00:04
お祈りをお捧げ致します。
恵み深い天の神なる御神様、
あなたのお諮りしない素晴らしい豊かな御愛とともに、
私どもの罪を許すために、私たちの身借りとなって十字架に置かれ下さり、
尊い命の父を最後の一滴までも余すことなく、惜しむことなく流し尽くせ腐った、
イエス様の父を、そして信じて罪許され悔い改めて救われた、
私どもに豊かに淑われた内自由の御霊様を崇めて、心から感謝を致します。
ただ、主の恵みと憐れみによって、今日まで生かされて、
今日4月の24日の聖日礼拝を、この愛せる名谷教会の礼拝におきまして、
共にあなたを賛美し、また祈りを捧げ、共に御言葉を学ぶことができる御恵みをあわせて感謝を致します。
今日、今お呼びいただきました御言葉を通して、
私どもクリスチャンの最高、最大、最終の目標でありますイエスキリスト様の再臨について、
共に学び、今一度新しく信仰と希望を持って、この大いなる喜びの始の再臨を待ち望みたいと思います。
どうぞ今、行くとばに伴う聖霊のお働きをもって、愛する兄弟姉妹たちお一人びとりに、
この日、この時でなくてはならない、あなたの恩恵みを豊かに満たしてくださることをお祈り致します。
今日もこの時、お体に弱さ、痛みを抱えていらっしゃる兄弟姉妹その御家族、あるいはまた病院で入院治療されている方々の上に、
特に私たちの敬愛いたします四先生、半田先生、そして三人のお子さんたちの上に、
今日もあなたの絶大なる歓喜と慰めと平穏をもって追い詰め、
03:01
愛する先生の御健康が回遊しますように、お助けくださることを併せてお祈り致します。
今からの恩時を主の御手にゆだります。
主にある兄弟姉妹たちの心の内にある切なる願い感謝に合わせ、
私たちの救い主イエス様の尊い御名前によってお祈り致します。
アーメン
救い主イエス様のお誕生
死よりよみがえられたイエス様の復活
やがて来るイエス様の再臨
この三つのことを言っていると思います。
今読んでいただきましたテサロネケイビットへの第一の手紙の五章全体から、
今日は私たちにとって大きな喜び、大きな希望でありますイエス様の再臨のことを
もう一度改めて考えまた学びたいと思っております。
まず一つのことは五章の1から1節から11節のところでありますが、
イエス様の再臨のその日その時は誰も知らないということです。
イエス様自身はその日その時をご存知ではありましたけれども、
私たちにはその日その時は分かりません。
イエス様は私たちに年月やその時刻などを決して予告はされませんでした。
けれども必ず私は帰ってきますということを明言されました。
さてキリストの再臨の日はどのように来るのかということを
聖子は極めて詳しく語っていると思います。
その一つはその日は盗人のようにやってきます。
06:02
これはご臨と人への手紙のこの五章だけではなくして
又への福音書などにもそのことが述べられております。
ですからあなた方も用心していなさい。
人の子は思いがけない時に来るのです。
これは又への福音書の24章の44節のお言葉であります。
その日は盗人のようにやってきます。
言うまでもないことですが
泥棒というものはあらかじめ何年の何月何時ごろに
あなたのお家に押し入りますということは決して予告は致しません。
いつ泥棒が入ってくるかそんなことは私たちは分からない。
役様の御祭りと泥棒の話は一緒にはできませんが
一つの例え話として聖書に述べられておりますので
そう言わざるを得ないのでありますが
あるいは人々が平和だ安全だ
ある意味では死神が見えたようなことだと思いますが
絶対安全であると
何事も起こらないというような
そういうことを言っている時に実は突如として起きてくるのですよ
と聖書は私たちに語っております。
あるいは妊婦に海の苦しみが臨むように
突然ある人にとっては破滅が襲ってくる
それから逃れることはできませんと聖書は述べております。
私たちのお互いの人生あるいはこの世界には
予期せぬ出来事というものがいつでも必ず起きてきます。
今回のコロナウイルスの感染
あるいは大震災などが必ず起きるということを
09:04
誰が皆さん予期したでしょうか
まさにまさかの出来事だったと思います。
ちょうどそれと同じようにと言いましょうか
イエス様の再臨もそんなことは起こるはずがないんだという
例えば聖書の中に出てくる出来事の一つでありますが
ノアの大洪水の時もやはりやっぱり同じだったんですね
神様がノアに雨が降ってきます
そして嵐がやってきて大洪水が起こるから
あなた方はあなたとあなたの家族は箱舟を作りなさいという
彼と彼の家族以外の人は皆ノアたちを
おそらく気が触れたのかという
こんな素晴らしい晴天の日にどうして雨が降るものか
と皆そう思ったの
ところがやがて雨がポツポツと落ちてきて
やがて大嵐になって大洪水が起きた
遥か昔の出来事ではありますが
ノアの時代の大洪水のような出来事
大洪水ではないかもしれませんが
起きるはずがないことがやっぱり起きてくるわけでありますが
しかも聖書が必ずそれは起きるんだと言っている以上
私たちはこれを信じないわけにはいかない
どんな今目に見える現状がまさかということであっても
聖書だけは私たちは本当に信じていかなければならない
聖書には出てきませんが
ポンペイが一瞬にして焼き滅ぼされた
ローマがあんなに栄えていたのに滅びてしまった
もっとさかのぼって申し上げれば
聖書に出てくるアスリアとかバビロンとか
12:02
滅びるなんてことは誰も考えなかった
ギリシャもそうです
あるいはナシスヒトラ
ナプレオンもそうですけどね
まさかということがみんな実現してきた
聖書に載っている出来事もそうでないことも
ですから皆さん
それ以上にキリストの再臨は必ずある
そんなことがあってたまるかと
人々は言うかもしれませんが
しかしくどいようですが
聖書に何度も何度もキリストの再臨のことが述べられております
ずっと前の話になりますが
ビルグラム博士が世界が燃えているという本の中で
キリストの再臨について聖書は
少なくとも300回以上述べていると言っていますが
ビルグラム先生がおっしゃっているから
まず間違いないと思います
300回じゃなくてもたった1回でも聖書が言っていたならば
私たちはそれを疑ったり
あるいは探すことはできません
ただ信じるだけであります
聖書の中にこういう言葉がありますが
彼らは自分の頭上に燃え盛る炭火を積み重ねている
皆さんちょっと想像してみてください
自分の頭の上に燃え盛る炭火がぶら下がっていると
やがてその燃え盛る炭火が
自分の頭の上にバッと落ちてきたら
一体どうなるのでしょうか
今皆さん日本だけでなく世界中が
あるいは全人類の上に燃え盛る炭火が
まさに落ちようとしている時ではないだろうかなと
私は想像するのです
これは何を表しているかと言いますと
神様の厳正かつ公正な裁きの剣が
やがての時必ず切り落とされるということを
15:04
表しているんです
ギャルティアセの六書八節九冊に
自分の肉に巻く者は肉から滅びを狩り取ります
御霊に巻く者は御霊から永遠の命を狩り取るのです
失望せずに善を行いましょう
諦めずに続ければ時が来たりて
狩り取ることになります
皆さんイエス様のサエリンというのは
何か政治学とか教育学とか倫理学とか
あるいは経済学とか法学とか
法律の方で法学とかそういうものが
私たちに言っているのではないんです
聖書が言っているということを皆さんどうか
忘れないでいただきたいんです
神の御言葉である聖書が
滅びとは何であるか
あるいは永遠の命とは何であるか
あるいは世界の終わりが本当に来るかどうか
そういうことは神の言葉である聖書を通して
私たちはいつも鋭く見極めて
いかなければならないと思います
天地は滅び去るんだ
これはマタネの福音書24章の35節のお言葉であります
天地は滅びますと
必ず滅びますと
しかし私の言葉は決して消え去ることはありません
神の御言葉だけはどんなことがあっても
滅び去ることはないと
聖書自身がそう言っていますし
イエス様が自らそうおっしゃっているんですから
これはもう100%以上間違いないことであります
ですから皆さん私たちも
いつも御言葉を思い出す
御言葉は何を言っているのか
あの人はこう言っている
世の中はこう言っている
誰それはこうだと言っている
もちろんそれも時と場合によって必要なんですが
とりわけ世界の終わりとか滅びとか
あるいは再臨とかいうものは
必ず御言葉によって私たちが
そのことを思い起こしていく必要があると思います
18:02
イエス様が死んで蘇ってお墓に葬られた
数名の婦人たちが
心配して
そしてお墓を見に行ったその時に
彼女たちは特にマグダラのマリアだったと思いますが
御言葉を思い出した
御言葉を思い出した
どうぞこの明治大教会の方々だけではなくして
少なくとも全てのクリスチャン
全ての教会人に対して
私だけではないですけども
このメッセージを送りたいし
しっかりと明記していただきたい
御言葉を思い出した
そしてあっ
そうだイエス様は
あの時私は死ぬけれども
十字架で死ぬけれども
必ず蘇るんだとおっしゃった
というイエス様の言葉を思い出した
皆さんはこれです
御言葉を思い出した
イエス様が来られた時に
それは世界の終わりということでありますが
私は思います
その時が来た時に
神様を成し代にしてきた人はどうなるんだろうかなと
神様のことなんかどうでもいい
と口では言いませんが
そういう風な生き方をしてきた人って
一体その時どうなるのかなと
個人的なことで非常に恐縮なんですが
時々私は
皆さんはどうでしょうかね
もう本当に今日にでもイエス様を再臨してほしいなと思う時がありますよ
早くイエス様来てほしいな
目標にもそういう言葉が出てきますね
徳を鍛えたまえ
主は早く来てください
それでも
それと共に反面
いや
まだ救われてない人がたくさんいらっしゃる
21:01
イエス様が来られる前
あるいはその人の人生の終わりが来る前に
何とかイエス様を信じてほしいな
救われてほしいな
特に愛する親しい方や家族の中に
あるいは近所の方々に
まだ救われてない方がたくさんいらっしゃいますが
そういう方々のことを考えますとね
主よもう少し待ってください
というようなお祈りもするわけですけどね
とにかく私たちは
身を覚まして身を包んでいなさい
5章の中に2回その言葉が出てきますね
5章の6節に
ですから他の者たちのように
眠っていないで
目を覚まして身を包んでいましょう
それから8節にも
しかし私たちは昼の者なので
信仰と愛の胸あてをつけ
救いの望みという兜をかぶり身を包んでいましょう
眠っていないで
これは言うまでもなく
肉体的な眠りというよりも
信仰的な眠り
私たちの信仰の目
あるいは心の目と言いましょうか
そして生活が
どこを見ているのか
どこを見つめつつ
生活しているのか生きているのか
それは眠ったようなものではない
眠っていないで目を覚ましていなさい
目を覚まして身を包んでいなさい
又への24章44節のお言葉は
お申し上げあげましたが
その中に用心していなさい
あなた方も用心していなさいよ
用心していなさいということは
目を覚ましていなさいということ
涼しみ深くありなさいということ
そしてもう少し詳しく申し上げますと
身を慎んでいるというのは一体どういうことか
そうですね一つは
私はイエス様の十字架によって
罪が赦されたんだと
神様の愛と許しをいただいた
あの時悔い改めてよかったなと
救われてよかったなということを
思い起こす
これは皆さん毎日でも
24:01
思い起こしていただきたい
二つ目は
キリストの死と
キリストが十字架で死んだ
けれども復活したということは
イエス様はすべての罪も死も
黄泉も地獄も一緒ですが
暗闇の世界を全く打ち滅ぼしてくださったという
勝利の死であるということを
思い起こしてくださいと
そして神の御国の相続人とされて
その承認として証拠として
御霊をいただいた皆さん
毎日のように
私は許されて
そしてしかも
御霊をいただいている
内住の御霊を
本当にいただいている感謝です
ということを思い起こす
そして
昇天されたイエス様は
今どこにいらっしゃるのか
どこにいらっしゃいますか
皆さんはお分かりだと思います
イエス様は
神の右のミザ
これはイエス様だけが
お座りになれるとこですね
その神様の
ミザでイエス様は
何をなさっているのか
言うまでもなく
私たちのことを
しおくじき忘れないで
祈っていてくださる
おそらくですよ
イエス様は
私たちの名前を
あげながら
あるいは私たちの顔を
思い出しながら
そんなイエス様と
まだ直接会ったことがないのに
私の名前や顔を
ご存知なのかと思うかもしれませんが
しかし私は
自分でそう思う
イエス様は私の
名前や顔も全部ご存知で
私のことを忘れないで
一生懸命祈っていてくださる
ありがたいなと
他の誰が忘れても
イエス様だけが私のことを
忘れていらっしゃらないと
皆さんこんな心強いことは
他にないんじゃないでしょうか
そして時には
イエス様は
着座されたままではなくして
27:02
やっぱり立ち上がって
手を挙げているかどうかは
分かりませんが
私の想像では
イエス様
ルカの福音書の最後を成すと
手を挙げて彼らを祝福した
祝福しながら
天に還られた
って言うんですから
やっぱり君は立ち上がって
私たちのことを本当に
心配して祈っていてくださる
この明大利教会のためにも
すべての教会
すべてのクリスチャン
全世界の教会のために
イエス様はもう
一生懸命祈っていてくださる
そんな一生懸命祈っていてくださるのに
どうしてこのコロナが
なかなか収束しないのか
オクラニアとロシアの紛争が
どうして早く解決しないのか
と私は思いますし
皆さんもそう思われているかもしれません
詳しいことははっきり
断言できませんが
おそらくですよ
おそらく
いまだにコロナが
収束しないことは
皆さん誰が
こういう現実を
心配するよりも
イエス様が一番心配していると
私は思いますよ
一番心にかけてくださっているのは
イエス様だと思うんです
なんでイエス様が
神の権威を持って
これを正しくさばえて
解決してくださらないんだろうか
たぶんこれは
全人類全世界に対する
神様の愛の警告忠告ではないだろうかな
全世界が
全ての人類が本当に悔い改めて
神の前にひれ伏すことを
今か今かと待っていらっしゃるんじゃないかな
そのためにイエス様は立ち上がっても
たまらなくなって
お祈りすることもあるんじゃないかな
かつてステパノが
神経前に
ああ
神の右の座に
いらっしゃるイエス様が
立っているのが
私は見えますと言いました
傍慢な奴だと言って
ステパノに
怒りの拳を挙げた人も多かった
と思いますけどね
ああイエス様は立っていらっしゃる
私のために祈っていてくださる
その同じイエス様が
今も私たちのために祈っていてくださる
皆さんどうぞ
これを本当に
信じていってください
皆さんクリスチャンの
信仰性格の最終目的
30:01
最高最大の目標目的は
イエス様のサイリンです
キリスト教会
クリスチャンが
サイリン信仰なくしたらもう
終わりと言ったら失礼かもしれませんが
キリスト教会の存在価値というのは
失われるんじゃないかと思います
さて二つ目のポイントこれは
読まれた通り
この通りのことです
12節から24節まで
特に時間的なこともありますので
特に
16、17、18
いつも喜んでいなさい
絶えず祈りなさい
すべてのことにおいて感謝しなさい
もしかし
いつも喜んでいることができますか
現実は
喜べないことの方が多い
悲しいことや苦しいことや悩み事の方が
いっぱいあるんじゃないかと思います
あるいは
絶えず祈りなさい
絶えず祈りなさいと言っても
もう祈りたくなくなる時が
やっぱりあると思います
こんな状況でどうして祈れるかっていう
そういう時もしばしばあるかもしれません
しかし精神を祈りなさい
そして18節
すべてのことにおいて感謝しなさい
あの
感謝できないことがいっぱいあるんです
皆さんコロナのことや
オクライナとロシアのことや
その他
山ほど感謝できないことあるんです
でも
精神は感謝しなさいと
これはキリストイエスにあって
神があなた方に望んでられることである
だから皆さん
私たちがそれを望んでるとか
やりたいとかしたいとかというよりもむしろ
キリストにあって神がそれを望んでられることであるから
神の見心であったらそれは
決して不可能ではないんだ
皆さん
しなぐ神様が
私たちにできないことをやれと言ってると思いますか?
私はそう思わない
神は何でもできるってありますから
神様はあなた一人でやってのけるんじゃないよ
33:00
私と一緒だよ
いつもそう思う
私と一緒だよ
それなら私はあの
祈れるし
喜ぶこともできるし
感謝することもできる
そして
25節から28節
特にここでは
取り出しの祈りということを
勧めているところであります
愛と親切で取り出す
個人家庭友達国家世界あらゆる機関
皆さん
私たちにとって
祈り出したらもう本当に
キリがないと言いましょうか
5分や10分
あるいは20分
30分
それでもまだまだ時間は足りない
ということがあるんではないだろうかな
仕事とか家庭とか
健康的なこととか
いろんな事情で
そんなに30分も1時間も祈れない
時があると思いますけれども
それでもやっぱり
祈り出したらもう本当に次から次へと
祈りが湧いてくると言いましょうか
祈らざるを得ないことが皆さん
いっぱいあるんじゃないですか
小さな赤ちゃんのこと
保育機に入っている赤ちゃんとかですね
最近も身近なところで
もう本当に生きるか死ぬかという
こんな小さな赤ちゃんに
何本の医療の
ラインと言いましょうか
もうそれこそ
小さな可愛い赤ちゃんに
赤ちゃんが線だらけになっている
そういう赤ちゃんが
もう本当に
1ヶ月ぐらい経ったんですかね今
もうその繋がれていった
いろんな医療のための線が
もう全部取れてね
本当に
お医者さんも看護医さんたちも
よく頑張ってくださったな
またお見なさった母親も
よく守られたなと思って
送ってきたその動画と言いますかね
スマホで送ってきた動画を見たら
もうその赤ちゃんがね
36:04
よく守られたな
本当に神は生きていらっしゃるな
そういうことばかりではないんですけどね
改めて
命って本当に神様が握っているんだな
そういう病院で働いている
お医者様や看護師さんや保健さんたちや
薬所で働いている職員の方や
消防自衛隊
あるいは警察
救命士の皆さん
あるいは学校関係の方々とかですね
あるいは百貨店とか商業施設とか
本当にコロナ禍のために
成り立たなくなったたくさんの会社とかですね
商売の人とかもたくさんありますが
そういう方々のために本当に私たちは
私は祈るよりもほとんどないんですけども
現在祈らせていただいている
日本を助けてください世界を助けてください
あるいは日本国際経済対策とか
国境なき医師団とか
あるいはこの新学校とか
ありとあらゆるものがですね
ついかついて浮かんでくる
取り出しの祈り
兄弟たち私たちのためにも祈ってください
全ての兄弟たちに聖なる口づけをもって
挨拶をしなさい
そして五章の終わりは
私たちの主役キリストの恵みが
あなた方と共にありますように
私はこの五章の28節のお言葉を読んだときに
旧約聖書の歴代史第一の
4章9節10節に出てきます
野別の祈り皆さんもご存知だと思いますね
野別の祈り
彼の母が恵みのうちに
この子を産んだからといって
彼に野別という名を付けていた
私はこの野別の祈りというのは
お母さんとか自分の子供の野別の個人的な
あるいは家庭的な祈りだけじゃなくて
本当に皆さん野別の祈りというのは
それこそもっと範囲の広いと言いましょうか
全世界のための鳥なしの祈りのようなものを感じるんですね
39:04
私をお祈り祝福してください
私の自社会を広げてください
あなたの御手が私と共にありますように
災いから遠ざけて
私が苦しむことがありませんようにしてください
皆さんのお耳には聞き苦しいかと思いますが
この野別の祈りを元にしてある方が
賛美を作られました
こういう賛美です
私をお祈り祝福してください
私の自社会を広げてください
あなたの御手が私と共にありますように
災いから遠ざけて
私が苦しむことがありませんようにしてください
私のあなたの御手が私と共にありますように
災いから遠ざけて
私が苦しむことがありませんようにしてください
最後に一つの話を申し上げて終わりたいと思います
命のオリエンテーションというお話です
実はこのお話は
ある牧師先生がある本の中で押し立てたことそのままのお話です
佐藤恒昭という先生の書物に載っていたお話でありますが
命のオリエンテーション
学校でも企業でもオリエンテーションという言葉をよく用いることがあります
42:04
しかしこれがキリスト教会の専門用語であることを知る人は
少ないのではないでしょうか
この言葉は太陽が昇ることを意味し
やがて東を意味するようになったラテン語
オリエンスに由来します
古来教会堂をいつも東向きに建ててきたのです
東から太陽が昇り正面の窓
後にステンドグラスの鮮やかな色彩を輝かせながら
光を差し込ませるのを仰ぎながら
そのように主エスキリストが死の闇から蘇り
命の輝きを表してくださったことを心から褒めたたえたのです
日曜日礼拝堂に集まったクリスチャンの群れはいつもこの復活を祝ったのです
この日を主の日と呼んで主エスキリストの命の支配を心から喜んだのです
このように命の方角に向けて礼拝の場所を整えることをオリエンテーションと呼んだのです
実際の礼拝堂が東を向いていても向いていなくても
礼拝する者たちの全存在がこの命に向かうどんな逆境にあっても
主エスキリストの命に向かうそれが私たちの神への礼拝であるということをおっしゃっていますが
この御殿教会にも美しい素晴らしいステンドグラスがありますが
本当にイエス様の命の光が目に見えるところもそうですけれども
私たちの心や家庭の中にもイエス様の命の光が輝き渡ってくださるという
そして私はこの先生の本を読みながら
イエス様の祭輪というのはまさにそうだなと
やがてイエス様の祭輪があるということをお話ししてきましたが
ちょうど東から太陽が輝きながら昇ってくるように
おそらくですよキリストも目も暗くような輝きを持って来られるんじゃないかなと
聖書には雲に載っていてありますがその雲は私たちを知っているそういう雲ではないと思いますが
本当に目も開けられないようなまばゆい光を輝きしながらイエス様はやって来られるんじゃないかな
そして救われるクリスチャン、クリスチャンは救われているのですが
クリスチャンにとってはそれはまさに希望の光であると思いますよ
45:09
本当に救われていてよかったなと
クリスチャンでよかったなと
クリスチャンであるがゆえに痛ましいことや悲しいことや思わぬ誤解も受けたこともあったけど
クリスチャンでよかった、教会に来ててよかったということが
もう全面的に分かるのが祭輪の時だと私は思います
でもそうでない人にとってはこれは
耐えられないような悲しみと痛みの時になるということを考えますと
何とも言えない気持ちになることが私はあります
敗北と勝利、闇と光、絶望と希望、救いと滅び、悲しみと喜び、天国と地獄はこの時皆さん
完全に判明する時、それは祭輪の時ではないかと思います
どうぞ愛する兄弟姉妹
そして私たちは祭輪への希望、祭輪への信仰をめざめさせていただいて
愛と忍耐と希望を持ってこの時を待ち止めたいと思います
あるいは多くの者にとっては
この地上で存命中にイエス様が来られないかもしれません
来るかもしれません、それはもうどちらでもいいと私は思います
とにかくイエス様の祭輪を待ち止めつつ
精一杯忠実にシトシの教会に使えてまいりたいと思っております
お祈りをお捧げいたします