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2025-07-13 30:52

2025/07/13:恵み豊かな神を見て

2025/07/13 聖日礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 -34


サマリー

このエピソードでは、恵み豊かな神の存在について語られ、目指すべき目標が神であるべきだと強調されます。また、心がどこに置かれているか、特に神と金の選択について深く掘り下げられています。恵み豊かな神についての教えが展開され、イエスが信者に生活の不安を持たずに神の恵みを信じるよう促します。さらに、イスラエルの民の荒野での経験を通じて、神が持つ恵みの深さも語られます。神の恵みと愛について触れられ、互いに支え合う共同体として生きることの重要性が強調されています。

大阪女学院での修養会
今朝はこの箇所から、恵み豊かな神を見て、と題して、御言葉を取り継がせていただきます。
皆さんお祈りいただいてありがとうございました。
先週ですが、私と彩名先生は2人で、大阪女学院という高校で修養会の講師をさせていただきました。
2泊3日、1泊2日×2なんですけれども、3回のメッセージを×2するという、3日間で6回説教をするということで、結構ハードでしたし、
彩名先生にも御言葉の御用をしてくださいましたが、本当に女子高生が目の前にバーっといるわけです。
高校3年生の子たちですね。その子たちは、ミッション系の高校といっても、ほとんどがノンクリスチャンの子たちなんですよ。
高校で語られるキリスト教、学校で語られるキリスト教というのも、本来は教会で語られるものとはちょっと薄足にするというか、
そういう配慮がいつも、学校という場所は働くんですが、今回依頼くださった先生たちの希望は、自分たちはとにかく神様を生きて彼らに伝えてきたと。
先生、これは最後の種まきの機会なんですと、むしろはっきり御言葉を語ってください、はっきり十字架を語ってくださいということを言われて、
いいのかなと思いながらも、でも私なりにできる範囲ではっきりと救いについて、イエス様についてお話をさせていただきました。
とても勇気のいる時でしたけれども、皆さんのお祈りに支えられました。本当にありがとうございます。
一点印象的だったのは、この女学院の学生たちが実にのびのびとしているんですね。先生たちととても仲がいいですし、驚いたことに各講演ごとに証をするんですよ、学生が。
ただその証というのは別に、イエス様を信じてこうなりましたという証よりかは、高校で初めてキリスト教だとか聖書に出会って、
それに対して私は悩みながら、こういうふうに今考えていますという証。もしくは、自分の過去はこういうつらいことがあったけれども、
聖書の言葉に出会って、今こういうふうに捉えられるようになりましたという証。実にセキララな内容なんですが、みんな生き生きと自分の言葉で語るんです。
しかも後で聞いて驚いたのは、それは先生がやってと言ったんじゃないんです。自分たちでやりたいと言った子たちがそこでやり始めたんですね。
私は本当にそれに感動をして、そして本当に驚いて、食事のとき、学校の先生とよく話しましたので、なんでこんなことができるんですかと聞きました。
すると先生たちがなんでかなと言いながらも、たぶんうちとよそが違うのはこういうことだと話されたんです。
それは多くのおそらく私立の学校というのは、学生に対する目標はどれだけ良い大学に行かせられるかなんです。
それが学校の進学実績にもなるし、それに向けて先生は頑張る。けれどもうちは違う。うちの目的はとにかく学生に、あなたは愛されているんだよ。
あなたはあなたのままでいいんだよ。そしてあなたが自分のことを語ることは何も恥ずかしいことじゃない。
どんなあなたであっても周りはあなたを受け止めるんだよということを、くどくどと伝えてきました。しかしそれが彼女たちの中に入ることが私たちの目的なんです。
進学実績はその結果でしかありません。結果はみんなすごく良い高校とか大学に行くんですけれども、ただ私はそれを聞いてまた改めて感動しました。
ああ、もともと見ている目当てが違う。そして思ったことは、ああ、的確な目標を定めて進んでいけば、おのずと結果はいろいろついてくるんだなというところを思わされました。
目標の重要性
私たちもおそらく同じようなところがあると思うんです。私たちの生きていく上での目当ては一体どこに定めているのか。そしてそれが私たちの生きていくことの結果、さまざまなことにおひれというか、結果としてそれがついてくるような、いいものがついてくるような、そんな気がします。
山上の説教を今朝お読みしましたけれども、今朝の歌詞はまた視点について語ります。あなたは何を見ていますか。特に注目をしたいのは33節の皆さんよくご存知の言葉です。
まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべてこれに加えて与えられます。答えのような話ですが、神の国とその義を求めなさい。なんでそれが大事なんですかということを、今朝は2つのポイントで見ていきたいと思います。
さて、1つ目のポイントですけれども、私たちが目標を探すと目の前に出てくるのは、神か金かだということです。目標を探すと私たちの目の前に出てくるのは、神か金です。
先回、マタイの福音書の5章の最後までご一緒に見ました。今回は6章の19節から読ませていただきました。この間にある1節から18節は何があるかというと、ご存知の通り、主の祈りがここに書かれてあります。
主の祈りはおととしじっくりしましたので、今回は割愛して飛ばしますけれども、ただその時にもお話ししました。参上の説教の中心は主の祈りです。どう考えても主の祈りですね。
主の祈りの中心点はどこにあるかというと、あえて全部大事なんですが、あえて申し上げるならば10節の御言葉です。
御国が来ますように、御心が天で行われるように、地でも行われますようにという言葉です。
いわば御国が来ますように、神様の恵みの支配、天において実現している神様の恵みの支配がこの世界にも実現をしますように、
そしてその恵みの支配の素晴らしさを私自身も生きることができますようにという祈りですね。
そして私を通して神様の恵みの豊かさが地上でも表されていきますようにというお祈りです。
キリスト社であったり神の子と呼ばれる私たちは、地上にありながら天国を生きているものなんですね。
これ大事なことなので覚えていただきたいです。私たちは地上にありながら天国を生きているもの。
私たちは神の恵みの支配に属しているもの、もうすでに入って生きているもの。
だからあなたたちが見るものは、神の恵みに目を止めなければならないんですよということを進められるわけです。
私たちの目の前の世界を見るときに、この世界は神様の恵みばかりがあふれているわけではありません。
人生の目当てとなると、イエス様が言われますけれども、今日の19節から言われますが、
人生の目当てとなってくるときに、私たちの目の前にすぐに現れますのは、神か金です。
19節から21節をちょっとお読みしますけれども、こういう言葉があります。
自分のために地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やサビで傷者になり、盗人が壁に穴をあけて盗みます。
自分のために天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やサビで傷者になることはなく、盗人が壁に穴をあけて盗むこともありません。
あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。
神と金の選択
地上の富、私たち言うならばわかりやすく財産であったり、もうちょっと如実に言うならば金ということになるでしょうか。
ただ、それは昔も今も大切なものです。誤解がないように言いますが、それが不要だと言っているわけではないのです。大事なのです。
ただ、ここでイエス様が問われることは、そのような地上の富、いわばそういう金と呼ばれるものに、あなた方は自分の心までも据えてしまってはいませんかという問いかけなのです。
心を据えてしまっていませんか。
神か金か、よく本田先生もそういう話をしていたと思いますが、よく似ているのです。
日本語にしても一文字違いですが、昔からよく神様とお金様というのは似ているということがよく言われます。
神に祈るか、もしくは金に物を言わせるか、問題解決の方法ですね。大きな違いです。
共通することは、どちらも力を持っているということです。どっちも力を持っています。
神も金も問題解決する具体的な力を持っているのです。
ただ、思い出していただきたいのは、旧約聖書でイスラエルの民という人々がいましたが、彼らが陥った問題は、まさにこの金に人が心を奪われるのとすごく似ているのです。
お金というのは目に見えるのです。私たちもそうですが、富とか財産というのは目に見える。
けれども、神様は目には見えませんね。
そして、お金というのは自分の問題があったら、それを自分の願い通りに解決する力があります。
自分で持っていたらその通りに解決できます。
ただ、神様というのは自分の思い通りにはできないのです。
そうですよね。
そのため、目に見えて自分の思い通りにできる力、彼らにとっては偶像でしたけれども、
その偶像がいいと言って、彼らは偶像礼拝に走っていったという歴史を私たちは見てきていますね。
自分の願いを叶えてくれるだけの存在、自分の支柱に収まるだけ、自分が管理ができて用いられるものの方が、そのような力の方が私たちは便利なわけです。
そして次第に、まさに目に見える金こそが、どこかで本当に自分の願いを叶え、自分の安定を保障し、自分を敵から救い出してくれる神のように見えてくる。
ということは遠からずあるのではないでしょうか。
そして、いつの間にか自分の心をそこに置いてしまう。
心をそこに置くというのは、礼拝すると同意です。
いわば、金が神になり、そこに心を置いて、礼拝をしてしまうということがないですか、という問いかけをイエス様はされるのですね。
そして聖書が語ることは、私たちは礼拝するものに似ていくんですね。
今日読んでいただいた22節から24節を読みしますと、こういう言葉があります。
身体の明かりは目です。ですからあなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。
ですからもしあなたの内にある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。
誰も二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか。一方を軽んじて他方を軽んじることになります。
あなた方は神と富に仕えることはできません。
目の窓と心の状態
身体の明かりは目です、ということはちょっとわかりにくいんですが、イメージとしては、身体というものの中に取り込むものを入れる窓みたいなものだと言っています。
目は窓みたいなものですよ。
あなたの目から入ってくるものによって、あなたの心の中が決まってくるんですよということを言っているわけです。
心の窓、何を見ているか、何を礼拝しているのか、それによってあなたの心が光るのか、もしくはあなたの心が闇に覆われてしまうのかが決まりますよということを言っているのです。
そして私たちの目の前には、まさに神か金が置かれているとするならば。
この24節の言葉というのは、よく小説の中でも書かれますけど、背筋主義の神様にマモンと言いますよね。
それの元になった言葉は、この24節の言葉です。
富というのはマモンというギリシャ語ですけれども。
まさにそういう、この誠の神なのか、もしくは富によって表される金が神になってしまうようなマモンに服するのか。
イエス様は言われるのです。あなたが心を置く、礼拝をできるのは一つだけなんですよ。
あなたはじゃあどっちを見ているんですか。どっちに心を置いているんですか。どちらを礼拝しているんですか。ということを問われる。
誤解がないように申し上げますけれども、お金は大事なんです。お金は大事です。
しかしここでイエス様がおっしゃりたいことは、ただお金ばかりを見つめ、それを目当てにして生きていくならば、
心は闇に覆われて、いつまでも光を灯すことはできないんですよということを言っているのです。
ではどうしたらいいのか。この後半で語られますことは、じゃあ本当に目を向けるお方がいますよ、この方を目当てにしなさいよというのが後半の言葉です。
神の恵みに目を向ける
第二ポイント、二つ目のポイントに入りますが、ここでイエス様は恵みの神を見よって言うんです。恵み深い神を見つめなさい。
私たちは神の恵みの支配に属しているものだとお話をいたしました。
だから恵みに目を止めなさいということが望まれる。それは恵み深い神様ご自身に目を止めろということですが、
ちょっと長いですけども25節から32節をサッと読んでしまいます。ただ皆さんよくご存知ですが、どういうことを書いているか見ていただけたらと思います。
ですから私はあなた方に言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分の命のことで心配したり何を着ようかと、自分の体のことで心配したりするのはやめなさい。
命は食べ物以上のもの、体は着るもの以上のものではありませんか。空の鳥を見なさい。種まきもせず刈り入れもせず蔵に収めることもしません。
それでもあなた方の天の父は養っていてくださいます。あなた方はその鳥よりもずっと価値があるではありませんか。
あなた方のうちの誰が心配したからといって少しでも自分の命を延ばすことができるでしょうか。なぜ着るもののことで心配するのですか。
野の花がどうして育つのかよく考えなさい。働きもせず紡ぎもしません。
しかしあなた方に言います。映画を極めたソロモンでさえこの花一つほどにも装っていませんでした。
今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなた方にはもっとよくしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
ですから何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかといって心配しなくてよいのです。これらのものすべて、違法人が切に求めているものです。
あなた方にこれらのものすべてが必要であることは、あなた方の天の父が知っておられます。
読んでいただいたらお分かりになれる箇所かもしれません。ここでイエス様が語ることは、神の恵み深さですね。
あなた方は何を着ようか飲もうか、心配しなくていいとはっきり言います。私たちは大体そこに心配するんですが、心配するなと言われる。
なぜなら神は誰も目も止めないような野の花にさえも目を止め、小さい小さい目も止められないようなものにさえ神の配慮と愛は届いていて、
そして何も生み出すことができない、何もできないこの空の鳥でさえも神は養ってくださる。祝んやですよ。
神があなた方の日々の生活、それはあなた方の日々の生活の細部に至るまで、神様が気にかけられないことがあるだろうか、いいや決してないと言っています。
神はあなたの生活の隅々まで知っておられて、そこに愛の配慮を働かせておられる神である、そして養われる神である。
神は必ずあなたを気にかけ、あなたの命を守るために喜んで、あなたにあらゆるものを与えてくださる神なんだということをここで語るのですね。
旧約と神の支え
ただ私たちはこの歌詞を読みながらチクッとすることがあります。それは三十節の信仰の薄い人よという言葉です。信仰の薄い人よと。
そうは言いながら私たちの現実はやはり二つのものを前にするのです。そしてその中でまさにこの神に目当てを定めるということがいつも問われながら、いつもそこで訓練がある。
でも思い出していただきたい。これは旧約聖書のイスラエルの民も全く一緒だったんです。
イスラエルの民が四十年間荒野をさまよった時にも、神様は一日たりともマナを絶やされませんでした。四十年間一日たりとも彼らの食事は費えることはなかった。
そのことに関してちょっとお読みしたい箇所があるので申し訳ないのですが、新明紀の八章の二節から五節というところをちょっと開いていただけるでしょうか。
新明紀の八章の二節から五節というところをお読みいたします。旧約聖書の三百二十九ページの上の段になります。
新明紀の八章の二節から五節というところをお読みいたします。
あなたの神主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。
それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心の内にあるものを知るためであった。
それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの人たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。
それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべての言葉で生きるということをあなたに分からせるためであった。
この四十年の間、あなたの衣服は擦り切れず、あなたの足は腫れなかった。
あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神主があなたを訓練されることを知らなければならない。
信仰の薄い者たちよとイエス様は言われましたが、まさにイエス様は、イスラエルの民も同じように、神様はイスラエルの民も同じように訓練をされました。
それは彼らの現実的には、神か偶像か、私は神か金かかもしれませんが、神か偶像かが彼らの内にはあって、彼らの心はどちらかに据えられようとしていたからです。
でも神様は彼らに対してとことん寄り添い、そして彼らに対してとことんご自身の恵み深さを四十年間表してこられた。
私を見なさい。パンだけに心を奪われるのではなくて、神の御口から出る言葉、神の言葉に従い生きていくということ、神ご自身に目当てを定めるということを、
それによって歩んできたあなたたちは、四十年間空腹もせずに腹もすり切れなかったでしょうと言うんです。なぜなら神の恵みがあなた方を確かに支えるからだということを言われた。
それがまさに訓練だったわけですね。そうすれば神の恵みがあなた方を支えると。
偶像があなたの安定を保障するのではない。金があなたの安定を保障するのではない。神こそが確かな安定を保障し、神こそが敵から救い出す道からであり、
神こそが私たちの願い以上に素晴らしい願いを持っておられて、そのお方の願いに自分を重ね合わせていくことの方が、あなたの幸せを求めるよりも、それは幸いのことなんだと言われていく。
だから、金も大事だけども、それを目当てにせずにまず恵みの神を見ようと招かれる。今朝の33節はまさにそういう言葉なのです。
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはすべてそれに加えられて与えられます。神を目当てとしなさい。正しい方向、正しい目当てを定めなさい。そうすれば神の恵みがあなたを豊かにとませてくださる。
そしてそれは地上の富に心を置いてはいないのです。神に心を置く、神を礼拝することの結果として私たちは支えられていくとここでは語ります。ただ、あえて33節に関してもう一つの解釈をお話ししておこうと思います。
この歌詞はよく、神様を第一にしたら神様の恵みがすべてを満たしてくれるんだよというふうに理解をされます。それはその通りです。だからそれはその通りと受け取っていいのですけれども。
同時にこれは、リップをもう少し詳しく見ていくなら、これは神の恵みがすべての源であるから、それに信頼して兄弟姉妹が互いに支え合っていくことによって、私たちのすべてが満たされるという理解も可能です。
なぜなら神明記にはそういうことを書いているからです。神明記の15章の7節から11節というところは、私は好きでよく開きますけれども、まさに恵みの言葉です。神明記の15章の7節から、旧約聖書の342ページの下段です。
神明記の15章の7節から読みますと、こういう言葉です。
神明記第7年、免除の年が近づいたと言って、貧しい同胞に物惜しみをして何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に叫ぶなら、あなたは罪責を負うことになる。
必ず彼に与えなさい。また与えるとき物惜しみをしてはならない。このことのゆえに、あなたの神主はあなたのすべての働きと手の業を祝福してくださるからである。
貧しい人が国の内から耐えることはないであろう。それゆえ私はあなたに命じる。あなたの地にいるあなたの同胞で困窮している人と貧しい人には、必ずあなたの手を開かなければならない。
神の恵みと共同体
貧しさというのは世界にあふれていますし、私たちの周りにもありますが、ただ、もしもあなたの目の前で貧しくて苦しんでいる人がいる、困窮している人がいたら、手を閉ざすな。
でも手を閉ざすなと言うと、私たちがすぐに思うのは、いや、そんなことをしたら私は損するじゃないですか。
でも十節に書いてあることは、このことのように神主はあなたのすべての働きと手の業を祝福してくださるからだと言っているんです。
これが五章の三十三節の解釈において、とても大事な箇所でもあります。
神の恵みがあなたを支えるから、その恵みに信頼したあなたは隣人に手を閉じるなということです。
そういうふうに互いに支え合っていく、まさに共同体になりなさい。
互いに支え合っていく兄弟姉妹になりなさいということも、この三十三節には含まれています。
神様は、神様の前にたった一人だけ恵まれたらいいんだと語ってはないんです。
そうではない。むしろ私たちは神の恵みに信頼をしながら、
共に生きる道、共に豊かになっていく道を追い求めなさいということを言われる。神の恵みに信頼をしながら。
なぜなら、聖書はイスラエルの民も、教会も、神の国も、これ全部共同体の話をしているからです。
たった一人の話なんかしてないんです。共に生きる術にばかり話しています。
その恵みの根幹はいける神御自身、恵みを惜しまれないのです。神は気前のいい神様です。
そして、神様を礼拝していくものは、神様に似ていくんです。気前のいいものになっていく。
何度も、もうくどいくらい言って申し訳ないんですが、金が不要とは申し上げません。
貧しさであったり、お金がないということが、どれほど暴力的に人を傷つけるかということは、幾分か知っております。
お金がなくても全然平気だと私は言いません。けれども、だからといって、金ばかりを目当てに生きていても、
いつまでもあなたの心には光が入ってきませんよ、と言うんです。
あなたの目は健やかでしょうか、ということを今朝問われるのです。
あなたの目は健やかでしょうか、本当に正しい目当てを定めているでしょうか。
神は目には見えません。神は自分の思い通りにはなりません。
しかし、聖書は語ります。神は愛なんです。神は愛です。
あなたへの恵みを絶やされず、私たちを隅々まで知っていてくださる神様です。
私たちは今一度、恵み深い神様ご自身に目を定めたい、目当てとするお方、
精準はこのお方なんだということを改めて今朝ご一緒に定めたいと願っております。
もう終わりますが、本日は清算式です。
清算式には多様な意味がございます。
そしてその中で一つ言われますことは、清算式というのは何千人もの人々を満たした、
あのイエス様の給食にももされるということです。
キリストが備えてくださった食卓、あの何千人もの人々を満たした給食、
そして神の恵みは今も私たちの心を、魂を満たすものであります。
私たちは痛みもあります。悲しみもあります。自分でどうしようもないことも多々あります。
しかし十字架が語ることは、そういうあなたのすべてを私は背負い、私はあなたに寛大をする。
私の食卓で満たされなさいとイエス様は招かれる。だから大丈夫だと声をかけてくださる。
そして神天神地が訪れるときに、私たちは再びイエス様の備えてくださる恵みの食卓を共に味わう。
その前味を味わえるような生産式になりますように一言お祈りをいたします。
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