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2017-06-25 42:14

2017/06/25:ヨハネの福音書講解説教(3)世の罪を取り除く神の子羊

 2017/06/25 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 ~34

00:00
感謝いたします。改めて皆さん、おはようございます。
昨日は、自作パイプオルガンコンサートが50人以上の方々がお越し下さって、
良いコンサートが開かれて感謝いたします。
皆さんが背後で様々なご保持や、あるいはお祈り、あるいは誘ってくださってですね、
神徒の家族の方々も久しぶりに、土谷姉妹ご主人さんも久しぶりにですね、教会においでになって、
あるいは全く初めての方々もお見えになったりですね、とても意味あるコンサートでした。
またそのためにオルガンを提供してくださった中川さんにも感謝いたしました。
ではメッセージに入る前に、いつもように周りの方と挨拶しましょうか。
おはようございます。
はい、それでは一言お祈りいたします。
その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。
「みよ、世の罪を取り除く神の子羊、アーメン、主よ、
世の罪を、いや、あたしの罪を取り除いてくださった神の子羊なるイエス様、
主よ、あなたの恵みによって、あなたの救いによって、
我は救われて、今に礼拝を捧げます。
どうか、今から主御自身が、我ら一人一人に主の言葉を、命の言葉を、力の言葉を語り上げてくださいますように、
聞く耳をお与えください。悟る心をお与えくださいますように、
この礼拝の中で、神様にお会いし、イエスキリストに、子羊なるイエスキリストにお会いする時としてくださいますように、お願いいたします。
感謝して、イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。」
本日は、ヨハネの福音書公開説教3番目です。
タイトルは、世の罪を取り除く神の子羊。世の罪を取り除く神の子羊というタイトルでありました。
03:09
皆さん、私たちはですね、誰かを人に紹介する時に、その人について自分が知っている分だけ紹介することができると思うんですね。
例えば、私のことを知らないある方が皆さんにですね、あの人は誰ですかと言ったら、皆さんは妙谷教会の牧師です、その後なんとかね、皆さんが知っていらっしゃることを紹介することができると思うんですね。
ところが、ところで、私たちがイエス様を誰だと考えているのか、
イエス様を誰だと信じているのかに従って、実は私たちの信仰生活の歩み、あるいは持ち方が決まると思うんですね。
今日も聖書の本文には、パプテスマのヨハネはイエス様を誰だと紹介していたんでしょうか、証言していたんでしょうか。
29節、「みを世の罪を取り除く神の子羊」と、まず紹介しています。
聖書の言葉では、19節にあります証言という言葉ですけれども、パプテスマのヨハネが言った、世の罪を取り除く神の子羊というこの言葉は、イエス様に対する紹介の中で、完璧な紹介だと思うんですね。
それは、パプテスマのヨハネは、イエス様が誰なのか、なぜこの世に来られたのか、そして私たち人間にとってイエス様はどんなお方なのかを、彼は知っていました。
知っているだけではなく、信じていました。
では皆さん考えていきましょう。パプテスマのヨハネをどうやってイエス様が、世の罪を取り除く神の子羊だと知ることができたんでしょうか、信じるようになったんでしょうか。
それはこのように言えると思うんですね。それは、パプテスマのヨハネは、イエス様をただの偉いラビとか先生とか聖人のイエス様に会ったのではなく、神の巫女、世の罪を取り除く神の子羊のイエス様にお会いしたからなんです。
一章の十四節を、前々回も何度も読みましたけれども、もう一度十四節を、ヨハネの福音書第一章の十四節をもう一度一緒に読みたいと思います。
06:12
言葉は使徒となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父の身元から来られた一人子としての栄光である。この方は恵みとアーメン。
この御言葉を見ますと、このパプテスマのヨハネは、この方の栄光を見たとありますね。つまり栄光のイエス様にお会いしたから。
子羊なるイエス様にお会いしたから、だからヨハネさんは人々に、「見よ。あの方は世の罪を取り除く神の子羊ですよ。」とみんなに言えたのです。
ところが、このパプテスマのヨハネと私たちと違った点が一つあります。
それは、このパプテスマのヨハネさんはイエス様を自分の肉眼で見て、イエス様のお話を直接聞いて、そしてお会いしたわけなんですね。
ところが、今の私たちは、まだ再入りなさっていないイエス様のことを、私たちはこの肉眼では見ることはできない。触ることもできない。
だからイエス様は、今はこの世に、この地上に、私のようなこの体を持ってはおられないからです。
もちろんですね、イエス様が再びあの日再入りなさると、みんなすべての者はこの目でイエス様を見るようになるでしょう。
さあ、そしたらパプテスマのヨハネは自分の目でイエス様を見て、耳で声を聞いたから、そのイエス様の栄光を見ることができた。
そしたら私たちはそれができない。だからイエス様の栄光を見ることができないのでしょうか。
あるいは世の罪を取り除く神の子羊になるイエス様を知ることができないのでしょうか。
そうするならば、それは不公平なんですよね。あるいはイエス様自身が完璧な方ではないということになるかもしれない。
しかしそうではありません。私たちもイエス様にお会いすることができます。
感じることができます。知ることができます。信じることができます。
パプテスマヨハネが見たあのイエス様の栄光を見ることができるのです。
なぜなら、イエス様が、神様が見させてくださるから、示してくださるからなんです。
09:04
まずは、我々はこの旧新約66巻聖書を通して、イエス様の栄光を見ることができる、知ることができる、あるいは感じることができる、覚えることができるのです。
なぜなら、聖書の御言葉は、神の霊なる精霊の感度によって書かれたものだからなんです。
この国会説教の来回目の時に、ヨハネの福音書が書かれた目的が何なのか、開いてみたんですね。
もう一度開きましょうか、皆さん。覚えていらっしゃるでしょうか。
ヨハネの福音書、20章、31節です。これから何度も開くかなと思いますので、覚えていただきたいなと思っております。
ヨハネの福音書第20章、31節です。
私の第3版の進化約では、224ページです。
ヨハネの福音書第20章、31節。もう一度一緒にお読みしたいと思います。
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなた方が信じるため、またあなた方が信じて、イエスの皆によって命を得るためである。アメン。
皆さん、この御言葉によりますと、私たちはどのようにしてイエス様を信じることができますか。どのようにして信じて、永遠の命を得ることができますか。
聖書を通して、ヨハネの福音書を通して、あるいは新約の聖書、旧約の聖書を通して、私たちはヨハネさんが見たイエス様の栄光を見ることができる、知ることができる、信じることができるのです。
他のところに行くことはありません。YouTubeに行くことはありません。本を読むこともないかも、必要はないかもしれません。
この聖書に行けば、聖書が証言していますね。イエス様御自身が語っているのですね。ここに入れば、ここに行けば私を信じることができますよ、知ることができますよと語っておられます。
我々が信じて告白している信仰告白は、教団の信仰告白にはこうあります。私たちは信じて告白します。
旧新約聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれた誤りのない神の言葉であり、その次ですよ、キリストを明かししとあります。キリストを明かしするのは何なのかなんでしょうか。旧新約聖書なんです。
12:04
福音の真理を示すもので、教会の寄って立つ、ただ一つの聖典です。聖書は私たちに、その次ですよ、神と救いについての完全な知識を与えるものであり、信仰と生活の基準ですとあります。
だから皆さん、皆さんがイエス様について話をする時に、紹介をする時に、あるいはイエス様を自分が知りたい時に、どこに行けばいいんでしょうか。
どこに行けばいいんですか。聖書に行けばいいんです。聖書に行けばいいんです。
もちろん、聖書はキリストを明かししていますから。神と救いについて、完全な知識を与えるものは人ではない。聖書だからです。
第一の経緯は旧、新約、聖書なんです。ですから、私たちはパプテスマヨハネのように肉眼でイエス様を見ることができない。しかし大丈夫。
ご自身を明かしする、示す、知ることができる、完全な知識を与えてくれる聖書がありますから、私たちは聖書としてイエス様にお会いすることができる。神様を知ることができる。
あの栄光を見ることができるんです。
ところがですね、ここでイエス様の栄光を見ること、あるいはイエス様にお会いすることに対して、僕が言うしないでほしいということで一つお話したいと思います。
ヨハネが言ったように、この方の栄光を見たということがありますね。あるいはイエス様にお会いするということに対して、それは栄光を見るということは何か神秘的な体験をするという意味ではありません。
あるいは神秘的な体験をしないと、それは栄光を見たものではありませんよとか、そう言ってはなりません。
それはただの体験に過ぎないものであって、真理ではないのです。
皆さん、我々の信仰はですね、その人間それぞれのした体験を根拠にして真理が立つものではありません。
真理、神の御言葉があって、その根拠によって我々信仰はその上に立つものであります。
それにつくものとして、あの人はこういう体験、ある人はこういう体験をすることもありましょう。
しかし、それは絶対的なものではないのです。
絶対的な、唯一の絶対的なものは聖書、他にはありません。
だから、私たちがイエスの栄光を見ること、イエス様にお会いするということの唯一の正しいの道は、聖書の御言葉であります。
15:06
だから、願わくは皆さん、その上階をもって求めていただきたいのです。
主よ、この御言葉の中から、あのバプテストマンヨハネが見たあなたの栄光を見させてください。
あなたに出会わせてください。
あなたの栄光、あなたの真理を知ることができるように、なお深く、あの深み庭で私を入れてくださいと求めて、聖書に行っていただきたいのです。
そういった意味として、皆さん日頃、どれだけ聖書を開いて、キリストを明かしする神と救いについて教えている唯一のこの聖典、聖書をどれだけ日頃、開いてお読みになっていらっしゃるのでしょう。
どうか、旧、新やく聖書をお読みいたしましょう。
学びましょう。目想いたしましょう。研究をいたしましょう。
その中に、神の栄光を見ることができるのです。
だから皆さん、皆さんが誰かにですね、その方が信徒さんであろうが、未信者であろうが、全く知らない方であろうが、その方々にですね、イエス様について、神様についてお話したい時に、まず聖書を進めてほしい。
聖書の箇所を進めていただきたい。聖書を紹介していただきたい。
あの人のこの話、あの人の何度かの動画とか、それじゃなくて、まず第一は聖書なんです。
その他に第二、第三、第四は参考になれるものはあるでしょうね。
それから聖書、その次として、私たちが神の栄光を見ることができる、あのイエスキリストにお会いすることができる、そのために大事なのはこの礼拝なんです。
私たちは、礼拝を通して三味一体の神様にお会いするんです。
私たちは今日もこの礼拝において、この三味一体の神様にお会いしていると信じます。
ですから、最も大事なのは、礼拝の中で最も大事なのは、みんなそれぞれですね、神様にお会いすることです。
臨在なさっておられる三味一体の神様にお会いすること。
それが礼拝の唯一の目的なんです。
ですから皆さん、例えばですよ、体はちょっと疲れていても、イエス様の栄光を礼拝の中で見た人は、その魂は生き生きとしているでしょう。
18:00
そしてその方の顔にはイエス様の栄光が光るということです。輝くということです。
恵みに満ちあうれるということであります。
どうか皆さん、毎回そういう心を持って皆さんおいでになっていらっしゃると思うんですけれども、
主よ、今日もこの礼拝の中で生きる神に会わせてください。出会わせてください。
主よ、私に出会ってください。
皆さん、探し求める者に主は出会ってくださる。
そしてそのイエスキリストに出会った人、神に出会った人はその栄光を知ることができる、信じることができるのです。
なぜでしょうか。
会ったから、見たからなんです。
だから皆さん、このパプテスマヨガネが、世の罪を取り除く神の恋筋と言えた、パプテスマヨガネが見たイエス様の栄光は、
実は言葉ではいくら説明しても、あっていない人にはわからないと思うんです。
でしょ、皆さん。
例えば、とてもおいしい食べ物があります。
それを説明して、まあね、ケントは作った、そんな味かとね、わかるかもしれませんが、説明としては知ることができる。
人に対してもそうなんですよね。
実際に会ってみないと、紹介ではそれは不十分なんです。
だから、私たちは救われた時だけではなく、
常に毎日ですね、この世の罪を取り除く、いや、自分の罪を取り除く神の子羊なるイエス様にお会いしたいわけなんです。
恋愛の中で臨在なさる神にお会いしたいのです。
いや、お会いしなければならないでしょう。
パプテスマヨガネは、世の罪を取り除く神の子羊と言いました。
この言葉について、もうちょっと掘り下げて考えていきたいと思います。
それは、ヨガネはわかりました。イエス様を通してわかりました。
それはですね、世の罪ですよ。
自分の罪を含めて、この世の罪というものですね。
罪の重さが、罪の呪いが、罪による滅びがどれだけ恐ろしいものなのか。
人間はいくらもがいてもあがいてもどうしようもないその罪の呪い。
それを実は自分自身が終わらなければならないのに、自分にはそれを取り戻すことができないのに、
神の子羊、イエス様が私の代わりに呪われて死んでくださった、
21:07
その死、その復活をヨガネは知った、信じたということなんです。
このイエスに私たちも毎日お会いしなければならないでしょう。
より深く深くお会いしなければならないでしょう。
なぜなら、イエス様に神様にたまに会っては、三十分触れては知ることはできない。
人との関係もそうでしょう、皆さん。
例えば、どこか明宝寺駅、明谷駅で、パチオの広場ですれ違って、
名前ぐらい知っている人に深く知ることはできないでしょう。
一度二度会っては、名前ぐらいはね、男性か女性かそれぐらいはわかるかもしれませんが、
その人の深いところは知らない。
どんな悩みを持っているのか、どんな良いところ悪いところを持っているのか、
好き嫌いは何なのか、どんな美情を持っているのか、わからない。
なぜでしょうか。深い交わりがないからでしょう。
同じなんです。
イエスキリストと神様と精霊様と深い交わりを持っているクリーチャーと、
まあまあ持っているクリーチャーとは、全くその深みが違うんです。
皆さんいかがでしょうか。
イエス様、精霊様、神様との皆さん、個人とのお交わりの深みは、深さはどれだけなんでしょうか。
イエス様深くお会いした人。
イエス様の御言葉を深く吟味して知っている人は、その分イエスキリストを知ることができる。
神の世界をその分知ることができるということであります。
ですから願わくは、このバプテスマヨワネがお会いしたことのように、
私たちも毎日深くイエス様にお会いいたしましょう。
一度あったとして満足するのではなく、毎日毎日深くその深みみたいな神様にお会いいたしましょう。
そして御言葉を通して、何よりこの礼拝を通して、その神の子羊にお会いしたいです。
ところが、この世の罪を取り除く神の子羊について、もっと掘り下げて学んでいきたいと思います。
子羊のことです。
まずイエス様のことを子羊と言うのか、罪を取り除くという言葉を使うのかということです。
旧約聖書の時代にさかのぼっていきましょう。
イエス様がお生まれになる前の世界です。
24:03
神様は人々のためにいろんな制度を作るように許してくださった。
その中で神様が直接示して指示なさった制度の中の一つが、罪を贖われる、償われる、
わかりやすく言って、罪を許される制度を神様が作ってくださいました。
それは簡単に言いまして、生贄、羊とか、あるいは牛とか、あるいは鳩とか、あるいは小麦でも、
その生贄を捧げることによって捧げたものの罪が許される制度です。
それは人間が作ったものではなく、神様が作られた制度なんですね。
聖書、礼引き、旧約聖書、礼引き4章32節からです。
旧約聖書の前の方にあります4章の32節から35節、私の聖書では175ページです。
私が読みしますのでお聞きください。
32節、もしその人が罪のための生贄のために捧げ物として子羊を連れてくる場合には、
傷のない女羊を連れてこなければならない。
その罪のために生贄の頭の上に手を置き、禅書の生贄は丸ごと焼くということですね。
煙にするということです。
ほふる場所で罪のための生贄としてほふりなさい。
最初は指で罪のための生贄の血をとり、それを禅書の生贄の祭壇の角に塗りなさい。
その血は全部祭壇の土台に注がなければならない。
また和解の生贄の子羊の死亡が取り除かれる場合と同様に、その死亡全部を取り除かなければならない。
最初はそれを祭壇の上で主への火による捧げ物の上に載せて焼いて煙にしなさい。
最初はその人のためにその人が犯した罪の贖いをしなさい。
その人は許されるとなります。
27:01
さあ、前に向いていただけますでしょうか。
こういう意味です。ある人が罪を犯しました。
そしてその罪を許される生贄を神様が救ってくださった、設けてくださった。
どうしたらいいのか。
傷のない子羊一匹を自分がもし飼っているならば、自分のものを持ってくる。
それも持っていないならば、羊を売っているところで、生贄として売っているところで羊を飼って、
それを生贄として祭壇の上に頬振って焼くわけです。
その時にさっきのように、祭司が子羊の頭の上に手を置いて、いわゆる祈ることです。
その意味としてはいろいろな解釈があったりするんですけれども、
一番わかりやすく言うならば、捧げる者の罪を、この羊が代わりにこの罪が天下される。
そして私が死ぬべきなのに、羊が代わりに私の代わりに死んで、
香りになって煙になって神に捧げられて、神様はそれを私が死んだと同様に受け入れてくださって、
私の罪が許されるということです。
だからイエス・キリストが子羊なんです。
それをですね、なぜイエス様が子羊なのか。
イエス様が来られる前の時代には、神様がこれから本当の子羊が来るんですよ。
あなた方の罪を背負って一度に死んでくださって、永遠に許してくださる本当の子羊が、本物の子羊が来るんですよ。
それを前もって見せてくれるもの。
それがこの旧約の礼碧にある聖堂、あるいは子羊、そういったものです。
それでですね、教会の言葉では余表と言いますね、余表。
元現代語で言うならば模型なんですね、品型なんです。
皆さん、どこか新しいマンションとか建てるときにモデルハウスがあるんですよね。
板宿を通って行ったら西大の駅のところにこれなんとかね、モデルハウスがあるんですよ。
モデルハウス行ってですね、買いたい人が、まず本物の家は建ってないから、
モデルハウスにそっくりの同じものがそこにある。
トイレはどうなってるんですか。これはいいねとね、見るわけなんです。
そして契約をして買いました。その後どうなりますか。
モデルハウスに住む人はないでしょう。半年とか1年がたって本物の家に入ってそこに住むわけなんです。
そうすると、もう全部建った。そしたらモデルハウスの用途はもうそれで終わりなんですよね。
潰してもいいわけなんです。
まるでですね、わかりやすく言うならば旧約時代のあの聖堂、その子羊、
30:06
本当にそれは模型、モデルハウス、床というものです。
何を指すのか、後から来れる本当の子羊なるイエス・キリストを指すものにすぎないということであります。
ところがですね、ここで子羊とイエス様との本当の大事な違いが一つあります。
そこをちょっとね、ヘブル人への手紙を開けたいと。新約聖書の後ろに行きましょう。
ヘブル人への手紙第7章27節。私の聖書では432ページです。
ヘブル人への手紙第7章27節。ここはですね、大事ですから一緒にお読みしたいと思います。
他の大祭司たちとは違い、キリストにはまず自分の罪のために、その次に民の罪のために、毎日生贄を捧げる必要はありません。
というのは、キリストは自分自身を捧げ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。アメン。
旧約の時代はですね、あのレビの時代、モーセの時代はですね、今日悪事をした。そしたらね、今日も羊を捧げなくなる。
でも明日また悪事をした。またもう一回。それを毎回しなくならない。
しかしですね、イエス様はここに書かれているようにですね、ただ一度で十字架につけられて死んでくださったことによって、すべての許しを成し遂げられた。
完全に永遠に成し遂げられたということであります。だからイエス様が二度三度ね、十字架につけられて死なれることはないのです。
しかし同じヘブルビテの手紙、十章の十節です。436ページです。ヘブル十章十節。ここも一緒にお読みしましょうか。
この御心に従ってイエス・キリストの体がただ一度だけ捧げられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。アメン。
皆さん御言葉を信じてください。イエス様を信じる者は、イエス様を心から信じる者はですね、救いの師として信じる者は、イエス様がただ一度だけ捧げられたことによって、私たちはどんなものにされているのですか。
聖なるものにされているのでしょうか。罪許されたから。それをイエス様が十字架で成し遂げてくださったからですね。
33:08
ところが、ここで一つ疑問があるかもしれない。何で死なければならないのでしょうか。どういうことですか。何でイエス様が、あるいは羊が死なければならないのでしょうか。
神様は愛の人なのに、なかったことに許してくれればいいんじゃないですか、という疑問があるかもしれない。その答えは聖書に行きましょう。
ローマ人への手紙、6章23節。新約聖書の298ページです。ローマ人への手紙、第6章23節です。一緒にお読みしたいと思います。
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主、キリストイエスにある永遠の命です。アーメン。
ここにですね、聖書は神様の見心によって決まっているんです。
罪から来る報酬は死です。だから、そこからの死を逃れることはできない。死がない限り。しかし、その報酬の死を、私じゃなくて、羊じゃなくて、イエス・キリストがただ一度だけで死んでくださって、罪許された。
そのキリストを信じる者には。ですから、実は私が死ななければならなかった。実は私は呪われなければならなかった。しかし、イエス様が代わりに罪人となってくださった。呪いとなってくださった。そして私は生きるようになった。
そのイエス様にバプテスマのヨハネがお会いしたわけなんです。
それでですね、もう一ヶ月のところ、教団の信仰告白にこういうふうに書かれています。
イエス・キリストは神の一人子であり、私たちを罪から救うために人となり、身代わりとなって十字架にかかり、ただ一度、そのつけが大事だと思うんですね。
ご自身を完全な生贄として神に捧げ、贖いを成就されました。と、我々は信じているんです。
人は皆罪人です。あの最初の人間、アダム・エヴァが罪を犯したゆえに、その罪が天下された現在を皆持ったまま生まれるわけです。
あるいは、自ら罪を犯すこともあります。ところが、この罪の問題、死の罪から来る報酬の死の問題を、自らはそれを解決することはできない、取り除くことはできない、
36:13
身体を洗うことはできても、あの罪を成就するほど完全に解決することは、取り除くことはできない。
それは、罪人でない方、しかし本当の人間として死なければならない方が来られなければならない。その方がイエス・キリストであられます。
人間の中には、皆罪人だから、罪人が罪人を贖うことはできない。許すこと、罪を取り除くことはできない。だからこのままだらですね、皆滅ばされるわけなんです。
しかし、我々はお作りになって、愛しかられる神様は、我々を救うことに定められた。そして、罪のないイエス・キリスト、神なるイエス・キリストに、全く我々と同じ人間として生まれさせて、イエス様が代わりに死んで下さった。
だから、このイエス・キリストを信じる者は、罪に許される。聖なる者とされる。なぜでしょうか。イエス様が十字架で、ただ一度で、完全に凝固して下さったからです。
罪から来る報酬は死ですけど、その死をイエス様がね、勝ち切って下さったからです。だから我々は、この肉体の死はあるでしょうけれども、永遠の死から皆イエス様を信じる者は、もう解放されているんです。
難しいことではない。イエス・キリストを救い主として、ユハネさんが見た神の子羊として信じればいいのです。
もう一つだけ大事な話をしたいと思います。それは、イエス様が十字架に架かられて死んで下さったということには、聖書に1個いかかれていますね。
ガラテア人への手紙をちょっと開きたいと思います。新約聖書のガラテア人への手紙、3章13節。新約聖書の366ページです。
ここ足りないと思うんですけれども、ガラテア人への手紙3章の13節、一緒に見ましょうか。
キリストは私たちのために呪われたものとなって、私たちを立法の呪いから贖い出して下さいました。
なぜなら、気にかけられるものは全て呪われたものであると書いてあるからです。アーメン。どういう意味でしょうか。
39:02
十字架に付けられたという意味は、実は十字架に付けられたものは呪われたものです。
その呪いを、私じゃなくてイエス様代わりに呪い者にされて呪われて下さって、死んで下さってよみがえることを通して、あの呪いの呪いを断ち切って下さった。そういう意味であります。
だから実は、我々が背負うべき呪い、罪がもたらす呪い、それをただ一度で完全に、永遠にイエス様が呪い者にして下さって、あの呪いから我々を解放して下さったんです。
だからどんなものを私たちを呪うことはできない。イエスをキリストとして信じる者には、罪の呪いから完全に永遠に解放されたのです。
もう一箇所最初に見てみましょうか。それを宣言している御言葉が、ローマ書8章1節2節です。新約聖書の300ページです。ローマ書8章1節2節です。ここも一緒に読みたいと思います。
こういうわけで、今はキリストイエスにある者が、罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリストイエスにある命の御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを解放したからです。アーメン。そうです。
罪から来る報酬し、罪から来る呪いを、イエス様代わりに、ただ一度で、かかって下さって、背負って下さって、解決して、取り除いて下さった。完全に永遠に取り除いて下さった。それで我々は、罪と死の原理から、法則から解放されたのです。信じて下さい。
解放、あなたは解放されました。それは聖書の宣言であります。疑ってはいけません。メッセージを終えたいと思います。
パプテスのヨハネは、このイエス様に出会ったのです。このイエス様の栄光を見たのです。我々も、なおか、そのイエスキリストに、毎日、礼拝の中で、聖書の中で、あるいは祈りの中で、そのイエスキリストに、世の罪を取り除く神の子羊になるイエス様にお会いしたい。深く交わりを持たせていただきたい。
礼拝の中で、御言葉の中で、それを得るものは全てを得たものである。しかし、それがないと、実は何も持っていないものであります。どうか皆さん、イエス様の栄光を見るために、その神の子羊にお会いするために、求めて、求めて参りましょう。イエス様は必ず出会って下さります。お祈りしましょう。
42:14

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