1. 名谷教会 podcast
  2. 2014/04/06:聖日礼拝(旧音源)
2014-04-06 36:52

2014/04/06:聖日礼拝(旧音源)

2014/04/06 聖日礼拝(旧音源)




00:01
アーメン、ありがとうございます。
皆さん、おはようございます。
それでは、隣の方と挨拶しますか。
では、握手したり、挨拶しましょう。
おはようございます。よくいらっしゃいました。
それでは、ひとつお祈りいたします。
愛する名神様、今日もこうして、
ひとりひとりの名を呼んで、この礼拝の座に集めてくださり、ありがとうございます。
今から、御言葉に、あなたの御声に従います。
どうぞ、神御自身が、私の人々にお語り下さいましょう。
委ねて、イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
はい、今日は、4年の勲章、第21章の15節、17節の御言葉から、
あなたは私を愛しますか、という伝えにしまして、
共に、めぐみをいただきたいと思います。
皆さん、神様が、私たちに最も聞きたい、
私たちから、こう言ってほしいと、願われる言葉があるならば、
それは、主よ、神様、あなたを愛します、という、愛の言葉ではないでしょうか。
旧約聖書から、新約葬式から、ヨハネの黙示録まで、
今はですね、プログラムがあるから、すぐ検索できるわけですが、
愛という言葉で検索したところ、なんと聖書には、愛という言葉が558回も書かれているんですね。
また、その中には、神を愛しなさい、主を愛しなさい、という言葉がですね、
数多く記されているほど、神様が私たちに願っておられる、
それはですね、私たちが、心から、主を愛します、神様、私はあなたを愛します、
という、愛の告白だと、私はそう思います。
聖書が私たちに、そのように教えているんですね。
03:01
皆さん、神様が私たちに求めておられるのは、私たちのハートなんです。
神様への愛の、このハート。
ですから、逆に言いますと、神様が最も悲しまれることは、
私たちが、心から神様を愛していない時ではないでしょうか。
皆さん、失敗したりですね、倒れたり、間違ったり、そんな時より、私たちの愛が冷めてしまう。
あるいは、私たちのハートが神様から、どんどん、どんどん、どんどん、遠くなってしまう。
そんな時より、神様は、実は、最も悲しまれるということなんですね。
だから、聖書は、神様は、繰り返して繰り返して、私たちに、
主なるあなたの神を愛してください、という見言葉がですね、何度も記されています。
その歌詞を、いくつかの歌詞を一緒にですね、聖書を開いてみたいと思うんですね。
出英字部時から見てみましょう。
旧約聖書、出英字部時、第20章、6節。
旧約聖書、130ページです。
130ページ、それでは、いっそ読みますね。
私を愛し、私の命令を守る者には、恵みを先来にまで施すからである。
私を愛することを、実は、求めておられるんですね。
もう一回、見てみましょう。
新明記、第6章、5節。
315ページです。
新明記、6章、5節。
それでは、ご一緒に、三拝。
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい。
アーメン。
この見言葉はですね、マサイの国ととかに、イエス様が引用された見言葉なんですよね。
06:03
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
もう一箇所、見てみましょう。
詩編、145編、20節。
聖書はですね、開ければ開けるほど恵まれますので。
詩編、145編、20節。
旧約聖書、1052ページです。
では、ご一緒に、三拝。
すべて主を愛する者は、主が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。
すべてですよ。主を愛する者を、主が守ってくださるんですね。
もう一箇所、見てみましょう。
マサイの国書。今度は新約に行きまして。
マサイの国書、第22章、37節。
先ほどの神明記の御言葉を、イエス様が引用されて語られた笹なんですね。
新約聖書、46ページ。マサイの国書、22章、37節。
ご一緒に読みましょう。三拝。
そこで、イエスは彼に言われた。
心を尽くし、思いを尽くし、気力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。アメン。
最後にもう一箇所、見てみましょう。
ヨハネの手紙、第1、4章、11節。
新約聖書、470ページです。
ヨハネ、4章、11節。一緒に読みますね。
三拝。愛する者たち、神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。アメン。
ありがとうございました。
皆さん、このようにですね、聖書の最大の最高のメッセージは何でしょうか。
09:02
それは、主なるあなたの神を愛しなさい。主を愛しましょう。主を愛せよ。
これがですね、聖書のもう創世紀からヨハネの目記録まで書かれている神のメッセージではないでしょうか。
ところがですね、ここまで聞きますと、神様はあまりにも自己中じゃないか。
自分ばかり愛してほしいと、子供みたいじゃないかと思われるかもしれません。
しかし皆さん、実は主なる神を愛しなさいという御言葉はですね、実は私たち自身のためなんです。
なぜなら、主を愛することが私たちの命であり、主を愛することが私たちの祝福であり、主を愛することが私たちの知恵であり、
それが私たちの救いであるから、神様が私たちに、今日のメッセージのように、
あなたは私を愛しますか?とお尋ねになって、神様への私たちの愛を確認しておられるわけなんですね。
この真理を悟った神の生徒は、イエス様の御言葉のように、心を尽くし、気力を尽くし、思いを尽くして、主を愛するんです。
主なる神様を愛することがどれほど大きな恵みなのか、それを体験してわかっているから、
今日ですね、心を尽くして喜んで、自分からですね、愛するように変えられるんです。
では、神様がどんなときに、いったいどんなときに私たちにですね、あなたは私を愛しますか?
あなたは私を愛しますか?とお尋ねになるんでしょうか。
まず、第一は、私たちを救福するために、私たちに愛を求められるんですね。
聖書をちょっと見てみましょう。新明記、旧約聖書です。
先ほど開きました新明記、今度は30章。新明記の第30章、15節から16節。旧約聖書358ページです。
まずは、15節と16節を一緒にお読みしたいと思います。その後、20節は私がお読みします。
12:02
よろしいですか。15、3、はい。
みよ、私は確かに、きょうあなたの前に、いのちとさいわい、ひとわざわいをおく。
私がきょうあなたに、あなたの神、主を愛し、主のみちにあよみ、主の命令と、おきてと、さだめとを守るように命じるからである。
確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主はあなたが、はいっていって、所有しようとしている地で、あなたを救うくされる。
20節を私がお読みしますね。
あなたの神、主を愛し、みこえに聞きたがい、主にすがるためだ。
確かに、主はあなたの命であり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われたして、長く生きてすむ。
みなさん、この御言葉を見ますと、神様は私たちを祝福するために、私たちにあらゆる祝福を、この地上で、あの天での諸々の祝福を与えて、与えて、与えたくて、
あなたは私を愛しますか?あなたは私を愛しますか?とですね、愛を確に求めておられるんですね。
みなさん、神様を愛すること自体が実は祝福なんです。
神様を愛せろとかできなかった私たちが、神様を愛するようになった、ですから、その神様を愛すること自体が祝福なんですけれども、それで終わりではない。
神様は主御自身を愛する私たちに、愛する者に、これらすべての祝福をあふれるほど満たしてあふれさせてくださる。
その時に、あなたは私を愛しますか?あなたは私を愛しますか?と、愛を求めておられるんです。
二つ目、どんな時に神様が私たちに、あなたは私を愛しますか?と、おさつめになるんですよ。
今日の箇所に戻りますか?
それは、神様が私たちを癒し、回復するため、愛を求められます。
今日の箇所は、みなさんよくご存知の箇所だと思います。
イエス様がよみがえられました。
そして、大失敗したペテロが地元に降りて行ってですね、寮をして暮らしていたところ。
15:09
イエス様がペテロのところに訪ねて行かれました。
そして、そのペテロに、
今日の御言葉。
ヨハネの講師も、あなたはこの人たち以上に私を愛しますか?
もう一度。
ヨハネの講師も、あなたは私を愛しますか?
もう一回。
ヨハネの講師も、あなたは私を愛しますか?
と、三回も。
あなたは私を愛しますか?
と、お楽しみになりました。
その時ですね、ペテロは、何と答えましたか?
はい、ですよ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です。
と、三度答えました。
三回もですね、聞かれたからですね、ペテロはですね、答えながら、
ちょっと気になって、心配していたかもしれません。
なんでイエス様は、三度も三回も聞かれるんでしょう?
私を疑うんだろうか?
と思ったかもしれません。
皆さん、実はイエス様が、ペテロのあの魂を、
あの心を、いや、ペテロというこの気と存在を癒して立ち上がらせるために、
かゆくするために、三度も主イエス様への愛を確認されたわけなんですね。
ペテロは、この前にどんな一杯を経験したんでしょうか?
彼はですね、イエス様の弟子としてですね、三年もイエス様についていたんですね。
親族を共にして、あらゆるイエス様のことをですね、教えてですね、
時にはですね、自分が一番偉い弟子かのようにですね、そういったこともありました。
あなただこそ、生きる神のキリスレスとですね、最高の深くもできた弟子でした。
彼は、イエス様があの審判の中で侮辱を受けられ、苦しめられていた時にですね、ペテロは、
18:01
知りません。え?そんなことは知りません。イエス様は誰ですか?知りません。私とは何の関係もありません。
と、三回も非難でしまった。自分が生きるために、苦しめられているイエス様を知りませんとですね、
逃げてしまった。だからその後、彼の気持ちを皆さん、想像してみてください。
顔を上げてですね、街に出て行くことはできないでしょう。その失敗感、その恥、その挫折感、
自分に対するこのがっかりするんじゃないですか。三年もイエス様をついていたのに、
え?私、俺達弟子なんだろうと。ですね、その恥のゆえにですね、本当に強く苦しんでいたことでしょう。
自分の信仰も自尊心も勇気もですね、めちゃくちゃになりました。
あるいは、周りのですね、地元にですね、あの里に、ふるさとに戻っていたわけですから、
え?ペトロちゃん、なんで帰ってきたの?あなた、イエス様を知らないと言わなかったって、本当ですか?と聞かれたかもしれない。
指さされたり、その恥かしめあるいは劣等感、自分のことがですね、あまりにも情けないものに思われたかもしれない。
このように、心病んでいて、こだびれていて、壺に落ちて、脱節感に落ちて、落ち込んでいる彼に、イエス様が先に来てください。
そして三回も、あなたは私を愛します。あなたは私を愛します。あなたは私を愛しますか?
三回、私になって、私はあなたを愛します。
実は、言いづらかったかもしれないですね。
しかし、ペトロがですね、私があなたを愛そうとあなたもご存知ですよね、と答えるたびに、彼の魂が、彼の心が癒やされて、回復されたんですね。
実は、イエス様がですね、彼にですね、お前私を裏切ったものでしょ?と、それを確認するためじゃないですね。
実は、イエス様の愛が、このイエス様の愛のハートが、ペトロに伝わることを願っておられた。
あなたは私を愛しますか?という、このイエス様の結論はですね、
21:04
その中には、私があなたをどれほど愛しているか、君は知っているのか?
私は、あなたが容姿であった時も、あなたを愛していました。
あなたが網を捨てて、私についてきた時も、あなたを愛していました。
あなたが私を、すみませんといなんで、逃げていった時にも、変わりなく、私はあなたを愛していました。
あなたが失敗で、打撃感で、劣等感で、苦しくて苦しくて、引きこもりついていたその時も、変わることなく、私はあなたを仰っていましたよ。
私はこれからも、変わりなくあなたを愛するよ。私の愛は同じだ。
いつまでも、昨日も今日も、いつまでも、となってやる。
といった愛のメッセージをイエス様が与えてくださるために、あなたは私を愛しますか?とお尋ねになったんです、皆さん。
ペテロは、主よ、私はあなたを愛します。と答えながら、癒されました。解雇されました。
この後、ペテロはですね、ひっくり返したように、人生が変えられました。
人の働きでのペテロはですね、全く以前のペテロのあの失敗者の姿は、見えないんです。
皆さん、神様がイエス様が私に、あなたは私を愛しますか?と愛を確認しようとする時には、
神が自己中心じゃなくて、私たちを祝福するために、あるいは闇の中に、あるいは痛みの中に、あるいは不安の中で、
あるいは失敗の中で、あるいは傷の中で、引きこもって落ち込んで苦しんでいる私たちを、あなたを癒すため、
回復するため、奮い立たせるために、あなたは私を愛しますか?とお尋ねになるんです。
この朝、このイエス様のこのお問いを、この質問をしたんです。
あなたは私を愛しますか?と、その時に、ペテロのように、主よ、私はあなたを愛します。
言いづらくても、言えないような本当にですね、罪に陥っていても、でも主、私は実はあなたを愛せます。
24:04
正しい言葉通りに言えなかったんですが、許しください。
でも私の愛は変わりませんとですね、告白できる神のものになりたい。
その時に、神の愛のメッセージがあるんですね。
ではこのように、神を愛する、イエス・キリストを愛する人々は、どのように歩む人なんでしょうか。
まず第一、惜しまず全てを捧げます。
皆さん、本当に愛する人には、何かをあげるのをもったいないと思いません。
例えば、親が子供に、あるいは愛する恋人の中で何かを差し上げたりする時にですね、もったいないと思わないんです。
愛するからですね。
例えばですね、うちが日本に暮らしているわけですから、たまにですね、子供たちが韓国のおかずとか本とかがですね、
でもこっちでも買えるは買えるんですけれども、向こうのですね、親とか兄弟に電話をするんですよね。
電話をする時に、お母さんがですね、いや送りたくない、お金もったいないと言うんでしょうか。
言わないんです。また欲しいものないの。
と、うちは、例えばですよ、10個お願いしたのに、20個、30個も送ってくれるんです。
そしてその後、請求書は来るんですか。来ないんです。
愛する人には、与えたくて与えたくて与えたいんです。
皆様家族でもそうですよ。
ね、お母さんがご飯を食事を作る時に、このお米ちょっともったいないな、この野菜、このお肉もったいないなと。
そして好きじゃない親はいないんです。
それが愛なんですね。
愛するからをします。もったいないと思わなくて与えて。
皆さん、私たちが神様をこれほど愛するならば、神様に捧げて捧げて捧げても捧げても、もったいないと思わないんです。
もっと捧げたくなるんです。
それが愛なんです。
先生ですね、私が青年の時にお世話になった先生がいらっしゃいますけれども、
その先生が作っている教具のある教会のお話、お話しなんです。
その教会が教会道を建築することになりました。
27:03
建物が古くなって建築することを決めて進めていたわけですが、でもなかなかまだ予算が足りなかったんですね。
そのかもみんなよく祈って掲げていました。
ところが教路の中である方が大きな決断をされたんですね。
財産が結構あったようです。
そのトロさんが自分の住宅と自分の土地と人口の貯金も全部まとめて教会に近畿もさせた。
約5000万円ぐらいだったそうです。
そしてその後が大事です。
さされた後、その教会に残っていたら牧師も牧師時代ですし、
神道さんがそのトロさんだけを見上げるようになるかもしれません。
だから教路界は日本も同じですけど、定年があるんですね。
一度長老に選ばれたら70歳までずっといくんですね。
で、あと6年、7年残っていたですが、もう引退し自分が辞退して田舎に行ってしまった。
そしてこれからこの教会とは何の関係のないものにしてほしいとして、
捧げて田舎に降りていきました。
そしたらその後もまた素晴らしいことが起きました。
そのトロさんが捧げたこと、自分の住宅も土地も全て捧げたことを、
それがですね、噂が広まるわけなんですよね。
その話を聞いて、その献金を言ったことを、神道さんたちは今まで迷っていたことでしょう。
捧げたくないという気持ちではないんですけども、どうしようかな、
投げた時にみんながですね、もう先を争うように捧げて捧げて、
5億円ぐらいでしょうかね、街道建築。
みなさん、こういう素晴らしい証を聞きますと、
神を愛する人は、自分ももっと捧げたい、あるいはもっと奉仕をしたい、
私もあのように捧げたいというですね、良い希望でしょうか、良い夢を持つようになるんです。
みなさん、神様を愛する人は捧げることが最高の喜びであり楽しみなんです。
2番目、神様を愛する人は、神様の御言葉を、神様のいまひめを守ります。
正々堂一箇所見てみましょう。
第一ヨハネ五章三節です。一緒に書きましょうか。
30:06
第一ヨハネ五章三節。470ページです。
それでは一緒に読みますね。3回。
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重にとはなりません。
アメン。
みなさん、ここにですね、明確に神を愛するとは何なのか。
神を愛するとは、つまり神の命令を守ることですよと教えているんですね。
みなさん、神様を愛する人は、神様の御言葉を守ります。
例えばですね、恋人の何かのお願いがあればですね、何でもしてあげたいんですね。
神を愛する者は、神の御言葉を守る。隣人を愛しなさいという御言葉を守ります。
絶えず祈りなさいという御言葉を守ります。御言葉を述べ伝えなさいという伝説の御言葉を守ります。
互いに愛し合いなさいという忌まし目を守ります。
このようにみなさん、神を愛する人は、神様の御言葉を通りに生きようともがくほど信仰を持っているんですね。
御言葉を守ることができたら守る。じゃなくて、守るため熱い信仰を持って歩みます。
これが愛なんですね。
初代教会の生徒たちのこと、あるいは日本にもですね、初めてキリスト教が入った時、副会の時代に、今もそうですが、
全世界でですね、多くの国々で、このキリスト教信仰を持っていて神を信じることのゆえに、
迫害され、殉教され、銃殺され、あるいは首がはめられて亡くなる方が大勢いるんです。
1日もですね、何千人のクリチャンが全世界的に殉教されている。
悲しいことなんですよね。
近くの北朝鮮、あるいは中国、あるいは中央アジア、あるいはサウジアラギャとかイランとかイラクとか、
アフリカのほとんどの国では、毎日のようにクリチャンが、あの信仰のゆえにですね、殉教されている。
33:05
しかし彼は決して信仰していない。
自分の親の目の前で子供がですね、殺されていても、その親は信仰していない。
何と言ったらいいでしょうか。
主を愛する者です。
主を愛する者は、命懸けで、主の御言葉を守ります。
実は皆さん、これが愛なんです。
3番目、神様を愛する人は、救いに伝度のため生きます。
皆さん、神様の最大の感心事は、魂の救いではないでしょうか。
神様を愛する人は、神様が一番何をお好みなのか、神様が最も願っておられるのが何なのか、それを分かります。
例えばですね、夫婦がですね、20年、30年、40年、結婚されて一緒に暮らすと、ご主人様がサバが好きなのか、イカナコが好きなのか、あるいは牛肉が好きなのか、豚肉が好きなのか、それを分かるんですよね。
お互いに分かる。
神を愛する人は、神様が何を求めておられるのか、それを分かって、様々に愛してみます。
神様の最高の喜びは、魂の救いなんです。
何とかして一人でも多くの人々が救われること、そしてこの地上において神の祝福を受け、永遠の命を受けて、そして永遠に死を賛美する、その魂の救いを神様は最も願っておられるんです。
そうしたら、神様を愛する人は、神様が最大の愛を求めておられる、救いを求めておられることを知っているから、そのために働きます。
救いのために、善のために、何らかの形で、選挙のために、善のために、例えば、教会に善の通会があれば、何とかして家族や友人や父親をお連れしてきます。
善のとなことを一枚でも配ろうとして、何らかの形で、この救いの魂がどれほど緊急なことなのか、どれほど大切なのか知っているから、死を愛するから喜んでほしいだと。
皆さん、皆さんの心の中に魂の救いに対する熱いハートがありますか。
そうすれば、あなたは神様を熱く愛しているという証拠です。
36:01
メッセージを終わりたいと思います。
今週ですね、総裁においての政策課長のヨハネーの目資録が終わりますが、レオン・モリスという世界的な政府学者がありますが、ヨハネーの目資録の中間で最後のところにこのようにかかっています。
このお話を読ませていただいて、メッセージを終わりたいと思います。
聴いていただきたいですね。
ヨハネは、救われた者と失われた者の間に鋭い区別を見る。
終わりに、人々は天の秘符を分かち合うか、自分の馬鹿を死の池の中に見出すかのどちらかである。
アーメン。お祈りいたします。
36:52

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