00:01
それでは、一言お祈りいたします。
また、私を使わせた父、子自身が、私について表現しておられます。
あなた方は、まだ一度も、その御声を聞いたこともなく、見仕方を見たこともありません。
アーメン。主よ、この朝も、ただあなたを愛して、あなたに礼拝するため、ここにこの群れが集まりました。
主よ、どうぞ、この礼拝において、真ん中に主御自身がおられまして、どうか、あなたの御言葉を、我らに悟らせて下さい。
あなたの御言葉を聞きしまして、私たちがその御言葉を通りに生きるものとして下さい。
そして、この礼拝において、あなた様にお会いする、あなたの御顔を拝見する、恵みの時として下さいますように、お願いいたします。
そして、帰りの時には、望みに満たされ、イエスの礼に満たされて、この街道から、この世に使わされますように、どうかしよう、一人一人を覚えて、豊かに祝して下さいますように、イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
アーメン。感謝します。
ヨハネーノ福音書の公開説教も、十四回目になりました。
今日は、イエスを信じるということ、イエスを信じるということ、タイトルにして、共に今日、五章の後半の部分から、大きく三つのことをですね、共に教えていただきたいと願っております。
ヨハネーノ福音書、一章、二章、三章、四章のところのですね、メッセージをお伝えするときに、このヨハネーノ福音書、御言葉の中で、何より、私たち皆さんお一人お一人が、神様に、生ける主に、イエス・キリストにお会いする、出会う恵みの時を、ぜひ、お持ち下さい。
というふうにですね、お願いしました。
説教というものは、皆さんよくご存じのとおりに、神の御言葉を、この説教者が代言するものであります。
ですから、一番大事なのは、人を見るんじゃない、人の声を聞くんじゃない、あるいは評価をするんじゃない。
神の御言葉をお聞きして、そして、語られる生ける主に、イエス・キリストにお会いすること、それが礼拝において、最も大事なことであります。
ところが、今日の御言葉を見ますと、イエス様の当時、イエス様の周りには、イエス様を信じて従っていく弟子たちも大勢いましたけれども、
03:07
イエス様の存在を認めない、否認する人々も大勢いました。
イエス様が神の子であること、イエス様がメシアであること、イエス様が神であることを認めない人が大勢いました。
ところが、それはイエス様の時代のものだけではなく、今日も同じであると思います。
私たちのように、イエス様が神であり、神の御子であり、メシアであることを信じる私たちもいますけれども、
信じない人々、イエス様の存在を否認する人々も、この日本の地には大勢いるわけであります。
ところが、その人々の中で、その中には家族も含まれているわけですけれども、
一人でも多くの人々が、生きるイエス・キリストにお会いして、
そしてその方こそメシアであること、神の子であること、私の救い主であることを認めて、信じて、
その方の前に披露して礼拝するその日が、一刻も早く来ますようにと切にお祈りしているわけであります。
さて、イスラエルの人々は、イエス様の時代の人々はですね、旧約聖書の立法に従って証言をする時のことですが、
ある人に対して、あるいは何かの事件や出来事に対して証言をする時に、証人が3人いれば、
そしてその証言が一致すれば、それはもう事実であるということ、それが法廷でも認められる、
そういう御言葉に従ったルールがありました。
そのルールを、慣習をよく御存じのイエス様は、今日の御言葉において、イエス様のことを認めない、認めたくない人々にですね、
3つの証言をあげて、自身が神の子である、また神様が使わされた救い主であることを明かししておられますね、証言をしています。
イエス様の時代だけではなく、今日もイエス様の御言葉を聞いても、イエス様が本当の神であること、
本当の唯一の救い主であること、私の召し当てであることを知らない、あるいは認めない人々が、まだまだこの世には大勢います。
06:08
ですから、私たちは信じているものとして、その人々に、私が信じる、皆さんが信じるイエスキリスト、その方が救い主であること、その方が道であり真理であり命であることをですね、誇らしく堂々と伝えていただきたいと願っております。
今日イエス様が三つの証言をあげてですね、ご自分が神の子であること、神であること、またメシアであることを証言をしています。
まずその一つ目は何でしょうか。それは、イエス様がなされた御業そのものが、イエス様に対して神様がイエス様を使わされたことを証言しています。
御言葉をしばらくちょっと読んでいきたいと思います。三十一節から私が読みしますね。
もし私だけが自分のことを証言するのなら、私の証言は真実ではありません。私について証言する方が他にいるんです。その方の私について証言される証言が真実であることは私が知っています。
あなた方はヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。と言っても私は人の証言を受けるのではありません。私はあなた方が救われるためにそのことを言うのです。
彼は燃えて輝く灯火であり、あなた方はしばらくの間その光の中で楽しむことを願ったのです。
しかし私はヨハネの証言よりも優れた証言があります。イエスさんは言うんです。優れた証言がありますよ。今からその話をしますよ。
父が私に成し遂げさせようとして与えになった、おわたになったわざ、すなわち私が行っているわざそのものが私について父が私を使わせたことを証言しているのです。
1つ目、証人の中の1つ目ですよ。それはイエス様がなされたわざそのものが、イエス様が神様から使わせたかたであることを証言しますよ。
では皆さん、イエス様がなされたわざには何があるのでしょうか。それは何を指すのでしょうかね。
それは例えばヨハネの福音書の中で言うならば、第二章に書かれているあの金で水を葡萄酒に変えられた奇跡をイエス様は行われました。
09:10
あるいは四章に書かれている王室の役員の息子の病気を癒されました。38年の病人を癒されました。
他の福音書を見たらですね、この時期はイエス様はすでに聴かれた霊に取り憑かれている人々を癒されました。
そして癒されることだけではなく、神の御言葉も教えられました。
このようにイエス様がなされた御わざは人にはできないことであります。
そしてこの御わざはイエス様が神であること、イエス様は神様から使わされた方であることをそのわざが証言しているのです。
今日の私たちにそれをあだ名で考えているならば、イエス様は私たちの魂を救われるだけではなく、私たちに御言葉を持って教えてくださっています。
導いてくださっています。
それだけではなく、また私たちの病気もおやしになる方であられます。
それがおできになる方であられます。
なぜならイエス様は作り主なる神様と共に、永遠から永遠までおられる方であって、
そして神様と共に御言葉を持ってこの宇宙万物を、我ら人間をすべてをお作りになった作り主だからです。
御言葉を持ってこの宇宙万物を作られた神様が人間の病気を癒せない理由はないということであります。
今も世界のあらゆるところでは、イエス様の御名によって悪霊が追い出され、病気が癒されることが頻繁に起きているのです。
ただ私たちが見ていない、知っていないだけであります。
ところがですね、一つ不思議というか残念というか、既に福音が入ってなくなった国より、
もう今から福音が入ろうとするそこ、入ったばかりのその地域とか村とか国とか、あるいは迫害がものすごく激しい厳しい国には非常に多くの癒しとか奇跡とかが起きているということであります。
例えばですね、アフリカとか東南アジアとか南米の奥地ではですね、もう部族の中で悪霊が追い出されて、その悪霊を信じていた部族全部がイエス様を信じることが今にも起きているわけであります。
12:05
実際に盲人が目を見えるようになったり、歩けなかった人が歩けるようになる癒しと奇跡が実は起きているんです。
ところがなぜか福音が入って長くなっている、例えば日本とかですね、あるいは他の国とかですね、それを見たら、なかなか満タクないわけではありませんが、なかなか種のその御業がなかなか起きていないことも、私たちは認めたくないんだけれども、そういう現実があります。
もちろんそこにはですね、神様の何らかの神の御業があるかもしれませんが、そこにはある意味で我々クリスチャンたちの信仰が絶対的な神様への絶対的な信仰から少しずれているからかもしれない。
皆さん、イエス・キリストは生きておられ、生きる神様であられますから、イエス様が願われるならば、いくらでも病気を癒すことができる、助けることができる、導くことができるということを、絶対的信頼をもって信じていただきたいです。
イエス様ならできると、そういう信仰が果たして私たちにその100%の信仰があるのでしょうか。できるかもでしょうか。半信半疑でしょうか。いや、ちょっと難しいでしょう。なんでしょうか。厳しいでしょう。なんでしょうか。
イエス様の業そのものが、イエス様が神の子であり、神であることを証言しています。
二つ目、二つ目を見る前に聖書をね、続いて見ていきましょうか。37節を一緒に読みたいと思います。
37節、ご一緒に。はい。また、私を使わせた父御自身は、私について証言しておられます。あなた方は、アメン。
アメン。ここにですね、二番目は、二番目の証言は誰ですか。神様が証人ですね。神様が証人です。私を使わせた父御自身が、私について証言しておられました。
神様が、イエス様がね、神の子であることを救い主であることを、神様が証言してくださる。ところが皆さん、考えていただきましょう。
イエス様の当時の、例えばですね、パリ裁員とか、立法学者とか、あるいは妻子女たちの中でですね、神様を信じながら、でもイエス様を信じない人々がほとんどだったんですね。
15:11
あのパリ裁員とか立法学者とかですね、妻子女たち。神様を信じながら、同じ神様である、神である、その御子であるイエス様を信じない。
メシアであることを信じない。神の一人子であることを認めない。否認していたわけなんですよね。
だからそれはですね、厳密に言いますと、実は彼らは神様も信じているわけではないでしょう。
神様を本当に、本当の意味で神様を信じるならば、イエス様をもう当たり前のように信じるようになるのです。
なぜなら、イエスは神様であるから。イエスは神の御子であるから、神様を信じるならば、イエス様が神であること、イエス様が神の子供であること、救い主であることを、それはもう必然的に信じるようになるのです。
ところがですね、ここの立法学者、パリサイ人、あるいは祭祀長、彼らはですね、旧約の御言葉をですね、挙げながらもイエス様を信じない、認めない。不思議でたまらない。
皆さん、よく聞いていただきたいのですが、神様にお会いした人は、別に説明を聞くこともなく、イエス様に必ず必然的にお会いするようになります。
もうそう決まっているのです。なぜなら、イエス様は神様だからです。
これはですね、なんと言葉で説明してわかる、そういった巧みのものではありません。
会えばわかる。まるで、皆さんが、私が皆さんにお会いして、皆さんが私に会われて、お互いのことをわかるように、ということとほっと似ているかもしれません。
神様を信じるならば、イエス様を信じるのは当然のものです。なぜなら、イエスは神だからです。
そして、神を愛する人、神にお会いした人は、イエス様を愛するようになり、イエス様に会うようになります。
だから、本当の意味で神にお会いした人は、神を愛する人は、神の御言葉も愛します。
今しめも愛します。そして、おそれかしこみます。
そして、愛するから、本当に出会っているから、その信者の心の中に、霊の中に、神が生きておられます。
そして、働いておられます。本当に働いておられるのです。
18:01
一か所ですね、聖書を開きたいと思います。
同じ、ヨハネイの福音書、十章の三十節を一緒にいただきましょうか。
ヨハネイの福音書、十章の三十節。199ページですね。
短いです。一緒に読みましょう。
私と父とは一つです。アーメン。
皆さん、私と父とは一つです。一つなんです。
神様にお会いした。そしたらイエス様にお会いしたことであります。
神を信じる。そしたらイエス様を信じると同じであります。
ですから、皆さん、ここもですね、私たちが神様を信じて、同時にイエス様を信じて、
同時に神の霊であられる、聖霊様を信じるということはですね、奇跡であって神秘なのではないでしょうか。
不思議なことなんです。
ところが、本当に残念に思うこと、悲しいことは、これがまだまだ信じられない人々はこの世にはどれくらい多くいるのでしょうか。
だから、ある意味でですね、皆さん、神が、イエス・キリストが、聖霊様が信じられるということは本当に感謝なことであります。
ある意味で奇跡かもしれない。不思議であり。
また、クリスチャンとして、私たちは日々人格的に霊において、神にお会いしなければならないようです。
お会いして、またお会いして、またお会いして、いかなければならないです。
神に出会った人のその生き方は違います。変わります。変えられます。
何が変えられるのでしょうか。
朽ちる肉体の命より、もっと大事な神のために生きるようになります。
永遠の命のために、復縁のために生きるようになります。
神様にお会いすれば、神様を知れば、イエスを信じれば、そのように変えられるんです。変えられるんです。
これはですね、説明でできるものではないです。
一つですね、お証したいなと思うのは、今はですね、妙谷教会から離れて、変えられていらっしゃらないから、
お証したいなと思っておりますけれども、この8月に韓国に戻られたチョンさん、リュウさん、コウサイのお証ですか。
そのご主人さんのチョンさんは、割ととても若い年齢で、学校の校長、そして教育官と仕事を経てですね、
21:06
この神戸の韓国教育文化委員長でですね、3年間勤めていらっしゃいました。
その奥さんもリュウさんも、小学校のベテランの教師だったんですね。
でもチョンさんはですね、日本に行きたくて、少し日本語がですね、しゃべられましたけれども、
メッセージを聞いて少しわかるくらい、そして賛美も読めるくらいでした。
100%ではないんですけれども、ある程度わかってですね、ついてこられるくらいでした。
ところがリュウさんはですね、日本に、神戸に来て、たぶんそこからひらがなを学んでですね、
だから説教を理解するに、聖書を読むのに、賛美歌の歌詞を理解するに、とても難しいところがね、わからない状況なんですよ。
皆さん、どこからといえば、英語のメッセージ、説教を聞いていたら、だいたいアイとかユーとかアンドとかパトとか、それくらいわかりますけど、
何を書けるか私はわかりませんね。
そういう状況なんですよ、リュウさん。
ところがですね、そのヒョンさんご夫妻は、明太に教会を愛して、赤谷を愛して、皆さんを愛して、
何よりですね、生きる神様にお会いできるならば、ここでですね、その出会いすることが、とても、何と言いましょうか、
もう恵みに満ちて、嬉しくって、感謝にいっぱいでした。
もう日本語よくわからなくても、
ユンボク氏は何を喋ってるのか、まあまあわかるんだけれども、はっきりはわからなくても、ここにいられる神様にお会いすること、それだけあれば、私はもう感謝する、という信仰でした。
礼拝は神様にお会いしに来るものであって、誰か人を見るために来るものでもなく、聖書の知識を積むためにでもなく、何か自分のニーズを満たしてもらうために来るのでもない。
あるいは、ちょっとね、いわゆる人を、まず人を傍聴するために来るものでもない。
自己満足のために来るものでもない。神にお会いするために来るんだから、日本語がちょっとわからなくても、
ここで礼拝する、それさえできれば感謝する、そういうことをリュウさんは、ジョンさんはよくお明かしをしておられました。
だからですね、本当に3年間、よく礼拝を守ってくださいました。
共に礼拝できたことは本当に嬉しいことであります。
それだけではなくですね、この夫婦は神様を愛しておられる方だから、まあちょっとあれなんですけれども、
教会の席が韓国にあろうが、ここにあろうが関係なく、3年間いらっしゃるながら、
24:05
本当に自分の収入から忠実に全く十一賢気の捧げ物を主に捧げておられました。
それだけではなくですね、後から気になるけれども、公務員はいいなと思うのは、海外に出たらですね、
ここでも給料をもらうし、向こうでも給料を2倍もらうんですね。公務員はいいですね、日本語どうでしょう。
でもね、その話じゃなくて、お金の話じゃなくて、その中でもですね、ここでも捧げ物を捧げて、向こうでもらった、
その中でですね、帰る際にですね、多くの賢気を教会に捧げてくださりました。お金の話ではありません。
神を真心愛してその方にお愛しするならば、礼拝が変わる、捧げ物が変わるということを、
私はその夫婦さんから本当に深く教えていただきました。
これこそ、神にお愛した人の証ではないでしょうか。神にお愛しするならば、イエス様にお愛しする。
存絶するならば、イエス様の御言葉、神の御言葉を通りに、私たちは生きるように変えられるのです。
一箇所ですね、聖書を開きたいと思います。
同じ、ヨハネの福音書14章の21節から24節です。
ちょっと長いですけれどもね、一緒に読みましょうかね、これ合わせて。
210ページです。21節から一緒に。
私の忌ましめを保ち、それを守る人は、私を愛する人です。
私を愛する人は、私の父に愛され、私もその人を愛し、私自身を彼にあらわします。
いつかりお手でないユダがイエスに言った。主よ、あなたは私たちには御自分をあらわそうとしながら、世にはあらわそうとなさらないのはどういうわけですか。
イエスは彼に答えられた。誰でも私を愛する人は、私の言葉を守ります。
そうすれば、私の父はその人を愛し、私たちはその人のところに来て、その人と共に住みます。
私を愛さない人は、私の言葉を守りません。
あなた方が聞いている言葉は、私のものではなく、私を使わせた父の言葉なのです。アーメン。
皆さん、覚えていただきたいです。
23節、誰でも私を愛する人は、皆さんはイエス様を愛しておられますか、神様を愛しておられますか、そうすればその人は何をするのでしょうか。
27:11
イエスの言葉を守ります。イエスの言葉を守ります。
聖書の言葉を守ります。それを実践します。その通りにします。
しかし24節、私を愛さない人は、私の言葉を守ります。
もしも私たちが神の御言葉を通りにしていないならば、守っていないならば、少なくともこの24節から、実は私たちは神をその分愛していないということに、神にお会いした人はイエス様にお会いします。
これが2番目の証言です。
3番目の証言は、今日の聖書に戻りまして、39節一緒に読みたいと思います。今日の5章の39節です。
ご一緒に、あなた方は聖書の中に永遠の命があると思うので、聖書を調べています。その聖書が私について証言しているのです。アーメン。
ここにですね、聖書が私について証言しているのです。簡単に言ってですね、聖書を読めばイエス様にお会いするようになります。神にお会いするようになります。
ところがですね、ここでイエス様が触れていらっしゃる聖書は、新約聖書ではないですね。まだ福音書が書かれていないですからね。
これは、いわゆる旧約聖書なんです。だからね、不思議ですよね。旧約聖書がイエス様について証言しているということなんです。本当なんでしょうか。そうなんです。
旧約聖書の中にですね、直接的に間接的にイエス様のことに触れて預言している言葉は、私が調べたところによると約300箇所があります。
他にも、イエス様に対してひな形として予表している言葉まで含めると、実は旧約聖書は隅々あらゆるところがイエス・キリストを証言している、指している、予表しているわけなんです。
例えば、荘石を読みますと、創造のお話を読みますと、そこで神様と共に創造活動をなさっているイエス様にお会いするようになります。
荘石の中で、例えば与世夫のお話を読めばですね、その自分の家族を生かして守る与世夫の中で、我らを助けてくださる、救ってくださる救い主イエス様にお会いするようになります。
荘石はどうでしょうか。荘石を読みますと、杉越の羊、その血の話を読めば、そこでですね、我らを救ってくださる十字架で血を流してくださった子羊なるイエス様にお会いするようになります。
30:14
猛瀬の話はどうでしょうか。イスラエルをあのパラの手から救出した猛瀬の話を読めば、そこでですね、私たちをサタンのあの敵から救出してくださったイエス様にお会いするようになります。
霊碧は如何でしょうか。祭壇の上に捧げられる生贄、羊とか牛とか、その中で、その話の中で、私たちを生かすためにご自身が生贄として捧げられたイエス様にお会いするようになります。
吉訳はどうでしょうか。吉訳という名前、そのものが実はイエスと同じ意味であります。そしてそのストーリーを読むならば、イスラエルの人々を導いて、約束の地に導いたあの指導者、吉訳に出会うならば、そこでイエス様にお会いするようになります。
それだけではないでしょう。預言書を読むならば、直接的にイエス様について指している箇所はたくさんあります。いくつかだけですね、ちょっと開いてみましょうかね。
まずはご存知の箇所をお選びしましたけれども、居座屋書に行きましょう。居座屋書7章14節。旧約聖書の居座屋書7章14節。1136ページです。旧約聖書1136ページ。居座屋書7章14節です。一緒に読みますね。
それゆえ、主自ら、あなた方に一つの印を与えられる。身を、諸女が身を持っている。そして男の子を生み、その名をインマヌエルと名付ける。アーメン。
この箇所を読むならば、誰にお会いするようになりますか、皆さん。イエス・キリストにお会いするんです。
ところがですね、この居座屋という人は、大体でイエス様がお生まれになる前から、600年前の人なんですね。
だから、私は信じるのは、この居座屋は、この御言葉が与えられて、それを知る時に、彼は、もうこの時もね、居座屋の時もイエス様はおられるわけですから、生きておられるですから、彼はイエス様にお会いしたに違いないと思います。
なぜなら、イエスは神であられますから。
ダビデも、ヨシアも、モーセも、アブラムも、神なるイエス様にお会いしました。
イエス様もそれをですね、直接ですね、それを証言していたのであります。
33:02
もう一箇所、同じ居座屋書です。五十三章に行きましょう。
この箇所、よくご存知の箇所ですけれども、居座屋書の第五十三章、三節からです。三節、四節、五節。私が三、四節読みますので、五節を一緒に読みたいと思います。
三節。
五節、六節を一緒に。
アーメン。
この御言葉を読むならば、
あとはですよ、
居座屋がこの箇所をですね、この聖書を書き記した後、居座屋書を読む人は、あるいは今日の私たちは、イエス様の人々は、もう当然イエス様にお会いすることなんですよね。
なぜなら、聖書そのものがイエス様を証言しているからです。
だからですね、むしろですね、聖書を読んでも読んでもイエス様にお会いしないことが不思議であって奇跡かもしれません。
他にもですね、たくさんありますけれども、ここまでしまして。
実はある意味ですね、理解しようと努力しなくてもいいのではないでしょうか。
聖書そのものが神の霊化によって書かれたものだから、読めばわかる。
読めばその中で、生ける神様にイエスキリストに聖霊様にお会いするようになる。
そして何よりですね、神の霊によって書かれた神の御言葉は生きているものだから、生ける神の御言葉が私を捉える。
そして完全に神の人に私を新しく作る。
罪を悟らせる力が聖書にある。私を清める力が聖書にある。
36:00
あるいは私の堅い心を砕いて、にんわなものに変わらせる力がどこにあるんでしょうか。聖書にあるんです。
だからある意味で皆さん、私たちはこの霊的な働きと言いましょうか、作業と言いましょうか、それを一生やっていかなければならない。
神の御言葉に捉われることです。
神の御言葉によって私が取り扱いされて変えられるのです。
私が神を取り扱うのではない。私が神の御言葉を創造するのではない。
神の御言葉によって私たちが取り扱われて、捉われて、砕かれて、清められて、引き上げられて、変えられていくのです。
結論を申し上げたいと思います。どうか皆さん、イエス・キリストに、イエス・キリストにお会いしてください。
イエス・キリストに日々お会いするならば、必ず変えられるようになっているんです。
なぜなら、イエスは真理であり、命であり、道であるから。
神様にお会いするならば、自分がどれくらい大きな罪人なのか。
自分がどれくらい堅い者であるか。自分がどれくらい傲慢な者なのか。
自分がどれくらい多くの人々を苦しめていたのか。
自分が上辺でいいことをしているだけれども、心の中にどれくらいこの傲慢の自分があるのか。
イエス・キリストにお会いすれば、それが悟るということであります。
そして同時に、望みが上から与えられます。
その望みは、キリストに向かう望みです。希望です。
神様に対する希望望みです。魂の救いに対する希望望みであります。
神の国がこの地に来るための、それを切に求める希望が与えられています。
イエス・キリスト様にお会いすれば、必ずこのような希望望みが与えられます。
皆さんはどうでしょうか。皆さんにはどんな希望が、どんな願望が、望みがあるのでしょうか。
病気が癒されて、元気に長生きしたいのでしょうか。
もうちょっと金持ちになりたいのでしょうか。もうちょっといい仕事がしたいのでしょうか。
この体のものは、いずれにしても朽ちるものであります。
イエス様が去りなさるならば、それはいくらのものであっても、もう塵に過ぎないものであります。
そのために私は一生懸命に働いて、一生懸命に生きるのならば、本当に虚しいものではないでしょうか。
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イエス様にお会いすれば、生きるのです。
宙を求めれば、生きるのです。
イエス様が去りなさる日が、本当に近づいていると感じる今のところなんですね。
戦争やテロや災害のニュースは絶えないです。
人間の価格の発達はものすごくですね、5年前なかったものが起きていて、その高満さはですね、バベルントンも幾倍も高くなっている。
男女区分がなくなっているこの時代になっていて、
荘土の秩序を破壊する性的な堕落は、もう法律を変えながらでも堕落をしまくっているこの時代。
快楽を求める人間の単欲はもうきりがない。
イエス様が再び来られる日が近づいています。
目を覚ましていてください。
そして終わりのこの時代に、果たして私は、クリスチャンは何のために生きるべきなのか。
深く考えていただきたい。
そして主から得たすべてのものを、朽ちるものじゃなくて朽ちるもののためじゃなくて、
死のために、福のために、神の国のために、福のために使ってください。
イエスのためにお使いください。
これが天に尊いお働きであります。
イエス・キリストにおありすれば、人は必ず変えられます。
これこそ最も大事な祝福であります。
お祈りしましょう。