祈りと感謝
それでは、短くお祈りをさせていただきます。
恵みと憐れみに満ちておられる、私たちの父なる神様。
尊い皆を心から賛美をいたします。
主の御前にまた私たちを招いてくださり、
あなたの命の言葉によって励まされ、
今日もまたここから出ていくことができる幸いを感謝をいたします。
あなたは私たちを愛し抜いてくださいました。
十字架はその変わらない私たちへの確証です。
イエス・キリストの流された血潮により、
罪を許し、神のことし、
三日目に甦えられたイエス様の命を私たちにも与え、
永遠なる人と共に生き続ける、死をも超えて生き続ける、
永遠の命を今、私たちに与えてくださいました。
あなたは自分の足ではない、私の恵みによって歩みなさいと、
あなたの恵みによって持ち運ばれる人生が、私たちに与えられ、
今もあなたが事実、倒れきることのないように、
永遠の身腕を持って私たちを支え続けてくださっている、
その恵みの現実を覚えて、心からありがとうございます。
神様、私たちは本当にその恵みを忘れやすいものですし、
また、この世界の現実を見るならば、
本当にそうなのかと思うことが多々あります。
1055年、80年を迎えました。
神様、本当にしかし、今世界は戦争があり、また核の脅威に晒されておりますけれども、
主よ、栄えの冠よと賛美を致しました。
誠の王である主が、何が本当の栄光であるかを、
あの十字架で示されました。
月星真似のなれを覚えて近づかんと、私たちは賛美を致しました。
誠の栄光は力によって、何かによって得られるのではない、
十字架に自分自身を捧げ切られた、
あのイエス・キリスト真ことの王の姿にこそ、
栄光があるのだと、私たちは改めて示され、教えられ、
主よ、それを見忘れないようにと、そこから目をそらさないようにと、
招かれていることを覚えます。
どうか主よ、私たちがこの世界のために祈り、
また本当に、この世界にあなたの平和が築かれるために、
どうか私たちにできることをなさしてくださいますように、
どうか強めてください、お願いいたします。
ここに来たくても、来れないお一人一人もいらっしゃいます。
どうかあなたが強めて支えてくださいますように、お願いいたします。
これから御言葉を開きます。
どうか主が私たちに悟りを与えてくださいますように、お願いいたします。
イエス様のお名前によってお祈りをします。
アーメン。
狭い門とは何か
お祈りいただいてありがとうございました。
毎週なんかそんなこと言ってますが、
綾名先生は九州教区のキャンプ講師の奉仕を無事に終えることができました。
今週は教団の青年選挙大会が大阪の長居の方で持たれます。
綾名先生は前日参加、私も途中参加をさせていただきますが、
青年たちによって良き礼の養い、また決心の時となるようにお祈りいただければと本当に思います。
暑い最中にありますけれども、皆さんのことも覚えてまた私もお祈りしています。
今朝は一つの御言葉に御一緒に注目をしたいと思うのです。
それは説教題にもさせていただきました十三節の御言葉です。
狭い門から入りなさいということです。
狭い門から入りなさい。
参上の説教も佳境に入ってまいりました。
残すところ、来週で参上の説教は終わります。
先に報告しますが、9月からは第一サムエル記を礼拝で順に見ていきたいと願っております。
そしてこのまさに参上の説教のこの最後のまとめと言われるそのところに今朝の言葉があるのです。
狭い門から入りなさいということです。
狭い門とは一体何なのでしょうか。
これ十三節、十四節を読んでいただいたら一つの比喩であることがよくわかります。
いわばイエス様はこれまで順に参上の説教、群衆に対して語ってきましたが、
その多くを実に既に語ってこられたその群衆に対してこう聞いたのです。
さあ、あなた方は命を与える神の言葉を聞いてきた。
今あなたの前には広い門と狭い門の二つの門がある。
広い門は誰もが通れるけれども先に滅びが待っている。
一方、狭い門の先には命があるのだけれども、この門は実に入りにくい。
ただ、その入りにくく狭い門の先に命があると見出した人は、その門に入るはずだということをイエス様はここで言われた。
あなたはどっちに進みますかと、これはある種群衆に対して迫っているような言葉なんです。
あなたはどっちに進みますか。
あ、群衆はすぐにわかりました。
あ、そうかとイエス様が言われるこの狭い門というのは、イエス様がこれまで語ってきた命を与える神の御言葉を受け入れそれに従い生きることを指すんだ。
そしてこの時イエス様は群衆に対してそして私たちをも招いて迫っているのですが、
まさに命を与える神の言葉が私たちに語られる時に、そこにはいつも広い門と狭い門があるんですよということです。
そしてその中であなたはどっちを選びますかということが問われているということなんですね。
狭い門を通る意義
これは余談かもしれませんが、神明記の中にも同じ問いかけがありました。
祝福と呪い、命と死の道を私はあなたの前に置く。あなたは命を選びなさいと神明記で語られましたね。
あれと同じ招きです。あなたは狭い門に帰りなさい。
ただ今朝の歌唱を通して改めて私たちが迫られることは以下の2点だと思います。
1つは身心を通る門は狭いということです。身心を通る門は狭いということです。
そしてもう一つ、しかし私たちはその門を通れるのだということです。
その2つのことをご一緒に今朝の歌唱から聞いていきたいと思っています。
さて第1のポイントです。身心を通る門は狭いということを改めてここで気づかされます。
父の身心を通るのは狭いということを話しましたけれども
これはこれまで参上の説教を順に聞いてきた私たちからするならば
そんなに違和感がないことではないかなと思うんです。
思い出していただきたいのはイエス様は群衆を招いて
あなた方こそこの地上の地の主を世の光となるんだ。
あなたたちこそこの地上に平和を作るものになるんだ。
そのために神はあなたたちを選んだんだというところからこの参上の説教は始まっていきます。
そして彼らを平和の器として整えようとしました。
ただその後イエス様が彼らを取り扱うために語られた言葉は実に鋭いものばかりであったことを思い出していただきたいのです。
例えばイエス様は兄弟姉妹に対してバカ者といい争いを始めて終わらせることをしない人の独善性を責められましたね。
イエス様は夫婦関係にあって常態化した支配の問題についてメスを入れられました。
いかに私たちが自分の言葉に対して不誠実であるかということを明らかに語られました。
暴力に対して暴力で報復したい私たちに対して、いや左のほうだ右のほうだだ左のほうも向けなさいという戦い方を示されました。
また地上の富に無心してしまう私たちに対して、いや神の恵みがあなたを支えるんだから神を見上げなさいとチャレンジを与えられました。
よくよく考えるならば、その一つ一つの御言葉は実は私たちにとってはちゃんと聞けば痛いものであるかもしれない。
時にその言葉は私たちを悔い改めへと招きましたし、時に神の恵みに目を上げなさいと信仰へと私たちを招いたものであったと思います。
ただ忘れてはならないのは、これはどれも私たちを神の命へと招くための招きであったということです。
イエス様はいつでも私たちを御自身の命へと招きたい。
ただし、先ほど申し上げたように、イエス様の言葉は時に鋭く私たちの罪の現実を差し通すということです。
私たちは、これは私自身も含め告白をいたしますが、自分の都合のいいことだけを聞き、刺される言葉を回避するという傾向が私たちはあるかなと思います。
ダビデがまさにそうでしたね。バテシェバを手に入れるためにウリアを戦場に送って撃った予言者ナタンがいかにもダビデのことを語る話をするのだけど、ダビデはそれが自分のことだとは気づけない。
自分の罪の深いところを刺される言葉を私たちは他人事のように聞くというか、聞き流すというか、でもそれは私自身の中にもありますよ。
そういうことが私たちにある。
でも、狭い門から入れとイエス様が今朝招かれるのは、あなたを命に招くしかし鋭くもあなたの罪を指した御言葉をあなたは受け止めて前に進んだかということを私たちに招く言葉ではないかと思うんですね。
実はだいぶ鋭い言葉です。
でも実は15節からイエス様が警戒しろと語られた偽予言者というのは、まさにそういう痛いところをある種回避し続けた人間の姿だと思います。
偽予言者はそういう人たちでした。
偽予言者と呼ばれる人たちが15節から偽予言者たちに用心しなさいとイエス様は語られますけれども、彼らはどういう人物であったか旧約聖書に出てまいります。
エレミア書の23章の16節というところに偽予言者のことが端的に書かれてあります。
エレミア書の23章の16節というところをちょっとお読みします。
狭い門の重要性
エレミア書の23章の16節というところをお読みいたします。
旧約聖書の1333ページの下の段ですね。
お読みいたしますとこういう言葉です。
万軍の主はこう言われる。
あなた方に予言する予言者たちの言葉を聞くな。
彼らはあなた方を虚しいものにしようとしている。
彼らは主の見口からではなく、自分の心の幻を語っている。
という言葉があります。
予言者というのは偽予言者たちのことを言っているのでしょう。
偽予言者たちの最たる特徴というのは、主の見口から出る言葉を語るのではなく、
自分の幻を語る人たちのことを言うのです。
言い換えるならば、それは神様の言葉を自分に語られたものとして受け止めた人ではなくて、
神の言葉の前に砕かれず、言葉を変えるならば、砕かれることを避けて、
自分の都合のいい幻だけに無心して語っていった人たち、
それが偽予言者と言われる方々のことでしょう。
そして恐ろしいことに、イエス様の言葉に戻りますが、
この偽予言者たちというのは、
今日の7章の15節を見るならば、「彼らは羊の衣を着てあなた方のところに来るが、内側は貪欲な狼です。」と語られる。
彼らは羊の衣を着てやって来るというのは、いわば外からは見分けがつかないということです。
そして21節以降を見るならば、この偽予言者たちはどういうことをするのか。
彼らは実に熱心なんですね。
主よ、主よと彼らは叫びますし、予言もしますし、悪霊も追い出すこともすれば、イエスの名によって奇跡すら起こす。
そういう人たちです。
私たちはきっとこういう働き人を見ると、
ああ素晴らしい働き人だなと思って私たちは見るわけですね。
けれどもイエス様ははっきり言われる。彼らは偽である。
そして偽であるその見分けはどこでつくのか。
21節の言葉ですね。
私に向かって主よ主よというものが皆天の御国に入るのではなく、
天におられる私の父の御心を行うものが入るのです。
天におられる私の父の御心を行うもの。
まさにこの神様の御心を行うかどうかが分水嶺なんだということを言う。
誤解がないようにですけれども、主よと叫び祈ることも、予言をすることも、悪霊を追い出すことも、
イエス様の名によって奇跡が起こることも素晴らしいことなんです。
これは別にそれが悪いことだと言っているわけではない。
でもイエス様が言われるのは、本当にあなた方に問われているのは何をした何ができるではない。
そうではない。
問われているのは天におられる私の父の御心を行うか、
いわばそれは、参上の説教でこれまでイエス様が明らかにされてきた父なる神様の御心です。
その御言葉を避けずにあなたは受け止めたかということです。
イエス様があなたを命に招こうとして語った鋭くもあなたの胸を刺したあなたのあの言葉を、
あなたは受け止めたか、あなたは狭い門に入ったかというそのような招きですね。
神の御心を行う
実はこの前の水曜祈祷会で、バルメン宣言というものを少し学ばせていただきました。
これは1934年のドイツで発表された神学的宣言と呼ばれるものです。
内容は細かく話しませんが、ヒトラー政権の時にやられたんですね。
ヒトラーが政権を掌握してナチスのイデオロギーが社会全体に浸透していくその最中、
ナチスのイデオロギーというのは教会の中にも入り込んできました。
そしてナチスの思想と聖書の思想を重ね合わせて教会で説教されるということは実際にありました。
けれどもその時に福音主義の教会が改めて、いや私たちが立つべきところはそんなイデオロギーじゃない。
聖書の言葉自身に立つんだということをよって告白したのがバルメン宣言というものでした。
そこで一つ大事にされていたことは何かというと、御言葉の絶対的優位性というものです。御言葉の絶対的優位性。
教会の使命というのは、いろんな教会いろんなことをしますよ。
それは外に対して占拠をする教会である。何かが攻撃されたら抵抗する教会である。
いろんな教会の使命はあるのだけれども、教会の第一の使命というのは聞く教会なんだということを彼らは語るんです。
教会は何よりも聞く教会でなければならない。
それはなぜか教会の頭はイエス・キリスト。
羊飼いたるキリストが教会の頭であって、私たちはキリストの言葉を聞かなければそこに立ち続けることはできないからですね。
戦争の現実を思い起こすときに私たちは気づかされます。社会というのは一気に色を変えていきます。
私は大丈夫なんだと自分自身を絶対視することを私たちはしがちですけれども、
戦争という状況が教えるのは、無慈悲なほどに状況が人を変えてしまうということです。
簡単に人は変わってしまう。
ただバルメン宣言はその最後の言葉がこのように締めくくられます。
神の言葉は永遠に存続する。神の言葉は永遠に存続する。
社会が変わり、人が変わり、様々なものが変わり得る世界にあって、
永遠に変わらないのは神の御言葉だけであるという信仰告白で終わるんですね。
神の御言葉だけである。
私たちは知っています。変わらない永遠の神の言葉に根を下ろすならば、私たちは豊かに身を結ぶ。
水路の傍に植わった木になるのだということが、詩編の一編で謳われていることですよね。
主の教えを喜びとする。その葉は枯れず、その成すことはすべて栄えると御言葉は約束していますね。
今朝狭い門から入りなさいという言葉は、私たちにとってちょっとドンとくるようなその言葉かもしれませんが、
誤解しないでいただきたいことは、これは私たちを責めてだからダメだということを言っているんじゃない。
いつでもイエス様が招きたいのは、私たちはその水路に植わった木のように生かしたい。
耳が痛い言葉もどんな言葉も、あなたにとっては必要な水なのだ。
それを聞くべきなのだ。命を選びなさいと私たちはこの言葉から招かれている。
狭い門から入りなさいとは、そういう招きなのだということです。
2つ目のポイントに進んでまいります。私たちはそういう狭い門を入れるものにされているんだということをしっかり受け止めなければならない。
先ほども申し上げましたが、狭い門から入りなさいと聞くと、私たちはイエス様から責められているような気がいたします。
それこそ私自身も覚えがあります。
あの御言葉の迫りから、あのイエス様が深く指したあの言葉から私は逃げて、今も逃げているというところが正直あるかなと自分自身で思うところもあります。
傲慢にも、もしかしたら主よ、いやあなたがこの指してくる言葉の中に私は命を見出せません。
そう言って私たちはその門をくぐることを諦める。
そういうことが私たち、私自身のもあるんじゃないかなと思います。
でもイエス様は何度も申し上げます。責めるためにこの言葉を言っているのではない。
参上の説教を語ってきた群衆に、そして私たちに対して、この神の恵みによって生きる人生から離れてしまわないように、そこに立ち続けるように私たちを招く。
それがわかるのがこの16節から20節の言葉です。ちょっと16節から20節の言葉を読ませていただきます。
お読みします。16節から20節。
あなた方は彼らを身によって見分けることになります。
茨からブドウが、アザミから一軸が取れるでしょうか。
良い木は皆良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実を結ぶことはできず、また悪い木が良い実を結ぶこともできません。
良い実を結ばない木は皆切り倒されて火に投げ込まれます。
こういうわけで、あなた方は彼らを身によって見分けることになるのですと、身によって見分けるのですと言われる。
信者の実を結ぶ
良い木か悪い木かは、それが結ぶ実によって見分けなさいと。
実というのは一体何なんでしょうか。
ここでは、シューッと叫んだり、予言したり、悪霊を追い出したり、イエスの名によって奇跡を起こすこと。
それは素晴らしいことですが、それが実だとは語られていないということは覚えておいてください。
なぜならそれは偽予言者でもするからです。
そうではない。本当の実とは一体何なのか。
それは狭い門から入り、見言葉に砕かれ、神の命によって新たに私たちの内に結ばれていく実のことを言っているのでしょう。
それは言葉を変えるならば、見たまの実と呼んで良いものなのではないでしょうか。
ガラテア書の5章の23節にあります。
見たまの実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、乳は、自性です。
この歌詞を読みながら、私たちが気づかされることは、この16節から20節が語っていることは、悪い木はそもそも全く良い実を結べないということを言っているわけです。
悪い木は悪い実しか結ばないし、良い木は良い実を結んでいきますよということを言っているわけですね。
良い実を結ぶ木
悪い木なのに良い実を結ぶなんてことはないですよ。
でもどうでしょうか。私はちょっと皆さんにも考えていただきたいのですが、私たちは全く良い実を結んでいないのでしょうか。
皆さん、私たちはイエス様を信じて、私たちの中にキリストの愛の実が結ばれなかった、全く私の中にはそれが結ばれなかったという人が、この中に一人でもいらっしゃるでしょうか。
私はそうは思いませんね。
イエス様ならこうすると言って、だから私はこうしようと言って、突き動かされて動いたことは、私たちにはないでしょうか。
全くないなんて人は、この中に一人もいらっしゃらないと思います。
いかに自分で不十分だと思い、それが小さく見えたとしても、けれども神様は私たちに良い実を結んでくださっていますよね。
私はそれが全くないなんて人は、この中に一人もいないと思います。
その時につくづく私たちが思わなければならないのです。
良い実が結ばれる木は良い木なんですよ。
良い実が結ばれている木は良い木なんですね。
それは私たちが特段善人だからそうなったのではないでしょう。
それはただただイエス様の十字架が私たちを罪から贖い出し、私たちを今神の子とし、
私たちのうちに今、神の命の実を結ぼうと精霊様が働いておられるという現実があるからですよね。
自分を見て嫌になることは山ほどありますが、でも精霊様が働いているという現実は決して変わらない。
私たちがこの箇所から思わなければならないことは、私たちは既に良い木とされているということであり、既に祝福をされながら生きているということです。
そしてその上で、その上で、なおもイエス様は私たちに命に歩もうと招いて御言葉を語られ続けている。
狭い門から入りなさいですよ。狭い門から入りなさい。
狭い門の招き
この命への招き、しかし同時に神様の前に砕かれると知っている招きから私たちは逃げます。逃げたがります。
自分のごまかしたいものから目を背け、主よ主よと叫ぶほうが気が楽なんです。
でも私たちはもう自分自身で知っているでしょう。私は神のこの迫りから逃げている。
けたご一緒に覚えたいと思います。主はあなたを良い木とされました。既にあなたは祝福されています。
そしてあのイスラエルの民と同じように、狭き門の前で自探座を踏む私たちがいるんです。私もそうです。狭き門の前で自探座を踏む私たちがいる。
しかしあの止める青年のように、イエス様はそういう私たちを責めて見てはいない。憐れみの眼差しで見ておられる。
そして聖霊様が私たちの勇気と力となってくださる。さあ命を歩もう。命を選ぼう。
今朝は改めて主が私たちに迫られる。あなたは命の言葉を聞いている。神の言葉はあなたに迫っている。
あなたは広い門と狭い門どっちを進むか。今朝の御言葉は狭い門から入りなさい。狭い門から入りなさい。ですね。
神の豊かな命はこの門の先にあるのです。一言お祈りをいたします。