1. 名谷教会
  2. 2014/03/16:聖日礼拝(旧音源)
2014-03-16 49:23

2014/03/16:聖日礼拝(旧音源)

2014/03/16 聖日礼拝(旧音源)




00:01
アーメン、感謝します。毎日の賛美をここから拝謝いたします。
はい、それでは今日も見言葉に入る前に、隣の方々もアクセスしながら挨拶をしたいと思います。よろしくお願いします。
ようこそいらっしゃいました。おはようございます。おはようございます。おはようございます。
はい、先ほど池田姉妹の祈りにもありましたように、早1年がですね、ちょうど去年のこの3月の3週目、最初に神戸に来て、最初にお会いしたのはもともと巨大でしたけれども、
万代でお会いして、そしてその週でしたか、その次の週に役員さんとお会いして、1年がですね、皆さんに大いに応援していただいて、また祈っていただいて、支えていただいて、
1年が未熟な足りなき者ですけれども、ここまで来られたことは、全て神様の恵みで、神様の力で、全ては神様がなされたことなんですね、この福祉というものは。
ただ、道具にすぎない、なされる方は死である方、神様に感謝して、また1年、また1年、今日の日本有数は任命制ですから、いつ、
さあ、ゆうじ先生、北海道に行きなさいとか、神戸に行きなさいとか、沖縄に行きなさいとか、いつ、どういう任命が来るか知りませんけれども、許されている限り、ともに、救いのために前進してまいりましょう。お祈りいたします。
神様、あなたの恵みを心から感謝いたします。どうぞ。共に歩むその信号の恵みを心から感謝いたします。共にその民が集まって、賛美を捧げ、また御言葉をいただく、この幸いな僕を感謝いたします。
神様、今から開かれた御言葉から、聖霊様御自身が、我ら一人一人に語りかけ、教えて、正して、地の道へ、愛の道へ、どうぞ導いてくださいますように、お願いいたします。
見て見慣れて、感謝して、神様の皆によってお祈りいたします。
今日は、この開かれる二つの箇所から、御言葉を喜びとする、そういう題にして御言葉をいただきたいと思います。
私が福岡におるときに、神戸に行くことが決まって、福岡教会に神戸出身の姉妹がいて、私がここを聞いた姉妹が中山姉妹です。
03:02
神戸は何が有名ですかと言ったら、先生、神戸と言ったらパンでしょって言われた。そうですか、皆さん。同じ生き方もいらっしゃいますし。
先にパンの話をしたいと思いますが、福岡にいるときに博多駅があるんですね。
その商店街にミヨンという有名なクロワッサンのパン屋さんがあるんです。駅の構内にあるんですが、朝とか午後の退勤の時間になったら、もう二十人、三十人がずっと並んでクロワッサンを買うんですね。
そして博多駅の駅の構内があのパン屋さんのミヨンって言って、ただ呼ぶほど有名なパン屋ですが、並んだことはありませんが、買って食べたことはあります。ものすごくおいしかったんですけど。
あるとき、あの店に並んでいる人々を見て、こういう考えをしたことがあります。日本の教会があんなに魅力があって、人が例外出入りも入りたくて、並ぶほど教会になればいいなと。
早く行かないと、もう切れて食べれないほど、そういう教会になればいいなと。何時間も並んでも食べたい。何時間も並んでも教会に行きたい。そういう教会になったらいいなとですね、思ったことがあるんですね。
皆さん、世の中でお腹を空かせた人たちが焼きたてのパンに引き寄せられています。とは言っても、そのパンはちょっと違います。
飢えた心を癒すパン。命の、つまり神の御言葉。この神の御言葉、命のパンは、私たちの心にぽっかりと口を開けている穴を塞いでくれますし、
心の虚しさも癒して埋めてくれますしね。ところが皆さん、いくらおいしいパン屋さんがあってもですね、この周りにもあるかもしれませんけれども、
そこに毎日ですね、おいしい焼きたてパンがずらっと並んであっても、自分で食べないと、そのパンは自分と何の関係がありません。その焼きたての新鮮なパンの味がわからないんです。
06:01
今日の御言葉、エレミアは私たちにこう言っています。私はあなたの御言葉を見つけたし、それをどうしましたか?どうしましたか?食べました。御言葉を食べました。
あなたの御言葉は私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりましたと言いました。皆さん、神様は新鮮な焼きたてのパンが好きです。古くなったパンを与えることは絶対になさいます。
古いパンでは私たちが必要な栄養分を十分に取ることができないのを御存知だから、魂をかき立て行いを変えていくだけの力は神様がくださるその新鮮な命のパンにあるのです。
神様は昔、イスラエル人にこのことを印象深い形で教えられました。それが今日のエジプト紀のお話です。イスラエルの人々が430年間もイスラエルで奴隷を暮らし、その生活を後押しして約束の地での新しい生活に向かって出て行ったのです。
100万人あるいは200万人以上であるかもしれません。数えた人はないですからね。その多くのイスラエルの人々に、主なる神様は毎朝、欠かさず毎朝、新鮮なパンを与えられたのです。
このマナーと呼ばれるパンには、彼らがその砂漠であらので生きるために必要とするすべての栄養が含まれているのです。
その味は甘くナッツの味するパンと言いましたけれども、自然のところにはそのマナーを密かいのパンとも呼んでいるのです。密かいのパン。
イスラエルの民は毎朝、毎日、神様がくださるこの肉体のためのマナーを食べたわけですか。それは、シンボル的には、私たちに毎日のその日のマナーが必要である。つまり、御言葉が必要である。
09:18
いや、御言葉を必要とする存在として、神様が最初から作られたわけなんです。
その神様は、毎朝焼きたての新鮮なパンを受け取るように、今にも私たちを招いてくださっています。
毎日御言葉へ招いておられるのです。
その神様のその新鮮なパン屋の名前を、私も勝手に記念と読みました。マナーベーカリー。いかがですか。
もしパン屋があった人は、この名前をご自由に使っていいです。
マナーベーカリーに招いて、毎朝御言葉を受け取ってほしいと、招いておられるのです。
皆さん、古くなったパンほど、ひどいものはあります。
天から与えられるこの新鮮なパンには、もう一つの大きな特徴があります。
今日御言葉に書かれているように、それは、蓄えておくことができない。
昨日の食事の残りを、今日食べることはできません。
毎日新しく集める必要があります。
毎日その日のマナーを食べる必要があります。
今日の執エジプト紀16章4節を一緒に読みたいと思います。
では、御一緒にお読みしたいと思います。
主は孟子に仰せられた。
みよ、私はあなた方のために、パンが天から振るようにする。
民は外に出て、毎日一日分を集めなければならない。
これは彼らが私の教えに従って歩むかどうかを試みるためである。
毎日一日分を集めなさいと語ったのです。
12:06
しかし、心の堅くななイスラエルの人たちは、
みんながそうしたわけではないのですが、一部の人々が、
この御言葉に、教えに背いて、とってもマナーをかき集められたのです。
そういう人がいました。
その結果、どうなったのでしょうか。
二十節をご覧ください。
一緒に読みたいと思います。
三合。
彼らは孟子の言うことを聞かず、ある者は朝までそれを残しておいた。
すると、それに虫がわき、悪臭を放った。
そこで孟子は彼らに向かって行かった。
つまりですね、不従順が悪臭を放ち、
誰の目にも明らかになったのですね。
皆さん、興味深いことに、新鮮さ、新鮮には、この期限があるわけですね。
タイムリミットがあるわけです。
つまり、きょうは、きょうの焼き立てのパン、新鮮なパンが必要なんです。
きのうのパンをもっては、きょうは生きられません。
虫がわき、悪臭を放って、
誰でもですね、虫がわいてですね、悪臭を放つ、使ったパンを食べる人はいないわけなんです。
私たちに、その日のその日の、毎日の御言葉が必要なんです。
毎日の御言葉を皆さん、食べていらっしゃるでしょうか。
もう一個見てみたいと思います。
新明紀八章三節です。
旧約聖書319ページです。
それでは、三節を御一緒にお読み下さい。
新明紀八章三節です。
それで、死はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかった、まなを食べさせられた。
それは、死とはパンだけで生きるのではない。
15:01
死とは死の口から出るすべてのもので生きる。
そういうことをあなたにわからせるためであった。
今日の出演する時のあの記事をですね、新明紀で私たちに説明しているんですね。
つまりこれはですね、言い換えてわかりやすく申しながら、神様がイスラルの民だけではなく、今の私たちにこうおっしゃっているわけです。
あなたたち、毎日ある人は二食、ある人は三食、ある人は四食、それにおやつ、パン、おかず、ジュースなどを食べて生きようとです。
生きるために食べる。
一日でも食べ物をもし食べていないと、心窮屈になってしまうことはあるじゃないか。
あなたたちが食べ物を食べて生きられることと同じく、神の人は神の口から出る言葉を食べないと生きられないのよ、という御言葉なんです。
イエス様もこの御言葉を用いて、パパの誘惑を打ち破られたんですね。
暗記してそれをお使いになりました。
イエス様がルカウマ福音書11章3節、「主の祈りのところですが、仕事の糧を毎日お与え下さい。」と祈りを教えてくださって、
私たちは、皆さんは毎週の礼拝時にその御言葉を、主の祈りを祈っているんですね。
仕事の糧を今日もお与え下さい。
その祈りを覚えながら、自分自身に説きたいと思います。
仕事の糧を毎日お与え下さいと祈っているように、
私たちは仕事の糧を毎日食べているんでしょうか。
皆さんが自分で仕事の糧、神の御言葉を食べているでしょうか。
昨日のパン、1週間前のパン、あるいは1年前のパンじゃなくて、
今日の神様が作ってくださった、新鮮な焼きたてのこのパンのような、
新鮮な今日のマナを、今日の御言葉を食べているでしょうか。
皆さん、聖書どこを見てもですね、
毎週の糧とか、毎月の糧とか、毎年の糧とか、あるいはたまにの糧とかは書いてないんです。
仕事の糧と語られているんです。
18:00
私たちは毎日新鮮なパンを、マナを、御言葉を必要とするように作られているんです。
車の運転される方、大勢いらっしゃると思いますが、
ガソリンがなくなってですね、
と、まずこの赤いランプが点くんですね。
もうすぐなくなりますよ。ガソリンを入れてください、と。
シャインが出てくるわけです。
そうすると、みんな、車の運転される方は、ガソリンスタンドに行って、
五千円であれば一万円であれば、そして走ります。
ガソリンがなくなった車では走ることはできません。
止まってしまいます。
どこにでもその車は止まってしまいます。
高速道路でも、あるいは市内でも止まって動きます。
私たちの人生の歩みも虚しです。
時々、何らかの形で赤いシャインが点くかもしれません。
御言葉を入れてください。
神の御前に、神のガソリンスタンドに行ってください。
そして、入れてください。
そうしないと、それを無視してですね、走ってしまうと、
必ずどこかの時点で止まってしまいます。
私たちが真剣なパンを引き落として、
精霊様に毎日会いに行かなくてはならないもう一つの理由があります。
それは、私たちは放っておくと、彷徨ってしまうからです。
皆さん、一晩にしてですね、いきなりですね、人生がダメになるものではない。
一晩にして日常を失ってしまうことは、ほとんどないと思います。
少しずつ、少しずつ波に流されるように離れていきます。
あるいは、今は大丈夫だろうと思っている途端に、もう溺れてダメになることがあります。
結構何年か前ですね、家族で初めてですね、韓国の蔡州の月土にですね、遊びに行ったことがあります。
21:09
日本に来るところでした。
それでですね、きれいな海があって、私と2人でですね、カメラを持っていたし、時計もありましたから、
そんなに水が多くなかったので、あそこに帽子の上にカメラと時計を置いておいて遊んでいました。
見てみたら、あまり水が増えていない。
だから思いっきり遊んでいるんですね。
あと見たら、全部溺れてしまって、カメラも腕時計もダメになってしまった。
徐々に徐々に徐々に満水になる。
気づいたら、もう戻せない時が来るかもしれない。
大抵長い時間をかけて、人生の危険なことは起こってしまう。
神様の御言葉を毎日聞くごとには、そのように離れて行こうとする流れに対抗する力が、毎日の御言葉にある。
続いて見てみたいと思います。
ヘブル人への手紙、新約聖書ですね。
ヘブル人への手紙、第二の一節、425ページです。
新約聖書、425ページ。ヘブル第二の一節。
では、ご一緒に読みましょう。
ですから、私たちは聞いたことをますますしっかり心にとめて、押し流されないようにしなければなりません。
皆さん、押し流されないようにしなければならないんですよ、と語っているのは、押し流されることがありますよ、というメッセージではないでしょうか。
では皆さん、どうすれば流されることなく、ますますしっかり心にとめていくことができるのでしょうか。
それは、もう他に方法がありません。
毎日、神の御前に、聖霊様の御前に、ひざまずいて、おいていただく。
見つけていただく。そして、こぼっていただく。
皆さん、最初少しずれたら、その時は気づいていないかもしれません。もう大丈夫じゃないか、と思うかもしれません。
24:02
しかし、あとあと大変なことになります。
私ですね、その経験をしたことがあります。
軍団員の時に、その部隊に、教会の建物が本当にダメになって、それを一面の壁を素人の聖人たちがブロックで建築みたいに建てたことがあります。
みんな、適当にするわけなんですね。専務課も一人もいないですし、それで建てたんですね。
これぐらい高かったんですけれども、真ん中まで建てて、ちょっと斜めになって、もう大丈夫じゃない、やりましょうって、みんなこうやりました。
そしたら、ちょうど上まで至る直前に、一角が全部倒れてしまったんです。
最初は少し目で見て、少しずれてるから大丈夫じゃないか、持てるものかと思うんです。
しかし、どんどんどんどんこうなるわけなんですね。どんどんどんいったらね。そしたら、それがこうバタッと倒れてしまう。
俺ら人生の少し間違っていたら、それが5年後、10年後、もっとその確差がひどくなって、なかなか戻すことが難しくなることがあるんです。
あるいは、だめになることもあるんです。言い言葉は私たちの毎日の過程なんです。
ある本から読んだ中国クリティカルたちのお若しさを一緒に分かち合いたいと思います。
すごく目の前にいましたけれども。あるアメリカの牧師先生が、ひととき中国のところに行って、
神とのリーダーたちを成長を教える働きをしているんですね。そして2日間、神とリーダーに成長を教えるトレーニングをすることになりました。
その集まったリーダーたちは、中国の地下協会という家庭協会を支えている法師者の神とリーダーです。
20人ほどが集まっていました。ところが、先生が最後に自己紹介をしているうちに分かったことは、
みんなだいたい1週間かかって、あるいは十何時間もかかって、その会場に集まってきたんですね。
27:10
彼らは先生から聖書を教えてもらうときに、もう20人が一人も漏れなく、
聖書から語ってくされた御言葉を漏らさず聞き取ろうと、熱心に耳を澄ませて聞いていました。
まるで先生の本に書いている表現がありますと、彼らの目と顔の輝きは、
まるでこの学びがこの一生に一度最後のチャンスかもしれない、そういう熱心な態度を持って、
もうすごい吸収力を持って吸収していたんですね。
そのところで、またお話があったりするんですよね。
休憩のときに、ある一人の女性から聞きました。自己紹介をしてもらいました。
彼女は最近3年間も刑務所で机をしていた。
そしてちょうど出てきた所だと話をしていました。
同じケーキで5回も刑務所に机をしたそうです。
その材料はこういうことだったそうです。
姿も見えない、イエス様に対する信仰を持っている。
それが罪状だから、5回も同じ3年後。
だから15年ですね、合わせて。登録されたわけです。
そして先生が他の19人も聞いたんですね。
そしたら、信仰の理由で複裂した人が20人のうち18人も、
みんな1回以上経験があった。
彼らは真剣で命懸けで死を信じていたんですね。
そしてこの先生は教えながらますます好奇心が湧いてきて、また聞いてみたんですね。
みなさんはそれぞれ家庭協会をしているんですけど、
みなさんが教えている、みなさんについて一緒に信仰生活をしている人は何人ぐらいでしょうかと聞いたんですね。
そしたら、その中の一人がこう言ったですね。
先生、だいたい2200万人ぐらいですよ。2200万人ですよ。20人じゃなくて。
その先生は驚きました。びっくりして思った。
30:05
こんな続いてですね、驚きが続いていたんですね。
選挙時代でみんなですね、選挙を読むときに ある一人の女性はほとんど選挙を開かないんですよ。
そして読むと先生が、あなたは何で選挙を開かないんですかと聞いたら、ほとんど選挙を覚えてます?
ほとんど数百数百の選挙を暗記しているんです。
それが先ほど5回もトークされた人です。
その先生がまた興味を得て、一応暗記したんですか?
数百数百に暗記したんです。
いや、でも選挙を持っていたなら、すぐに取り上げられるんでしょうと聞いたら、
だから仲間が紙切れに書いて渡してくれるんです。
でもそれも書いていたら、見たらそれも取り上げられるんじゃないですか。
墓室されるんじゃないですか。
と言ったらその女性は、だから墓室される前に全部覚えてしまうんです。
それをずっと15年間暗記してきたかけで、選挙をほとんど覚えているんですと言いました。
また彼らの暁はこう続きます。
で、訓練が3日間終わりました。
先生は最後に彼らにこう尋ねたんですね。
私に何か皆さんのために祈りできることはありますか。
彼の答えはこうだったそうです。
先生、あなたの国では自由に集まって、自由に礼拝できますよね。
私たちもアメリカ人のように自由に死を信じたいんです。
あなたたちのようになれるようにお祈りくださいと、彼らから祈りのリクエストがありました。
しかし3日間、彼らのその真剣さ、1週間もかかって、13時間、15時間もかかって御言葉を学ぶ。
生徒の御言葉をその刑務所で全て暗記してしまう。
この生徒の御言葉の学びが最後であるかもしれません。
そういう熱心さで御言葉を学んでいる彼らから、この先生がむしろ教えられて恵まれて、
彼らからアメリカ人のようになれるようにお祈りくださいと言われたときに、
この先生が悲しく首を振りました。
いいえ、そういうふうには祈りません。
彼らが、なぜですかと先生はため息を引きながらこう説明したそうです。
皆さんは1週間も13時間もあの狭い狭い列車に乗ってここに集まってきました。
33:06
アメリカでは、車で30分以上かかるところに教会があったら誰も教会に行きません。
彼らにはそれでも遠すぎるんです。
皆さんはエアコンもないところで床に床の上で座りながら3日間も翌日も学ばれました。
私の地元ではクッションもついた椅子があって快適にエアコンがついていなければ人々は教会になんか来ません。
皆さんは聖書が不足しているので、神に御言葉を書いたそれを暗記しているんです。
アメリカのクリスタルホームでは、家に何かとも聖書があってもそれを書くことはあまりありません。
最後に先生がこうお願いしながら泣き出したそうです。
ですから皆さん、皆さんが私たちのようになれるようにとは祈れません。
むしろ私たちアメリカ人が中国の皆さんのようになれるように祈らせてくださいと。
皆さん、中国のリーダーたちはなぜこんなに大きなリスクをおかしてまで集まり神の御言葉を聞こうとするのでしょうか。
15年間もトークされ、でも集まって何百万人も導いている彼らのその力はどこから来たのでしょうか。
理想ですね、棒に振る手をおかしてまで神様の御言葉を聞きに来るほど、
聖書の知恵を貴重なものだと考えることができるその力は、動機はどこにあるのでしょうか。
それは彼らがこの聖書の御言葉を神の御言葉として、生きる御言葉として力である、奇跡であることを経験として知っていたからです。
御言葉には霊的な力があって、悪魔のその強いトリレを打ち壊すことができる。
すべての知恵がこの御言葉にあることを、彼らはですね、経験をもってそれを知っていたから、
御言葉を聞くためには、一時間も電車に乗って、電車に乗って来るんです。
36:00
皆さん、御言葉は御言葉を喜びとする国じゃない。御言葉は国のことです。
ですから皆さん、毎日毎日この神の御言葉をマナーベーカリに行って、この新鮮な焼き立てのこのパン、この御言葉をいただこうではありませんか。
こうお勧めしますと、たまにこういう質問が返ってくることがあります。
先生、毎日聖書を読むことはなぜそんなに大切なんですか。と、少し質問を返してみたいと思います。
皆さん、もしも神様が私たちのこの目と神様の目と交換してくださったとすればどうでしょうか。
恵みによって、神の目を通して人が見るようにではなく、神様が皆さんお一人お一人を見るように、この世界を見るように、この世界を見ることができるんだったら、
人々の魂の状態がありのままに、せきららに見ることができたとしたら、どうなるのでしょうか。
一人お一人を見て、まず自分自身の霊的状態を見て、家族の霊的状態を見て、何を見て、嬉しくなるでしょうか。
喜びに満たさるでしょうか。あるいは驚くでしょうか。あるいは重く進み込むでしょうか。
人が見るようにではなく、神様が見るように、お互いを見ることができたとしたら、どうでしょう。
旧約戦争の第二次世界大戦に、こういう会社がありました。
エリシャが祈ったんです。鉄に囲まれているときでした。
そのときに、こう祈りました。
どうぞ、彼の目を開いて見えるようにしてください。
39番の3名のような歌詞なんですね。
目を開いて見えるようにしてください。
しかしこの若い者の目を開かれたので、彼らが見ると、
なんと、死の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に見つけた。
39:05
で、みんなその敵が出るね。逃げてしまった。
皆さん、もしも妙大にはこんな信者さんいないと思いますが、
教会の人たちが平日の間は、貧弱な、本当にみすばらしい食物を一箇所にするだけで、
満足な食事は、日曜日にしか取らなかったとしたら、どうなるでしょう。
その答えはすでにお分かりになると思います。
教会は、そういう人々を待ちわりになると、栄養失調で、
痩せこけた人たちの集まりになってしまうかもしれません。
倒れそうな状況になるかもしれません。
我らは神の軍隊で平日ですから、悪魔の攻撃に対抗もできないでしょう。
気をつけすらできないかもしれません。
飢えてフラフラになっているかもしれません。
皆さん、毎日の家庭が必要です。
毎日の御言葉が必要です。
皆さん、毎日神のマナーベーカリーで、新鮮なマナーを食べていこうではありませんか。
皆さん、聖書の御言葉に変えることができるものは何もありません。
法師も賛美も御言葉には変えられません。
聖書に、このタイミングであさたちに一つのお話が出てきます。
マリアとマルタさんのお話です。
マルタさんもマリアさんもイエス様を愛しています。
マルタさんは食事のもてなしを準備をしていました。
マリアさんはイエス様の目元で御言葉を聞いていました。
みんな熱心に法師をしていたわけです。マルタは熱心に法師をしていました。
イエス様を愛さないわけではありません。愛しているんです。
一方、マリアは御言葉を聞いていました。
イエス様は呟いているマルタに、こう言われました。
マルタ、あなたはあまりにもたくさんのことを気にかけていますね。
とても心配して、それに心が奪われています。
42:03
この次の言葉が素晴らしくて画期的な言葉です。
どうしても必要なことはわずかです。
いや、一つだけです。
どうしても必要なことは一つだけです。
マリアはその良い方を選んだので、彼女からそれを取り上げてはいけません。
どうしても必要なことは一つだけです。
人間の体は同時に二つのことをすることはできません。
御言葉を読むか、御言葉に学ぶか、他のことをするか。
どちらかを選ばなくてはならないのです。
幸いに、去年4月から創宣一会で、マタリアのクリスチャンから一つずつ始めて、
世の目標に入りました。もう一つ目標に入りました。
皆さん、御言葉を喜びとしたクリスチャンになりたいです。
しかもそれは最高の喜びとしてなりたいと願っております。
最後にもう一つだけ話したいと思います。
またこのような質問が返ってくるかもしれません。
先生、時間がないときはどうすればいいんですか。忙しいんですよ。
主婦だって忙しいんですよ。開催だって忙しいんですよ。
という質問が返ってくるかもしれません。
先生が読むことをいいことだとわかっていても、
毎日読む時間なんて感じられることもあるでしょう。
みんな忙しいです。子供も忙しい。大人も忙しい。お時計の方も忙しい。
御言葉の創業を取りたいと願ってはいますが、
そんな時間をどう作ればいいんでしょうか。
作れないんですよ。時間がないんですよと言われるかもしれません。
ところが皆さん、私はこうお答えしたいと思います。
人は自分が大好きで大切だと思うことのためには、いつでも時間は作れます。
ない時間も見つけたり、他のことをやめたりしてでも、好きなこと、大切だと思うことをするんです。
それが人間なんです。私たちなんです。
それだけではなく、自分が大好きなこと、大切だと思うことをしているなら、
疲れなんて感じられないんです。疲れません。大好きだから。
45:12
例えばですよ。ほぼ皮肉なお話なのかもしれませんけど、
ホースや集会に来ることは疲れて行きたくない。忙しくてなかなか行けない人であっても、
丸足は今日休みするなって言ったらですね、助けて行くんです。
だけどですね、元気が湧いてくるんです。ゴルフが大好きな人は、大切だと思う人は、
日曜日朝、ああ、今日からはなかなか面倒くさいし行けない。
友達から電話して、ゴルフに行こう。行こうと、力が出てくるんです。
ホースや集会に出るには、車もないし、家も遠いし、面倒くさいし、出ませんが、
同窓会や楽しいことがあったら、大阪まで京都まで電車何回乗り換えて行くんです。
若者たちはですね、何か好きな歌手とかですね、スマホとかラプとか、
コンサートにですね、福岡から東京まで自腹で行くんです。
そして早めに一番前の席に座りたくて、何時間もですね、夜通しに立って待つんです。疲れません。
なぜでしょうか。自分がこれが大切だと思うから。喜びとしているからなんです。
メッセージを送りたいと思います。
神様は私たちに学べいかりに、門を開いて、御言葉を喋っておくと招いておられます。
皆さんは神様の御言葉を、皆さんの人生において最初の喜びとしているでしょうか。
どうか両谷の私みんなが、この神の御言葉を最後の喜びとしようでありましょうか。
お祈りいたします。
では今日の御言葉を覚えてですね、それぞれ神様、私たちに御言葉を与えてくださりありがとうございます。
今日からこの御言葉に徹する命のパンをいただけるように、神様助けてください。
とですね、一緒に怒らせてお祈りしたいと思います。その後、私がお祈りいたします。
神様、この御言葉を、私たち一人一人を集めてくださりありがとうございます。
神様、私たち一人一人が、今日あいさついただきましたように、
あなたがあいさつしたこの御言葉を、私たちは自分のものにして御言葉に徹し、御言葉を読み、
そして本当にあなたの御言葉を愛することができますように、どうぞ神様、
48:03
私たちは弱いものです。忙しく、さまざまなことをしてはいるのですが、
どうしても、いろいろなことは一つですと、
神様の御言葉通りに、どうぞ神の御言葉を喜びとする。
それを自分のものにすることができますように、神様どうぞ助けてください。
御言葉を感謝、神様一言お祈りいたします。
神様、今日の御言葉をありがとうございます。
私たちの魂を救うため、人生を祝福するため、
あらゆる宝のような知恵を与えるため、人生の指針を教えるため、
この御言葉を私たちに与えてくださる、この恵みをありがとうございます。
どうぞ神様、私たちがこの日々の新鮮なこの本の命の御言葉を読み、
目指して祈る、恋愛できましたように、
どうぞ神様、あなたの御言葉を参考の喜びとすることができますように、
どうぞ我々の金庫を積み上げてください。
御言葉に感謝し、神様の御名によってお祈りいたします。
49:23

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