葉のようなものじゃなくて、神の使命をあなたがいるそこでそれを発見して生きてほしいとですね、そんなメッセージをしましたけれども。
京都のその時に来ていたある姉妹の、牧師先生の娘さんですけれども、保育園で仕事をしていて、ところが保育園の先生方がものすごく駆け口をして不満も多くてですね、そこで働くのがしんどかったそうですね。
もう辞めたい気持ちもあったそうなんですね。それでまあまあね、もう辞めるわけにはいかないんだから、そんなふうに仕事をしていたところ、その賛美集会の本当に私のですね、もう足りないそのメッセージを聞いて、彼女がチャレンジを受けて恵みを受けて、
ああそうだ、そうなんだ、今のその保育園が神様が私を使わせてくださった使命の場所かもしれない。それで、もう嫌だ嫌だそういう思いじゃなくて、その他の先生のために祈ろうと、使えようと、そういうふうに主が私をここに送ってくださったから、
もっといい幼稚園があるかもしれないんだけど神様がここに私を送ってくださったから、ここで使えなさいという使命が今私にはあるんじゃないかと。
それですね、そういうふうに思っただけでですね、自分の態度が心が変わったそうなんですね。周りの状況は変わっていない。あの先生は昨日の先生は今日も同じである。しかし自分が変わったから、もう感謝ができる。
もしですね、その姉妹がもっといい幼稚園に移したら問題がなくなるんでしょうか。自分の心が変わらない限りですね、どこにいても同じなんです。
33:08
ところがですね、その姉妹はとても久しぶりに会ったんですけどね、感謝のことは、その姉妹がですね、ネットでですね、妙談業界のメッセージをよく聞いて、ほぼ毎週みたいにですね、聞いている話を聞いて、私びっくりしましたね。
もっとちゃんとしたメッセージをしなきゃと思った。まさかってちゃんとしたメッセージをしていないわけではありませんかね。
その姉妹はですね、先生本当に毎週のようにたくさん恵まれているとですね、励ましの言葉を聞いてですね、本当に感謝でした。
私のような、ちょっと間違ってですね、浅いメッセージをする牧師の説教、あの三域の王のようなもの、枯れた杖のようなものを主が御手に取ってくださって用いてくださる、その神様に感謝したいと思います。
そうです皆さん、バプテスマのヨハネのように、自分がなぜこの地に来たのか、何のために生きるのか、何をして天に行くのか、それを知っている人が幸せな人なんです。
それを掴んでいる人が幸せな人です。
8節を見ますと、こうありますね。
彼は光ではなかった。彼はバプテスマのヨハネですね。ただ光について明かしするために来たのである。
どういう意味でしょうか。バプテスマのヨハネはですね、私は光ではありません。ただ私は光を明かしするために来たものです。
そして私を通して一人でも多くの人々がイエス様を信じるために私は来たのです。私はそのために生きるんですよと言っています。
皆さん、皆さんに一つお聞きしましょう。もし誰かが皆さんに、あなたはなぜ生きていますか、なぜ生きていくんですかと聞かれたとしましょう。
何のためにお答えになるんでしょう。
まあそうですね。ただ生まれたから生きているんでしょう。それは違います。あるいは死の手にはいきませんから生きていますよとは。
そうではないでしょうね。このように答えていただきたいですね。お答えできたらいいなと思うんですね。
私は神から来て神のために生き神に変えるんですよと。
それが言える、なんと素晴らしいクリチャンの紹介なんでしょうか。メッセージを終わりたいと思います。
1、パプテスのヨガネは使命の人でした。使命を知って、使命のために生きる人こそ本当に幸せな人でした。
36:00
私たちも神様から自分に与えられている使命を身に出して、知っている方はそれをつかんで、知らない方はそれを教えていただいて、その使命のために歩むクリチャンでありたいです。
2、パプテスのヨガネは、多くの全ての人々が自分のゆえに自分を通してイエス・キリストを信じるために私は何でもしますよという人でした。これこそクリチャンの使命ではないでしょうか。
3、パプテスのヨガネはイエスは神の巫女キリストです。それを紹介するために、それを見せるために人々の目の前にかかっているあのベールカーテンを開けてイエス様をよく見ることができるようにヘルパーする。
どうか皆さん、私たちもパプテスのヨガネのことを覚えて、あるいは見慣れて、そういう歩みをさせていただきたいと願っております。お祈りいたしましょう。