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本日は、このヨハネの福音書3章22節から36節の御言葉において、
ヨハネの福音書講解説教第9回目、イエスは盛んになり、私は衰える、という題にして、御言葉の読み込みを共にお受けしたいと思います。
本日は、お知らせしましたように、また4年目になると思いますが、いつも皆さんが祈ってくださって、また尊い献金も捧げてくださってサポートをさせていただきました、
富永千作子宣教師がまた帰ってこられて、これからまた新しい働きが始まりますけれども、その働きのために、
礼拝の後終わってすぐにデビューテーションをしていただきたいと思っております。
またお盆でも帰ってこられた方々もおられますので、メッセージの前に周りの方と挨拶しましょうか。はい、どうぞ。
それでは一言お祈りします。
あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。主よ、あなたこそ盛んになられるべき尊いお方です。
また、私たちは低くされなければならない、衰えなければならないものです。
主よ、この朝、この御言葉を通して、私たちは聞くべき、今日もお言葉を一人一人に主よお語りくださいますようにお願いをいたします。
信じて、期待して、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、ヨハネの福音書の公開説教も9回目になっております。
この第3章においてはですね、イエス様とニコデモとの対話があったと、話は変わって、パプテスマもヨハネの話に移っているんです。
今日はこの3章の22節から、それから第1章と2章において、このパプテスマもヨハネがイエス様に対してどういう心構えを持っていたのか、
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どういう信仰姿勢を持っていたのか、それを共に学びたい、そして見習いたい。
また、私たちもそのように会えみたいと説に願っております。
パプテスマのヨハネは、イエス様に対して自分をどんなものだと彼は考えて、またどんな心構えを持っていたのでしょうか。
その第一は、パプテスマのヨハネは自分を無にしている人でした。
ヨハネの訓示書の1章の23節をちょっと開いていただけますでしょうか。
ヨハネの訓示書第1章23節、それはご一緒にお読みしたいと思います。
3、彼は言った、私は預言者イザヤが言ったように、主の道をまっすぐにせよとアラーノで叫んでいる者の声です。
ここにイエス様に対して、このヨハネは自分は声だ。どんな声なんでしょうか。
それは主の道、イエス様がこれから歩まれるその道をまっすぐにするためのその備えるものなんだ、その声なんだということなんです。
ここだけ見てもですね、パプテスマのヨハネは、自分自身のことは重要ではないと彼は考えておりました。
そういう心構えを持っていたんですね。自分は声になっても構わない。アラーノで暮らしていても大丈夫です。
イエス様が主役であり、自分は助言になってもエキストラになっても構わないと、そういう心構えを持っていたんですね。
それはイエス様がこれから歩まれるその道を備えることであるならば、自分は自分の命を捧げることを厭わないという心構えでした。
自分を無にする信仰の姿勢。これがこのヨハネの心構えでした。
ただイエス・キリストのために生きる歩みなんですね。つまり自分はなくてイエス様だけがいるということではないでしょうか。
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皆さん本当にこのパプテスマのヨハネのように、その心構えのようにですね、また私たちも同じくこういうふうなクリスタになりたいと、そういう思いがしないでしょうか。
本当にそうなんです。一度しかない進行の道。
このヨハネのように自分を無にして、イエス様を表すことができるならば、自分の人生はどうでもいいという、そういう思いがですね、その心構が湧いてくるのではないでしょうか。
今日ですね、ぜひこのヨハネ、あとからまたシト・ファウズのことも見ますけれども、その進行の心構えを見てですね、我々は自分自身のことを悟っていただきたい。
そして心に定めてですね、主よ私もこのようなクリスタンの道を歩ましてくださいとですね、願う今日の礼拝でありたいと願っております。
ところが皆さん、一般的に普通の人だったらどうでしょうか。みんなですね、主役になりたい。脚光を浴びたいんです。
ところが、さあ、教会の中での話をしてみましょう。教会の中で誰かの兄弟が姉妹が主役になる。脚光を浴びていてですね、ある兄弟がある姉妹が本当にみんなから認められて褒められている。
そしたら周りの人々が妬むんじゃなくて、共に喜ぶ、共に褒めてあげて、共に立て上げていくクリスタンの集まっている教会だったら、それは本当にですね、礼儀的にも精神的にも健全で健康な教会なのではないでしょうか。
また、自分はあらわさなくても、ただイエス様だけを神様だけがあがめられるように褒めたたえられるようにと、それができるならば、自分は何者でなくなってもそれで足りると。
その信仰がこのアプテスマのヨアネの信仰でした。
その心構えでした。皆さん、これをぜひ見習っていただきたい。
実は我々はですね、それぞれ大事じゃないんです。
人間関係において、夫婦関係において、腹が立つとき、機嫌が悪くなるときはどんなときなんでしょうか。
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よく知ってくれないと、自分がですね、大事な人にしてもらっていないような気分になると腹が立つんですよね。
でもですね、それをすべてですね、おろすとですね、手放すと、自分は何者でもないと思うならば大丈夫なんです。
どんな家庭、どんな教会、どんな社会が幸せなところなんでしょうか。
このヨアネのように、自分を無にして生きる家庭、教会、社会、そこが幸せなところなんです。
自分を無にして生きるならば、そこにはですね、争いも喧嘩もトラブルもなくなるでしょう。
そしてそこに平安が、喜びで満たされるに違いないと思います。
また、そういうようにですね、自分自身を低くして無にするならば、
家様は我々一人一人を主が高めてくださるんです。
自分が自分を高めなくても大丈夫なんです。
2番目、ヨアネは徹底して謙遜な人でした。
同じヨアネの訓書、第1章の27冊を一緒に読みたいと思います。
27冊を一緒に読みましょう。
その方は私の後から来られる方で、私はその方の靴紐を解く値打ちもありません。
ヨアネは家様に対して、自分はこれから来られるその方、家様の靴紐を解く値打ちもありません。
当時ですね、その家の人の主人の履物の紐を解いて、その履物を脱がせるのは、その家の奴隷の仕事なんですね。
しかし、このヨアネは、家様の足に触れて、その履物を脱がせる値打ちさえ自分にはないと言っているんですね。
要するにヨアネは、自分が主なるイエスの奴隷でさえなく、実に奴隷以下の値打ちしかないと告白しているんです。
皆さんいかがでしょうか。旦那さんが仕事終わってですね、会社から帰ってくると、靴の紐を脱いで脱がせてあげる奥さんの方。
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多分難しいでしょう。たまには足を洗ってあげる奥さんがいるみたいなんですけどね。どうなんでしょうか。
アプテスマヨアネは、自分には、もう家様の奴隷でさえなく、実に奴隷以下の値打ちしかないと告白して、徹底的に謙遜でありました。
ヨアネは家様の見舞いで、尻のように自分を低くしたままでした。
しかもそれはですね、強いられてではないんです。自ら喜んで自分自身を低くしたんです。
私たちはヨアネのように、徹底的に自分を無にして、奴隷の以下の値打ちしかないというものだと告白して、その通りにアイム・クリチャンでありたいと、徹底的に低くすることです。
これ以上、もう降りていく所がないと言える程の所まで、自分を低くすることです。
それが皆さん、家様の教えなんです。アプテスマヨアネが持っていた心構えなんです。
もし私たちが家庭で、教会で、社会でですね、こういう心構えでいるならば、そこは天国なんです。
そうではないでしょうか。家様の御前で、人の前で、徹底的に自分を無にして、徹底的に自分を低くして生きるならば、高ぶる、傲慢になる理由もないんですし、落ち込む理由もないですし、そうではないでしょうか。
ところが皆さんどうでしょうか。自分を低くすることは優しいですか、難しいですか。
我々はまだまだ自分のこの自我があるから、固い自我があるから、自分自身を低くするのは、無にするのは優しくはないと思うんですね。
口先ではですね、「私はできません。本当に私はもう馬鹿なんです。もう私は何にも知りません。」と謙遜に言ってですね、
もし相手の方が、「あなた本当に馬鹿なんですね。こんな事も知らないんですか。」と言われてですね、大体ムカつくってですね、来週から教会に来ないかもしれない。
なんでしょうか。それほど自分を低くして無にするのは実は難しいことです。
でもできないのか、そうではないのです。例えば、人間関係とかあるいは夫婦関係の間でもそうだと思うんですね。
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もし誰かとですね、仲間とあるいは夫婦の間にトラブルが起きたとしましょう。そしたら先に謝るのです。
自分が悪いことをしていなくても先に謝る人が謙遜ないとです。
大体、傲慢ないとは先に手を差し伸ばさない。謝ってくれない。自分が自分を低くするのが嫌なんです。
心の中に固い自我がまだまだあるからです。
パプテスマ・ヨハネのこの信仰の心構えはまさにイエス様の品性そのものなんです。
3つ目に行きましょう。
今日の御言葉のヨハネの訓書3章のね、30節をもう一度一緒に読みたいと思います。
一緒に見ますね。30節。
あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。
このですね、盛んになるという言葉は調べてみたら、分かりやすくね、栄える、成長するという意味なんです。
それから衰えるという言葉は低くする、より小さい、より衰るという意味があるそうです。
ですから皆さん、3番目ですね、ヨハネはイエスは盛んになり、自分は衰るという心構えを持って生きる人でした。
つまり、自分は死んでイエスは生きることを願う人でした。
どうですか皆さん、普段信仰生活をしていく中で、自分は死んでイエスは生きるようにと、そういう心構えで生きているのでしょうか。
いかがでしょうか。もしかしたら私は、もしね、第三者になって自分自身の心をもぞくことができるならば、
この三十節のようにではなく、イエスは盛んになり、私も盛んになりたいと思っているのがあるかもしれない。
もちろんイエス様はいくらでもですね、私たちを盛んなものにならせることのできるお方です。
しかしここの意味は、イエス様が盛んになるためなら、私は低くされるのが当然なんだ。
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イエス様の皆が崇められるためなら、褒めたたえられるためなら、自分はいくらでもより大人なくではない、という信仰の心構え。
このような信仰の心構えは、ヨハネだけではなく、神の人からよく見られるものであります。
その中で、シトファールもですね、このパプテスマヨハネのように、もう全く同じ意味としてですね、彼はこのように告白しているんです。
そこをちょっと開いていきたいと思います。
ピリピビトへの手紙、三章四節から八節を開いていただけますか。
ピリピビトへの手紙、第三章四節から八節。
私の聖書では三百八十六ページです。よろしいですか。
ではしばらく私がお読みしますのでご覧ください。
四節、ただし私は人間的なものにおいても頼むところがあります。
もし他の人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私はそれ以上です。
私はヨウカメのかつれを受け、イスラエル民族に属し、ベニャミンの別れのものです。
キッスイのヘブル人で、立法についてはパリサイ人です。
その熱心は教会を迫害したほどで、立法による義についてならば非難されるところのないものです。
しかし私にとって徳であるこのようなものを、皆私はキリストのゆえに損と思うようになりました。
八節を一緒に読みますね。
それどころか、私の主であるキリストイエスを知っているところの素晴らしさのゆえに一切のことを損と思っています。
私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらを知り飽くたと思っています。
それは私にはキリストへ、またキリストの中にあるものと認められ、立法による自分の義ではなくて、
キリストを信じる信仰による義、すなわち信仰に基づいて神から与えられる義を持つことができるという望みがあるからです。
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どういう意味でしょうか。
皆さん、パフォーマンス先生は頼むところが、心的どころをたくさん持っていました。
それはですね、彼はもう既遂のヘブル人です。
八日目にかつれ受けました。
ベナミンの別れ目です。
そして立法については、当時の最古の教師ラピといわれるカマリエルの教え子なんです。
熱心なんです。
そんな頼むところをたくさん持っている彼が、そうすべてをキリストのゆえに損と思っている。
これはもうチリアクタなんだ。
憤怒なんだと思って、そういう心構えを持って自分を低くしていたんです。
キリストをあがめるためなら、自分の誇るべきものすべてを知っているという心構えでした。
たくさん持っている人が、誇りたいものをたくさん持っている人が、
これらすべてはチリアクタなんだ。憤怒なんだ。ゴミなんだ。
キリストのためなら、私はこれを捨てたといえる心構でした。
それは何のためなんでしょうか。
キリストを得るため。
キリストを尽けるため。
主の皆があがめられるためなんですね。
この世の法則はどうでしょうか。
自分を高めるため。
自分が偉い人になるため。
人の上に立つため。
金持ちになるため。有名人になるため。
人から認められるために、みんな必死に生きている。
しかしイエス様の教えは、それと正反対ですね。
それらをすべて知っているならば、主が高めてください。
この信仰の法則、聖書の法則をぜひ皆さんが、
自分のものにしていただきたいんですね。
ところが、バクテスマのユファネと、またこのヒトパールは、
どうしてですね、どのようにして、こんなに自分を無にするまで、
自分の心的ものをチリアクタと思えるまで、
低くすることができたんでしょうか。
それはイエス様の心でいたからです。
イエス様の心構えを持っていたからなんです。
それが力である。
それが自分を低くすることのできる厳選なんです。
皆さん、イエス様の心を持っている人は、高ぶらず謙遜です。
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イエス様の心を持っている人は、自分を低くして人を、
それをですね、パウロ先生がピリピの2章の5節から11節で、
このように語っています。そこをちょっと開きましょうか。
ピリピ第2章の5節から11節。
私がお読みします。384ページ5節。
あなた方の間では、そのような心構えでいなさい。
それはキリストイエスのうちにも見られるものです。
キリストは神の見姿である方なのに、
神の在り方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして使えるものの姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての性質を持って現れ、
自分を癒しくし、死にまで従い、
実に十字架の死にまでも従われました。
それゆえ神はこの方を高くあげて、
すべての名に勝る名をお与えになりました。
それはイエスの皆によって天にあるもの、地にあるもの、
地の下にあるものすべてが膝をかかめ、
すべての口がイエス・キリストは主であると告白して、
イエスなる神を神が褒めたたえられるためです。
アーメン。
皆さん、パオロ先生が、あるいはバプテラス・ヨアネが、
どうしたら自分自身を無にする、低くする、
イエスは盛んになる、自分は劣らなければならないと言えて、
そういうふうな心構えで歩むことができたのでしょうか。
イエスの心構えで生きながら。
皆さん、これが答えなんですね。
もし私たちが、バプテスマのヨアネのように、
シト・パオロのように、イエス様の心構えで生きていて、
自分を無にして、低くして生きるならば、
すべては解決できるでしょう。
問題は、要するに、私たちがこの五節のように、
イエス様の心構えでいるかどうか、
バプテスマのヨアネ、シト・パオロから見られる心構の姿勢、
それは、私はこういうふうに表現したいんですね。
私は死んで、イエスが生きる人生。
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私は死んで、イエスが生きる人生。
だから、パオロ先生はですね、
開かなくてもいいんですよ。第一コリント十五章の二節に、
私は日々死んでいますと言っています。
私は日々死んでいます。
これが実は答えなのではないでしょうか。
メッセージを終わりたいと思います。
バプテスマヨアネのように、
自分を徹底的に無にする人にならせていただきましょう。
ヨアネのように、シト・パオロのように、
徹底的に謙遜な人にならせていただきましょう。
そのために、イエス様の心構えで生きましょう。
自分は死んで、イエスは生きる人にならせていただきましょう。
それは何のためなんでしょうか。
ただ謙遜な人になるためではない。
それはキリストをあためるため、
キリストを褒めさせるためなんです。
これが私たちが目指して歩むべき、
唯一の人生のゴールなんです。
これが全ての全てであります。
お祈りしましょう。